西岬地区略年表  

西暦 年号 事   項
B.C.20000年 浜田の鉈切海蝕洞窟・香のサンゴ層などができる
B.C.2000年 -縄文後期- 鉈切洞窟で人が生活をする
7世紀頃 坂井の翁作古墳及び同横穴墓などがつくられる
842年 承和9年 洲崎神社の祭神(天比理乃咩命)が朝廷より従五位下に列せらる
859年 貞観1年 同正三位に列せられる
1180年 治承4年 源頼朝、石橋山の合戦に敗れて安房にのがれ、洲崎神社に参詣して田地を寄進する
1478年 文明10年 太田道灌、江戸城近くに洲崎神社の祭神を勧請する(神田明神)
大永頃 古河公方足利高基、家臣簗田政助に伊戸村などを所領として充行う
1597年 慶長2年 塩見などの村々で太閤検地が行われる
1616年 元和2年 江戸幕府、洲崎神社へ5石、伊戸の円光寺へ6石のほか、塩見の善栄寺・宝蔵寺、洲崎の観音寺、川名の持明院へ寺領を寄進する
1693年 元禄6年 浜田村等の領主、旗本石川政徃、鉈切神社に石燈籠を寄進する
1695年 元禄8年 山萩村の石井三朶花、水戸光圀の命により「大日本史」編纂のため浜田村を訪れる
1697年 元禄10年 紀州の漁民ら、鉈切神社に鰐口を奉納する
1801年 享和1年 伊能忠敬、房総の海岸を測量し、7月2日に洲崎村名主宅に逗留する
1810年 文化7年 白河藩主松平定信、異国船に備えて波佐間に陣屋をおき、洲崎に砲台を築いて、沿岸警備の任にあたる
1812年 文化9年 定信、洲崎神社に扁額を奉納する
1871年 明治4年 香村と坂井村が長尾県に編入され、塩見・浜田・早物・見物・加賀名・波佐間・坂田・洲崎・川名・伊戸・坂足・小沼の各村が館山県に編入される。12月に14ヶ村が木更津県に編入される
1873年 明治6年 14ヶ村千葉県に編入される
1873年 明治6年 塩見・波佐間に小学校開校する
1874年 明治7年 洲崎・伊戸に小学校開校する
1889年 明治22年 14ヶ村合併して西岬村となる
1919年 大正8年 洲崎灯台竣工する
1923年 大正12年 大震災で大津波の被害をうける
1933年 昭和8年 西岬まで国鉄バス開業する
1949年 昭和24年 閉鎖裏防砂林の工事始まる(昭和33年完成)
1954年 昭和29年 西岬村、館山市と合併する(川名を西川名と改称)

坂井(さかい) 

上ノ台(ウエノダイ) 倉掛(クラガケ) 居原台(イハラダイ) 田代台(タシロダイ) 居下(イジタ) 田代砂(タシロスナ) 平砂浦(ヘイサウラ) 小原(コバラ) 背戸窪(セトクボ) 水神森(スイジンモリ) 長作(ナガサク) 本田(ホンダ) カクメ(カクメ) 馬之背(ウマノセ) 角カト台(ツノカトダイ) 丸沢(マルサワ) 蔵田沢(クラタサワ) 柳作(ヤナギサク) 大台(オオダイ) 甲巣畑(コウスバタ) 西作(ニシサク) 新戸(シンド) 浅岩(アサイワ) 奥山(オクヤマ) 大奥山(オオオクヤマ) 萬江山(マンエヤマ) 有戸(アリド) 翁作(オキナサク) 萬作(マンサク) 上ノ山(ウエノヤマ) 永山(エイヤマ) 貉谷(ムジナヤツ) 長谷(ナガヤツ)

