【4】大願成就の大先達たち
 1.先達(せんだつ)とは何をする人か

 富士山麓に残された安房の人たちの痕跡は、古文書だけではありません。吉田口の登山道や西麓の人穴などに、33度、66度、108度などと登山した回数を刻んだ個人の記念碑がいくつも建てられています。こうした記念碑を残した人は、先達といって富士講中を率いるリーダーのような立場にあった人たちですが、先達は単に登山の案内をする人ではなく、俗世間にありながら「行名(ぎょうめい)」を持ち、自らさまざまな修練をする宗教者でした。何十回となく登山をくりかえすのも、そうした修練のひとつなのです。

 ここでは先達が残した資料をとおして、難行苦行をこなし、また独特の神秘的な世界を持つ、宗教者としての先達の姿とその役割を見てみましょう。

栄行真山(えいぎょうしんさん)百八度登山大願成就記念碑

栄行真山(えいぎょうしんさん)百八度登山大願成就記念碑
(山梨県富士吉田市・中の茶屋)

誠行重山(せいぎょうじゅうざん)記念碑

誠行重山(せいぎょうじゅうざん)記念碑
(静岡県富士宮市・人穴(ひとあな))

人穴(ひとあな)の洞穴入口

人穴(ひとあな)の洞穴入口
(静岡県富士宮市)

善行瀧我修行記念碑

善行瀧我修行記念碑
(館山市西長田)

伊行寶海(いぎょうほうかい)八十八度登山記念碑

伊行寶海(いぎょうほうかい)八十八度登山記念碑
(館山市洲崎)

登山口に残された安房からの参詣者の記録

(1)安房における小猿屋の檀家村とその広がり
 ※出展資料は、北口本宮富士浅間神社蔵「安房国講中三ヶ年賦勧化金収納控」嘉永4年(1851)

(2)須山口導者数の移りかわり
※出典資料は、裾野市立富士資料館蔵「須山口富士山導者姓名簿」

(3)村山口導者数

(3)村山口導者数
  ※出典資料は、
    村山浅間神社蔵「村山口参詣控帳写」、「村山口導者帳」

 2.安房からの富士参り道中

 安房から富士参りをした人たちは、どういう道を通って富士山に向かったのでしょうか。

 天保12年(1841)に白間津(しらまづ)村(千倉町)の先達が記した道中日記によれば、那古(館山市から船に乗り、鎌倉、藤沢、小田原などを経由して、片道3泊4日の道のりで出かけていることがわかります。また川代(かわしろ)村(鴨川市)の先達が明治7年(1874)に記した登山日記帳では、やはり船でまず三浦半島の金沢に渡り、鎌倉、小田原などを経て須走口に到着しています。どちらの先達も富士山周辺で数日間滞在し、その間に内八湖(うちはっかい)とよばれる山麓の各湖や人穴など、角行以来のゆかりの地を参詣してまわっています。

 このように海路を使っていく場合は、矢倉沢(神奈川県南足柄市)の関所を通り、足柄峠を抜ける通称「大山道」とよばれる街道を利用していました。八幡村(館山市)の旧名主家にも、矢倉沢の関所にあてて富士参詣のための通行を願い出た手形が残されています。

47 富士道中日記

47 富士道中日記
個人蔵

49 通行手形

49 通行手形
当館蔵

 慶応2年(1866)に、八幡村(館山市)の名主勝助から相模国矢倉沢の関所へ願い出されたもので、富士参詣のために6名が通行したいと書かれている。

日方半次郎の墓

日方半次郎の墓

道中で病にたおれた、天津村の日方半次郎

 神奈川県相模原湖町与瀬の松木堂の前に、安房の富士講中のお墓が一基ある。これは天津村(天津小湊町)の日方半次郎という人のもので、明治6年(1873)、先達白井重四郎に率いられて富士山へ参拝にでかける道中で、病気のため亡くなったらしい。与瀬は甲州街道沿いであるから、おそらく東京経由で向かったのだろうか。徒歩での長い道中は、現在の我々には想像がつかない。お墓には、天津講中の笠印であるやまつつみのマークが刻まれている。

【3】安房から富士山へ -記録のなかの富士参り-
 1.富士山登山口に残る記録

富士山の北側、吉田口にかつて小猿(こざる)屋という宿がありました。ここは刑部(おさかべ)という戦国時代からの御師の家で、戦国大名里見氏の重臣、正木時茂が「房州宿へ」としるした書状を残すなど、この頃から安房の人の常宿になっていました。ここに残された多数の古文書の中には、江戸時代の安房の富士講中に関係するものがいくつも含まれ、当時小猿屋が安房のほぼ全域を檀家村として意識していた様子がうかがえます。また嘉永3年(1850)頃にはこれらの檀家村から積極的に寄付金集めをしていますが、ちょうど江戸で富士講禁止令が出された直後でもあり、地方の霞場を確保しておきたかったのかもしれません。

