海発子安神社<和田>

子安{こやす}神社の概要

南房総市和田町海発{かいほつ}716

地元では子安様と呼ばれ、祭神は豊玉姫命{とよたまひめのみこと}です。創建は承久2年(1220年)と伝えられます。明治12年(1879年)に海発神社と改称しましたが、昭和41年(1966年)に再び子安神社に戻しました。明治44年(1911年)に村内の山神社(大山祇命{おおやまつみのみこと})と飯綱社(飯綱大神{いづなおおかみ})が合祀されています。境内にある多くの改修記念碑からは、明治・大正期に増改築が繰り返された様子がわかります。創建伝説では、鎌倉時代に安房国を襲った暴風が静まると、村の浜辺に流れ着いた小舟の中に七色の光さす二尺ほどの三体のご神像が乗っていたそうです。村人たちはそれぞれに社を造営して村の鎮守としました。海発の子安神社、岩糸の貴船神社、白子の三嶋神社です。ある時海発の子供たちがご神体を出した付近の川に流して遊んでいたので、村人は驚き急いでご神体を社殿に安置して鍵をかけました。その夜、ご神体が村人の夢枕に立つと「吾{われ}、幼童と共に川の流れに戯れるは、幼童の溺死を護らんためなり」とお告げになり、村人は恐れおののいてご神体を開帳するようになったそうです。安産・子育ての守護神として親しまれ、境内には子授かり石があります。この縁起は別当寺だった健福寺が所蔵しています。7月大祭で渡御{とぎょ}する神輿彫刻は後藤義光の門人後藤吉三郎橘義信の作。

(1)社号碑

1-1

国道128号線からの入口右側にある。書は大蔵大臣水田三喜男。地元建設会社が嗣子誕生と、海発神社から子安神社への名称復元記念として、昭和41年(1966年)に建立した。

1-2

大正10年(1921年)に安房北条駅から南三原駅まで鉄道が開通した記念に、1-1の碑の付近に建てられた。国道の拡張時に現在地へ移され、海発神社から子安神社に書き換えられた。

(2)常夜灯

常夜灯が奉納されたのは文化14年(1817年)9月と文政5年(1822年)9月。願主は(子安)講仲間の佐久間佐右衛門で世話人は氏子。江戸材木町の石工和泉屋与市の作である。同じ石工が2度に分けて作った常夜灯である。

(3)社殿改築鳥居建立寄付芳名碑

社殿改築は大正3年(1914年)5月で、石鳥居は大正11年(1922年)6月の竣工。境内にある3つの鳥居記念碑のうち最も古いもの。地元、近隣地区、地引網の網元、地元の会社、寺院、鉄道建設関係者など、多くの寄付を得て改築がなされている。

(4)拝殿寄付之碑

明治39年(1906年)1月に建立された碑で、100口を超える地元の人たちの寄付により拝殿の改修がなされている。地元の子安講2組に加え、大工、左官、木挽、瓦屋、石工など拝殿の建築に関わった職人達の寄付も見られる。

(5)石垣寄付碑

明治33年(1900年)に本社周囲の石垣の工事が行われた。その寄付記念碑が2か所にある。

本殿周囲の石垣にはめ込まれた石版には、願主池田重郎平が30余円を寄付し、運送に氏子中がかかわって石垣を奉納したことが記されている。

また石垣寄付碑には池田重良平を代表に、寄付者として宮司齋東清隆他76名、法人5件の名前と総寄付金額120余円が記されている。明治34年(1901年)1月に建立。石工は小川の庄司直吉。

(6)社殿・笠木改修記念碑

昭和34年(1959年)に寄付金額33万4千余円で、社殿をトタン葺きから瓦葺きへ改修。さらに社殿正面から伸びる道路にあった「笠木{かさぎ}」と呼んでいる木製の鳥居を建て替えた。この鳥居は、昭和49年(1974年)から昭和52年(1977年)にかけて実施された土地改良事業により道路が潰されたため、市道上に大鳥居として新築されている。

(7)狛犬

向かって左に子連れ獅子、右は手毬{てまり}獅子で、牡丹図の台座に乗る。明治23年(1890年)の建立で、願主は佐久間忠兵衛。石工は小川の川上丑松。同時に建てられた天獅子寄付碑には、村内の健福寺・自性院や9件の地引綱元など150名の寄付者がいる。安馬谷・松田・中三原・岩糸・沼・白子の人たちの名もある。

(8)震災復興記念碑

8-1

関東大震災で大災害を受けた人々の不安を和らぐために、被災神社へ千葉県から震災復興補助金が助成された。安房郡内交付神社98社の中で当社は2番目の高額補助。2,372円。

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秋田・福島両県から千葉県へ寄贈された震災復興寄付金5万円が、安房郡・君津郡・市原郡の各神社に配布されたもの。当社への震災社殿復興寄付金は807円70銭。

(9)伊勢参宮記念碑

・玉垣親柱

階段上の玉垣の親柱が大正元年(1912年)の伊勢参宮記念碑になっている。左右の親柱には計19名の参宮者の名が刻まれている。

・天水桶

昭和7年(1932年)に伊勢参宮記念として奉納された。桶の裏面左右に参宮者11名の名が刻まれている。

(10)本殿・向拝彫刻

現在の本殿は瓦葺き破風{はふ}造り、幣殿{へいでん}・拝殿は瓦葺き入母屋{いりもや}造り。大正3年(1914年)に本殿・幣殿を増改築したが、大正12年(1923年)の関東大震災で全壊。大正15年(1926年)新築竣工した。

・向拝彫刻

向拝{ごはい}の龍・獅子・象・松に雉子{きじ}は初代後藤義光の作。天保年間(1830年)頃と思われる。手挟{たばさみ}に宝暦8年(1758年)、「立斎勝正道彫」の墨書が確認されている。

・賽銭箱

庄司和三郎(伊勢和金物店)が大正15年(1926年)に奉納。大工眞田菊造の作。

・擬宝珠(ぎぼし)

明治36年(1903年)正月、池田重郎平・遠藤清右衛門が奉納したもの。改築時に再利用された。

(11)石灯籠の竿

修祓所{しゅばつしょ}後方石垣の上の石塔は、上部が欠損しているが灯籠の竿である。奉納年の「九酉{とり}」は天明9年(1789年)と考えられる。

(12)浅間社

南房総市和田町海発299-2

浅間社域の整備は、子安神社の氏子中で行っており、次の碑や石仏が祀られている。

12-1 浅間碑

石組みの台座上に「冨士浅間」と記されている。古老によると由緒は不明で講の活動や祭典が行われた記憶はないという。

12-2 金刀比羅社

施主遠藤清右衛門が中心となり、2軒の地引網元が建立した。市道横にあったが道路拡張により現在地に移築された。

12-3 愛子松の碑

明治10年(1877年)に村の有志により建立された。「人や観よ 抱きいだかれ 千代常磐 親子二葉に 色かへぬ松」と刻まれ、春齋釣人という人が歌を作ったいきさつを書いている。かつては海岸近くの松林の端に、母が子を抱く形の松があったが、戦時中に松は伐られ、この碑だけが残り、後に浅間様へ移された。

12-4 大日如来坐像3体

いずれも欠損は著しいが、中央の蔵は天明6年(1786年)のもの。海発村を中心とした講の建立で、他村の人も加わっている。出羽三山参拝記念に建立したものと考えられる。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋・鈴木以久枝 平成30.11.14
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

智蔵寺<山名>

智蔵寺の概要

南房総市山名386

曹洞宗で、富士山智蔵寺と号し本尊は地蔵菩薩。江戸時代に上総御宿{おんじゅく}にある真里谷{まりやつ}武田氏二代信勝の菩提寺・真常寺との間で本末寺の論争が起こり、真里谷武田氏初代信興{のぶおき}の菩提寺である上総国触頭{ふれがしら}の真如寺(木更津市)が仲介して、真如寺直末{じきまつ}の別格扱いとなって以来「山名の大寺」と呼ばれています。寺伝では文亀3年(1503年)、武田次郎三郎信勝を開基とし、弟の太厳存高{だいげんそんこう}を開山に創建されています。寛永15年(1638年)に、旗本・三枝守昌{さえぐさもりまさ}が安房国で一万石の大名となり、山名村本郷に陣屋を置くと、智蔵寺を菩提寺としました。本堂欄間には初代武志伊八郎作の「応龍」の彫刻(市指定)があります。

(1)六地蔵

 参道の途中に7体のお地蔵様が祀られている。左端の地蔵像は享保元年(1716年)に建てられた墓石。外の6体が宝暦4年~7年(1754年~1757年)に祀られた六地蔵である。木曽、請花{うけばな}、地蔵像の組み合わせにばらつきがあることから、後年に組み直されたのであろう。

(2)山門

 関東大震災で倒壊はしていないが、山門の建築時期を示す資料はない。しかし、15世住職が寛政年間(1789年~1801年)に七堂伽藍{しちどうがらん}を造影したとの古文書が残るので、その時期のものかもしれない。二段式の虹梁{こうりょう}や木鼻{きばな}その他、至る所に彫刻が施されているが、虹梁{こうりょう}端の処理に古い技法が見られる。昭和22年(1947年)の屋根替え後、昭和60年(1985年)に現在の銅板に葺{ふ}き替えられた。

(3)三枝守昌{さえぐさ・もりまさ}の墓

 宝篋印塔{ほうきょういんとう}が安房の大名三枝勘解由{かげゆ}守昌の墓である。法名は松獄院殿喜参宗悦大居士、没年は寛永16年(1639年)11月29日。享年55歳。裏面に「諏訪氏造立之{これをぞうりゅうとす}」とあるのは(4)の諏訪頼益{すわ・よります}のこと。戦国時代は甲斐武田氏に仕えた家で、主家の滅亡後徳川家に従う。元和8年(1622年)に徳川忠長に仕えて1万5千石となったが、忠長の改易により陸奥棚倉藩に「お預け」となった。のち許されて、寛永15年(1638年)に安房国三郡で1万石を賜り、大名として安房三枝藩を興すが、翌年に病で没し廃藩となった。

