安房郡楠見村(館山市館山)の小高吉右衛門は文化元年(1804)の生まれで、明治3年(1870)に67歳で没している。鶴谷八幡宮の造営には参加していないが、天保3年(1832)から始められた小湊誕生寺祖師堂普請の棟梁を務めたことで知られている。
この普請には吉野忠右衛門や羽山林兵衛も携わっている。天保13年までかかった普請で盛大な棟梁送りが行われ、その時道具を納めてきた龍の絵が描かれた箱や儀式用の道具・小物類を今も伝えている。
造営棟梁に任命の際、誕生寺より右膳定興の名乗を与えられたが、通称は吉右衛門といい、また吉兵衛と呼ばれることもある。母は北条村名主加藤又右衛門の娘。父吉右衛門も大工で定由を名乗り、寛政10年(1798)には江戸京橋銀座一丁目に住して仕事をしている。寛政から文化頃の資料には「北条村吉田吉右衛門」と書かれたものが見られるので、定由は小高家へ養子に入ったものであろう。
定興の子、吉右衛門も大工だが彫物師後藤義光の弟子になっているという。孫の房次郎も大工となり北条の吉野忠右衛門の子伝造のもとで年季奉公をした。
なお、安房地方の大工は、式祭の許状は京都の神祇管領長上の吉田家から授かることが多いが、小高家に伝わる大工秘巻は神祇伯白川家からのものである。
94.御堂建地割図
95.図面箱
96.誕生寺祖師堂普請棟梁免状
98.奉公人請状
(以上、個人蔵)