【3】安房から富士山へ -記録のなかの富士参り-
 1.富士山登山口に残る記録

富士山の北側、吉田口にかつて小猿(こざる)屋という宿がありました。ここは刑部(おさかべ)という戦国時代からの御師の家で、戦国大名里見氏の重臣、正木時茂が「房州宿へ」としるした書状を残すなど、この頃から安房の人の常宿になっていました。ここに残された多数の古文書の中には、江戸時代の安房の富士講中に関係するものがいくつも含まれ、当時小猿屋が安房のほぼ全域を檀家村として意識していた様子がうかがえます。また嘉永3年(1850)頃にはこれらの檀家村から積極的に寄付金集めをしていますが、ちょうど江戸で富士講禁止令が出された直後でもあり、地方の霞場を確保しておきたかったのかもしれません。

 このほか、表口といわれる駿河側でも、須山口と村山口に安房からの参詣者を記録した導者帳が残されています。江戸時代半ばから末にかけてのもので、富士講中としての参詣もあれば、たったひとりで登山している人、また中には30名以上の団体で訪れている村などさまざまです。

 安房から富士山を訪れた人たちはどのくらいいたのでしょうか。断片ではありますが、残された記録からその足跡をたどってみましょう。

36 正木時茂書状

36 正木時茂書状
     北口本宮冨士浅間神社蔵

 こちらの書状は、正木時茂が富士へ代参をたてた際に、房州宿である小猿屋に道案内を依頼したもの。ここには、帰りも案内人をつけて、海路で送り帰してほしいことや、礼銭は案内人が安房に来た時に渡すことなども書かれている。庚申緑年の永禄3年(1560)のことと思われる。

37 小猿屋由緒書

37 小猿屋由緒書
     北口本宮冨士浅間神社蔵

38 安房国檀那場由緒届

38 安房国檀那場由緒届
     北口本宮冨士浅間神社蔵

 右の資料には、小猿屋が古くから安房の導者に利用されてきたことと、文化3年(1806)に安房国中にお札を配って檀家にしたことが書かれている。

40 安房国講中三ヶ年賦勧化金収納控
40 安房国講中三ヶ年賦勧化金収納控

小猿屋が嘉永3年(1850)から3年間に寄付金を集めた村や人の名前を記したもので、ここに記載された村は180ヶ村近くにのぽる。

42 富士山御縁年

42 富士山御縁年
社中修復寄進姓名帳
  北口本宮冨士浅間神社蔵

43 書簡

43 書簡
     北口本宮冨士浅間神社蔵

 年代は不明だが、安馬谷村(丸山町)の小林長右衛門から小猿屋に宛てたこの手紙には、15歳の少年2人が心願して登山するのでよろしくたのむと書かれている。

44 須山口富士山導者姓名簿

44 須山口富士山導者姓名簿
裾野市立富士山資料館保管

45 村山口導者帳

45 村山口導者帳
寛文年間より
     村山浅間神社蔵

45 村山口導者帳

45 村山口導者帳
嘉永元年(1848)

45 村山口導者帳

45 村山口導者帳
文化年間

45 村山口参詣控帳写

45 村山口参詣控帳写

46 宝珠院頼勢肖像画
46 宝珠院頼勢肖像画

富士山に登って子供を授かった話

 江戸時代初めに宝珠院(三芳村)の住職となった頼勢には、富士登山にまつわるこんな話が残されている。頼勢の父がある時富士山に登って、浅間様のお使いである怪魚を拾った。帰って妻と一緒にこれを食べたところ、妻の夢に浅間様の姿が出てきて、目が覚めると子供が授かっていた。こうして生まれた頼勢は、幼いころからたいへん利発で、やがて立派な僧になったという。

 浅間様をお産の神様として信仰することは、現在でもよく見られる。すでに戦国時代から、浅間様は良い子宝を恵んでくれる神様だったようだ。