(4)諏訪頼益{すわ・よります}の墓

 三枝守昌の次子で勘兵衛という。母方の諏訪姓を継ぎ、子孫は代々諏訪勘兵衛と称した。寛永16年(1639年)に病死した父守昌の遺領は、翌年、兄守全{もりあきら}が7000石を継ぎ、弟の頼益に山名・三坂・海老敷村などの3000石が分けられて、ともに旗本となった。延宝2年(1674年)没。62歳。法名は端松院殿釼山全宝大居士。諏訪家は宝暦13年(1763年)三枝姓に戻り、天保13年(1842年)に知行替えとのあって安房を離れるまで、山名村で陣屋支配をした。

(5)歴代住職の墓(無縫塔{むほうとう})

 基壇を設けた崖際に、開山の供養塔を挟んで歴代住職の墓が並んでいる。12世以前の墓石は風化が著しく、どの世代の墓か不明。15世(松林骨禅大和尚)の墓にのみ、基礎に漢文で履歴や功績が刻まれ、寺の文書にも寛政年間に当寺の諸堂を再建した中興の祖と記されている。

(6)八木先生の墓

 「八木先生之墓」と刻された墓があり、寺小屋の先生のものではないかと言われている。師匠の墓を弟子が建てる例が多いが、この墓は建立者が不明である。過去帳によると、名は八木次郎といい、大名丹羽{にわ}家の家臣。嫡男は仙台藩浅野平助とある。嘉永7年(1854年)没。61歳。明治時代に小学校として使用された智蔵寺はそれ以前から寺小屋だったといわれている。

(7)女人講建立の地蔵尊

 文政6年(1823年)に嵯峨志{さがし}組と下{しも}組の地元女性たちによって、子供の成長やあの世での冥福を願って建立された地蔵尊である。幼くして亡くなった子供は親の恩に報いる孝行ができなかった罪で、賽{さい}の河原で苦を受ける。子供たちは娑婆{しゃば}の父母兄弟供養のために石塔積みを繰り返すが、そのたびに鬼が来てその塔を崩す。そこへ地蔵が現れ子供たちを救ってくれるという地蔵信仰がある。この地蔵尊の左手は願い事がかなえられる宝珠を持った子供を抱き、足元には二人の子供がいる。一人は錫杖{しゃくじょう}にすがりつき、もう一人は泣きながら石積みをしている様子が彫られている。

(8)裁縫の先生の墓

 大正7年(1918年)に72歳で亡くなった、21世住職密厳禅師の妻の墓である。把針{はしん}(裁縫)の生徒39名の名前が墓石の左右に刻まれている。学問などで世話になった弟子たちが、師匠の遺徳を偲んで筆子塚を建立することがあるが、この墓にも同様の気持ちが込められている。

(9)溝口八郎右衛門の墓

 出羽三山の行人{ぎょうにん}である。酒樽の上で徳利と盃を持つ姿は酒豪で知られた人物像を表している。正面には「無漏{むろ}」と刻まれ、煩悩から解放された境地に至ったことが示されている。天保14年(1843年)6月13日没、90歳。安房の名工の一人武田石翁による、天保12年(1841年)頃の作と伝えられている。

(10)君塚因幡{いなば}の供養塔

 山名村の人で、江戸初期に里見氏の家臣であった(『安房志』)とされ、寛永19年(1642年)8月20日に没した。君塚家墓域の中にある供養塔は、宝暦12年(1762年)に行われた121回忌の供養の際に建立されたと刻まれている。山名本郷には現在でも数件の君塚一族が住んでいる。

(11)念仏ばあさんの墓

 愛知県出身で、明治22年(1889年)に安房郡へやって来た「竹内しま」の墓である。37年間に安房郡内で800人もの弟子に御詠歌を教え、「山名の念仏ばあさん」と呼ばれていた。大正15年(1926年)5月9日、病により71歳で没した。墓は念仏講中の人達によって建立されている。

(12)田原次郎作の墓

 田原次郎作は山名の田原貞蔵の次男。明治10年(1877年)2月に始まり9月に終結した西南戦争で、東京鎮台の陸軍兵卒として政府軍に従軍した。明治10年(1877年)3月4日に大阪病院で死亡。享年23歳。戒名は天倫了兵居士。

(13)スタジイの古木

 本堂手前の急斜面の樹林中にある。株立状に太い幹が分岐し、たくさんの萌芽枝も認められる。胸高周囲は6.9m、樹高は約15m、樹齢200年以上とされる。「千葉県の巨樹古木200選」のひとつ。

(14)寺山石

 寺山石とは当寺の裏山より切り出され、建築材として使われた石のこと。切り出しは昭和30年(1955年)頃まで続いた。石は砂岩質からなる凝灰岩と呼ばれる石で、当寺の本堂や鐘楼堂の基礎材、また境内周囲の石垣などに使われている。他に山名熊野神社の参道にあるアーチ型の石橋や智光寺近くの石橋などにも使われている。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
刑部昭一・川崎一・鈴木正・殿岡崇浩・中屋勝義・羽山文子・山杉博子 2018.8.27作
監修:館山市立博物館 〒294-0036 千葉県館山市館山351-2 ℡0470-23-5212

加知山神社<鋸南>

加知山(かちやま)神社の概要

安房郡鋸南町勝山字日月319番地

祭神は縦速須佐之男命(たてやはやすさのおみこと)。元来、当社は字(あざ)天王塚にあったが、元禄大地震(1703)による地盤沈下で海が近くなったため、享保7年(1722)に勝山村名主の2代目醍醐(だいご)新兵衛昭廣(あきひろ)が、自身の地所であった日月社のある現在地に遷座した。旧称は牛頭天王(ごずてんのう)で、慶応4年(1868)に八雲大神と改称。更に明治2年(1869)、加知山神社と改め、同年郷社に昇格した。社殿内には加知山神社・浮島神社・八幡神社の3社の御神体(神鏡)が祀られる。例祭は毎年7月に行われる。元来牛頭天王は仁浜(にはま)区の鎮守で、内宿(うちじゅく)区は弁財天、町(まち)区は日月社を鎮守としていた。

(1)社号碑

明治36年(1903年)、漁業関係者によって建立された。碑は根府川{ねぶがわ}産の小松石を使用し、正面には「郷社加知山神社」「魚がし」と刻まれている。18名の地元発起人と東京在住者7名、日本橋魚問屋「尾虎」など魚河岸14軒が奉納している。「田町 石工 廣田源治」とあり、地元下佐久間の石工の作。「加知山魚商組合」が発起の中心であったことが土台に刻まれている。

(2)手水鉢

小松石を使用し、社号碑と同時期に奉納された。裏面には「発起人」や「石工」などの文字が確認できる。風化のためはっきりしない部分もあるが、50名余りの名前が刻まれ、石工は下佐久間田町の広田源治と考えられる。

(3)石灯籠

凝灰岩で造られた高さ2.7m程の灯籠。かなり風化が進み、セメントで部分補修されている。裏面に寄進者と思われる名があるが、「東京 蔵前 宝■■」と一部の文字がセメントで塗りつぶされ、奉納者名は特定できない。大正15年(1926年)に奉納されている。

(4)水準点

明治政府は測量の基準として、海水面からの高さを表す水準点を全国の主要道に設置した。この水準点は、国道沿いまで広がっていた当社境内の端に大正13年(1924年)に設置されたが、畑地だったため戦後の農地開放で所有者が変わり、いったん境内前の日月道路端に移されたが、昭和50年(1975年)頃、現在地に移転した。石柱には「水準點 三八七二號」の文字が刻まれ(3872は通し番号)、四方を保護石で囲う形を保っている。

(5)末社祠

浅間大神・照国大神・天神社・伊雑辺{いそべ}大社・琴平大社・風神・鎮火大神・御嶽大神・稲荷大神の九つの神が境内左手に末社として祀られている。末社は勝山村内各所に所在したものが、明治に至ってここに集められた。

(6)弁財天・古峰神社

本殿左奥、御影石造りの鳥居をくぐり登った山腹に、弁財天と古峰神社が祀られている。弁財天は内宿に所在したものを明治42年(1909年)に遷座したと伝えられる。古峰神社も内宿の恵比寿山にあったものが遷座したが、遷座時期は不明。

(7)神輿蔵と屋台蔵

拝殿横の「仁浜{にはま}區神輿蔵」は、旧牛頭天王神社(現加知山神社)の神輿蔵。祭礼日には、元社地の仁浜青年館まで神輿を運び、そこで御霊入れをして町内を渡御する。似浜区が祭礼の年番の年は、海上の浮島宮へ舟渡りした御霊を木遣り歌で迎え、加知山神社へ還御する。

内宿区の神輿蔵は、昭和46年(1971年)の建設。祭礼当日は恵比寿山の旧古峰神社下にある御仮屋で御霊入れを行い、町内を渡御する。内宿区が当番年の時だけ、浮島宮から還御する際に「くじら唄」が唄われる。

屋台蔵は加知山神社屋台で、戸数の多い町{まち}区の担当。引出しは参拝後に踊手と囃子{はやし}方、引手{ひきて}が揃って出発する。屋台はセリ出し舞台で、芸子さんの手踊りを披露しながら町内を巡幸する。

(8)華表{とりい}社務所建築記念碑

大正7年(1918年)に鳥居と社務所を建築した際の記念碑、奉納金額1,920円、奉納者には漁業関係団体のほか、勝山藩士の子で東京で実業家となった池貝庄太郎がいる。社司・神社役員計16名と大工、石工の名もある。

(9)野呂道庵{のろどうあん}寿蔵碑

道庵は幕末に勝山藩に召し抱えられた儒学者で、安房の近代教育に貢献をした人。江戸生まれで、近習格儒者として召し抱えられ、家塾「明善館」を開いて大名にも教授した。幕末に勝山に移住し、ここでも「明善塾」を開いて近隣の若者を指導。安房地方の政治、教育、実業などの分野で活躍する人材を輩出した。明治15年(1882年)に門人たちが70歳の寿蔵碑を建設。篆額{てんがく}は岩倉具視{ともみ}、撰文は漢学者の川田甕江{おうこう}、書は金井之恭{ゆきやす}、刻字は江戸一番の碑銘彫刻師廣群鶴{こうぐんかく}である。7年後の明治22年(1889年)に77歳で没した。