 このほか、表口といわれる駿河側でも、須山口と村山口に安房からの参詣者を記録した導者帳が残されています。江戸時代半ばから末にかけてのもので、富士講中としての参詣もあれば、たったひとりで登山している人、また中には30名以上の団体で訪れている村などさまざまです。

 安房から富士山を訪れた人たちはどのくらいいたのでしょうか。断片ではありますが、残された記録からその足跡をたどってみましょう。

36 正木時茂書状

36 正木時茂書状
     北口本宮冨士浅間神社蔵

 こちらの書状は、正木時茂が富士へ代参をたてた際に、房州宿である小猿屋に道案内を依頼したもの。ここには、帰りも案内人をつけて、海路で送り帰してほしいことや、礼銭は案内人が安房に来た時に渡すことなども書かれている。庚申緑年の永禄3年(1560)のことと思われる。

37 小猿屋由緒書

37 小猿屋由緒書
     北口本宮冨士浅間神社蔵

38 安房国檀那場由緒届

38 安房国檀那場由緒届
     北口本宮冨士浅間神社蔵

 右の資料には、小猿屋が古くから安房の導者に利用されてきたことと、文化3年(1806)に安房国中にお札を配って檀家にしたことが書かれている。

40 安房国講中三ヶ年賦勧化金収納控
40 安房国講中三ヶ年賦勧化金収納控
北口本宮冨士浅間神社蔵

小猿屋が嘉永3年(1850)から3年間に寄付金を集めた村や人の名前を記したもので、ここに記載された村は180ヶ村近くにのぽる。

42 富士山御縁年

42 富士山御縁年
社中修復寄進姓名帳
  北口本宮冨士浅間神社蔵

43 書簡

43 書簡
     北口本宮冨士浅間神社蔵

 年代は不明だが、安馬谷村(丸山町)の小林長右衛門から小猿屋に宛てたこの手紙には、15歳の少年2人が心願して登山するのでよろしくたのむと書かれている。

44 須山口富士山導者姓名簿

44 須山口富士山導者姓名簿
裾野市立富士山資料館保管

45 村山口導者帳

45 村山口導者帳
寛文年間より
     村山浅間神社蔵

45 村山口導者帳

45 村山口導者帳
嘉永元年(1848)
村山浅間神社蔵

45 村山口導者帳

45 村山口導者帳
文化年間
村山浅間神社蔵

45 村山口参詣控帳写

45 村山口参詣控帳写
村山浅間神社蔵

46 宝珠院頼勢肖像画
46 宝珠院頼勢肖像画
宝珠院蔵

富士山に登って子供を授かった話

 江戸時代初めに宝珠院(三芳村)の住職となった頼勢には、富士登山にまつわるこんな話が残されている。頼勢の父がある時富士山に登って、浅間様のお使いである怪魚を拾った。帰って妻と一緒にこれを食べたところ、妻の夢に浅間様の姿が出てきて、目が覚めると子供が授かっていた。こうして生まれた頼勢は、幼いころからたいへん利発で、やがて立派な僧になったという。

 浅間様をお産の神様として信仰することは、現在でもよく見られる。すでに戦国時代から、浅間様は良い子宝を恵んでくれる神様だったようだ。

  江戸八百八講の大流行

 江戸の各地におこった富士講は、枝講が別講をたてながら鼠算式に増えていき、関東一円にまで広く普及する。講はそれぞれ「笠印(かさじるし)」とよばれるマークを持ち、講の中の数名が代参にでかけた。また庚申年は富士山の御縁年といい、この時には女人禁制も緩和されたため、特に参拝者も多かったという。富士講流行の様子は錦絵に多く描かれ、風刺画にも使われている。

31 富士山女人登山之図
31 富士山女人登山之図 足立区立郷土博物館蔵
32 富士山體内巡之図(部分)

32 富士山體内巡之図(部分) 足立区立郷土博物館蔵

富士講紋曼荼羅

富士講紋曼荼羅
(船橋市・湯浅章氏蔵)

 こちらの軸は江戸深川の山玉講先達禄行が、同じく山玉講の松山清行に与えたもの。ここに記された講の笠印はざっと140にものぼり、これだけ見ても富士講の盛況ぶりがうかがえる。

33 開化旧幣富士参詣之図
33 開化旧幣富士参詣之図 足立区立郷土博物館蔵

  御身抜(おみぬき)

