大戸・長田

古代に開発された肥沃な大戸。中世に鎌倉円覚寺の所領だった長田。ありふれた風景の中の、固有の歴史を歩いてみましょう。

大戸エリア

(16) 岩崎の馬頭観音(岡田)

 大戸との境に姿のよい丸彫りの馬頭観音がある。怖い顔をしているが、邪悪なものを踏み砕いて人々を救うためである。頭上に馬の顔を載せているのが特徴で、そのため農耕馬や運送馬が普及した江戸時代には、馬の供養のために馬頭観音塔が造られた。この辺は岡田地区の牛馬が葬られた場所だという。路傍に数多くある石塔だが、塔の正面に馬頭観音の文字や姿を彫る例が多い。

(17) 庚申塚

 江戸時代に民間に広がった庚申信仰で、大戸の人々がつくった塚。一年に6回くる庚申の日に、講の仲間が集まって祭神の青面金剛や猿田彦を祀る。石塔だけを建てるケースが多く、塚はまれ。大戸の塚は江戸時代の絵図面にも描かれている。

(1) 白幡神社

 白幡神社というのは、鎌倉鶴岡八幡宮の末社で源頼朝を祀る白旗社を勧請したもの。祭神は本来なら頼朝なのだが、鶴岡八幡宮の祭神の応神天皇を白幡神社の祭神にしていることが多い。この地域の鎌倉御家人が鎌倉から分けてきたのだろう。向拝の龍は明治19年(1886)のもので、千倉の彫刻師後藤義光の弟子四天王のひとり北条の後藤庄三郎忠明の作。

(2) 大円寺

 浄土宗のお寺。江戸時代はじめ頃の寛永元年(1624)の創建で、それ以前は禅宗の寺だったという。境内には勝海舟が題字を書いた記念碑がある(明治12年=1879建立)。館山藩の侍医山下玄門の子で、江戸で医師を開業した山下玄寿のもの。また東京で漢籍・哲学を学び明治31年(1898)に20歳で没した佐野東海の碑もある。こちらの題字は仏教哲学者で東洋大学創始者の井上円了。

東長田エリア

(3) 福寿院と熊野横穴群

 無量山福寿院は真言宗のお寺。境内に念仏講で建てた元禄8年(1695)の如意輪観音像がある。寺の裏山から東にかけての南斜面には古墳時代の横穴群が37基もある。

(4) 腰廻の地蔵

 この地蔵が祀られている祠に、室町時代の石塔を代表する五輪塔の一部、宝珠の部分がふたつある。

(5) 天王様

 天王様は牛頭天王(ごずてんのう)といって、京都の八坂神社の分かれ。厄除けや疫病除けに祀られる神。江戸時代に勧請されたと伝えられ、寛延3年(1750)に村中の安全を願ってお宮が再建された。参道の途中には安永8年(1779)の出羽三山碑がある。

(6) 阿弥陀堂

 豊房村初代村長の安西甚右衛門の墓がある。入口には天保2年(1831)の馬頭観音がある。

(7) 谷(やつ)遺跡

 弥生時代の土器も出るが、神まつりが行なわれた古墳時代の祭祀遺跡として知られている。明治32年(1899)に発見され、日本で最初に祭祀遺跡として紹介された遺跡。まつり用の粗製の土器のほかに土製の勾玉や丸玉などが出ている。

(8) 山宮(やまみや)神社

 山の神を祀っている神社。9月の八幡のマチに神輿が出祭することで知られている。境内に文化7年(1810)の手水石がある。江戸時代は里見氏や徳川将軍家から10石の社領を与えられていて、社家も2軒あった。谷遺跡からさらに奥へ1km。

西長田エリア

(9) 架橋記念碑

 東長田の郷津川と西長田の川崎川の合流するところに、明治25年(1892)に田中橋が架けられた。その由来が記されている。

(10) 観音院

 杉本山と呼ばれる。国札三十四観音の三十三番札所。本尊と前立の観音様は平安時代の仏像で、境内の墓地には室町時代の五輪塔や宝篋印塔の笠などがあり、古いお寺であることがわかる。観音堂向拝の彫物は後藤義光の作品で、龍は明治28年、飛天は明治34年のもの。寺号額は文化年間、下野国出流観音(満願寺)の浩然の書。享保15年(1730)の御詠歌額、天保4年(1833)の石灯籠、巡礼講・念仏講・光明講で建てた享和2年(1802)の光明真言塔(宝篋印塔)などがある。

(11) 富士行者碑

 西長田の富士講先達善行瀧我こと田中瀧右衛門の修業記念碑がある。江戸末から明治にかけては富士山への信仰が広まり、各地で多くの行者が現れた。善行は富士登山三十三回と富士五湖や有名湖で水行を行なう八湖修業を達成。明治33年(1900)に没して、同42年にこの碑が建てられた。善行の記念碑は富士山麓(富士吉田市)にもある(明治17年建立)。並んであるのは、出羽三山碑。文化8年(1811)の備前国(岡山県)の行者の廻国塔。大正3年の馬頭観音。

(12) 千田城跡・千田遺跡

 県道沿いに北へのびる尾根は千田遺跡といい、平坦な山上からは黒曜石や縄文土器、古墳時代の土師器が出る。またここは戦国時代の城跡でもあり、館山湾まで見通す位置である。丘陵を東西に横切る切通しや諏訪神社へ上がる切割の道は空堀の役目をもっている。里見義豊の弟長田義房の居城だといわれ、城ノ内や城ノ腰・堀ノ内・的場などの城郭関連地名がある。

(13) 諏訪神社

 信州の諏訪大社を分けたもの。江戸初期の元和4年(1618)の創建と伝えられる。千田城跡の一画にある。

(14) 千田やぐら

 武士や僧侶の墓として鎌倉に普及した「やぐら」は、鎌倉文化と房総文化を結ぶ遺跡である。西長田や隣接する出野尾は鎌倉文化の影響がみられる地域で、やぐらもいくつか分布する。切通しの西側にある小さなやぐらの中には一石でつくった宝篋印塔が2基ある。千田城跡の西側民家の裏にも室町時代のやぐらがあり、五輪塔が4基並ぶものと、宝篋印塔と五輪塔が混在して5基並ぶものとふたつある。ともにやぐらの天井部分は崩れている。

(15) 三山碑群(岡田)

 岡田・出野尾・西長田の境にあるホウボウ山の裾に出羽三山碑4基がある。文化9年(1812)・文政3年(1820)などの登山記念碑である。並んで岡田の行者吉五郎が西国・坂東・秩父の百観音霊場の巡拝記念に建てた、文政3年の百観音巡拝塔もある。


監修 館山市立博物館

南条・飯沼・古茂口 

典型的な安房の小さな谷(やつ)集落のなかに、古代から中世・近世の歴史があふれています。

南条(なんじょう)エリア

(1)八幡神社

 祭神は応神天皇(繁田別命(ほんだわけのみこと))で、疫病を払う神である。戦国時代に南条城主鳥山弾正左衛門(とりやまだんじょうさえもん)時貞が崇敬し、居城の東方に社殿を造営し守護神とした。社殿は大正12年(1923)に当地の素封家(そほうか)小原金治の寄進で建て替えられた。

(2)東山横穴群

 南条字東山(ひがしやま)の八幡神社を取り巻く山原に、開口した大小38個の横穴がある。いずれも古墳時代の横穴墓で、昭和初期の神社改築の際、数個の横穴を崩したと言われている。

(3)南条城跡

 曲輪(くるわ)・堀切・竪堀(たてほり)・土塁等の遺構が残る戦国時代の城跡。山頂には首洗い井戸の伝承もある。里見義豊の正室だった城主鳥山弾正左衛門時貞の娘が、天文3年(1534)の内乱で義豊が従兄弟の義堯に滅ぼされた際、実家の南条城に逃れ、城東方の山中で自害したという。そこに乳母(うば)が一渓寺を建て供養したといい、姫塚が残されている。

(4)沼サンゴ

 房総半島の館山市周辺に形成された縄文時代のサンゴ礁の化石群。有名な市内沼地区だけでなく、南条でも八幡神社鳥居右側で、池の中の島にサンゴの化石がみられる。館山市の天然記念物。

飯沼(いいぬま)エリア

(5)女堰(おんなぜき)

 汐入川の水を堰止めて用水路へ流し、南条・上真倉(かみさなぐら)・下真倉の水田を灌漑している。宝永元年(1704)には修理をしているので、それ以前からある堰。この堰名には悲しい伝説がある。この川は何度塞(せ)き止め工事をしても、水流のために破壊された。そこで村人たちは巫女(みこ)に聞いたところ、「女性を堰止めに使うべし」とのこと。村人たちは村の女性を人柱にすることができず、巫女を捕らえて川に投げ入れ、堰を完成させることができたと伝えられている。

