館山市稲にある標高64mほどの丘陵で、北を流れる滝川を自然の濠とし、城山と呼ばれる主郭部と、その南に続く舌状小丘陵からなる。土塁や堀切り、曲輪などの遺構をはじめ、「水往来」とよばれる切割の道や、「西門」「要害」「堀ノ内」などの地名が残り、裾部には室町後期の五輪塔や宝篋印塔も散在している。
北東2kmの地点に安房国府をとらえ、それを眼下に鏡が浦までの沖積平野を見渡す位置にある。安房の中枢部を押さえる要衝の城であり、領域支配の性格を持った城である。
里見氏は白浜から長田城を経て、この稲村へ移ったとされ、里見成義から義通、実堯、義豊までの居城だったという。ここに城を取り立てたことは、里見氏が安房制覇を果たしたことと切り離しては考えられない。ここで安房支配を確立し、上総進出の足掛かりをつくっていったのである。
しかし天文2・3年(1533・1534)に里見一族内の権力争いの舞台となり、庶流の義堯が家督を握って居城を平群にうつすと、稲村城は廃城になったと伝えられている。