<吉野忠右衛門義重>

 八幡宮造営の世話役のひとりとして名を連ねる吉野忠右衛門は、文政2年(1819)安房郡大作村(館山市山本)に生まれ、北条村六軒町の宮本源兵衛のもとで大工修行をした。やがて源兵衛の娘を娶って家業を継ぎ、吉野忠右衛門義重と名乗る。

 なお屋号を三木屋というが、三木といえば播州三木(兵庫県三木市)のまちは大工や鍛治が多く、大工道具の生産地として名高いところなので、この地となんらかの関係があるかも知れない。

 忠右衛門の仕事として知りうるのは、安政2年(1855)の会津藩岩糸陣屋・明治3年(1870)の長尾藩北条鶴ヶ谷陣屋の普請をはじめ、沓見の莫越山神社・山本の御嶽神社・小湊の誕生時・芝増上寺の水屋などがあるが、万延元年(1860)には江戸城本丸の普請に携わり、遠侍の建築を担当している。この普請では、幕府大棟梁の甲良若狭の配下として腕をふるっており、吉野家ではこの時のことを、全国五十人棟梁の一人として呼ばれたと伝えている。

 このほか彫刻の作品も残しており、館山市新宿の海蔵寺には安政5年に制作した木造弘法大師坐像がある。

 忠右衛門は明治6年(1873)、55歳で没した。大隅流の大工だったと伝えられている。子の伝造も大工となり、町内の郡役所や町役場・北条病院など、近代的な建築法を身につけて多くの公共施設を手懸け、現在の忠氏に至るまで大工の家として続いている。

80.儀式用大工道具(手前から墨壺・釿・道具箱)

80.儀式用大工道具(手前から墨壺・釿・道具箱)

81.小方儀

81.小方儀

82.地方測量器(上から渾発・円分度器・平行儀)

82.地方測量器(上から渾発・円分度器・平行儀)

83.江戸城本丸遠侍建地割図

83.江戸城本丸遠侍建地割図

84.江戸城本丸虎之間小屋絵図

84.江戸城本丸虎之間小屋絵図

85.江戸城本丸遠侍懸魚絵図

85.江戸城本丸遠侍懸魚絵図

86.大棟梁甲良若狭呼出状

86.大棟梁甲良若狭呼出状

87.北条御陣営地割略図

87.北条御陣営地割略図

88.会津藩岩糸陣屋指図

88.会津藩岩糸陣屋指図

(以上、個人蔵)

89.忠右衛門作 木造弘法大師坐像

89.忠右衛門作 木造弘法大師坐像
海蔵寺蔵

90.奉公人請状

90.奉公人請状

91.莫越山神社大工行事秘巻(部分)

91.莫越山神社大工行事秘巻(部分)

92.祖神協会講社神拝次第

92.祖神協会講社神拝次第

93.北条町役場

93.北条町役場

(以上、個人蔵)