(6)内田の地蔵尊

 市内山際の石龕(せきがん)内に祀られる地蔵尊は、安永9年(1780)に飯沼村の吉兵衛と村中で建立したと記されている。

(7)熊野神社

 祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)。境内には万延元年(1860)の手水石のほか、明治39年(1906)の古峰講(こみねこう)碑、山包講(やまつつみこう)の仙元宮(せんげんぐう)、秋葉大権現、金毘羅大権現の石宮がある。神社当番は3軒一組で3年交代。草刈りや10月の祭礼の準備、お供え用の餅など1軒ずつ交代で行う。

(8)堂ノ下(どうのした)やぐら

 集会所裏のやぐらに安永8年(1779)の出羽三山供養塔のほか、出羽三山関連の亨保19年(1734)の大日如来像が祀られている。やぐらの正面と両脇の壁面には、風化が著しいが五輪塔9基の浮彫が確認できる。内1基は、他で例を見ない蓮華座(れんげざ)をともなう五輪塔で、室町時代の陽刻五輪塔である。外は近世前期のスリムな造形をしている。

古茂口(こもぐち)エリア

(9)福生寺(ふくしょうじ)

 飯富山という曹洞宗の寺院で、本尊は聖観世音菩薩。西国の守護大名大内義弘(1399年没)の子孫無々遠公(むむえんこう)大和尚が、永正15年(1518)頃、薩摩国から来て開いた。開基は里見義豊の妻である福生寺殿一渓妙周大姉とされ、歴代住職の墓塔と並ぶ房州石の大きな五輪塔がその墓だという。里見家・徳川家からは寺領2石が与えられた。

(10)田仲の馬頭観音群

 福生寺前の笠沼川沿いに馬頭観音等が10基並んでいる。平成の圃場(ほじょう)整備で、古茂口に散在していたものを寄せた。馬頭観音像を刻んだものは文政2年(1819)・嘉永元年(1848)など6基ある。

(11)泉福寺

 浄土山という曹洞宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。寺伝では慶長15年(1619)の創建で、開山は位置有全慶(いちゆうぜんけい)と伝えるが、中興開山であろう。境内には中世の五輪塔があり、里見氏からは南条村で3石余の地を与えられていた。賛同の地蔵菩薩には石工が「元名(もとな)村周治」とあるので、安房の名工武田石翁(せきおう)の作である。

(12)御嶽(みたけ)社

 賛同を約200m登った山頂に御嶽社がある。笠部に講名「ヤマ左」と記された明治13年(1880)の石宮を中心に、小型の3基の石宮と木曽御嶽講供養塔が平坦な場所に半円状に祀られている。かつて麓には禊(みそ)ぎが行われた池があり、石宮の前でお籠りが行われたという。手水石は古茂口の中先達(ちゅうせんだつ)大内権右衛門が明治13年(1879)に奉納した。

(13)小谷(こやつ)の地蔵尊

 旧吉亭前の祠に小谷組の地蔵尊像2体と如意輪観音像・十一面観音像が祀られている。その片隅には中世の五輪塔の宝珠1点と宝篋印塔の返花座(かえりばなざ)2点も確認される。行事は現在行われていない。

(14)阿弥陀堂

 参道の石段中程の左手に、宝暦3年(1753)の地蔵菩薩像と宝暦4年(1754)の巡礼講中9人による聖観音菩薩像がある。お堂左手奥の小高い場所には、享保19年(1734)から文政2年(1891)までの大日如来像9体、安政7年(1860)と大正10年(1921)の出羽三山供養塔がある。

(15)込縄(こみな)の地蔵尊

 元禄6年(1693)と明治24年(1891)の地蔵尊2体があるが、いずれも墓碑。毎月24日の地蔵尊の縁日には近隣からの参拝がある。

(16)いぼとり地蔵尊

 県道芥子(かいし)橋から谷奥に入って約200mの丘陵端につづら折りの細い参道がある。7m登った所に祀られている石像が、3名の願主名が記された寛政2年(1790)の地蔵尊で、由緒は不明だが、いぼとり地蔵という名前で近隣の信仰が篤く、参道はいつも清掃されている。

(17)日枝神社

 祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)と誉田別命(ほんだわけのみこと)。境内には大正9年(1920)の鳥居や嘉永3年(1850)の手水石などがある。社殿左手には明治14年(1881)に村内安全を祈願した古峯講供養塔があり、天保13年(1842)の石灯籠、嘉永3年(1850)の手水石もある。その片隅には安山岩系の石棒が祀られている。拝殿の「山王宮」の扁額は明治13年(1880)の奉納。当地には獅子舞保存会による市指定の神楽(かぐら)が伝承され、正月の春祈祷(はるきとう)や10月の祭礼で奉納される。かつては春祈祷の際に、前年に新築や出産・結婚など慶事のあった家に呼ばれ獅子舞を舞っていた。

(18)青面金剛(しょうめんこんごう)像

 日枝神社後方山中の頂上付近に、六臂(ろっぴ)にそれぞれの道具を持ち2匹の邪鬼(じゃき)を踏みつけた青面金剛像がある。安政4年(1857)、吉左衛門が願主となって奉納した庚申塔(こうしんとう)である。「村中手之内」と記される例は珍しいが、古茂口村中で奉納したという意味だと思われる。

(19)芥子胡(けしご)の地蔵尊

 芥子胡組では毎年8月24日地蔵盆で福生寺の住職を招きお経と卒塔婆(そとば)をあげる。組内の新ボンの家でもお参りし、お供えをあげる。祠内には安永9年(1780)の如意輪観音像も安置されている。

(20)延寿院跡

 廃寺となった真言宗の大日山延寿院跡で、正徳元年(1711)と享保6年(1721)の住職の墓が古い。ほかに当院中興2世の隆晃権大僧都の寛政9年(1797)の墓や、文政8年(1825)の不動明王像、文政13年(1830)の地蔵尊を載せた墓など、住職の墓が残る。

(21)浅間様

 山三講(やまさんこう)の富士仙元宮(せんげんぐう)の石宮で、慶応3年(1867)に建立された。別当延寿院と名主勘左衛門ほか、組頭・先達(せんたつ)世話人等7名の名がある。大正初め頃まで講があり、昭和30年代までにはお正月にお参りが行われていたという。石段の参道が今も残されている。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ・鈴木以久枝・佐藤博秋・佐藤靖子・吉村威紀 2018.10.27作
監修:館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡0470-23-5212

山荻・作名 

汐入川本流の谷奥に並ぶ集落。丘陵部に古代遺跡が広がり、観音巡礼の道が通り抜けていく。八幡の祭礼に神輿を出す古社山荻神社を中心に、豊かな文化を伝える人々の暮らしぶりを歩きながら探訪してみよう。

山荻(やもうぎ)エリア

(1) 福楽寺

 真言宗のお寺で、多聞山福楽寺という。本尊は弥勒菩薩(みろくぼさつ)。江戸時代まで歳宮(としのみや)明神の社僧を勤めていた。境内にそびえる宝塔は享和3年(1803)に建立されたもので、住職を中心に村人たちが光明真言を六億遍唱えたことを記念した供養塔である。武田石翁(せきおう)の名で知られた安房を代表する石彫家の作品。若き日の作で「石工本名邑(いしくもとなむら)周治」(鋸南町元名)と刻まれている。また山頂の共同墓地の住職墓域には、大型五輪塔の水輪ほか宝篋印塔(ほうきょういんとう)の基礎や五輪塔の火輪など中世の石塔がみえる。

(2) 山荻神社

 かつては歳宮(としのみや)明神と呼ばれた神社で、八幡の祭礼に神輿(みこし)を出している古社。毎年の稔りを守護することから大年宮(おおとしのみや)と称していたと社記にある。階段の途中にある鳥居と石灯篭はともに文政5年(1822)の建立で、氏子達の寄進によるもの。灯篭の台座には発起人として鶴谷八幡宮の命婦(みょうぶ)家武内伊勢の名がみえる。狛犬(こまいぬ)も万延元年(1860)に氏子が奉納したもので、川下村(白浜町滝口)の石工山口金蔵重信の作。階段上にある灯篭は天明7年(1787)の奉納、手水石は安政3年(1856)の奉納で見事なものである。その水盤は地元の和助の作だが、これを支える四匹の邪鬼(じゃき)は狛犬と同じ川下村の山口金蔵の作品であり、南条村の清左衛門の作もある。また富士講の一派である地元の山三講中によって明治11年(1878)に建てられた浅間宮も祀られている。毎年2月26日には五穀の吉凶を占う筒粥(つつがゆ)神事が行われ、市の無形民俗文化財に指定されている。明治時代までは邪気をはらう大烽焚(おおびた)き神事が9月に行われ、終戦直後までは祖神に感謝する御狩(みかり)神事が11月におこなわれていた。

