富浦町大津の城山と呼ばれる標高183mの山城で、滝田城へは尾根続きで2.5kmほどである。山頂からは海まで見渡せる。
天文6年(1537)に里見義堯が平群郡内にいたことが知られており、その場所を滝田城とするのが有力であるが、年末詳の里見義堯書状が大津より出されており、宮本城にいたことも確認できる。軍記物では家督相続前の里見義豊が在城していたことも伝えており、里見氏にとっては安房での重要な拠点となる城だったようである。
その城の様子を鳥瞰図で表してみたが、主郭となる山頂を中心に階段状の広い郭と数多くの腰曲輪が張り巡らされている。土塁や堅堀の遺構も見て取れるだろうか。
宮本城跡(富浦町)
宮本城概念図
(作図.松岡進氏)
(提供.天津小湊町町史編さん室)
◇◆ 城郭用語一口メモ(1) ◆◇
-郭・曲輪(くるわ)-
削平された一区画のことで、山城の場合傾斜面を削り、低い面に盛り上げて平らにする。周囲に土塁を築くこともあり、主要な曲輪には建物が建てられたりする。そのこへの直接攻撃を防ぐため、その周囲の低い斜面に小さな曲輪を造る。それを腰曲輪という。