(10)日露戦争記念碑

明治39年(1906年)に勝山町奨兵義会が建立。正面には満州軍総司令官であった元帥{げんすい}候爵大山巌{いわお}の「日露戦争記念碑」の文字が刻まれる。裏面には明治37年(1904年)、明治38年(1905年)の日露戦役への、勝山町からの従軍者100名の名前と階級などが記されている。

(11)玉垣{たまがき}

社殿を囲む玉垣(石垣)が劣化したため、同じ場所に房州石で昭和54年(1979年)に再建されたもの。玉垣の高さは145cm。勝山漁協のほか千倉の漁業関係者が寄付をしている。

(12)日月{にちがつ}神社

寛政年間の神社書上帳には日月社とある。祭神は天照大神と月夜見命{つくよみのみこと}。神社敷地の大半は、勝山村名主で鯨組を取り仕切った醍醐家の所有地。境内の神明鳥居は、醍醐こう子が大正2年(1913年)に寄付。手水鉢は昭和16年(1941年)に、勝山町仁浜の松井平蔵と松井松次郎が奉納したもの。

(13)鯨塚{くじらづか}

拝殿裏から左手の山腹は鯨塚である。鯨塚は鯨を祀った塚のことで、日本独特の習わしである。捕鯨や座礁鯨の捕獲で、食料や資源とした事への感謝や追悼の意味で建てられた。石宮は鯨の供養と大漁祈願のために毎年1基ずつ建立され、その年の捕獲量で大きさに違いがあるという。

(14)社殿と彫刻

現社殿の建造時期は不明で、彫刻には銘がない。向拝{ごはい}の蟇股{かえるまた}は、頭を上に向け裏面に後ろ足が彫り込まれた龍と雲。木鼻{きばな}は獅子と象、海老虹梁{えびこうりょう}には若芽彫が施され、懸魚{げぎょ}には鷹・鶴・松と雲がある。作風から向拝蟇股の龍と木鼻の獅子・象は、江戸の後藤平七(寛政5年=1793年生)。その他は3代目後藤義光(明治19年=1886年生)と思われる。向拝の雲と海老虹梁・懸魚などは大正地震後再建時の彫刻で、江戸後期の作品が再利用されたと思われる。

(15)元社地

港に大きく張り出した岩山が天王塚で、牛頭天王社が祀られていた場所。(現在の仁浜青年館)。元禄地震で天王塚の地は2m程地盤が沈下し、参拝に支障を来たしたため、代官の名により日月神社境内に遷座した。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
刑部昭一・川崎 一・鈴木 正・殿岡崇浩・中屋勝義 2017.11.08作
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

沼蓮寺<和田>

赤坂山沼蓮寺(じゅうれんじ)の概要

(南房総市和田町沼763-1)

赤坂山沼蓮寺醫王殿(いおうでん)安楽院という真言宗智山派のお寺で、千倉町円蔵院の末寺。本尊は地蔵菩薩。延慶元年(1308)、真雅和尚の開山で、中興祐廣が寛正7年(1466)に寺の倒壊を憂い再建したと伝えられています。その後江戸時代に修復され、平成8年にも材料はそのままで再度修復しました。本堂には本尊の地蔵菩薩と脇侍の観音菩薩立像が安置され、ほかに弘法大師と興行大師が祀られています。欄間には明治5年(1872)奉納の「安房百八ヶ所地蔵尊巡り」第65番の扁額(初代後藤義光刻)や、文政10年(1827)「阿波国五番地蔵寺」(四国八十八か所弘法大師霊場)と大正4年(1915)「四国第四番槙尾寺」(西国三十三観音霊場)の御詠歌 の写しが掲げられています。境内にはだるま薬師で知られる薬師如来堂(醫王殿(いおうでん))があるほか、後藤系の彫刻で飾られた鐘楼や、住職である七浦庵(ななうらあん)三斎の句碑などがあります。また、宝永2年(1705)に住職宥寛が記した「沼蓮寺薬師如来縁起」が伝来しています。

(1)孝子渡辺仁右衛門碑

「安房孝子伝」によると、家が貧しく学業の機会に恵まれなかったが、両親には孝行を尽くし、亡き後も墓前に語りかけていた。耳にした領主の会津藩主松平肥後守は、安政3年(1856)に米5俵を与え賞した。この美徳を後世の鑑(かがみ)とするため、明治36年(1903)に南三原村沼区の有志が発起人となって建てた碑。

(2)薬師堂

だるま薬師の由来

昭和61年の寅年開帳に多数の参詣者が来山した際、開運の縁起物として薬師の分身であるダルマを授けた。”だるま”とは「仏教の教え」という意味である。毎年1月7・8日が大縁日だが、開帳は60年毎の丙寅(かのえとら)の年。

俳句額と御詠歌額

俳句奉納額は文字が判読できないが、25句あり、当地で奉納句会が盛んだったことがわかる。円形の御詠歌額は「あわれんで つねにわれらを すくはんと るりののりなみ かいくるぞなし」とあり、本寺円蔵院の住職だった鈴木明道(みょうどう)が、明治33年(1900)に書いたもの。

(3)鐘楼再建紀念碑

明治17年(1884)の台風により鐘楼が倒れ、10余年雨露に晒(さら)されていたが、第17世渡邉宥憲が檀徒に謀{はか}り、芳志者を募って明治28年(1895)に鐘楼堂を再建したとある。また、寄付者、石工、彫工(後藤義信)、左官、檀徒総代、区長など約180名の名前と地区名が記されている。文は智積院第44世の佐伯(さえき)隆基。

(4)七浦庵三斎の句碑

「満たるや 月には 山のよい程に」 天保12年(1841)に七浦庵三斎(当寺第14世道瑜)の三回忌に、俳句連の小戸連・沼連・岩糸連・丸作連・三原連が建立。三斎は朝夷郡川戸村(現南房総市千倉町)の出身で、俳句では川合村(同町)地蔵院第11世孝順良戒(俳号:昨露也草(さくろやそう))の門人。天保10年(1839)の没後、翌11年に俳句仲間の尾崎鳥周・石井平雄・井上宇明らにより、浜波太(なぶと)村(現鴨川市)山ノ堂にも句碑が建立されている。

(5)手水鉢(ちょうずばち)

昭和8年(1933)、小幡与一(屋号治左衛門)の母はまが先祖供養のため奉納。与一は同地区の八幡神社の鳥居も奉納している。小幡家は遡(さかのぼ)って明治4年(1871)に、清澄寺第13世法印宥性が安房国の地蔵尊を巡行した際、一宿の接待をしているという。

(6)鐘楼の梵鐘楼

鐘楼

宝永4年(1707)の鐘があったが、第二次世界大戦の際に供出したため、第20世芳忍の時、昭和61年に佐生幸高・洋子夫妻により奉納された。銘文に奉納の由来、般若心経と、梵鐘で著名な「高岡市 鋳物師(いもじ) 老子(おいご)次右衛門」の銘が記されている。

天井絵

明治28年(1895)の再建の際に檀徒から寄付された。24面の格天井(ごうてんじょう)には、花鳥の絵と寄付者の名前が描かれている。

彫刻

鐘楼四方の彫刻は明治28年再建時の奉納。奉納者は渡邉宥憲住職の筆弟子たちで、発起人のひとりは小幡与一。彫工は国分(館山市)の後藤義信。東面には龍、南面には牡丹、西面には松に鶴、北面には鷹に小鳥が刻まれ、木鼻は獅子である。

(7)光明真言百万遍塔

第17世宥憲が発願(はつがん)人となり建立された。左側面には石工「菊太郎」の銘があり、背面には、明治33年(1900)、雲酔道人の辞世の漢詩と「年を経て 業成す日より 残りけり みはかきりある うき世はかなし」との和歌がある。

(8)屋敷神祠(し)

屋敷神は道祖神や注連縄(しめなわ)等に囲まれた屋敷及びその土地を厳重に守護する神様で、敷地内や境界近くに祀られてた。農耕神、祖先神など、祭神を特定しない多様な神を祀(まつ)った。

(9)奉読誦(どくじゅ)法華経萬部余供養塔

安永9年(1780)に第12世日雅により建立された。追善祈願のため大勢の人々が一万部の法華経を読んだ供養塔である。沼蓮寺の隠居と現住職、周辺の真言宗宝樹院、浄土宗慶崇院、天台宗迎摂(こうしょう)寺、同慈眼(じげん)寺、同安楽寺など、異なる宗派の寺院や32名余りの名前が刻まれている。背面の「上達法身下及六道(じょうたつほっしんげきゅうりくどう)」は、仏様から地獄の亡者まで皆平等という意味である。

(10)陸軍歩兵上等兵 吉野清の墓

羅南(らなん)歩兵76聯隊(れんたい)に入営。昭和7年(1932)の錦州(きんしゅう)攻撃に参加し、錦西北鎮・大遼河・連山・興城等を転戦、砲弾の中を伝令中に被弾、頭部を貫通し戦死した。24歳。功績を認められ上等兵に特進、戦功により攻七級金鵄勲章(きんしくんしょう)・勲八等白色桐葉章(とうようしょう)を賜った。昭和12年建立。文は吉野森治、書は76聯隊長で陸軍少将の戸波辨次。

(11)権大僧都法印宥寛の墓

「沼蓮寺薬師如来縁起」を書いた当寺住職の宥寛が、この世のすべての人たちの幸せを願って様々な修行をしたことが刻まれている。あらゆる陀羅尼経(だらにきょう)(約一万六千巻)を読破し、さらに清水で洗い清めた土砂に護摩(ごま)を焚き、本尊の前で光明真言9800回余りを唱える土砂加持(どしゃかじ)や、六十華厳経全部の書写などの修行を行っている。享保18年(1733)没。63歳。肖像を刻む。