(3) 宮原(みやばら)遺跡

 神社から裏側にかけての丘陵端一帯は縄文土器片が出土するところで、宮原遺跡と呼ばれている。西側のがけ下を岸の谷(や)といい、山荻神社の神が舟で着いた場所という伝承がある。

(4) 馬頭観音

 千倉へ抜ける旧道沿いに地蔵尊を中心に馬頭観音が並んでいる。丸彫の馬頭観音像は、山荻村の名主佐野八郎右衛門が施主となって享和2年(1802)に建立したもの。石工は「本名村周治」とあり、福楽寺の宝塔と同じ元名村の武田石翁(せきおう)である。宝塔と同じ時期に製作された。

(5) 岸の谷(きしのや)地蔵

 享保19年(1734)に村の若者衆が建立した地蔵尊を中心に、六地蔵や観音像が並ぶ。地蔵尊の右隣の聖観音像は延宝8年(1680)の建立。右端の如意輪観音は宝暦4年(1754)の十九夜念仏塔で、女性が集まって念仏を唱える十九夜講による建立である。

(10) 宝幢院(ほうどういん)

 真言宗のお寺で、麻尼山(まにさん)宝幢院という。本尊は不動明王。入口の六地蔵は宝永5年(1708)のもの。左に並んでいる青面金剛(しょうめんこんごう)像は天保4年(1821)に建てられた庚申塔(こうしんとう)である。手水石は天保11年(1840)のもの。墓地の中には出羽三山碑もある。堂内の天井や欄間に描かれている龍や飛天などの多くの絵は、明治24年(1891)に館山の狩野派絵師川名楽山と弟子木村雲山が描いた作品である。

(11) 行塚(ぎょうづか)の出羽三山碑

 享保18年(1733)・寛延元年(1748)・寛政8年(1796)・文化4年(1807)ほか全6基の出羽三山碑がある。そのほか日本廻国供養塔が2基あり、文政2年(1819)の塔は阿波国那賀郡大京原村(徳島県阿南市)の林十郎が大願成就して建立したもので、天保9年(1838)の塔は山荻村の孫兵衛が廻国したときの記念塔である。

作名(さくな)エリア

(6) 豊前寺(ぶぜんじ)

 真言宗のお寺で、独尊山豊前寺といい、本尊は不動明王。境内には弘法大師の姿を描いた碑があり、住職宥隆の墓碑になっている。作名村に生まれ、宝珠院35世宥興の孫弟子として修行し住職となったが、明治5年(1872)に28歳で没したとある。裏山の住職墓地には中世の石塔がみられ、五輪塔の空風輪が8つ、水輪が2つ、宝篋印塔(ほうきょういんとう)の笠石が1つ確認できる。その奥には古墳時代の横穴墓が4基ある。

(7)  諏訪神社

 豊前寺が別当(べっとう)を務めていた。そのむかしは作名・大戸を含む南条郷の鎮守であったと伝えられている。参道の石灯篭は左側が慶応2年(1866)に村の増田七左衛門・喜兵衛・前田善左衛門が願主となって奉納したもので、右側は明治43年(1910)に山田彦太郎の妻一キが奉納した。社前の灯篭は左が安永2年(1773)、右が安永5年(1776)のもので、ともに増田七左衛門と川名五郎左衛門の奉納。手水石は階段下が明和5年(1768)に奉納されたもので、階段上には天保13年(1842)に奉納されたものがある。石段は明治19年(1886)に再建されたものだが、文政5年(1822)に石段が作られたときの親柱も残されている。社前左手の記念碑は北条に住んでいた伯爵万里小路(までのこうじ)通房がモッコクを植樹したときの御手植碑で豊房村長鈴木周太郎が書いた文字。参道の社号碑は通房の書である。ともに明治44年(1911)の建立。

(8) 観音巡礼道道標

 地蔵尊像と安政4年(1857)の馬頭観音像のあいだに、安永4年(1775)に武蔵国葛飾郡浪寄村の泰往という人が建立した日本廻国供養塔がある。右側面には「これより すきもとみち」とあって、西長田村の杉本山観音院へ行く道を案内している。大貫の小松寺(南房総市千倉町)から山荻の永代(えいだい)集落を通り西長田の観音院へ向う、観音巡礼道の道標になっている。ここから山を越えると長田へ出ることができた。

(9) 共同墓地

 作名の共同墓地で、入口に馬頭観音が並び、天保11年(1840)の像がみられる。墓地の中には中世の宝篋印塔(ほうきょういんとう)の笠や五輪塔の空風輪が2つ見られる。最上段には宝暦8年(1758)と明和4年(1767)の2基の大日如来像がある。また個人墓地に享保7年(1722)に村内の真言講で建てた宝篋印陀羅尼(だらに)塔があり、安永9年(1780)に村内の安全を祈願するために村中で再建したことが記されている。


監修 館山市立博物館
作図:愛沢彰子

豊房地区神余

神余地区は、古代の安房神社とゆかりをもち、中世には豪族神余氏を生み出した。巴川の段丘に営まれた神余の歴史を歩こう。

奈良時代から平安時代の頃、安房神社に仕えた人々を神戸(かんべ)といった。巴川の中流域に住んでいたが、やがて人口があふれ上流にも住むようになった。それが神戸の余戸(あまりべ)である神余(かむのあまり=かなまり)の誕生であった。とさ。

左岸エリア

(1) 旧安楽寺墓地(平田)

 大正12年(1923)の関東大震災で潰れるまで、真言宗の安楽寺があった。いまは自性院に合併されている。安楽寺は神余氏に忠義を尽くした家臣のために建てられたという。墓地には、神余氏の子孫で江戸時代に神余村の名主を勤めた伊佐家や、医師や学者を出した和貝家など旧家の墓がある。また大日如来を刻んだ寛永10年(1633)の古い女性の墓石もみることができる。

(2) 日吉神社(平田)

 神余の鎮守。7月19日・20日の例祭でかっこ舞が奉納され、市指定の無形民俗文化財になっている。江戸時代までは安楽院が神社の管理をしていた。手水石は天保9年(1838)のもので、江戸時代の名主金丸氏(伊佐氏)や村の旧家和貝家などの寄進。石工は白浜滝口の亀吉。石を運んできたのは滝口のうち横渚の久太郎とある。そのほか寛保2年(1742)の石灯籠や、願主の名前が刻まれた力石などがある。

(3) 神余城跡(加藤)

 むかしここに薬師堂があった。墓地から登った山が神余城跡である。平安時代の終わり頃から室町時代までいた豪族神余氏の本拠。神余小学校が神余氏の居館跡といわれている。山頂は曲輪(くるわ)になっているが、周囲を土塁状のもので囲われている。その下の段に腰曲輪がいくつか造られ、東に続く尾根は堀切で切断されていて、そのむかし城であったことがわかる。山のふもとには「城之腰」という地名がある。
 入口の墓地に元禄6年(1693)の如意輪観音がある。16人の女性の名があるので、十九夜・二十夜・二十一夜などの月待ち供養として建てたもので、女性が安産や子育ての無事を願ったものであろう。

(4) 自性院(大倉)

 真言宗。室町時代に家臣山下定兼の反逆にあって自殺した神余景貞のために立てられたお寺。もとは地蔵畑というところにあって、景貞が葬られたという「御腹やぐら」の近くに建っていた。現在の場所に出てきたのは江戸時代のこと。大正12年の関東大震災で潰れた来迎寺・松野尾寺・安楽院の3つの寺を合併している。平安時代中頃の阿弥陀如来の木像は市の指定文化財。来迎寺の本尊だった阿弥陀如来像の体内にあった鎌倉時代の水晶の五輪塔も市の指定文化財。
 境内には明治8年(1875)の出羽三山碑がある。これは四国の弘法大師88か所巡礼と、西国・秩父・坂東の100観音巡礼の188か所巡礼も達成した記念碑になっている。となりには23人の女性が施主になって建てた元禄12年(1699)の如意輪観音がある。神余城下の如意輪観音と同じ目的で建てられたものだろう。

右岸エリア

(5) 大山祇神社(山下)

 山下の集会所裏の山腹は墓地になっているが、その一画に大山祇{おおやまつみ}神社がある。山を支配する山の神で、かつて社殿があったというが、今は社号を刻んだ碑が残るのみ。明治20年(1887)に内務大書記桜井能盤が書いた。

(6) 来迎寺跡入口(畑中)

