江戸時代後期、「富士講(ふじこう)」という富士への信仰で結びついた集団が江戸を中心に数多く結成された。この人たちが富士参りの時に甲州街道を利用したことから、北口である吉田口は導者を一手に集め、南口にとって代わることになった。もともと戦国時代から、富士信仰の仲立ちをする御師(おし)の住む町だったが、最盛期の明治初期には御師の屋敷も100軒を越えている。近年の道路整備と自動車の普及で、御師の案内も不要になり、現在はその大半が廃業している。登山道入口に鎮座する北口本宮富士浅間神社は、もともと諏訪神社を中心とした「諏訪の森」のなかに「富士浅間明神」として存在していたが、富士信仰が盛んになるにつれ、次第に諏訪神社との立場が逆転したとされる。
北口本宮富士浅間神社
17 富士山神宮並麓八海略絵図
富士吉田市蔵
14 元八湖絵図
北口本宮冨士浅間神社蔵
(天保14年(1843)の版木を山梨県南都留郡忍野村東円寺で所蔵)