(12)大日如来坐像

頭部は破損し、のちに補修されている。正面に願主として下三原村5名、白渚村の5名の名が刻まれている。享和2年(1802)4月の建立。石工は小野平治右衛門。

(13)歴代住職の墓

判読できるものは、寛文11年(1671)遷化(せんげ)の法印源真の墓が古く、平成元年の第20世芳忍権大僧正までの歴代の墓がある。前列には(9)「法華経萬部余供養塔」を建立した法印日雅、(7)「光明真言百万遍塔」を奉納した法印宥憲、(4)の俳句を詠んだ法印道瑜の墓がある。後列には京都智積院の而率(仕率(しそつ))法印盛範、西京高雄山菩提院御所而率(しそつ)の法印日寛の墓がある。

(14)馬頭観音

文化10年(1813)建立。丸の珠師ヶ谷(しゅしがやつ)と和田浦との往環道に祀られていたものが、道路の整備により現在地へ移動した。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・鈴木以久枝・中屋勝義 2017.4.17 作
監修 館山市立博物館 〒294-0036館山市館山351-2 TEL:0470-23-5212

大山不動と高蔵神社<鴨川>

大山不動尊(大山寺)と高蔵神社の概要

鴨川市平塚1723

大山不動の名で知られる高蔵山大山寺は神亀元年(724)に良弁(ろうべん)僧正が開山したと伝えられる。相模大山不動、成田不動と並ぶ関東三大不動ともいわれ、雨乞いの霊地として地域の人々から厚く信仰されてきた。源頼朝、足利尊氏、里見氏の信仰を受け栄えたが、天正期の戦乱で衰退したため天正14年(1586)に再興。その後享和2年(1802)にも再建された。江戸時代は天台宗聖護院(しょうごいん)(京都市)末の修験寺で、修験道の廃止により明治5年(1872)に真言宗になるも、庶民に浸透した修験道の思想は講となって今も受け継がれている。また、大山寺の別当だった安田家には大山寺の歴史や信仰を伝える資料が「安田文書」(県指定)として残されている。高蔵山山頂にある高蔵神社(石尊(せきそん)様)は大山寺と共に良弁僧正が創建しており、幕末まで大山寺が別当寺だった。源頼朝や足利尊氏が水田を寄進、社殿及び石段を築造したと伝える。天保11年(1840)に正一位石尊大権現高蔵神社と称し、明治6年(1873)に長狭21村(大山・主基・吉尾)の郷社となった。県指定の北風原(ならいはら)の鞨鼓舞(かっこまい)は大山不動に奉納された雨乞祭である。

(1)高蔵神社表参道の鳥居と社号碑

嘉永7年(1854)9月に奈良林村中を願主として寄進された。脚元には建立年と世話人・石工など16名の名がある。鳥居の手前に天保11年(1840)に称を許された「勅(ちょく)正一位多加久良(たかくら)神社」の碑が建っている。

(2)滝本堂跡

かつて存在した修験の寺。安房国札観音巡礼第34番札所の長徳院滝本観音堂としてここにあったが、明治以降荒廃し、昭和30年(1955)に本尊千手観音菩薩立像を大山寺不動堂内に移して廃寺となった。

(3)仁王門

朱色の入母屋造りの山門。関東大震災で倒壊したが後に再建された。震災による被害を受けなかった木造仁王像が祀られている。

(4)表参道石段寄進碑

最上段の左右に天保3年(1832)に奉納した石段に関する石造物の一部基礎がある。途中にも明治25年(1892)に石段275段の修復を記念した一対の碑があり、ともに発起人や寄進者名などが記されている。

(5)手水舎(ちょうずや)

三代後藤義光作とされる木鼻の振向き獅子がつく。奥には役行者(えんのぎょうじゃ)像が安置されており、銘はないが元名村の武田石翁(せきおう)作と伝えれられている。

(6)鐘楼堂

鴨川市指定有形文化財

不動堂よりも古く、江戸時代中期の建築と推定されている。柱の丸い土台に特徴があり、軒の四面にはそれぞれの方向に対応した十二支の動物が彫られている。梵鐘は昭和35年(1960)に新鋳造された。

(7)常夜灯

棹(さお)と火袋には昭和58年とあるが、基壇にはそれよりも古いものが使われている。(10)戦没者碑の前に1基置かれた元の棹から、大山寺38世法印文喬(ぶんきょう)のとき文政2年(1819)に建てられたものであることがわかる。

(8)不動堂

千葉県指定有形文化財

五間四方の堂は享和2年(1802)の再建。宮彫師による装飾彫刻が施された厨子も同時期の再建とされ、中に県指定の木造不動明王坐像と矜羯羅(こんがら)・制?迦(せいたか)の両童子脇侍立像(鎌倉後期)が祀られている。不動堂再建と前後して、鏡天井には龍図と飛天一対(狩野洞水画(かのうどうすいが) 内陣天井画は寛政11年(1803)の同人作)が描かれ、鴨居の上には右から順に絵馬「西王母図」(藤原道貞筆)と「文覚(もんがく)上人霊験図」、句額「奉納俳諧四季之発句(ほっく)」(享和3年(1803))が奉納されている。これらは本尊不動明王と共に修験の寺としての霊験のあらたかさと人々の信仰を今に伝えている。句額は前原町名主の高梨徐来が発願主となり、俳友の尾崎鳥周らにより奉納されたものである。なお堂内には、十王像(元和6年(1620))、安房三十六不動尊巡礼の第36番結願ご詠歌額(大正6年(1917))、恵比寿・大黒天像、聖徳太子孝養像、かつて(2)にあった千手観音菩薩立像(江戸時代)など様々な信仰対象が祀られている。

(9)不動堂向拝(ごはい)彫刻

妻飾(つまかざり)にある雨乞い神事の象徴としての怒涛の波と水柱に雲、さらに二体の龍のほか、木鼻(きばな)、手挟(たばさ)みなどにある彫刻は、武志伊八郎信由(初代伊八)の作。享和の本堂再建時に近郷の53人が寄進した。

(10)西南戦争従軍戦没者碑(従軍戦死十四人碑)

明治10年(1877年)2月に始まった西南戦争に長狭・朝夷の二郡から政府軍に従軍し、うち14名が戦死した事を記した顕彰碑。題字は初代千葉県令柴原和{やわら}。撰文は千葉県警部の藤田九萬。石工は江戸一番の碑銘彫刻師である広群鶴{こうぐんかく}。戦死した14名の名は刻まれていない。

(11)蚕傑竹澤章(さんけつたけざわあきら)の碑

昭和7年(1932)、全国蚕業(さんぎょう)関係官民有志が建立。竹澤章は地元小畑(こばた)の生まれで、明治26年(1893)に上京し『蚕業新報』を刊行。蚕(かいこ)を野外や土室の中で飼う新しい方法を考案した人物。題字は頭山(とうやま)満の揮毫(きごう)。

(12)飯綱権現祠(いづなごんげんし)

厨子(ずし)の中に、白狐に乗った烏天狗の像が祀られている。形態から飯綱権現を勧請(かんじょう)したもので、不動明王を本地(ほんち)にするとされる神である。

(13)神変大菩薩諡号碑(しんぺんだいぼさつしごうひ)

神変大菩薩(しんぺんだいぼさつ)は役行者(えんのぎょうじゃ)(役小角(えんのおづぬ)) の尊称で、光格天皇が寛政11年(1799)の役行者1100年遠忌(おんき)の際に、神変大菩薩の諡(おくりな)をしたことを記念した碑。基礎の正面に獅子、側面には願主の人名・寺院名等が記されている。

(14)宝篋印塔(ほうきょういんとう)

大山寺33世栄乗の母と住職安田家の娘おさんが本願となり、悉地院(しつじいん)18世法印権大僧都宥長が勧化(かんげ)導師となり、延亨4年(1747)に建立した。

(15)大乗妙典書写供養塔および経塚(きょうづか)

大山寺38世法印文喬が文政6年(1823)に建立した法華経書写の供養塔。先師栄充が小石に法華経を書写して埋納するいことを志願し、五老尊師の要請で文喬が引き継いだ。石経を埋めた経塚は高蔵神社社殿前にある。

(16)出羽三山碑

享保11年(1726)に山王院法師良恵が本願となって建立。中央に「月山」右に「湯殿山」左に「羽黒山」とあり、その下に梵字{ぼんじ}で大日如来真言がある。大山の4名と平塚村の2名は三山講の講中である。

(17)石段寄進碑

高蔵神社石段を文政9年(1826)に寄進した碑。平塚村の願主・世話人の名がある。石段親柱には万延元年(1860)の修理願主等の名も刻されている。

(18)大山保存林記念碑

雨乞い祭を継続してきた大山を、公園として保存するため山林が寄付されたことを記念した碑。明治36年(1903)建立。題字は郵便の父前島密(ひそか)。撰文は元 住職で衆議院議員の安田勲、書は辻真茂、石工は村上寅之助。

(19)観音の碑(8基)

石尊様に奉納した観音の碑。「石尊御宝前」と刻された6基の石碑には、天人丈夫尊などの古い天台六観音の名が記されている。他の2基には観音経偈文(げもん)の一部がみられる。平塚村の講中が施主になっている。

(20)富士浅間祠(3基)

右側の浅間碑は、山水(やまみず)講中の一等修行者「来山参行(小原治右衛門)」が、明治32年(1899)に富士登山50度大願成就したのを記念して建てたもの。他に浅間神社(明治11年)・小御嶽(こみたけ)大神(明治期)の祠(ほこら)がある。

(21)高蔵神社および灯籠

雨乞い祈願所として数々の話が残されている神社。大正期には祭典後に雨乞いの鞨鼓舞(かっこまい)が演じられたが、現在は当番区によって獅子舞が演じられている。また社前にある灯籠には荒川村・上の銘があり、近隣広域にわたって信仰の拡がりがあったことが窺われる。

(22)開山良弁(ろうべん)大僧正旧跡碑

文化14年(1817)、37世権大僧都法印栄充による建立。銘には良弁僧正が東国下向(げこう)の折、伊勢原の大山から東方の空にたなびく紫雲を見て、それに導かれるようにして、この平塚の大山にたどりつき、大山寺を霊山として開くことになったという由来が刻されている。

(23)宝篋印塔(ほうきょういんとう)