 大正12年の関東大震災で潰れるまで、真言宗の来迎寺があった。いまは自性院に合併されている。入口には安永9年(1780)の地蔵尊が祀られている。また「大乗妙典供養」と書いた西国・秩父・坂東の百観音と四国88か所を巡礼した記念の石塔があるが、年号は不明。江戸時代には日本各地の霊場を回って、大乗妙典と呼ばれる法華経を納める巡礼が盛んだった。
 ここからさらに谷の奥には、同じく震災後に自性院に合併した旧松野尾寺の墓地があり、中世の五輪塔や宝篋印塔の一部の石が残されている。神余景貞の三回忌に建てられたお堂から発展したお寺だという。

(7) 智恩寺(上の台)

 神余山という。里見義康が開いた寺。里見忠義の古文書が残されている。欄間にある竜や鶴の彫刻は初代武志伊八郎の作。
 手水石は天保12年(1841)に奉納されたもので、館山楠見の石工田原長左衛門の作。「丸に二つ引き」の里見氏の家紋がついている。また墓地へ向かう道の入口に、「大乗妙典一字一石書写」と書いた石塔がある。白浜川下浦の2人の女性が石に経文を一字づつ書きあげ、享保13年(1728)に神余の念仏講中の協力のもと、ここに埋納した記念。

(8) 神余村六地蔵尊(上の台)

 享保元年(1716)に建てられた地蔵尊。「神余村六地蔵第六番終り」とあって、かつて神余のなかで六地蔵巡りが行なわれていたことがわかる。上の台のこの地蔵尊が第六番目なのだが、ほかの五ヵ所がどこかは現在のところわからない。ほぼ同じ大きさの地蔵尊は、山下集会所横、久所の堰面地蔵尊、畑中の旧来迎寺入口、旧松野尾寺墓地、上神余から畑へ行く旧道にある。これらが六地蔵に該当するかもしれない。

(9) 塩井戸(畑中)

 巴川の中から塩水が湧き出しているところ。そのむかし、神余の貧しい家で塩気のない小豆粥でもてなされた弘法大師が、川に下り杖をさして塩水を湧きださせたと伝えられている。弘法井戸とも呼ばれ、弘法大師伝説として千葉県指定の民俗文化財になっている。井戸のかたわらには明治時代に造られた石造の弘法大師像が祀られている。手水石は明治19年(1886)のもの。かつては来迎寺が管理していた。むかしは毎年十一月に四日間、この塩水を汲んで小豆粥を煮て、大師のお像にお供えしていたそうだ。この黄色味をおびた塩水は天然ガスが噴き出しているもの。
 上流に見える塩井戸橋は石積みのアーチ式。明治44年(1911)に架けられた。市内では犬石の巴橋とここにしかない。


監修 館山市立博物館

富崎地区(布良・相浜)

太平洋に面した山際にある布良と相浜は耕地が少なく、海の恵みを生活の糧としてきた純漁村です。海岸段丘の上段と下段に展開する集落相と豊かな文化を探訪しましょう。

相浜(あいのはま)エリア

(1)旧富崎小学校

 明治7年(1874)に布良学校・相浜学校として開校し、富崎小学校として現在地に移転したのは同27年。平成29年(2017)3月で廃校となった。校庭に校歌と応援歌の碑が建てられている。校舎入口前には富崎村の近代化に貢献した初代村長神田吉右衛門の碑(大正2年=1913年建碑)と、昭和11年(1936)の二宮金次郎像がある。道路に面して日露戦役の戦没者13名・従軍者71名の名を記した明治39年(1906)の記念碑がある。

(2)楫取(かんどり)神社跡

 香取神社・神取神社とも書き、宇豆毘古命(うずひこのみこと)を祭神とする相浜の鎮守だった。入口に相浜神社に合碑された大正6年(1917)に建設された楫取神社旧跡碑がある。相浜神社の例祭では、かつて御船「波除丸」が渡御した場所で、安房神社の浜出神事の際にはここの神輿が先導した。明治32年(1899)に東京日本橋の魚河岸が石垣を築いた記念碑があり、かつて漁村相浜から江戸の魚河岸へ魚が送られていたことを伝えている。

(3)松崎弁天(厳島(いつくしま)神社)

 海を見下ろす弁天様で、安永元年(1772)に村の漁師中で奉納した手水石と、享和3年(1803)に松屋勘太郎が奉納した手水石がある。狛犬は相浜神社と同じ慶応元年(1865)のもの。

(4)相浜神社

 江戸時代までは不動尊を本尊にする嚢莫山怛多羅院感満寺(のうまくさんだったらいんかんまんじ)という修験の寺だった。修験道廃止によって明治10年(1877)に波除(なみよけ)神社となり、大正6年(1917)に楫取(かんどり)神社を合祀して相浜神社に改名した。境内に江戸魚問屋などが奉納した文政13年(1830)の石灯籠(楠見の石工 田原長左衛門作)、慶応元年(1865)の狛犬、享和2年(1802)と弘化5年(1848)の手水石、天保11年(1840)の出羽三山碑、文政5年(1822)の青面金剛像の庚申塔のほか、複数の力石がある。

(5)正覚山蓮壽院(しょうかくさんれんじゅいん)

 浄土宗で、安房円光大師25霊場の第4番礼所。元禄地震後の正徳4年(1714)に、大神宮から移転再建したという。境内に元禄地震の大津波の犠牲者86名を供養する正徳5年(1715)の名号塔(みょうごうとう)がある。ほかに文政7年(1824)の出羽三山碑、文政8年(1825)の地蔵尊がある。

(6)鮪延縄船(まぐろはえなわせん)・安房節(あわぶし)発祥の地碑

 江戸時代中期に富崎で鮪延縄漁がはじまり、明治時代にはヤンノーと呼ばれる大型の改良鮪延縄船を建造し、沖泊まりで操業して豊漁を続けたが、事故も多発し後家船(ごけぶね)とも呼ばれた。寒い時期の漁の士気を高めるために歌われた労働歌が安房節である。

布良(めら)エリア

(7)富士見の地蔵

 もとは岩屋であったという。地蔵尊に並んで、板状の石に五輪塔を浮き彫りにした中世の石造物がある。

(8)駒ヶ崎神社

 大海祇(おおわだつみ)と厳島(いつくしま9大神を祀り、「ジョウゴサマ」と呼ばれる。強い漁師の信仰があり、新造船は神社前の海で安全豊漁の祈願を行う。社殿の裏に海食洞穴があり、縄文時代の石棒が発見されている。

(9)幕末砲台跡

 幕末に東京湾への外国船侵入を警備する台場が置かれていた。弘化4年(1847)から嘉永3年(1850)の間に武蔵国忍(おし)藩が築き、大砲が3門配備された。嘉永6年(1853)に岡山藩へ引き継がれ、安政5年(1858)の開国で廃止。男神山(おがみやま)の先端を今も「オデイバ」と呼ぶ。

(10)青木繁「海の幸」記念碑

 昭和37年(1962)に青木繁の没後50年で建てられた記念碑。現代建築の第一人者である生田{いくた}勉東大教養学部名誉教授が設計したもの。「海の幸」は阿由戸(あゆど)の浜の情景で、四国から渡海した天富命(あめのとみのみこと)の上陸場所と伝えられている。

(11)能忍寺

 本尊は薬師如来で、南房総市白浜町の薬師寺に伝来した像が移座(いざ)した。平安時代の作品。安房自然村を開設した井手口正が開いた禅道場。ここからの景色は「ちば眺望100景」に選ばれている。境内に高田敏子の詩碑があり、「布良海岸」を詠んでいる。

(12)布良海軍見張所跡

 大山の山頂に明治27年(1894)から大正10年(1921)まで海軍の望楼(ぼうろう)(監視や気象情報を収集する)が設置された。明治10年から明治15年までは中央気象台の布良測候所となり、昭和17年(1942)に再びレーダーを供えた海軍の見張所となった。見張所の地下壕の中には水墨画家岩崎巴人(はじん)の禅画が描かれている。現在は海上保安庁の白浜送信局。

(13)向(むかい)の墓地(女神(めがみ)堂)

 回向(えこう)文を刻んだ安政4年(1857)の名号塔(みょうごうとう)や、列強が中国に進出した明治33年(1900)の北清事変に従軍し、翌日に戦地で病死した海軍三等水兵星の林右衛門の碑などがある。本尊は如意輪観音。

(14)小谷家(こたにけ)住宅 (市指定文化財)

 明治中期の上層漁家で、分棟型民家の系譜をひく建物。明治期の小谷喜録家は村の漁師頭や救難所看守長を勤めるなど村の指導層だった。明治37年(1904)に洋画家の青木繁が2か月逗留した建物で、重要文化財「海の幸」を構想したことで知られている。

(15)富崎村道路元標(げんぴょう)

 大正8年(1919)の旧道路法と大正11年(1922)の内務省令によって各町村に設置された道路の起終点を示す石柱。花崗岩(かこうがん)製。富崎村と他町村の距離を測る際の基準である。この道が富崎村のメイン道路だった。

