新しい神々の出現

 縄文時代は、男女の性差や生業や「いのり」、「まつり」を介して明確にわかれ、宗教が社会生活を支える重要な役割を果てしていた。

 ところが農耕社会にはいると、家族の自立にはじまる人びととの間の支配・被支配の関係が芽生えだし、弥生人の精神生活に強く「政治」が反映されてくる。

  埋甕(うめがめ)

 埋甕は、地面に穴を掘って土器を埋めた遺構のことで、縄文時代中期以降にたくさんみられるようになり、安房では富浦町深名瀬畠遺跡の住居跡内から出土している。埋められていた土器は、深鉢形のものが多く、口縁部を上におく正体が主流だが、逆位と斜位もあり一定ではない。

 住居跡内の埋甕は、出入口に埋められているものが多いため、民俗例との対比から、胎盤をこれに収めて埋め、その上を踏むことで誕生した子のすこやかな成長を願ったという説がある。また、乳児の死亡率が大変高かった縄文時代に、死んだわが子の再生を願って、自分たちが住む住居内に埋めたという考え方もある。いずれにしても、埋設にあたっては、縄文人の信仰的な心の動きがあったと考えられる。

ほりだされた埋甕(富浦町深名瀬畠遺跡)

ほりだされた埋甕(富浦町深名瀬畠遺跡)

縄文土器深鉢〔埋甕〕(富浦町深名瀬畠遺跡) 縄文時代

縄文土器深鉢〔埋甕〕(富浦町深名瀬畠遺跡) 縄文時代

縄文土器深鉢〔埋甕〕(富浦町深名瀬畠遺跡) 縄文時代

縄文土器深鉢〔埋甕〕(富浦町深名瀬畠遺跡) 縄文時代

(以上、富浦町教育委員会蔵)

  石棒

 石棒は、石を棒状に加工したもので、なかには先端にふくらみをもつものがあり、それが男性性器の陰茎に似ていることから、古くから人びとの関心を集め、遺跡から偶然ほりだされたものが、神社の境内に立てられ、信仰の対象になっている例がある。

 縄文時代中期以降には東日本を中心に分布がみられ、なかには2mをこえる巨大なものもある。

 住居跡から出土する例が多く、中部地方では、炉の周辺に立てられたものが、たくさんみられる。炉で燃える火とともに、なんらかの「いのり」がおこなわれていたのかもしれない。また、住居跡の床面から、壊された状態で出土する例も多いことから、土偶と同じように、壊すことに何か意味があったとも考えられる。

 石棒は、その形状から、男性の能力にかかわる「信仰」の対象物としてつくられたと思われる。男性は、狩猟や漁撈といった生産活動を担っていたため、男性のシンボルである石棒に、自然からの豊かなめぐみを願って「いのり」をささげていたのかもしれない。

石棒(富浦町深名瀬畠遺跡) 縄文時代

石棒(富浦町深名瀬畠遺跡) 縄文時代
富浦町教育委員会蔵

  土偶と異形土器

 館山市大神宮の大塚貝塚から、土偶の破片と加曾利B式の異形土器が出土している。

 大塚貝塚が形成された縄文時代後期になると、ミミズク土偶などがつくられるようになるが、土偶の大部分は女性を表現したもので、なかには妊婦を表したものがある。五体満足なものはほとんどなく、大部分のものが、手足がもがれたり、首や胴が砕かれているため、女性が子供を産む能力に関して、無事に出産し、子供もすこやかに育つようにと、願って行われた「いのり」と「まつり」のもとに壊されたものと考えられている。

 異形土器は、器形からその用途が考えることができないため、その名がついた土器のことだが、石棒や土偶に伴い出土した例が知られており、非現実的な何か「信仰」に基づく行為に関連して使われたと思われる。

異形土器(館山市大塚貝塚) 縄文時代

異形土器(館山市大塚貝塚) 縄文時代
当館蔵

土偶破片(館山市大塚貝塚) 縄文時代

土偶破片(館山市大塚貝塚) 縄文時代
当館蔵

神々とのつながり
 縄文人の信仰
  信仰とは

 「信仰」とは、おもてに表すか否かの差はあれ、心のよりどころや生きていくための指針として何かを信じ、敬うということに関する“心の動き”といえる。

 縄文人が残した遺物や遺構のなかに、実用品とは思われないものや、何がそこで行われたのか、実証できないものがたくさんある。これらの用途や目的を説明しようとすると、たいてい「信仰」と結び付けて説明する場合が多い。なぜなら、縄文人にもその思想に基づく「信仰」があったという前提のもと、彼らが残したものに、それが表されていると考えられるからである。残されたものが、彼らの信仰をあらわすほんの一部だとしても、現代の私たちと比べると、ひとの誕生から死にいたるまでの間で、「信仰」が生活に深くかかわっていることが感じられるのである。

  石包丁

 稲穂を摘み取る道具である石包丁が、館山市笠名で出土している。石包丁の出土は関東地方では大変珍しく、千葉県内唯一の例である。出土例が多い東海地方でも紐穴がある磨製石包丁は珍しいものであり、安房にどのようにもたらされたのかは不明である。この石包丁には、紐ずれの痕跡や、刃部にある植物を擦り切ることによって帯びる光沢が確認できる。

石包丁(館山市笠名) 弥生時代

石包丁(館山市笠名) 弥生時代
個人蔵

 芽吹く大地

 紀元前400年~500年頃に北九州で開始された水稲農耕をもつ文化は、急速に西日本を席捲した後、東日本にもたらされる。千葉県内では伝播時の水田の実態は明らかではないが、稲作の定着が、集落、墓制、慣習などの社会生活そのものを変えてしまったことは確かである。人々が田をつくって一定の地域に長く住むようになり、初夏に籾をまき、秋に石包丁で稲の穂を刈る生活は、現代にまで続く農村のはじまりである。

弥生土器壺・浅鉢(館山市赤山遺跡) 弥生時代

弥生土器壺・浅鉢(館山市赤山遺跡) 弥生時代
当館蔵

  海を渡った黒曜石

 昭和23年に調査された館山市稲原貝塚から、イルカの骨にささった黒曜石製の銛先が出土している。黒曜石は、利器を製作する材料に適しており、その刃部の鋭利さは他の石材を優越する。産地は限られ、信州の和田峠、伊豆の箱根・天城、神津島などがよく知られている。安房地方の13遺跡で出土した19点の黒曜石の産地同定を行った結果、18店が神津島産であることがわかった。安房と神津島は黒曜石という物質で結ばれていたことの一端がうかがえる。

黒曜石のささったイルカの骨(館山市稲原貝塚) 縄文時代

黒曜石のささったイルカの骨(館山市稲原貝塚) 縄文時代
(原品 慶応義塾大学蔵)

 サンゴと貝塚

 縄文時代の人びとが、豊富な海の幸によって生活を支えられていたことを証明する貝塚のなかには、現在の海岸線からは遠く離れ、標高の高い山中にあるものがある。館山市の稲原貝塚はこの代表例で、標高40mの高所に位置している。これは縄文海進による現象で、この時代には館山平野の奥深く、標高30m近くまで湾が入り込んでいた。このことは、館山市沼の「沼サンゴ層」が、標高25mの高所に位置し、現在の館山湾の海水温より高温の海水域に生育するサンゴであることにもよっても証明される。

沼サンゴ遠景

沼サンゴ遠景

安房における主要貝塚と縄文海進時の海岸想定線
安房における主要貝塚と縄文海進時の海岸想定線