鴨川市指定文化財

文和2年(1353)造立のほぼ完形の宝篋印塔で、千葉県内では最古の部類に位置付けされる。なお足利尊氏が建てた安房の利生塔は大山寺にあった。

(24)火産霊神碑(ほむすびのかみ)

火伏(ひふせ)の神様であり、伊弉諾命・伊弉冉命の最後の御子神(みこがみ)である。両脇の奥津比古神(おきつひこのかみ)と、奥津比賣神(おきつひめのかみ)は台所・かまどの神様と言われる。

(25)平塚参道不動明王像

平塚地区からの参道に木製の鳥居があり、脇に大山寺不動尊の前不動として不動明王坐像が安置されている。文政3年(1820)、平塚村名主の内木直右衛門が願主となり、平塚地区の人々により造立された。


作成=ミュージアムサポーター「絵図士」
愛沢香苗・青木悦子・青木徳雄・刑部昭一・金久ひろみ・川崎一
佐藤博秋・佐藤靖子・鈴木以久枝・鈴木正・殿岡崇浩・羽山文子・山杉博子
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2(2017年2月作成)

白間津日枝神社<千倉>

日枝神社の概要

(南房総市千倉町白間津335)

延喜元年(901)、京の都から来た岩戸大納言義勝(いわとだいなごんよしかつ)創建による神社で、別当寺の円正寺も開基した。祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)(比叡山の守護神)。また白間津開拓の祖である田仲八軒が故国からこの神を迎えたという伝承もある。江戸時代までは寺を守護する「日枝山王(ひえさんのう)」と呼ばれていたが、明治初期の神仏分離令により「日枝神社」と社名を改称した。社殿は明治20年(1887)に再建された。

(1)社号碑

「村社・日枝神社」とあり昭和6年6月に氏子一同が建立。石工は当区・保田平兵衛門、書は、奥村利愃。以前は国道に面した参道の入り口にあったが、境内拡張時に現在地に移転した。

(2)大鳥居と幟立(のぼりたて)

1.大鳥居
文政5年(1822)4月に建てられた花崗岩製の明神鳥居である。海中安全を願って氏子中により奉納された。

2.幟立
天保4年(1843)建立の幟立。「海中安全 若者中」のほか、村役人の名前や日本橋魚河岸関係の人名、町名(「安針町(あんじんちょう)」「小田原町」「本舟町(ほんふねちょう)」)なども記されている。

(3)拡張記念碑

祭事をするにあたり境内が狭いため、在京有志、区民の賛同により寄付金5百円を集めて水田80坪を購入し、排水の設備も含めて昭和10年に境内を拡張したことを記念した碑。寄金者(23軒)の屋号と氏名、35名の発起人の氏名が記されている。寄付者には「男海士一同」の記載もある。

(4)宮井戸と石宮

1.宮井戸
境内にある井戸は、枯れずの井戸とも言い、境内拡張までは個人の家の敷地内にあった。清水が枯れることなく湧き、過去には地区の飲料水として使用されていた。

2.石宮とアンゴ岩
宮井戸右後方の石宮は荒神(こうじん)様。台座はアンゴ岩といい、屋号「源兵エ」宅の横にあったが、道路拡張の際に一部を切り取りを現在地に移設したもの。

(5)儘(まま)の堰記念碑

大正12年(1923)の関東大震災で水源が枯渇したため、昭和6年(1931)に三田才治(後の千倉町長)らにより、儘地区に堰が作られたことを記念した碑。同じ基壇に畑地の潅水事業記念の碑もある。儘の堰において地鎮祭を行い昭和48年(1973)に完工した。

(6)灯篭

大正12年6月に当区役員と青年会が、地元から汽船で八丈島へ飛魚漁の稼ぎに出た人々の大漁を祝い奉納したもの。

(7)築港記念碑

白間津漁港開港の記念碑。大正7年(1918)6月に起工、大正9年5月に開港した。工事関係者24名の名前が刻まれている。

(8)手水石

奉納は弘化4年(1847)。左側面に江戸安針町の2名、後面に世話人、願主(氏子・海士)、百姓代、組頭、別当寺(円正寺)の住職の名前が記されている。右側面に、江戸安針町の魚問屋鷲(おおとり)屋善四郎他地元船頭の名(5名)があり、当地区には今も同じ屋号の家がある。

(9)石垣と玉垣

9-1 石垣
道路脇の石垣の中に石垣修築の碑がある。大正12年(1923)6月、青年会と天草(てんぐさ)女海士中により奉納された。発起人には青年会役員10名と女世話人2名の名が刻まれている。

9-2 玉垣
社殿右側の玉垣は、1と同じ青年会役員10名により、大正12年6月に奉納された。社殿前の玉垣は大正8年6月、八丈出漁連中(83名)により奉納された。

(10)灯篭

社殿に向かって右は文政5年(1822)4月に「氏子」が奉納。左は文政6年(1823)3月に「蚫(あわび)商人」が奉納。いずれも大正12年6月に当地区の田仲太郎右衛門により修繕されている。

(11)向拝(ごはい)彫刻

明治20年(1887)の社殿再建時に初代後藤義光(73才)が制作。中備(なかぞなえ)には、「親子籠」、虹梁(こうりょう)には「波に千鳥」、向拝(ごはい)柱肘木(ひじき)には「波に鯉」「波に亀」(籠堀(かごほ)り)、木鼻(きばな)には「振向き獅子」、手挟(たばさ)みには「桐に鳳凰」「桐に麒麟」と、吉兆を表す端獣を配している。彫刻裏に義光の銘がある。

(12)社号額

社殿正面の社号額は勝海舟揮毫(きごう)によるもの。「日枝社」「勝海舟安芳(やすよし)」の署名と押印がある。「安芳」は維新後の改名。明治期に当地区を訪れた時揮毫したものと伝わる。

(13)石宮群

社殿左の石宮・灯篭群は、山肌のくぼみに奉安されている。石宮には「田仲太郎右エ門」「昭和元年」、灯篭には「当所氏子中 蚫(あわび)商人中」「寛政7年(1795)」の銘が確認される。

(14)円正寺

岩戸山円正寺は延喜元年(901)岩戸大納言義勝の創建で、本尊は千手観世音菩薩。江戸時代までは日枝神社の別当寺。白間津のオオマチは明治時代までは寺祭りと言われ、今も、寺の前で「寺踊り」が奉納される。

1.大日堂
祀られている大日如来像は、江戸時代に紀州で廻船問屋を営み、財を成した新藤伝右衛門が持ち帰り、白間津の海雲寺裏山の岩屋に祀った。その後、扉が朽ち新藤家の菩提寺である円正寺境内に大日堂を建て移設された。

2.三界萬霊塔
白間津沖合で遭難した人々を、行方不明者も含め慰霊した供養塔。江戸末期から明治初期、船形を中心に内房から魚を求めてやってきて海難にあった人々の名がある。海岸にあった墓石を円正寺の須田隆宣住職(後の円蔵院住職)が、明治20年に円正寺の門前に移動。その際、現在の供養塔という形にした。劣化した台座は平成14年、円正寺・海雲寺と両檀家で新しくした。

「白間津の大祭(オオマチ)」

(平成4年国指定重要無形民俗文化財)

日枝神社の祭神を「来島(くるしま)」(上陸地)より神社までお迎えした時の行列を再現したのが起源とされる。仮宮まで進む「お浜下り」、日天(にってん)、月天(げってん)を象(かたど)った大幟(おおのぼり)(神の依(よ)り代(しろ))で大勢で引く「大網渡(おおなわた)し」(神迎えと豊凶占い)、豊年万作(雨乞い他)祈願と収穫の喜びを祝う「ササラ踊り」は祭りの中心要素である。ササラ踊りは「擦(す)り簓(ささら)」を操(あやつ)り踊るもので、上方(かみがた)から伝わる田楽(でんがく)踊り、念仏踊りなどの流れを汲んでいる。大祭の中心となる日天・月天(二人の少年)は、50日間の禊(みそ)ぎ(別名 ジョゴリ)をした後、神として迎えられ、ササラ踊りの先導や仮宮に集合した神々との間の「仲立(なかだち)」役を果たしている。

(大祭は4年毎、7月下旬開催)


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木徳雄・川崎一・佐藤博秋・佐藤靖子・殿岡崇浩・羽山文子・中屋勝義・山杉博子
監修 館山市立博物館 〒294-0036館山市館山351-2 TEL:0470-23-5212

天神社・神照寺<富山>

天神社と神照寺の概要

天神社は南房総市平久里中(へぐりなか)にあり、菅原道真(すがわらのみちざね)を祭神とする。現在は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)(浅間神社)、天照大日孁命(あまてらすおおひるめのみこと)(神明神社)、建御名方神(たけみなかたのかみ)(諏訪神社)を合せ祀(まつ)る。南北朝時代の文和(ぶんな)2年(1353)に室町幕府執事の細川相模守清氏が京都北野天神をこの地に勧請して平群(へぐり)9か村の鎮守とし、信仰を集めてきた。里見氏は慶長11年(1606)に高7石の地を与え、徳川家も同様に安堵した。天正14年(1586)に里見義頼は、岡本但馬守実元(さねもと)を大檀那として天神社の再築を命じている。さらに文化5年(1808)には、神照寺の別当(べっとう)宥弘により再建された。社宝として「平久里天神縁起絵巻」3巻がある。南北朝期から室町時代初期の作品は珍しく、県指定文化財。また、10月の祭礼には余興として打ち上げ花火がある。宝暦2年(1752)に下総国の新助が諸国巡礼の際に覚えた花火の秘法を教えたと云うもので、以後地元の人達の研修・研鑽の成果が打ち上げ花火となり、神社祭礼の夜空を彩る。戦争や戦後の法規制で中止をした事もあるが、昭和48年(1973)に花火保存会が発足して再開し、昭和52年(1977)に県の記録選択無形民俗文化財に選択された。拝殿の回廊には筒が展示されている。神照寺(しんしょうじ)は、天神社を別当寺として管理した修験(しゅげん)寺で、明治新政府の神仏分離令により修験の寺が廃されたため、現在は残された観音堂が泉竜寺の管理である。この観音堂は、天神社が勧請されたときに本地仏(ほんじぶつ)として十一面観音が祀られ、安房国札観音霊場34か所の第14番札所として参詣人を迎えている。