(16)布良崎(めらさき)神社

 安房神社の祭神天太玉命(あめのふとだまのみこと)の孫である天富命(あめのとみのみこと)を祭神とし、安房神社が奥殿で布良崎神社が前殿だったと伝えられる。江戸時代までは蔵王権現(ざおうごんげん)と呼ばれ、明治初年に布良崎神社と改称した。明治17年(1884)に郷社に昇格。境内には天保7年(1836)に木高氏が奉納した手水石や、布良漁港の修築に尽力した満井武平(県議・村長)の頌徳碑(しょうとくひ)などがある。石垣の石は伊豆から漁船で運んだという。

(17)本郷の墓地(観音堂)

 享保8年(1723)に出羽三山へ登拝した同行20人が奉納した大日如来像や、文政8年(1825)の庚申塔、享和2年(1802)の百観音霊場の巡礼供養塔、大正10年(1921)に楠見の石工俵光石が制作した酒樽型の墓石などが点在している。ほかに日清・日露戦役に従軍し、旅順から生還後に出漁中の明治41年(1908)に遭難死した沼野熊吉の碑がある。墓地に中世の宝篋印塔の笠石や塔身を見ることもできる。

(18)海命山龍樹院(かいめいさんりゅうじゅいん)

 曹洞宗で、延命寺15世の鉄州武真和尚が元禄年間に中興開山した。向拝(ごはい)の龍は江戸後藤流の後藤恒徳(つねのり)の作で、房州後藤流の後藤義光の兄弟弟子にあたる。境内に文政4年(1821)の二十三夜塔、明治27年(1894)の日清戦争従軍中に病死した神田道之助の碑がある。

(19)神田町の墓地

 殉職警察官4名の慰霊碑が並び、毎年供養祭が行われる。コレラが大流行した明治12年(1879)に、布良で防疫活動中に感染殉職した左右田(そうだ)豊巡査の碑は、古碑が剥落したため新設されたもの。土屋勇次巡査は滝田村で腸チフス防疫活動中の大正14年(1925)に感染殉職した。


館山市立博物館  〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

安房神社周辺・相浜・布良

神話に残る安房開拓の祖、忌部氏ゆかりの地を歩いてみましょう。

安房神社周辺エリア

(1) 安房神社

 安房国の一宮で、祭神は天太玉命。古代の安房開拓神話に登場する、安房忌部氏の祖天富命が、祖神をまつったものといわれる。平安時代の「延喜式」に記される式内社で、古代祭祀の地に建てられている。神社所蔵の木造狛犬や木碗・〇箱・高杯・鏡などは市指定文化財。境内に海蝕洞窟遺跡があり、ここから出土した人骨が、忌部塚として神社の東方にまつってある。

(2) 小久保ヶ谷やぐら

 やぐらは中世の武士のお墓。地元では「五輪様」とよばれている。5基のうち1基に五輪塔と宝篋印塔の断石が見られる。近くに、木の洞にまつられた天神様がある。

(3) 千祥寺

 真言宗の寺院。平安時代始めの木造如来坐像(県指定文化財)や、南北朝期の地蔵菩薩像がある。境内には、天和2年(1682)に領主の非法を訴えて処刑された7人の農民を供養したという七人様供養碑や、享保14年(1729)の廻国供養塔、五輪塔の断石などがある。

(4) 大沢墓地

 個人の家の墓地だが、寛政11年(1799)の廻国供養塔や文政元年(1818)出羽三山碑などがある。

(5) 巴橋

 市内で唯一残された、石積み式のアーチ橋。明治39年(1906)の建設。

(6) 弁天岩

 大木の根本に、文政8年(1825)の廻国供養塔や明治42年(1909)の出羽三山碑がある。

(19) 大鑑院

 曹洞宗の寺院。山号を冨士山といい、背後の山にはセンゲンサマがまつられている。長須賀の石工鈴木伊三郎による石造十二神将像は、文化12年(1815)の作。

相浜エリア

(7) 蓮寿院

 浄土宗の寺院。境内には、元禄16年(1703)の大地震で亡くなった地元の人たちを供養するために、正徳5年(1715)に建てられた名号石塔がある。寺院は正徳4年(1714)に創建された。墓地には長尾藩士の墓や、江戸時代の出羽三山碑などがある。墓地の南西に隣接して、玉杉稲荷とよばれる稲荷様がまつられている。

(8) 相浜神社

 江戸時代には、感満寺という修験の寺院があった場所。その後波除神社となり、大正年間に楫取神社を合祀して相浜神社となった。境内には、江戸時代の石灯籠や手洗石のほか、5個の力石がある。五十貫目のものには「深川不動丸船頭 西宮伝七奉納」とある。

(9) 海蝕洞穴

 海水の浸食によってできた洞穴。元禄地震で隆起する前は、このあたりまで海だった。

(10) 楫取神社旧地

 江戸時代には香取神社といい、村の氏神だった。現在は相浜神社に合祀されているが、毎年3月28日の相浜神社例祭では、お船とよばれる山車が渡御する。日本橋の魚河岸による、明治32年(1899)の石垣寄付記念碑がある。

(11) 富崎小学校

 富崎村の初代村長をつとめた神田吉右衛門をたたえた、明治44年(1911)の記念碑がある。撰文は諸井華畦という女流の漢学者。ほかに明治39年(1906)の日露戦役記念碑や、昭和11年(1936)の二宮尊徳像がある。

布良エリア

(12) 富士見の地蔵

 もとは岩屋になっていたところにまつられていた。板状の石に五輪塔を浮き彫りにした、中世の石造物がある。

(13) 駒ヶ崎神社

 安房開拓神話に登場する忌部氏の天富命が、四国の阿波から渡ってきて最初に上陸したとされるのが、駒ヶ崎の海岸である。この神社の祭神は忌部氏と直接関係するものではないが、漁民の信仰を集めている。

(14) 青木繁と「海の幸」

 東京美術学校を卒業した洋画家の青木繁は、明治37年(1904)、布良の小谷家に逗留して構想を練り、名作「海の幸」(重要文化財)を制作した。昭和37年(1962)にはこれを記念して、阿由戸浜の西に碑が建てられている。

(15) 布良崎神社

 安房忌部氏の祖である天富命が上陸した地として、この天富命をまつった神社。境内には、地元と江戸日本橋の人が願主となって奉納した元治2年(1865)の石灯籠や、文政9年(1826)の鳥居が柱のみ残されている。末社として、大山祇神社、浅間神社などがある。

(16) 本郷の墓地

 享保8年(1723)同行中の奉納による石造の大日如来像や、文政8年(1825)の庚申塔、館山の石工俵光石による酒樽型の墓石があるほか、宝篋印塔の断石がある。また日清・日露戦争に従軍し、旅順攻撃に参加して生還したのち、海上で遭難死した沼野熊吉の記念碑(明治41年)もある。

(17) 龍樹院

 曹洞宗の寺院。向拝の龍の彫刻は、江戸時代末の後藤流彫刻師、後藤恒徳によるもの。境内には文政4年(1821)の二十三夜塔などがある。

(18) 富崎地区公民館裏の墓地

 殉難警察官の慰霊碑があり、毎年ここで慰霊祭が行われる。明治12年(1879)にコレラ対策にあたって感染し、殉職した警官や、大正14年(1925)に腸チフスに感染した警官などの碑が並んでいる。


監修 館山市立博物館

小塚・竜岡・犬石・中里

巴川流域には古墳時代の遺跡が一帯に広がっている。安房神社とゆかりの深い小塚大師周辺を歩いてみましょう。

小塚・竜岡エリア

(1) 小塚大師(大神宮)

 弘法大師が創建したという真言宗の寺。正式には遍智院といい、弘法大師が本尊。弘法大師ゆかりの寺院を巡る四国八十八か所の霊場を裏山に移し、明治31年(1898)に八十八個の石碑を建てた。山頂には安永4年(1775)の芭蕉の句碑がある。手水石は文政10年(1827)、長須賀の鈴木伊三郎の作。また資生堂の創始者福原有信家の墓がある。

(2) 岩屋地蔵(竜岡)

 竜岡の地蔵堂。本尊のお地蔵様はお堂の裏の崖に彫り込んである。いぼとり地蔵の信仰があるが、その昔弘法大師が自分の手の爪で彫ったものだと伝えられていて、爪彫り地蔵とも呼ばれている。明治5年(1872)につくられた安房の百八地蔵めぐりのうちの第92番になっている。堂の前に天保13年(1842)の石造地蔵尊と嘉永4年(1851)の手水石がある。堂の右手にある掘り込みは「やぐら」だろうか。五輪塔の水輪が残されている。

