古代、大工は「大匠(おおいたくみ)」と呼ばれ、律令制下の組織のなかで国家的な建築にあたる指導者であった。その組織のなかの一般的な大工技術者は「番匠(ばんじょう)」と呼ばれていたのである。やがて中世になるとさまざまな職種の指導者を大工と呼ぶようになる。つまり大工の指導者は番匠大工、鍛治の長は鍛治大工、屋根工事の瓦葺大工といったぐあいである。これが江戸時代になると建築工事の中心的職種である木工の職人、あるいは職種そのものをさして大工というようになった。そして大工指導者は、建築の構造のかなめとなる部材の名称から発生した「棟梁」の名で呼ばれるようになるのである。
江戸時代になると、建築の注文主はそれまでの社寺や貴族・武家にくわえて町人たちが急増してくる。都市ができ需要も増えると大工の仕事も細分化し、住居を造る家大工、船を造る船大工、社寺を造る宮大工などに専門化していった。社寺の彫刻をつくる彫物大工もあらわれた。
社寺の運営にあたった宮大工たちは、その社寺の縁起絵巻に描かれたり、また絵馬として運営の記念に自らの姿を描いて奉納していることがある。描かれた大工たちの姿にはその当時の風俗があらわれ、またその時代の道具の特色や使い方まで知ることができる。
社寺の建築には宮大工を中心に、材木の伐採・製材を行う木挽きや、基礎をつくる石工をはじめ瓦師・左官・銅細工師・鳶など多くの職種の人々が携わった。ここではそうした職人たちもふくめその姿を紹介している。