(1)夫婦くすの木

昭和39年(1964)年指定の南房総市天然記念物で、約千年前に住民が植えたものと言い伝えられる。手前のものは幹周4.35m、樹高15m、神社寄りのものは幹周4.25m、樹高25m、両者を合せて「夫婦クスノキ」と呼ぶ。手前を「女木」、神社寄りを「男木」といい、御神木(ごしんぼく)となっている。天狗伝説がある。

(2)伊勢参拝記念銘板 

参道右側の石垣に埋め込まれた昭和8年の伊勢参り記念の小さな銘板がある。伊勢神宮は外宮(げくう)の祭神が農業の守護神と崇められていたので昔から信仰も厚くこの参詣が無事成就できたことを記念したもの。社殿前の階段の上には明治29年(1896)年の参拝記念に敷石を寄付した記念碑もある。

(3)狛犬 

この狛犬は武田石翁(せきおう)作といわれている。弘化2年(1845)、神照寺の住職宥弘の時に氏子の寄進によって建立された。

(4)手水鉢 

梅鉢(うめばち)紋を刻んだ手水鉢(ちょうずばち)は寛政2年(1790)のもの。願主は江戸湯島の上総屋吉田与兵衛と南八町堀の竹屋儀兵衛である。

(5)里謡の碑 

「赤い布かけ さんまのひもの 平久里天神郷で釜こする」赤い襷(たすき)の若い女たちが祭の馳走を準備する様子で、秋刀魚(さんま)を焼き、飯炊きの釜を洗うという活気ある情景が謡われている。

(6)渡辺高俊先生の碑

明治38年(1905)平久里中に生まれた獣医師。昭和4年(1929)、同志と共に、農業の科学的技術の習得を目的に安房科学農業研究所を創設し、乳牛の繁殖障害の治療や妊否診断等の技術を研究。牛の直腸検査を酪農に不可欠な技術と確信し、繁殖生理学を学んで技術を習得、早期妊娠診断法を確立し、さらに「二本立て飼料給与法」を提唱した。平成6年没、89歳。平成17年に安房酪農青年研究会の山口仁らが賛同者を集め碑を建設した。

(7)加藤淳造先生碑

加藤淳造は、祖父加藤霞石(かせき)(幕末の漢詩人、書家)から三代続いた名家名医で知られる。淳造は千葉医学校の助教授となるも、立憲政治の創始に際して自由民権を主張し、板垣退助、大井憲太郎、新井省吾と共に関東自由党を創立、万人苦悩の病原を治すため国会議員となり民衆的政治家として活躍した。大正13年没、80歳。その功績を讃えた碑で、題字は立憲政友会総裁の田中義一、撰文と書は東京毎日新聞編集長の座間(ざま)止水(しすい)。大正15年建立。

(8)日露戦捷(せんしょう)記念碑 

明治37-38年(1904-05)の日露戦争の戦勝を記念した平群村の記念碑。表面中央の「日露戰捷記念碑」は海軍大将東郷平八郎の書。裏面に平群村からの従軍者として、戦病死者・兵役免除者・戦役生存者・海軍給仕(きゅうじ)・日赤救護班の名が刻まれている。明治40年(1907)、平群村恤兵会(じゅつぺいかい)が建立。石工は吉田亀石

(9)神輿新調寄付碑 

明治30年(1897)に神輿(みこし)が新調された際の記念碑である。吉沢区管設土木請負職今村正次が百円と永代お神酒料30円、平久里中区の樋田百藏が百円寄付している。なお、神池のほとりに、昭和48年10月に修理した際の記念碑があり、代表役員と責任役員の名や寄付者の名前・金額等が刻まれている。

(10)祈(いのる)征(せい)清軍(しんぐん)全捷(ぜんしょう)大祓詞(おおはらえのことば)三万遍紀念碑 

日清戦争の勝利を願って祝詞(のりと)を三万回唱えた記念に建立された。平群村講社中が行ったもので、発起人12名と山田区・荒川区・平久里中区・平久里下区・吉沢区の賛助人の人数が記されている。明治28年(1895)の建立。

(11)石灯篭

正面に「奉納」、背面に奉納した嘉永5年(1852)5月の年号がある。願主は荒川村の坂田屋長兵衛である。

(12)天神社拝殿・本殿

拝殿(はいでん)と本殿の間に幣殿(へいでん)を設けた造りである。規模は、拝殿の平入正面7.4m、幣殿・本殿と続く奥行きは16.2m程の立派な社殿である。拝殿の屋根は入母屋(いりもや)で、蕪懸魚(かぶらけぎょ)や梅鉢(うめばち)のついた蟇股(かえるまた)が見られ、腰には切目縁(きりめえん)の回廊(かいろう)が回っている。本殿は一段高い位置に設けられ、周囲には擬宝珠(ぎぼし)高欄が回り、梅鉢(うめばち)意匠の脇障子(わきしょうじ)がある。屋根は切妻(きりづま)形式で、屋根破風(はふ)には大きな三ツ花懸魚(けぎょ)が飾られている。

(13)大乗妙典塔 

紀元前後頃にインドに起った改革派の仏教である北伝仏教を大乗仏教といい、その経典である法華経8軸を書写して納めた塔。神照寺住職と思われる■隆によって慶応元年(1865)に建てられた。

(14)東京鎮台(ちんだい)(西南戦争忠魂碑) 

明治10年(1877)の西南の役のとき、平群地区より東京鎮台に所属し、九州へ出兵して戦死した5名の忠魂碑である。鎮台は明治前期の陸軍の軍団で、明治4年(1871)には4鎮台あったが、明治6年の徴兵令(ちょうへいれい)施行後は東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本の6鎮台となった。この碑は明治14年に建てられた。

(15)小藤田善蔵之墓

明治30年(1897)、台湾の宜蘭(いーらん)において土着の匪賊(ひぞく)討伐の際に戦死した、台湾守備歩兵一等卒小藤田善蔵の墓。明治31年に建てられた。日清戦争の結果台湾で日本の植民地支配が始まり、この当時は武力抗日運動が続いていた。

(16)アイデアル号之碑

種牡牛(おうし)であるアイデアル号は、大正2年(1913)、オランダから嶺岡種畜場に輸入された名牛で、大正12年までの繁殖により550余頭を生産した。大正13年に老境に達した理由で平群村有志のもとに払下げとなり、大正14年老衰で斃(たお)れた。15才。房州乳牛改良の基礎を築き酪農業の将来をひらいた名牛を永く顕彰した記念碑である。

(17)光明真言供養塔 

天保14年(1843)に神照寺の住職宥弘が、天下泰平・国土安穏と五穀成就・万民豊楽を願って立てたものが最大で、石工は平久里中村の金蔵。向いにも大日如来像を配した光明真言供養塔があり、安政3(1856)に光明真言を百万遍唱えた際のもの。その裏側にも寛政4年(1792)の自然石の光明真言供養塔がある。

(18)神照寺手水鉢 

神照寺前に蓮の花をあしらった手水鉢(ちょうずばち)がある。元禄12年(1699)に平久里下村の原新左衛門が寄進したものと思われる。安房では誕生寺・館山神社に次ぐ古い手水鉢である。

(19)神照寺観音堂

神照寺は天神社と同じ境内地にあり、十一面観音を本尊とする観音堂一宇のみが残る。この堂は正面・奥行とも5.8mの規模ながら重厚な造りの堂である。屋根は銅版葺きの入母屋造りで、正面に唐破風(からはふ)造りの向拝(ごはい)を設けている。向拝の角柱上部には象や獅子を意匠した木鼻(きばな)がある。堂の周囲には切目縁の回廊が回り、屋根棟や向拝の唐破風には、真言宗智山派の桔梗(ききょう)紋が付けられている。

(20)伊予ヶ岳

標高336.6m。富山(とみさん)・御殿山と共に富山(とみやま)三山の一つで、南房総の名山である。山名の由来は阿波忌部(いんべ)氏のふるさとである四国の最高峰石鎚山(いしづちやま)(伊予の大岳)で、頂上の小平坦地に少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀る石祠が安置されていた(現在不明)。県立自然公園の指定を受け、割れた岩峰からの眺望はすばらしい。頂上近くには、雨乞の清龍(せいりゅう)権現(ごんげん)が祀られ、今は原形を留めていないが中腹には頼朝ゆかりの鳩穴があった。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」 御子神康夫・吉野貞子・鈴木以久枝・金久ひろみ・川崎 一>
監修 館山市立博物館  〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

山名熊野神社<三芳>

山名熊野神社の概要

 明治22年(1889)、市制・町村制の施行により隣接する池ノ内・中・御庄(みしょう)・山名(い・な・み・や)が合併して「安房郡稲都(いなみや)村」となった。この稲都地域は古くから、「平郡の除戸郷の分域」や「熊野の群房庄」の言葉が残されている歴史ある土地柄である。山名の熊野神社(祭神伊邪那岐命(いざなぎのみこと))はこの村の東端にある山名嵯峨志(さがし)の中央台地に祀られている。明治16年(1883)の『山名誌』によると、当社は当初安房水上神社と称されていたが安房と冠するのは安房神社だけであるとの抗議があって水上神社に改めたと伝えられている。この神社は文亀2年(1502)に熊野本宮大社より勧請されたものだが、勧請(かんじょう)(創建)に至る経過の詳細は明らかではない。稲都村も昭和28年(1953)には隣接する滝田村、国府村と合併し「三芳村」と改称する。山名熊野神社が祀られる経過は不明だが、稲都地区には「熊野群房」という言葉が残されているように、この地には新{いま}熊野神社の社領「群房庄」が存在していた。
熊野三山(本宮(ほんぐう)大社、速玉(はやたま)大社、那智(なち)大社)への信仰は、熊野先達(せんだつ)の盛んな活動もあって中世に全国へ広がり、各地に熊野神社が勧請された。三芳村には4社、安房郡では37社を数え、この地域においても多くの熊野神社が創建されている。なお、三芳村は平成の大合併により近隣7町村と合併し南房総市となり、神社の所在地は南房総市山名667番地となる。

