駿州から房州へ -房州長尾藩- 

 明治維新で明治元年に徳川氏が300年にわたる政権を朝廷に返上すると、将軍慶喜は水戸へ隠退、家達(いえさと)が徳川家を継いで1大名として駿河・遠江・三河で70万石の静岡藩主となりました。このため駿遠の諸大名は房総へ領土を移され、田中藩主本多正訥は安房国長尾藩主として長尾(白浜町)に陣屋を構えました。のちに北条(館山市)へ陣屋を移しますが、時代は急速に変化し、版籍奉還、廃藩置県とすすんで明治4年に長尾藩は解体、また徴兵令・地租改正・廃刀令・家禄廃止など新政府から次々と新しい政策が打ち出されて、武士は消滅していきました。

徳川の亀に追われて房州へ来(き)い(紀伊)ともいわず行くがほんだ(本多)か

当時の落首

 明治元年5月徳川亀之助(家達)(いえさと)が静岡藩主となることが決まると同時に、田中藩主本多紀伊守正訥は所替を通達され、二ヵ月後安房を代地とすることがいいわたされました。そのとき上記のような落首があったと伝えられています。しかし急な出来事で長尾の屋敷も整備されておらず、しばらくは藩主も藩士も藤枝宿の寺院に仮宿しました。房州への移住は明治2年に入ってからのようで、下表は藩主藤井六郎の移動時の様子です。この人は家財道具を売り払い、15両の手当を藩主から支給され、明治2年正月東海道を陸路旅して、三浦の浦賀から房州那古へ海を渡り白浜へ向いました。なかには焼津港から直接船で白浜へ渡った人たちもいたようです。 

国替に付入用等覚   藤井誠氏蔵
国替に付入用等覚   藤井誠氏蔵
国替の旅程と費用(藩士藤井六郎の場合)明治2年1月 (『国替に付入用等覚』より)
国替の旅程と費用(藩士藤井六郎の場合)明治2年1月 (『国替に付入用等覚』より)