安房国平郡那古村(館山市那古)の大工で、八幡宮造営の棟梁として職人たちを指揮した。もとは中村姓で、上堀村梅田(三芳村上堀)の生まれである。通称喜八、明治10年代に喜善と改める。名乗は輝郷。安政5年に加藤姓となるが、それ以前から加藤家に入っていたようである。
喜八以前の加藤家についてはさかのぼることはできないが、享保5年(1720)の鶴谷八幡宮本殿造営の棟札にみえる、那古村の大工棟梁加藤三左衛門吉治や、宝暦11年(1761)の那古寺多宝塔造立の棟梁加藤清兵衛などの系譜を引くものと考えられる。三左衛門は大和大椽藤原姓余流と称していた。
喜八の仕事は、初期のものとしては天保2年(1831)の下三原村大六天宮、同15年の山本村金乗院などを知ることができる。その後八幡宮の仕事に入り、慶応元年には小原村智秀寺、そのほか三坂村の稲荷宮・石堂村の石堂寺・元名村の日本寺・上総金谷村の諏訪神社・相模三浦郡鴨居村能満寺などで仕事をしている。
文化5年(1808)に生まれ、明治29年(1896)、89歳で没した。子の五兵衛も大工となり、文久3年9月の八幡宮上棟式に先立ち、その月莫越山神社から種房の名乗をもらった。18歳の時である。大正9年に75歳で没するが、明治20年代中頃からは酒屋を営み始め、やがて大工を廃業した。
99.鐘楼堂建地割図
100.太子講掛軸
101.四組木綿手繦懸用許状
102.実名目録
(以上、個人蔵)