(1)熊野参宮記念碑

 熊野本宮へ参宮したと思われる記念碑で、この地区の人々の代参があった。右の石柱には「昭和九年(1934)五月二十八日」と刻まれている。

(2)両部(りょうぶ)鳥居跡

参道を登りつめた所が二の鳥居の跡で礎石が残っている。老朽化して倒壊したもので、現在は社殿の脇に笠木が残されている。規模は小さいものの鳥居の形式は両部鳥居である。
両部鳥居とは、本体の鳥居の柱を支える形で稚児(ちご)柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある鳥居。名称にある両部とは密教の金胎(こんたい)両部(金剛界・胎蔵界)をいい、神仏習合を示す名残りである。

(3)めがね橋

 参道を登りつめた先に、下の農道と立体交差する石橋がある。明治期の作と思われ、切り出した石材を巧みに組み合わせ、お互いに支えあって出来ている一眼のめがね橋である。石は山名の寺山石(智蔵寺の裏山)を使用しているという。山名地区にはこのような橋が以前は数か所あったというが河川改修で取り壊され、現在残っているのはこの橋と智光寺付近の山名川、飯出(いいで)の奥の3か所となった。当時の石工の巧みな技術がしのばれ、保存し後世に残したいものである。

(4)石灯籠一対

 境内には二対の石灯籠があるが、そのうち一対には「御神燈」と刻まれている。

(5)出羽三山碑

 羽黒山・月山・湯殿山(山形県)の参拝を記念した碑で、台座には安田楳吉(うめきち)以下13人の名がある。昭和21年(1946)8月19日の建立。

(6)手水石

 この手水石には「嗽水{そすい}」と刻まれている。手水石の形は長方形状の丸みのある自然石を瓢箪の形にくりぬいて作ってあり、その周囲には瓢箪の葉の模様が刻まれている。嗽とは「口をすすぐ」の意。嵯峨志の有志が明治15年(1882)に奉納したものである。

(7)田原次郎作の碑

 西南戦争に出征した故人を悼み建てた碑である。田原次郎作は明治10年(1877)の西南戦争に東京鎮台陸軍兵として参加し、同年10月4日、コレラにより京都の陸軍避病院で死去した。山名村の出身で、享年23歳であった。

(8)出羽三山碑

 出羽三山に明治23年(1890)4月、14名が参拝した記念碑である。

(9)慰忠魂碑

 憲兵曹長であった小柴善次郎は台湾で明治31年(1898)に亡くなり、陸軍二等卒であった海瀬松蔵は佐倉で明治19年に亡くなった。この二人を祀った碑は明治32年秋に建てられた。高さ2.65m。

(10)狛犬

 左右の狛犬は元治元年(1864)に地元嵯峨志の若者中が奉納したものである。

(11)忠魂碑

 明治から昭和にかけての戦中に亡くなった5人を祀った碑である。田中太一は日露戦争中に清国海域で明治37年(1904)に、古宮友次郎は満州事変・支那事変に従軍し昭和15年(1940)に、蓑浦茂は満州国奉天で昭和11年に、田中良太は支那事変中の南京で昭和13年に、渡邊正は支那事変に従軍し北支で昭和16年に亡くなった。その中で田中太一は武功抜群の功を上げ金鵄(きんし)勲章を授けられている。建立した者の名はない。

(12)出羽三山碑

 明治42年(1909)、出羽三山に参拝した記念碑で、君塚武兵衛以下14名の名がある。他に3つの山の名「黄金山(宮城県)・恐山(青森県)・岩木山(青森県)」があるのは、その時同時に参拝したものと思われる。

(13)出雲大社参宮記念碑

 出雲大社に大正6年(1917)に鈴木近五郎以下11名が参宮したことを記念して、大正8年に建てられたもので、文字は安房神社宮司の菅(すが)貞男(さだお)が書したものである

(14)社殿

 社殿の天井は「格天井」で、作者は不明だが80枚の絵が描かれ、絵にはそれぞれ奉納者の名がある。その他、社殿内には「寿山」などにより描かれた多くの絵馬が奉納されている。正面中央に寛政8年(1796)奉納の熊野大権現の「神名額」、正面右上には「小柴先生追想記念額」がある。小柴先生は大正15年(1926)に亡くなり、昭和2年(1927)に安房尚武会稲都支部の人達と賛同者・門人などによって奉納された。名は太郎吉といい、宮内庁で剣道を指南していたという。剣号は月剣といい、2002年にノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊氏の祖父にあたる。向拝の龍は初代後藤義光の門人の後藤次郎治光作で、明治29年(1896)に嵯峨志の若者中が奉納した。彫刻料の寄付人は蓑浦五右衛門夫妻。

(15)鎮守の杜

 熊野神社は樹林が繁茂し、神社の杜として荘厳である。本殿裏には樹高25m、胸高周囲395cmの杉の巨木があり、御神木となっている。境内には多くの植物があり、2007年の調査で148種を数える。境内登り口付近にはホウライシダ、社殿前ではイワニガナやホドイモが見られ、林床にはツルコウジが目立つ。その他ホルトノキ、スダジイ、タブノキ、クロガネモチ、クスノキ、シラカシの巨木などが多く残されている。


<作成:ミュージアムサポーター「絵図士」 川崎 一・御子神康夫・吉村威紀>
監修 館山市立博物館

吉保八幡神社<鴨川>

吉保(きっぽ)八幡神社の概要

 鴨川市仲253にあり、主祭神の誉田別尊(ほんだわけのみこと)、素戔命鳴尊(すさのおのみこと)、天忍日命(あめのおしひのみこと)が祀られている。天長6年(829)に吉保郷の鎮守として宇佐八幡を勧請し、文安年間(1444~1448)に里見氏の家臣緒形茂次が祈願所として再建したと伝えられる。現在の本殿は、流造(ながれづくり)で天明年間(1781~1789)に造営された。例祭は、毎年9月の最終日曜日に千葉県無形民俗文化財指定の吉保八幡神社の流鏑馬(やぶさめ)神事が行われる。また、周辺には明治天皇の大嘗祭(おおにえのまつり)の際の斎田跡や、中世から権力者の庇護を受け軍馬が育成されたという峯岡があり、中央と深いつながりを持つ土地柄でもある。明治6年(1873)に郷社に列せられた。

(1)社号碑

 白御影石で作られた縦2m6cm、基壇から4mの四角柱。表面の「吉保八幡神社」は、元陸軍大将で明治神宮宮司の一戸(いちのへ)兵衛の書。昭和6年(1931)建立。基壇裏は伊勢神宮参拝記念碑になっている。

(2)鳥居

 平成14年(2002)9月16日に再建された高さ約5m、幅4mの朱塗りの両部鳥居である。

(3)手洗石

 舟形の手洗石は、正面に奉納、裏面に明治12年(1879)12月23日の年号と下段に仲・宮山・大川面三村の世話人の名があり、立会人として四宮浪江の名が刻まれている。

(4)常夜灯

 本殿正面の常夜灯は新しく平成20年(2008)12月に奉納された。右に宮司・氏子・総代・四区区長、石工の加藤勇次、左に仲区氏子と記されている。

(5)井戸

 流鏑馬神事で騎乗する禰宜(ねぎ)が、7日間のお籠(こも)りの間、身を清める井戸である。神事当日は、諸役、神社総代役員も禊(みそぎ)を行い、仲集落の禰宜精進潔斎所まで禰宜を迎えに行く。

(6)狛犬

昭和15年(1940)に大山・吉尾・主基(すき)村の出征兵士家族・氏子により、兵士の健康と武運長久を祈り寄進された。

(7)本殿・拝殿

神池の中の島中央にある本殿には、三間流造の向拝(ごはい)欄間があり、初代伊八の作とされる龍、麒麟(通常は拝観できない)がある。拝殿には、二代後藤義政の義弟後藤義道作の虹梁の波と龍、木鼻の獅子などがある。虹梁の波と龍は大正元年(1912)に君津郡天神山村鈴木芳兵衛、木鼻の獅子は君津郡湊町の鈴木栄好が寄付した。

(8)神池・水分(みまくり)神

 神池は湧水が出ており枯れたことがないと伝えられる。八幡神社になった時代に放生会の神事に使うために作られたと伝わる。神池の石祠は水分神を祀り、今も雨乞神事が行われる。

(9)三峯神社

 昭和6年(1931)に4名代参、昭和57年に全講員が三峯神社(埼玉県)に参拝した記念碑と、明治36年(1903)の遷宮記念碑がある。手洗石は宝暦7年(1757)に吉保氏子中が寄進したもの。

(10)庚申塔

 青面金剛(しょうめんこんごう)は庚申講の本尊とされる。庚申の夜、体内から三尸(さんし)の虫が上帝に悪行を告げ寿命が縮むと信じられたため、講仲間と眠らずに食事や酒を飲んで夜を明かした。文化8年(1811)のもの。

(11)日清日露戦役記念碑

明治44年(1911)に吉尾村尚兵会が建立した吉保村出身出征者の碑である。明治27・28年(1894・1895)の日清戦争出征者7名と、明治37・38年(1904・1905)の日露戦争出征者40名、戦死者・戦病死者各1名が記されている。

(12)御嶽(おんたけ)神社碑

 台座左側面に年号と名前があるが、摩耗している部分があってすべてを読み取ることはできない。石工は坂田小三郎。明治21年(1888)に建立された。

(13)御神木

 樹齢100年以上といわれる枝張りのみごとなクスノキである。

(14)蝗(いなご)神

 寛延3年(1750)に仲・宮山・大川面村の村人により建てられた。蝗害を防ぎ、その供養や五穀豊穣を祈るための碑と思われる。

(15)伊勢神宮参拝記念碑

 昭和56年(1981)1月25日伊勢神宮(三重県)に参拝した19名の名が記されている。

(16)御大礼紀念碑

 平成2年(1990)11月に行われた大嘗祭に国をあげて奉祝の意が示された際、当地でも奉祝行事が執り行われ、境内地の整備等の事業が計画・起工された記念碑である。

(17)紀念松の碑

 明治20年(1887)4月の伊勢神宮参拝記念樹の碑だが、松の木は現存しない。参拝者11名の名が記されている。

(18)旧常夜灯

本殿右脇奥に「願主吉田検校、世話人氏子相(そう)若者中、石工仲村長蔵」と彫られた年代のない一対の常夜灯がある。また、その脇に正面に「奉納・御神灯」、裏面に文化11年(1814)甲戌2月吉日とある2本の塔身が倒されている。