 平砂浦海岸のほぼ中央部にあり、坂井と小原の二つの集落からなる地域です。平安時代に安房国安房郡麻原(おはら)郷という地名があり、坂井の小原周辺がそれにあたると考えられています。小原周辺には古い遺跡が多く、坂井翁作古墳をはじめ、山脇には横穴墓ややぐらを散見することができます。江戸時代初期の里見氏治政下では、勘定頭の横小路将監が知行し、村高は101石余。明治元年には121石余となっています。神社は諏訪神社と吾妻神社があり、坂井と小原にそれぞれお堂があります。市道沿いには日露戦役の記念碑もみることができます。

小沼(こぬま)

大井坂(オオイザカ) 作田(サクダ) 上作(ウエサク) 保津毛(ボツケ) 居下(イジタ) 平砂浦(ヘイサウラ) 五反田(ゴタンダ) 山下(ヤマシタ) 切通(キリドオシ) 長谷(ナガヤツ) 永山(エイヤマ)

 温暖な気候を利用して、ストックやヤグルマソウなどの花畑が多くつくられている地域です。江戸時代初期の里見氏治政下では、里見家一門の正木善九郎の知行地となっており、村高は109石余。明治元年には134石余となっています。神社は文化10年の手水鉢のある諏訪神社、寺院は宝安寺があります。

坂足(さかだる)

居下(イジタ) 清水(シミズ) 作田(サクダ) 向原(ムカイバラ) 関ノ下(セキノシタ)

 この地区が西岬で最も規模の小さな集落で、江戸時代を通じて14.5軒の戸数でした。江戸時代初期の里見氏治政下では、町奉行の角田丹右衛門が知行し、村高は77石。明治元年には97石余になっています。神社は蛭子神社があり、宗教法人の寺院はありませんが、山麓に波切不動と呼ばれる照浪院があります。ここには寛政10年の手水鉢がみられます。

伊戸(いと)

白嶋(シラシマ) 踊場(オドリバ) ワキ(ワキ) 黒辺(クロベ) 市木町(イチギチョウ) 塚崎(ツカザキ) 大作(オオサク) 唐沢(カラサワ) 清水(シミズ) 吾妻(アヅマ) 岩崎(イワサキ) 横枕(ヨコマクラ) 藤永原(トウエイバラ) 坊畑(ボウバタケ) 身寄(ミヨセ) 和島(ワジマ) 大塚(オオツカ) 貝津(カイズ) 作田(サクノタ) 原(ハラ) 松葉(マツバ) トウノコシ(トウノコシ) イモリヅカ(イモリヅカ) 藪ノ木(ヤブノキ) 城ノ腰(ジョウノコシ) 小滝(オダキ) 二ツ谷(フタツヤ) 助郷浦(スケゴウラ) 滝尻(タキジリ) 深田(フカダ) 榎ヶ谷(エノガヤツ) 房畑(ボウバタ) 房ヶ谷(ボウガヤツ) 蔵ノ下(クラノシタ) 走り口(ハシリグチ) 鯨ボラ(クジラボラ) 京塚(キョウヅカ) 向原(ムカイバラ) 割田(ワリタ) 作ノ田(サクノタ) 久保田(クボタ) 峯(ミネ) 打越(ウチコシ) 白石(シライシ) 吉ヶ谷(ヨシガヤツ) 大谷(オオヤツ) 西ヶ谷(ニシガヤツ) 赤羽根(アカバネ) 斉前(サイマエ) 大山(オオヤマ) 長の谷(ナガノヤツ) 西保作(ニシホサク) 亀割(カメワリ) 上ノ山(ウエノヤマ) 西野(ニシノ) 下蒲原(シモカンバラ) 上蒲原(カミカンバラ) 集畑(アツマリバタ) 西野出口(ニシノデグチ) 小塚(コヅカ) 向山(ムカイヤマ) 木ノ木作(キノキザク)