(3) 竜岡神社(竜岡)

 竜岡はむかし北竜と南竜に分かれていた。北竜には子野(ねの)神社があって、大国主命を祀っていた、これは家の神や田の神として信仰された大黒様のこと。大正12年(1923)の大黒天の掛け軸が残されている。南竜は熊野神社があったが、平成7年に建替えられて、子野神社と合わせて竜岡神社になった。もとの社殿は本殿が天保13年(1842)のもので、拝殿が寛政8年(1796)に建てられたものだった。文政12年(1829)の手洗石が残されている。

(4) 姥(うば)神社(犬石)

 犬石の飛び地「尾馬(おんば)」にある。「おんば」とは「御姥」で、この姥神社のことである。バア神ジイ神ともいう。そこに祀る姥神(うばがみ)の信仰は日本各地にあって、子育てをする女性(乳母=うば)に関連した伝承がある。また弘法大師の伝説に水と老女が登場するのも関連した信仰らしい。ここでは子供の疱瘡や咳をなおす神として信仰されていた。境内に文政4年(1821)の石灯籠が4基ある。また社殿のなかには、日露戦争で28回の戦闘に参加して凱旋した兵士が奉納した「姥神社」の額がある。

松岡エリア

(5) 八幡神社(竜岡)

 松岡の鎮守で、鳥居は資生堂の創始者福原有信が明治44年(1911)に奉納したもの。有信は松岡の出身で、平成7年に社殿を新築したときには資生堂が記念碑を建てている。境内には文化元年(1804)の手洗石が残され、社殿には市内では珍しい江戸時代の狂歌の額が奉納されている。隣の集会所はもと正見院という真言宗の寺だったところ。神社の裏にある鳥居はその奥の山の上にある金毘羅様のもので、文化2年(1805)に松岡と布良の人が奉納した。金毘羅様は漁民の信仰があった。

(6) 松岡観音(竜岡)

 おいと塚ともいう。砂を取ったため。今は低い場所になってしまっている。その昔、お糸という女性が病気平癒の祈願をして叶い、建てたものだと伝えられる。寛文2年(1662)に滝田や白浜などの念仏講の人々が建立した石造の観音さまが祀られている。

(7) 天田やぐら(中里)

 養護学校の裏山の裾に4つ、中世のやぐらがある。そこから大正14年(1925)に室町時代の五輪塔・宝篋印塔がたくさん出土した。この時に壺も出たと伝えられている。石塔はいまは字笠登の墓地に祀られている。

犬石・中里エリア

(8) 金蓮院(犬石)

 安房国札観音の第29番霊場。真言宗のお寺。山門を入ってすぐ、長須賀の石工鈴木伊三郎が刻んだ肉厚つの青面金剛像がある。庚申塔である。記念碑は犬石の名主島田楽山のもので、若い頃に館山藩の新井文山や江戸では旗本能勢氏について学問し、名主になってからの安政年間にアメリカの船が相浜に着船したとき、同乗の中国人を通じて会話をしたことが記されている。明治13年(1880)没。80歳。隣には明治6年におこった平砂浦の境争論で、解決に向けて努力した犬石の伊藤利右衛門の墓碑がある。
 本堂の裏には飛錫(ひしゃく)塚と呼ばれる岩山がある。むかし伊豆から来た僧が犬尾崎に着いたところ、犬に引かれてこの地へきたが犬が離れないので錫杖を振ったところ、犬が消えたという。そこに観音堂を建てたと伝えられている。塚の上には竜宮から上がったと伝えられる枕字石(ちんじいし)がある。また飛錫塚の端には、享保19年(1734)に一石に一文字づつ経文を書いて19500個の石を埋めた経塚があり、石書妙経塔が建っている。墓地には明治13年に64歳で没した桶職人の神田惣蔵の記念碑もある。多くの弟子が育っている。

(9) 犬石権現(犬石)

 犬石の青年館の場所に、二百年以上前から犬石権現が祀られていた。その昔、西岬地区の鉈切神社の洞穴からひとりの僧が犬を連れて探検に入ったが、僧は出てくることができず、犬は赤肌になって白浜の滝口から出てきたという。それは犬石のことだともいい、犬石権現の場所に出て犬が石になってしまったという話もある。塚のうしろにむかし洞窟があったそうだ。犬石の地名からか、この周辺には犬や石にまつわる伝説が多くある。

(10) 八坂神社(中里)

 むかしは牛頭(ごず)天王とよばれた。石棒や元文元年(1736)の棟札が残されている。境内には安永2年(1773)の手水石や力石3個などがある。社殿の裏には青面金剛像を刻んだ庚申塔や牛頭天王の石宮、右には浅間様の小さな祠がある。

(11) 笠登(かさと)墓地(中里)

 墓地の正面中央に、天田やぐらから出た数多くの室町時代の五輪塔や宝篋印塔が祀ってある。これは大正14年に地区の人が夢に従って掘り出したものだという。そのとき記念の供養塔が建てられた。また墓地の一画には、昭和18年に15名が犠牲になった、神余上空での海軍機衝突事故で死亡した海軍飛行兵曹吉田満の墓がある。享年20歳。

(12) 中里村先祖の霊(中里)

 中里の旧家のうち11軒で先祖の墓地があると言い伝えられてきた所で、平成6年に遺骨が出たことから供養の五輪塔が建てられた。

(13) 大塚貝塚(大神宮)

 大塚山とよばれる山の北側の巴川との間には、縄文時代から弥生時代の貝塚があり、土器や貝輪・石器などが出土している。山の南側にはやぐらもある。また、ここから長塚や小塚にかけては、古墳時代の土器のかけらがよく出てくる。


監修 館山市立博物館

神戸地区佐野・藤原

太平洋に面した平砂浦砂丘の奥、小さく開けた谷にも古代から近世にかけて営まれた人々の生活の痕跡がある。太平洋と東京湾が分岐する場所 平砂浦の昔の姿を思い浮かべてみましょう。

佐野エリア

(1) 館山海軍砲術学校跡戦車橋

 房南中学校から奥が、昭和16年(1941)6月に開校した館山海軍砲術学校の跡地。陸戦での砲術実地訓練を必要とした海軍が、横須賀の海軍砲術学校から独立させたもので、砲術演習に適した広大な平砂浦に近い佐野の地が選ばれて開校した。陸戦科・対空科・化学兵器科があり、昭和20年7月の閉鎖まで6期にわたって「鬼の館砲」と呼ばれるほどの厳しい訓練が行われた。入口にある橋は当時のもので、ここに学校の正門があり、この道の突き当りには館砲神社があった。戦後できた房南中学校の校舎は昭和44年まで砲術学校の兵舎が使われていた。

(2) 同校飛行特技訓練プール

 パラシュートの降下訓練用に使われたプール。高さ20mの飛び込み用の鉄塔が横にあったという。

(3) 同校釜場レンガ壁

 訓練生が食事をした「烹炊所(ほうすいじょ)の釜場」だった建物。つまり調理場のボイラー室。赤レンガの壁だけが残されている。

(4)  佐野洞穴出土人骨弔魂碑(ちょうこんひ)

 大正15年(1926)に建てられた弔魂碑。関東大震災で壊れた地区内の道を修理するため、補修用の石材を地区内の岩見堂跡の崖で掘っていたところ、古い時代の人骨10体分が出土した。人骨は研究のために当時の千葉医科大学に納められたが、地元ではその経緯を記録し人骨を弔うためにこの碑を建立した。岩見堂跡地は標高28mで海食洞穴があったと思われ、古墳時代の墳墓だったのではないかと考えられる。

(5) 熊野神社

 佐野地区の鎮守。境内に文化7年(1810)の灯篭がある。狛犬は昭和13年(1938)のものだが、陸軍近衛歩兵と海軍機関兵(20歳)として出征する2人の縁者の無事を祈願して奉納したもののようで、「神□□て願いは久し二十年」と刻んである。楠見の俵石工の作品。本殿の額は神道家で内務大書記官の桜井能監(のうかん)の書とある。社殿左の石宮は、天保2年(1831)に越後から来た行者量海が本願となり乙浜村の元宮太平らが奉納したもの。

(6) 千葉院(せんよういん)

 正式には金剛山千葉院という真言宗の寺院。安房国108か所地蔵巡りの第94番札所で、ご詠歌に「ちりつもる 池のみくづをおしわけて 心もひらく せんようの寺」とある。入口には安永3年(1774)・寛政12年・文化元年・天保3年・天保9年・明治12年(1879)の出羽三山碑および、行者蓮利(文化5年没)の日本廻国塔が並んでいる。万延元年(1860)に亡くなった住職成憲の墓は筆子中で建立したもので、成憲が寺子屋を開いて近隣の子弟(筆子)たちに読み書きを教えていたことが分かる。数か所ある墓地の入口には江戸中期の如意輪観音や享保19年(1734)の六地蔵、参道入口に安政2年(1855)の六地蔵があり、いずれも女人講によるもの。ほかに文化13年(1816)の手水石、安政2年の水向などもある。上段の無縁墓地には館山藩士夏目敬愛の墓(明治8年没)がある。本堂前の手水石は文化7年(1810)のもの。

