慶長11年(1606)に里見忠義の元服にともなう家臣・寺社への所領替が行なわれ、那古寺は256石の寺領を寄進されます。那古村309石余のうち寺町・宿町の門前地域を中心に芝崎を含む109石2斗が那古寺の直接支配分になる寺領で、残りの那古村200石は里見家家臣たちの支配地として分離され、そこは江戸時代には旗本領となって東領と呼ばれました。一方、八幡村一村にあたる146石8斗の地は鶴谷八幡宮の所領として与えられましたが、那古寺が管理をしたので、江戸時代をとおして那古寺が那古村・八幡村の領主として地域支配を行なうようになりました。
村方の様々な問題はそれぞれ名主・組頭などの村役人が取り仕切りましたが、領主としての年貢の取立てや許認可に関わる事務は、寺内の衆徒(脇坊)と寺領に住む沙弥(寺侍)と呼ばれる人々によって行なわれました。
57.衆徒沙弥給割之帳 慶長7年(1602)
那古寺蔵
彼らには御朱印地の中から給分として田畑屋敷が配当された。
111.八幡村年貢割付状 元文4年(1739)
当館蔵
58.那古村寺領年貢皆済目録 文化13年(1816)
那古寺蔵
107.寺領東領大境取極証文 享保18年
個人蔵
享保17年(1732)暮に寺町から出火した火事は東領にまで被害を及ぼした。寺領と東領の境木が焼失したため、代わりに松並木が植えられた。
112.伊勢参宮願 弘化4年(1847)
当館蔵
八幡村の住人14人が伊勢参宮をするにあたり、領主である那古寺に村役人が出した旅行願。脇坊の西之坊が担当の役院として許可を出している。旅行前日の願書なので吟味される内容のものではなく、届けと確認程度なのだろう。