 伊戸は海岸部の伊戸と山麓部の根本の二つの集落からなる地域で、戦国時代の大永年間には、古河公方足利高基が家臣の簗田政助に伊戸村を領知として充行っています。江戸初期の里見氏治政下では、里見家の直接の支配地で、村高は372石余。明治元年には534石余になっています。明治7年に円光寺に吉田源兵衛を世話役に伊戸小学校が設置され、同42年には根本に洲崎と伊戸の小学校が合併して西小学校が開校しています。神社は八坂神社と御嶽神社があり、八坂神社には元治元年の狛犬のほか、天保7年の石鳥居や文政6年の手水鉢など、御嶽神社には文化3年の手水鉢・天保9年の燈籠と本殿脇に小滝と呼ばれる滝があります。寺院は里見氏の時代に6石の寺領をうけた円光寺のほか、真浄院があります。

西川名(にしかわな)

向原(ムカイバラ) 芝地原(シバチハラ) 神明前(シンメイマエ) 待場(マチバ) 浜田(ハマダ) 宮田(ミヤダ) 横道(ヨコミチ) 中瀬(ナカセ) 中道(ナカミチ) 前田(マエダ) 川間(カワマ) 千茅(チカヤ) 新瀬(ニイゼ) 岩本(イワモト) 畑中(ハタナカ) 宮脇(ミヤワキ) 上原(ウエハラ) 宮ノ下(ミヤノシタ) 後山(アトヤマ) 石畑(イシバタ) 黒部(クロベ) 黒部下(クロベシタ) 水引戸(ミズヒキド) 芝台(シバダイ) 森ノ下(モリノシタ) 郷戸(ゴウド) 左保浦(サボウラ) 芝崎(シバサキ) 上ノ台(ウエノダイ) 赤羽根(アカバネ) 白石(シライシ) 木ノ作(キノサク) 上ノ山(ウエノヤマ) 前山(マエヤマ)

 もとは川名村といい、昭和29年に館山市と合併したとき、すでに川名の大字が船形地区にあったため西川名と改称しました。平安時代の地名としてある安房国安房郡河曲 (かわわ)郷は当地周辺のことと考えられています。江戸時代初期の里見氏治政下では、廿人衆頭の波多野庄左衛門が知行し、村高は150石余、明治元年には162石余になっています。神社は天保5年の手水鉢がある吾妻神社が山腹に、海岸には厳島神社があります。厳島神社では毎年1月15日に湯立神事が行われます。寺院は持明院と福蔵寺があり、持明院は3石5斗の朱印地をもっていました

川名村絵図(個人蔵)

洲崎(すのさき)

仙道(センドウ) 以良世(イラセ) 栄ノ浦(エイノウラ) 向山(ムカイヤマ) 関ノ谷(セキノヤツ) 鷲塚(ワシヅカ) 赤羽(アカバネ) 大峰(オオミネ) 氷沢(ヒノサワ) 上ノ台(ウエノダイ) 畑合(ハタアイ) 中原(ナカハラ) 沼田(ヌマタ) 薊谷(アザミヤツ) 小嵐(コアラシ) 早崎(ハヤザキ) 大塚(オオツカ) 大坪(オオツボ) 漂ノ浜(ヒョウノハマ) 小塚(コヅカ) 間口(マグチ) 神官免(ジンガンメン) 笠掛(カサガケ) 御手洗(ミタライ) 西唐沢(ニシカラサワ) 東唐沢(ヒガシカラサワ) 百目(ヒャクメ) 御手洗山(ミタライヤマ)

 東京湾口の要地として知られ、この洲崎で内房と外房に分けられています。江戸初期の里見氏治政下では、里見家一門の御隠居様の知行地で、村高130石でした。江戸後期には、房総沿岸を測量にきた伊能忠敬が洲崎で逗留しています。また文化年間には村内早崎に松平定信によって砲台が築かれ、定信が巡視にきています。明治元年の村高は109石余。安政元年から明治3年にかけて僧侶の洲崎義成が寺子屋を開き、明治7年には綿鍋仁右衛門を世話役に洲崎小学校が開校しています。神社は元県社の洲崎神社、寺院は観音寺(養老寺)があり、他にお堂が1ヶ所あります。

坂田(ばんだ)