(19)山口志道碑

山口志道(号:杉庵(さいあん))は、明和2年(1765)長狭郡寺門村(現鴨川市)で生まれた。国学(古典や古代の思想や文化)を学び、晩年は仁孝天皇の侍講をつとめ、京都で78歳の生涯を終えた。碑は宮亀年(きねん)の彫刻で明治28年(1895)に建立、隷額(れいがく)は伯爵東久世通禧(みちとみ)が揮毫し、賛は江戸後期の公家岩倉具集(ともあい)が記した。右手に梅の枝を持った直衣(のうし)姿の志道の肖像は、光格天皇から賜った梅の枝に由来する。志道は、鴨川出身の歌人古泉千樫(ちかし)にも影響を与えたといわれている。

(20)神馬舎

 やぶさめに騎乗する神馬は、「馬揃い」で集まった候補馬から占いによって選ばれる。

流鏑馬(やぶさめ)神事

 吉保八幡神社の流鏑馬は、鎌倉時代から行われたと伝えられる。米の作柄の豊凶を占い、同時に五穀豊穣を祈願する農耕神事である。神社前の馬場の全長は120間(216m)で、禰宜(ねぎ)が疾走する馬上から早稲(わせ)、なかて、晩稲(おくて)を意味する的に3回矢を放つ。的の当たり具合により翌年の稲作の適種を占う。現在は、仲・大川面・宮山・八丁地区の氏子による「長狭流鏑馬保存会」が流鏑馬神事の保存・継承に努めている。


<作成:ミュージアムサポーター「絵図士」 青木悦子・佐藤博秋・佐藤靖子・鈴木以久枝・中屋勝義>
監修 館山市立博物館

鏡忍寺<鴨川>

鏡忍寺の概要(鴨川市広場1413)

小松原山鏡忍寺(こまつばらきょうにんじ)といい、日蓮(にちれん)宗で本尊は大曼荼羅(まんだら)。日蓮聖人(にちれんしょうにん)の四大法難のひとつ「小松原法難(こまつばらほうなん)」の霊場です。 文永元年(1264)、この小松原の地で地頭東条景信(とうじょうかげのぶ)に襲撃され、弟子の鏡忍坊日暁(きょうにんぼうにちぎょう)と信者の天津(あまつ)城主工藤吉隆(くどうよしたか)が亡くなり、日蓮聖人も傷を負いました。聖人は法難17年後の弘安4年(1281)、二人の菩提を弔うため日隆(にちりゅう)上人(工藤吉隆の遺子)に命じてこの地に妙隆山鏡忍寺を建立し、日蓮聖人を開山として創建されました。また、飛び地境内として上人(しょうにん)塚(づか)があります。昭和になって、40世日長により整備がされました。千葉県指定文化財「富木殿御書」や鴨川市指定文化財の「降神槙」を始め打墨(うっつみ)(鴨川市)出身の彫刻師「波の伊八」の彫刻や、向唐門・木造釈迦如来坐像等があります。また、墓地には明治新藩花房藩西尾家の家臣の墓や、仁右衛門島当主平野仁右衛門家の墓、明治期の実業家で東条(鴨川市)出身の久保扶桑の墓などがあります。

(1)寺号碑

交差点題目塔 昭和8年(1933)12月道路改修の際、40世日長(にっちょう)が世の中の平穏無事、全ての人の幸せを願って建立した題目塔。

(2)報恩塔・題目塔

2-1 法難六百五十年碑 東京小松原年澄会が寄進した。

2-2 七百遠忌塔 昭和56年、42世日闡(にっせん)の代一向題目衆建立。

2-3 六百五十遠忌塔 東条村野村敏子の寄進。建立時期不明。

2-4 五百遠忌塔 安永9年、27世日源(にちげん)の建立。

2-5 五百五十遠忌塔 文政5年、29世日晃(にっこう)の建立。

2-6 六百遠忌塔 明治29年、34世日道(にちどう)の建立。

(3)小松原法難霊蹟碑

「小松原法難霊蹟」の文字を刻んだ法難碑は、日蓮聖人生誕700年を記念して、東京墨田区本所界隈の人達が中心となる東京竪川御旗講(たてかわみはたこう)が、明治38年(1963)に建立。36世日讃(にっさん)が揮毫(きごう)。

(4)総門・仁王門

総門(山門)は三間三戸(さんげんさんこ)様式の棟造(むねづく)り門。仁王(におう)門は十界曼荼羅を祀る2階部分を持ち、瓦屋根の下に長く飛び出た垂木、尾垂木(おたるき)等を持つ三間一戸様式の門。仁王像は昭和の名横綱双葉山(ふたばやま)をモデルにした金剛力士像で、竣工時には当人が潜(くぐ)り初めをした。両門及び石灯篭は、40世日長が手掛け、昭和17年(1942)竣工。

(5)手洗鉢 

文化元年(1804)、28世日辧(にちべん)の代に奉納された。10数人が1分から2朱を寄付している。中には女性の名前も見られる。

(6)日清・日露戦争記念碑、忠死者霊墓(東条村) 

6-1 日清戦争の従軍者、予備役等25名の名が記されている。 6-2 日露戦争の従軍者、予備役等97名の名が記されている。 いずれも、安房郡東条村恤兵会(じゅつぺいかい)が明治30年と40年に建立。 6-3 忠死者霊墓には、日清・日露戦争、日支事変、大東亜戦争の戦死者133名の名が記されている。恤兵会と遺族会が建立。

(7)降神槙(こうじんのまき)  昭和51年 (1976)鴨川市指定文化財

日蓮聖人の一行が法難の際、樹上に鬼子母神(きしもじん)が現れ、あやうく難をのがれたと伝えられる槙。品格のある枝のしだれる樹形をした銘木。推定千年から千三百年といわれる。

(8)三尊・四祖の墓

8-1 三尊は開祖の日蓮聖人・二祖の鏡忍坊日暁(にちぎょう)上人・三祖の妙隆院日玉(みょうりゅういんにちぎょく)上人(工藤吉隆)のこと。聖人は鏡忍坊をこの地に葬り、小松を植えて墓標とし菩提を弔ったのが祖師堂前にある現在の塚。17世日普(にちふ)の時、日蓮・日玉の碑と共に整備。

8-2 当寺創建の四祖日隆は工藤吉隆の遺子で墓は降神槙の後。

(9)祖師堂

弘安4年(1281)日隆上人の創立。明和2年(1765)再建中に、地震におそわれ崩壊。明和6年(1769)8月の大嵐でも大破したが、明和9年(1772)に完成した。その再建費用捻出のため、明和8年(1771)に浅草本法寺(ほんぽうじ)において出開帳を行う。現在の建物は平成19年に再建された。外陣欄間を飾る彫刻と外面蟇股(かえるまた)は旧祖師堂(そしどう)のもので初代「波の伊八」武志伊八郎信由(たけしいはちろうのぶよし)の作。

(10)祖師堂大営繕碑

明治45年(1912)36世日讃の代に、大修理が行われた記念碑。有志・商人(飲食店・小間物・金物・桶屋・植木)による寄付の様子が記録され、市場商人によって建てられた。

(11)法難堂

聖人は亡くなった鏡忍坊の墓標としてその場所に松を植えた。松は明治35年(1902)の台風で倒れたので、その木で聖人の像を刻み、法難の場所に建てられた堂に祀った。堂は平成23年に法難750年記念報恩のため改築。全国からの写経を納めている。

(12)鬼子母神堂

法華経信徒を擁護すると言われる鬼子母神を祀るお堂は、江戸時代末期の建立と云われる。向拝には龍などの彫刻があり、5代目伊八の「高石信月(いぶつき)」の銘がある。

(13)清正公(せいしょうこう)堂

加藤清正像を祀る清正公堂は江戸時代末期の建築。法華経に帰依した清正は、慈悲と武勇の将、治国の名君とされ、常人とは違う能力を持つ人とされることから、所願成就の神として清正信仰が広がり、日蓮宗寺院には清正像が置かれている。

(14)仏殿(本堂)・庫裏

仏殿と客殿は江戸時代の末期から明治初期、庫裏(くり)は昭和17年(1942)の建築と云われる。仏殿には「2代目伊八」高石信常(のぶつね)の作と云われる欄間彫刻がある。なお、明治維新時に花房(はなぶさ)藩知事、西尾隠岐守(にしおおきのかみ)が客殿を宿所として使用したという。

(15)三十番神(さんじゅうばんしん)堂

三十番神は1ヶ月30日の間、毎日交代で法華経の信者を守護する神様とされる。堂は昭和の初めに建てられた。

(16)歌碑・句碑

「雉(きじ)鳴くや背丈にそろふ小松原」という正岡子規の句碑の他に当地を訪れた人、当地出身者など6つの歌碑・句碑がある。

(17)唐門(からもん)  昭和53年 (1978)鴨川市指定文化財

江戸時代初期から中期頃建立され、茅葺(かやぶき)の切妻造り・唐破風(はふ)を持つ向唐門という形式の門。この向唐門を朱雀門ともいう。

(18)甲斐塚

里見安房守(あわのかみ)の家臣で上総国(かずさのくに)に八千石を領した鈴木甲斐守重興(かいのかみしげおき)の墓。法諱は日鈴(にちれい)。享保3年(1718)に子孫鈴木左衛門重邦が建立。

(19)上人(しょうにん)塚

西町字(あざ)上人塚にある。日蓮は、工藤吉隆の死を悼み日玉の法号をおくり、この地に葬ったと伝えられる。明和5年(1768)に23世日長が塚の上に碑を建てた。道路拡張により昔の約三分の一の大きさになっている。


<作成:ミュージアムサポーター「絵図士」 青木悦子・金久ひろみ・川崎一・佐藤博秋・佐藤靖子・鈴木以久枝・鈴木正>
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