(7) 平和祈念の塔

 開校50周年の平成3年(1991)6月に、館山海軍砲術学校跡地の一画にかつて学校があったことを示すために建てられた記念碑。碑は砲身をかたどっている。四一式山砲や20センチ・ロツ弾ほか硫黄島の遺品などが展示されている。多数掲げられた標識は戦地を示している。

◆ 佐野川のオオウナギ<市指定天然記念物>

 ニューギニア・インド洋・アフリカ南東部・オーストラリア・台湾・朝鮮などに分布する熱帯性のウナギで、体長2mにも達する。佐野川は水量が安定し、清浄なことから、オオウナギの生息地最北限かつ最東限とされる。大きなものでは昭和33年6月に、体長118cm、胴囲26.7cm、体重4.3kg、生後5年とされるオオウナギが採捕された。その後昭和36年に50cmと1m程度のウナギが最後の目撃となっている。

藤原エリア

 藤原の集落は、そのむかし運動公園に近い谷藤原の集落から、神社や寺がある丘陵端の現在地へ出てきたと伝えられている。

(8) 藤原神社

 藤原地区内の荒神社・山王宮(日枝神社)3社・山神2社を合祀した神社。毎年8月10日の例大祭では、伊勢神楽の流れをくむ獅子神楽が行われ集落を巡舞する。館山市無形民俗文化財。境内にある手水石は文政6年(1823)に氏子が奉納した。記念碑は平砂浦の開墾記念碑で、明治43年(1910)建立。平砂浦砂丘の飛び砂に悩まされ、砂と戦いながら田畑を維持してきたこの地域の人々の苦労を伝えている。江戸時代の絵図では、隣村佐野集落の谷の奥に砂山が描かれているほど。撰文は安房郡長太田資行、文と題字の書は神戸村長岡崎孝右衛門である。

(9) 藤栄寺

 藤林山藤栄寺といい、不動明王を本尊とする真言宗の寺院。本堂の観音像は安房郡札辰年観音の第22番札所で、ご詠歌は「老いの身に 苦しき沙の藤原や 遠き歩みも 後の世のため」。地蔵菩薩坐像は膝前で着衣を垂らす法衣垂下のスタイルで、室町時代末の作。安房国108か所地蔵巡りの第95番札所でもある。本堂向拝正面には、金剛宥性が安房国地蔵尊108か所を開いた明治5年(1872)に、地元の人々が奉納した額があり、ご詠歌は「めぐり来て 見ればたなびくむらさきの 雲にゆかりの 藤原の寺」とある。手水石は文化7年(1810)に奉納されたもの。石灯篭は嘉永2年(1849)の奉納で、楠見の石工田原長左衛門の作。

(10)  観音堂跡墓地

 天下泰平と村内安全を祈願する天保3年(1832)の供養塔があり、文化13年(1816)の光明真言塔も村内安全を祈願している。文化7年(1810)の馬頭観音もある。また両親菩提と子孫繁栄を祈願して光明真言と念仏を百万遍唱えた文政5年(1822)の供養塔が個人の墓地にある。

(11) 館山海軍砲術学校化学兵器実験施設

 平砂浦は砲術学校の演習地であったが、学校から離れたこの場所では化学兵器科による毒ガス戦の訓練が行われたといい、化学兵器科には理工科系の学生が多く配属されたという。残されているコンクリートの施設は化学兵器の実験施設とみられている。隣接して近年までガス講堂と呼ばれる赤レンガ建物があった。

(12) 平砂浦砂防林造成記念碑

 砲術学校演習地として砂丘に戻っていた平砂浦は、戦後、西岬・神戸両村が砂防林保護組合を結成して現在の姿の砂防林に造成した。県との協力で昭和24年(1949)から10年の歳月をかけて昭和33年に完成し、南房パラダイス前のフラワーラインに記念碑が建てられている。


監修 館山市立博物館
作図:愛沢彰子

洲宮・茂名

古くからの特色ある神事が現在も伝承されている洲宮と茂名。路傍の石宮や石仏など、地域の人々に信仰されてきたさまざまな神仏にも目を向けながら田園風景を歩いてみましょう。

洲宮(すのみや)

(1)洲宮神社

洲宮の鎮守。安房神社の祭神天太玉命(あめのふとだまのみこと)の后神(きさきがみ)である天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)を祀る神社。元日の朝にその年の豊作を願って行われる御田植(みたうえ)神事は、市の無形民俗文化財に指定されている。拝殿向かって左の社は子安神社で、手水鉢(ちょうずばち)は文化元年(1804)に洲宮村の友野吉助が奉納したもの。本殿の脇には3基の石宮が祀られており、中央と右端の石宮は旧社地である魚尾山(とおやま)から移動させたもの。左端の小さな石宮は、山の上に祀ってあったものを移動させた「山の神」。境内には2つの力石があり、大きい方には「四拾五貫目」(約169kg)とあり、「当所若者中」が奉納したことが刻まれている。

(2)薬王院

洲宮神社の隣にある真言宗のお寺で、大明山薬王院という。縁起には、洲宮神社の祭神天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)の子孫で神主家の人物が僧となり、永正元年(1504)に薬師如来像を彫刻して庵を結んだのが当寺の始まりと記されている。石段の左に馬頭観音3基が祀られており、中央は天保10年(1839)9月、右端は明治12年(1879)に建立されている。境内にある手水鉢は慶応2年(1866)7月に洲宮村の人びとによって奉納されたもので、願主である川口清右衛門・渡辺六良右衛門のほか施主19名の名が刻まれている。3基並んだ僧侶の墓のうち右端は薬王院中興2世の隆中という僧のもの。刻まれた履歴によれば隆中は竹原村須田氏の出身で、字(あざな)を英浄といった。16歳で仏門に入り、京都の智積院(ちしゃくいん)で修業した後、24歳で地元に戻った。高井の善浄寺の僧となった後、当寺に移ったが、病を患い亡くなったという。墓は明治27年(1894)の建立で、隆中が読んだ漢詩が刻まれている。

(3)不動堂と墓地

墓地の傍らに建つお堂で、不動明王像と両脇侍(わきじ)が祀られている。江戸時代に薬王院の東側にあった不動堂を移転させたものか。以前は茅葺きのお堂で中に土間があったが、平成16年(2004)に建て替えた。不動明王像は明治33年(1900)に修理されており、黒塗りの厨子はそのときに渡辺太右衛門が自ら製作し奉納したもの。渡辺太右衛門は洲宮村の宮大工で、藤原義重とも名乗った。不動堂の脇に置かれた手水鉢は慶応2年(1866)に「当村中」(洲宮村の人びと)が奉納したもの。墓地には、大工渡辺太右衛門が明治24年(1891)に自ら建てた墓があり、履歴が刻まれている。棟梁として多くの弟子を抱え、社寺や民家の建築を行い、彫刻の技も優れていたという。墓に刻まれた肖像画は、沼出身で館山藩に仕え、明治以降は安房神社の神官になった絵師の川名楽山が描いている。墓地の入り口には、江戸池之端の直心法師(俗名吉兵衛)の姿を刻んだ天明8年(1788)の石像がある。

(4)魚尾山(とおやま)

「どうやま」とも呼ばれる。洲宮神社はかつてこの山の上に鎮座しており、鎌倉時代の文永10年(1273)の火災で焼失した後に現在地へ移転したと伝わる。魚尾山の袋畑遺跡からは古墳時代の土製模造品が出土しており、祭祀の場であったことが分かる。

(5)子守り地蔵

民家の前にあるお地蔵様。昔、お婆さんが子供を連れてよくお参りに来ていたとの話が伝わっており、子守り地蔵と呼ばれている。

(6)浅間様(せんげんさま)

山の上に石宮が置かれており、浅間様と呼ばれている。現在、山開き行事は行われていないが、毎年7月の第1日曜日に地元の人々が草刈りを行っている。石宮は明治12年(1879)に洲宮村講中の人々によって建立されたもの。

(7)明神山(みょうじんやま)

毎年8月に行われる洲宮神社の祭礼の際、神輿がこの山に登り、浜降(はまくだり)神事(お浜入り)が行われる。かつては藤原の獅子神楽も同時に奉納された。

茂名(もな)