塩浜(シオバマ) 石溝(イシミゾ) 向原(ムカイバラ) 上ノ原(ウエノハラ) 亀ノ谷(カメノヤツ) 東曽根(ヒガシソネ) 海田(カイダ) 下原(シモバラ) 嶋田(シマダ) 尾墻(オガキ) 尾畑(オバタケ) 丸越(マルコシ) 畑中(ハタナカ) 油入(アブライル) 元取島(モトロジマ) 浜田(ハマダ) 宮城(ミヤギ) 獺浦(カワウソウラ) 長入(ナガイレ) 大ヶ勢(オオガセ) 作田(サクダ) 清水(シミズ) 西曽根(ニシソネ) 川ノ上(カワノウエ) 八十田(ヤソダ) 八十畑(ヤソバタ) 西ノ谷(ニシノヤツ) 万竹(マンチク) 中ノ谷(ナカノヤツ) 東谷(ヒガシヤツ) 山野尾(ヤマノオ)

 明治22年に西岬村が成立する直前の明治17年に、数ヵ村を管轄する戸長役場がおかれたとき、坂田を境に坂田から香までの8村を一括する戸長役場と、洲崎から坂井までの6村を一括する戸長役場がおかれていました。その後の東小学校と西小学校の通学区の区分はこれに応じたものです。江戸初期の里見氏治政下では、里見家一門の御隠居様が知行し、村高189石余。明治元年には160石余。神社は熊野神社、寺院は実蔵院と西方寺があり、西方寺には幕末に海防の任にあった白河藩士の墓があります。

波左間(はざま) 

名郷浦(ナゴウラ) 加賀名下(カガナシタ) 下原(シタハラ) 堀合(ホリアイ) 名郷(ナゴウ) 五反田(ゴタンダ) 古谷(コヤツ) 石田(イシダ) 八丁地(ハッチョウジ) 郷堂(ゴウドウ) 君田(キミダ) 稲荷前(イナリマエ) 久保(クボ) 加茂越(カモゴエ) 中山(ナカヤマ) 宮畑(ミヤバタ) 上前田(カミマエダ) 下前田(シモマエダ) 戸越(トゴエ) 和田(ワダ) 芳際(ヨシギワ) 下砂間(シモスナマ) 上砂間(カミスナマ) 不戸(フド)

 波左間の集落部は周囲を山に囲まれ、海に面した地域で、その地名は狭間(はざま)によるといわれています。漁業中心の村落ですが、江戸初期の里見氏治政下でもすでに村高251石余あり、里見家一門の御隠居様が知行していました。江戸時代後期の文化文政期になると、白河藩主松平定信が東京湾の海防のために波左間に陣屋を築きそこを松ヶ岡と称していました。明治元年の村高は219石余でした。同6年には児島太右衛門を世話役に波左間小学校が開校しています。神社は諏訪神社で弘化2年の手水鉢がみられ、神社の手前が光明院で、安房の名彫工後藤義光の作品が本堂向拝にほどこされています。その他海岸よりに観音堂があります。

加賀名(かがな) 

富沢(トミサワ) 水池(ミズイケ) ミゾノ添(ミゾノソイ) 天沼(アマヌマ) 小作(コサク) 上ノ台(ウエノダイ) ソフケ谷(ソウガヤツ) 堰谷(セキノヤツ) 堰下(セキシタ) 中ノ坪(ナカノツボ) 伊戸越(イトゴエ) 羽出山(ハデヤマ) 鳳作(ホウサク) 西ノ坪(ニシノツボ) 山そヶ谷(ヤマソガヤツ) 川田(カワタ)

 早物と同じように海岸をもたない農業中心地で、明治元年の村高は126石余。江戸時代初期の里見氏治政下では、廿人衆頭の本間宮内が知行していた村で、その時の村高は182石余です。神社は熊野神社があり、境内にはやぐらと嘉永2年の石燈籠をみることができます。またやぐらの中には一石でつくられた五輪塔もあります。宗教法人の寺院はなく、お堂が村はずれにあります。