紙本墨書(楮紙)
巻子本(断簡四紙:うち、一紙は別経)
縦27.5cm 全長88.3cm
奈良時代後期
本経は、従来より弘法大師空海筆『孔雀明王経』として那古寺に伝来している経典である。その題名からは『仏母大孔雀明王経』を想起しがちであるが、その本文内容からは『孔雀王咒経』と考えられる。『孔雀王咒経』はその別称として、『孔雀明王陀羅尼経』とも称され、この別称の略として『孔雀明王経』の名が伝わったものと考えられる。
『孔雀王咒経』は孔雀明王陀羅尼の功徳を展開・詳述するもので、この陀羅尼を誦することによって一切の除災と諸願成就がなされるものとされている。7世紀後半頃には日本に伝わっていたと考えられ、『日本霊異記』(作者は景戒・弘仁年間A.D.810~824頃成立か)には役小角(役行者)が「孔雀之呪法」を修めて不思議な術を体得したことが記されており、この呪法が『孔雀王咒経』のこととされている。
本経の書写時期については、奥書が存しないために書写年次を確定することは困難であるが、その字姿のやや扁平な様や墨線が肉太で文字の大きい書風は奈良時代後期の書写と考えられる。
本経は残念ながら四紙しか残っていない。そのうち、最後の一紙(三行分)は『仏説潅頂経』の一部分と考えられる。そして、残りの三紙分が『孔雀王咒経』巻下の一部分に該当する。また、これら三紙は連続した本文ではなく、本経が幾度となく切り取られた後に改めて紙継ぎがされたものと考えられる。 このことから、本経は本文内容やその字姿等の理由からその一部が切り取られ、信仰の拠り所やその他の用途に供されたものと考えられる。特に「弘法大師筆」という由来がこういった行為を促したものと思われる。
料紙は、穀紙(こくし)(「楮紙」の古名)を丁寧に打紙し、更にその表面を猪牙等で磨いたものと考えられる。界線(淡墨界)は全紙に施されており、界高23.0cm、界幅2.3cmで、一行17字(一紙行数は切断のため不明)である。
本経の装幀は巻子装(現在は軸無し)で、後補表紙が施されている。後補表紙は見返しに銀箔散らしの施されたものであり、寄進時または後代における丁寧な修補を看取することができる。
本経の伝来については、『足利家国寄進状』から永禄8年(A.D.1565)三月に足利家国によって本経(寄進状内で『孔雀明王経』とあるものが本経に該当)の寄進の行なわれたことが知られる。
足利家国は、北条氏康が擁立した古河公方足利義氏に対立して里見義堯・義弘を頼った人物(足利義氏の異母兄弟)である。本経の寄進された永禄8年は、前年の国府台合戦で北条氏に大敗した里見家が苦境に立たされている時期であり、一切の除災と諸願成就がなされるという『孔雀王咒経』が里見家出身僧の管理・運営になる那古寺に寄進された背景には、こうした事情が存したものと考えられる。
24.足利家国経文寄進状 永禄8年(1565)
那古寺蔵