2.安房からの富士参り道中

 安房から富士参りをした人たちは、どういう道を通って富士山に向かったのでしょうか。

 天保12年(1841)に白間津(しらまづ)村(千倉町)の先達が記した道中日記によれば、那古(館山市から船に乗り、鎌倉、藤沢、小田原などを経由して、片道3泊4日の道のりで出かけていることがわかります。また川代(かわしろ)村(鴨川市)の先達が明治7年(1874)に記した登山日記帳では、やはり船でまず三浦半島の金沢に渡り、鎌倉、小田原などを経て須走口に到着しています。どちらの先達も富士山周辺で数日間滞在し、その間に内八湖(うちはっかい)とよばれる山麓の各湖や人穴など、角行以来のゆかりの地を参詣してまわっています。

 このように海路を使っていく場合は、矢倉沢(神奈川県南足柄市)の関所を通り、足柄峠を抜ける通称「大山道」とよばれる街道を利用していました。八幡村(館山市)の旧名主家にも、矢倉沢の関所にあてて富士参詣のための通行を願い出た手形が残されています。

47 富士道中日記

47 富士道中日記
個人蔵

49 通行手形

49 通行手形
当館蔵

 慶応2年(1866)に、八幡村(館山市)の名主勝助から相模国矢倉沢の関所へ願い出されたもので、富士参詣のために6名が通行したいと書かれている。

日方半次郎の墓

日方半次郎の墓

道中で病にたおれた、天津村の日方半次郎

 神奈川県相模原湖町与瀬の松木堂の前に、安房の富士講中のお墓が一基ある。これは天津村(天津小湊町)の日方半次郎という人のもので、明治6年(1873)、先達白井重四郎に率いられて富士山へ参拝にでかける道中で、病気のため亡くなったらしい。与瀬は甲州街道沿いであるから、おそらく東京経由で向かったのだろうか。徒歩での長い道中は、現在の我々には想像がつかない。お墓には、天津講中の笠印であるやまつつみのマークが刻まれている。