 語源は不明だが、角行以来の行者が富士の信仰世界を表現したいわば曼荼羅図を総称して御見抜という。形態は角行が唱えた「明藤開山(みょうとうかいさん)」と「●●(ちちはは)(創造神)」、「●●大●妙王●躰拾坊光●心(ごうくうたいそくみょうおうそくたいじっぽうこうくうしん)」という御神語を基本にし、多くは軸物だが折本や巻物になった伝書の中にも記される。御身抜を肌守りとすることもあったようで、なかには全長30cmほどの小幅もある。

 角行直系の行者による御身抜が難解な暗号のようであるのに対し、身禄は明藤開山の上に三尊を示す「参」の字を加え、五行の文字のみで御身抜を書いた。後の富士講では、唱え文句を兼ねたこの五行御身抜が定型となり、高名な御師や先達が書いたものが尊ばれた。

26 月玥伝書

26 月玥伝書
個人蔵

27 書行藤仏五行御身抜

27 書行藤仏五行御身抜
鳩ヶ谷市立郷土資料館蔵

29 村上光清御身抜

29 村上光清御身抜
個人蔵

28 星行御身抜

28 星行御身抜
鳩ヶ谷市立郷土資料館蔵

30 五行御身抜
30 五行御身抜
個人蔵

 2.富士の教えとその広まり

 富士の神様は古くから浅間(せんげん)神といい、中世以降は仏教と習合して浅間大菩薩とよばれます。浅間とはもともと、火山に対する呼び名として広く使われたとされる言葉で、富士山のたび重なる噴火現象が神の存在を暗示させたのかもしれません。

 こうした富士への信仰を具体的な教義としてまとめた最初の人は、戦国時代の行者、長谷川佐近藤原武邦です。肥前国長崎に生まれた武邦は、諸国霊場巡礼の修行中に富士山へ行くようにお告げを受け、浅間大菩薩の御在所とされる富士山西麓の人穴(ひとあな)にこもります。ここで四寸五分の角材の上に一千日間爪先立ちするという修行をし、これを終えた永禄3年(1560)に浅間大菩薩から「角行(かくぎょう)」という行名を与えられたとされます。角行は各地の湖をまわって水行を繰り返し、それによって得た法力を使って、病気治しなどの様々なオフセギを行ったほか、万物の根元である浅間神からさずかったという独特の異字を使って唱文を作りました。また富士の行者は自分の家業を大切にしなければならないとし、これらはみな後年の富士講の教義の基本になっています。角行の教えは弟子に受け継がれ、6世の村上光清(こうせい)以降は代々村上派と呼ばれて、富士行者としての系譜を伝えています。

 下って元禄元年(1688)に江戸で富士行者月行(げつぎょう)のもとに弟子入りした伊勢国出身の伊藤伊兵衛は、食行身禄(じきぎょうみろく)と名のって富士の教えに新たな教義を加えます。身禄は呪術による加持祈祷を否定して、正直と慈悲をもって勤労に励むことを信仰の原点とし、男女の同格を説きました。身禄の生きた時代は飢饉や商人による米の買い占めが庶民を苦しめていた頃で、「世のおふりかわり」を願った身禄は、享保18年(1733)富士山の七合五勺目にある鳥帽子岩で断食行をし、そのまま入滅をとげます。身禄の思想は、江戸時代の封建社会のなかにありながら近代的な倫理観をもったもので、これは後に武州鳩ヶ谷の小谷三志(こたにさんし)によって、孝行や勤労の道徳を主体とした不二道(ふじどう)として受け継がれました。

 さて、俗に江戸八百八講と言われ、関東一円にまで波及した富士講の大流行は、この身禄没後何十年か経てからのことです。身禄の弟子の一人で、入定に付き添った吉田御師の田辺十郎右衛門は、そこで受けた教えを「三十一日の巻」として筆写し、自らも北行鏡月(ほくぎょうきょうげつ)という行名を持って布教につとめました。江戸の弟子たちは元文頃から富士講を組織し始め、寛政頃には幕府の取締令が出されるほどになります。

 こうして普及した江戸の富士講は、身禄を元祖とかかげているにもかかわらず、その身禄が否定したほずの呪術を基本とし、梵天をたて、焚き上げをする修験の行体を持っていました。当時は一揆や打ち壊しが頻発していた社会状況にあり、ごく普通の町人がそのような山伏まがいの行動をすることは、一種の世直し運動ともいえるものでした。富士講は何度も幕府の取締りの対象となり、嘉永2年(1849)には完全禁止令が出されたためにやや勢いを失いました。

 ほどなく迎えた明治維新で神仏分離の制度が敷かれ、宗教に対する統制がなされましたが、富士講の人たちは専業の宗教者ではなかったので公認の立場を与えられませんでした。しかし教部省の役人だった穴野半(ししのなかば)や、吉田口の御師たちが働きかけて、神道の教団として認可されることになります。扶桑教、丸山教、実行教などは富士講を母体とした教団ですが、その教義は旧来の修験的な要素の上に、神道と近代思想が複雑にからみ合って、現在に至っています。