(8)下のお墓

江戸時代にお堂があった跡地で、現在は墓地のみが残っている。入口付近に古い石碑が並んでおり、最も大きい如意輪(にょいりん)観音像は貞亨4年(1687)に建立されたもの。左端の「才兵衛殿墓」は、脇に「この墓を参詣する者、その家繁昌」と刻まれている。

(9)成願寺(じょうがんじ)

真言宗のお寺で、普門山(ふもんざん)成願寺という。掲げられているご詠歌の額は、安房国八十八か所弘法大師巡礼のもので、「皆人(みなひと)の まいりてやがて 成願寺 来世の道を たのみおきつつ」と記されている。元文元年(1736)に根本の僧智円らが奉納したもので、当寺は第9番札所であった。お堂の裏手には、江戸の東叡山(とうえいざん)寛永寺の役僧になった石井良左衛門が文化10年(1813)に六十六部廻国巡礼を行ったことを記念した供養塔がある。建立は明治8年(1875)とあり、その子孫が建てたものであろうか。境内には力石が置かれている。

(10)要害道(ようがいみち)

茂名から館山地区の沼へ山越えして、宮城へと抜ける山道。里見氏が館山城を居城としていた時代に、布良で獲った鮮魚を城まで運ぶ際にこの道が使用されたことから、「魚買道(うおかいみち)」とも呼ばれる。館山城への鮮魚の運搬に苦労したことから、茂名の人々は里見氏が転封となった際に喜んだという話が伝わっている。

(11)上のお墓

共同墓地の入り口に、江戸時代の石仏などが並んでいる。1番左の地蔵は、享保12年(1727)正月に茂名村の「順礼講仲間」が建立したもの。中央は文化7年(1810)9月の建立で、「四国西国秩父坂東百八十八番供養塔」と刻まれている。行者の藤右衛門が、四国の弘法大師88か所と西国33か所・秩父34か所・坂東33か所観音の合計188か所の巡礼を終えた記念に奉納したもの。右隣に建つ安永5年(1776)の廻国供養塔には越後国蒲原郡下条(げじょう)村(新潟県加茂市または阿賀野市)の三助という俗名とその戒名(家山興国信士)が刻まれており、巡礼の途中に茂名村で亡くなった人物を供養するために建てられたものである。

(12)十二所神社(じゅうにしょじんじゃ)

茂名の鎮守。毎年2月の祭礼は里芋祭りと呼ばれ、国の重要無形民俗文化財に指定されている。階段上の灯籠一対は天保3年(1832)9月に村内の矢田太郎右衛門・和田吉良兵衛・矢田安右衛門・石井弥五右衛門を世話人として奉納されたもので、他に願主21名が名を連ねている。なお、火袋(ひぶくろ)には大正12年(1923)の大震災で倒壊した際に修繕した旨が刻まれている。拝殿向かって左の社は金毘羅社で、村内の他の場所から移したもの。その右には岩壁をくり抜いて石宮が祀られ、下には正方形の手水鉢が置かれている。手水鉢は文化2年(1805)に村内の石井藤右衛門・同谷右衛門が奉納したもの。その脇には明治25年(1892)に氏子らが社殿の修復を行った際の石碑がある。

(13)荒神様(こうじんさま)

2つの石宮が並んでおり、荒神様と呼ばれている。荒神は屋内で火やかまどの神として祀られるほか、山の神などとして屋外で祀られることも多い。現在も毎年3月に宮司を呼んでお祀りをしている。


館山市立博物館(2016年11月6日作成)
館山市館山351-2 ℡:0470-23-5212

布沼・小原

太平洋に面した平砂浦砂丘の奥、小さく開けた谷にも古代から近世にかけて営まれた人々の生活の痕跡がある。太平洋と東京湾が分岐する場所 平砂浦の昔の姿を思い浮かべてみよう。

布沼(めぬま)エリア

(1) 薬師堂

 戦国武将里見義堯の流れをくむ布沼の郷士の家の薬師堂。寛文4年(1664)・延宝6年(1678)の宝篋印塔型の墓石がある。お堂の天井には竜の絵が描かれている。本尊は薬師如来で、ご詠歌には「大石と重き病も我たのめ 人の布沼にもとの身と成」とあり、病気平癒の祈願をする人々がこの薬師にお参りしていたことがわかる。「大石」とは海岸の弁天様のことで、この郷士の家が弁天様の祭祀に大きく関わっていたらしい。

(2) 深田やぐら

 ゴリンサマという室町時代の「やぐら」がひとつある。中には15世紀から16世紀頃と思われる五輪塔と宝篋印塔を組み合わせた塔が3つ建てられているが、もとは宝篋印塔が少なくとも2基、五輪塔が4基はあったはずである。布沼の谷田を地盤にした有力な武士の墓であろう。

(3) 大久保墓地

 東光寺の墓地。無縁に寄せられた墓石のなかに、寛政8年(1796)の出羽三山碑がある。出羽三山は山形県の羽黒山・月山・湯殿山のことで、山岳修験の中心地。正面の大日如来像は湯殿山を象徴する仏様である。房総の人々は講グループでこの三山に登山してくると、記念の石塔をつくった。墓地の裏には石積みアーチ式の石橋が架かっている。この道が昔の県道だった。

(4) 東光寺・大久保遺跡

 曹洞宗のお寺で、16世紀初頭の記録にみえる。本尊の釈迦如来像も16世紀の室町時代後期の作。裏山の中腹に「やぐら」と思われる穴があり、周辺からは16世紀の常滑焼の破片や17世紀の丹波焼の破片が出土している。また縄文土器・弥生土器、古墳時代の土師器や東海系の須恵器も出土しており、大久保遺跡と呼ばれている。歴代住職の墓域には中世五輪塔の一部とみられる石もある。境内には寺子屋師匠で慶応2年(1866)に没した住職芳明東禅大和尚の墓(筆道の門人が建立)や明治36年(1903)の酒樽形の墓(酒翁盛呑信士)が並んである。また裏参道には、文化14年(1817)から農業が機械化される直前の昭和35年にいたるまでの馬頭観音が、年代順に16基並んでいる。

(5) 厳島神社

 島状の高台に鎮座する布沼の鎮守で、境内には文化7年(1810)の手水石がある。社殿の裏手に縄文時代の石棒が祀られ、周辺からは古墳時代の土師器が出土するという。

(6) 大石弁天

 元禄(1703)の大地震での隆起がおこるまでは、海岸の大岩だったと思われる場所。寛政5年(1793)の記録によると、旧暦の6月18日に祭礼があり、布沼・茂名など5か村で雨乞いの祭礼をおこない、弁天様にお神酒を上げて一日遊んだという。里見氏末裔の郷士の家で享保7年(1722)に作った、雨乞いのかっこ舞をするための獅子頭が残されている。境内には寛政12年(1800)の手水石と享和2年(1802)の石鳥居が奉納されている。数年前までは小さな石の舟がたくさん奉納されていた。

小原(こばら)エリア

小原(こばら)の集落は中央の道を挟んで、右(東)が神戸地区の布沼、左(西)が西岬地区の坂井に属する。10世紀(平安時代)の書物に出てくる「安房国安房郡麻原(おはら)郷」は、この周辺だろうといわれている。

(7) 翁作(おきなさく)古墳跡

 昭和42年(1967)、ホテルの工事中に発見された古墳。標高35mの砂丘の先端という位置で、当時は砂に覆われていた。ホテルのオープン直前に確認されたため、古墳はすでに消滅し、規模も明らかではない。確認位置は正面アプローチの左下で、地表下2mから人骨・須恵器・剣・刀子・圭頭大刀・環刀大刀が取り出された。葬られた人は6世紀終わり頃の人物で、中央の大和王権に近い安房地域屈指の豪族だったと考えられている。東京湾入口のこの地が大和王権にとって重要な地だったことがわかる。大刀は市立博物館に展示されている。

(8) 蛇堰(じゃぜき)横穴墓

 砂山手前の池を蛇堰(じゃぜき)といい、その東側の崖に古墳時代の横穴墓が3つあるという。そのうちのひとつから人骨や刀、勾玉・管玉が出土した。玉類は市立博物館に展示されている。蛇堰の東側の山を蛇堰山あるいは座席山という。安房神社の神様(天太玉命)と后神である洲宮神社の神様が、どこに鎮座しようかと相談するための宴会したときの座席になったという伝説がある。

(9) 小原やぐら

 薬師堂の裏山の山頂ちかくに「やぐら」がひとつある。なかには五輪塔と宝篋印塔の石の一部がはいっている。この小さな谷の周辺にも室町時代に有力な武士がいたのだろう。

(10) 船頭(ふながしら)遺跡

 小原橋下流の小原川の川底から、古墳時代の土師器や祭祀土器が出土している。小原集落の奥の谷では縄文土器が出る。


監修 館山市立博物館