角行肖像(21 人穴図附大導師歴代絵図より)

角行肖像
(21 人穴図附大導師歴代絵図より)
     鳩ヶ谷市立郷土資料館蔵

身禄肖像(21 人穴附大導師歴代絵図より)

身禄肖像
(21 人穴附大導師歴代絵図より)
     鳩ヶ谷市立郷土資料館蔵

24 三十一日之巻

24 三十一日之巻
   個人蔵

20 食行身禄真筆

20 食行身禄真筆
  北口本宮冨士浅間神社蔵

〔富士信仰の略系図〕

〔富士信仰の略系図〕

※『富士講の歴』(1983)を参考に作成

18 伝角行藤仏筆伝書巻物

18 伝角行藤仏筆伝書巻物
  鳩ヶ谷市立郷土資料館蔵

 角行は大行を終えて最も霊験あらたかなときに、厄除けのための様々なオフセギを浅間神から授かったという。角行筆と伝えるこの伝書には、元和6年(1620)に人穴での千日行を終えたことが記されているが、謎めいた文字が並び、解読は難しい。「明藤開山(みょうとうかいさん)」とは「明らかに藤(富士)山を開く」という意味で、富士信仰の一派を築いたことを指しているという。

22 御大行之事

22 御大行之事
     鳩ヶ谷市立郷土資料館蔵

23 日月仙元大菩薩御直伝月之巻

23 日月仙元大菩薩御直伝月之巻
  個人蔵

 これら22、23の2点は寛政と文化年間に星行(せいぎょう)という行者が著した伝書で、病気治し、雨乞い、夜泣き止め、延命などそれぞれの用途にあわせたまじないがぎっしり書かれている。一方で孝行や忠義を尽くすことなどの記述もあり、呪術によるフセギと道徳の実践とが混在する当時の富士信仰の様子を知ることができる。

25 一字不説之巻

25 一字不説之巻
  個人蔵

 食行身禄が享保7年(1722)から9年間を費やして書き上げた教典で、正直・慈悲・勤労といった身禄の教義の基本がここに著されている。

  吉田口 (山梨県富士吉田市)

 江戸時代後期、「富士講(ふじこう)」という富士への信仰で結びついた集団が江戸を中心に数多く結成された。この人たちが富士参りの時に甲州街道を利用したことから、北口である吉田口は導者を一手に集め、南口にとって代わることになった。もともと戦国時代から、富士信仰の仲立ちをする御師(おし)の住む町だったが、最盛期の明治初期には御師の屋敷も100軒を越えている。近年の道路整備と自動車の普及で、御師の案内も不要になり、現在はその大半が廃業している。登山道入口に鎮座する北口本宮富士浅間神社は、もともと諏訪神社を中心とした「諏訪の森」のなかに「富士浅間明神」として存在していたが、富士信仰が盛んになるにつれ、次第に諏訪神社との立場が逆転したとされる。

北口本宮富士浅間神社

北口本宮富士浅間神社

17 富士山神宮並麓八海略絵図

17 富士山神宮並麓八海略絵図
富士吉田市蔵

14 元八湖絵図

14 元八湖絵図
     北口本宮冨士浅間神社蔵
(天保14年(1843)の版木を山梨県南都留郡忍野村東円寺で所蔵)

16 富士山北口男女登山
16 富士山北口男女登山 足立区立郷土博物館蔵

  大宮口 (静岡県富士宮市)

 富士大宮こと富士山本宮浅間大社が鎮座する。この神社は全国の浅間神社の根本社で、山頂に奥宮を持つ。室町時代に描かれた「富士参詣曼荼羅」は、富士大宮を中心とした富士山の信仰世界を表したもので、頂上の三峯に三尊仏を置き、導者が禊ぎをしながら列をなして登っている様子が克明に描かれている。大宮口には16世紀中頃に30余りの導者坊があったが、江戸時代初めには10坊足らずに減っている。

11 富士曼荼羅図
11 富士曼荼羅図 富士山本宮浅間大社蔵
富士山本宮浅間大社

富士山本宮浅間大社

12 薬師如来像懸仏

12 薬師如来像懸仏
富士山本宮浅間大社蔵

  村山口 (静岡県富士宮市)

 12世紀、富士山頂に大日寺を建立したという末代上人が拠点とした登山口。鎌倉時代には一般の人も直接修行を体験できる「富士行(ふじぎょう)」が組織され、導者のための宿坊が建てられるなど、富士修験の本拠地として室町時代まで栄えたが、江戸時代以降は衰退した。

村山浅間神社水垢離場跡

村山浅間神社水垢離場跡

10 富士山表口真面之図

10 富士山表口真面之図
村山浅間神社蔵