館山市館山にある城山とよばれる標高65mの独立丘を中心とする城郭で、広い館山湾に面している。
天正18年、豊臣秀吉の小田原攻城に遅れて参陣した里見義康は、勘気を受けて上総の所領を没収され、安房一国の領国経営に専念する時代を迎えた。翌年、高の島湊を手前にひかえ、内湾と平野を見下ろす館山に居城を移し、城のふもとの真倉郷の一部を割いて城下町の建設にも着手した。これによってようやく本城が定着し、家臣・民衆の城下集住をうながし、近世大名としての領国経営の基礎をつくりだすのだが、慶長19年(1614)次代の忠義の時、伯耆国倉吉への移封を命じられ、館山城は破却されてしまった。
城は平山城形式で、東西および北面は急崖による天然の要害とし、岩盤を垂直に切り立てた部分もある。東から北にかけては人口の濠がめぐらされた。南側中腹の義康の御殿跡とされる郭からは各種の陶磁器片が出土し、主殿に類似した建物址も確認されている。
義頼時代の天正年間からすでに在番の衆が置かれ、天正12年(1584)には商人岩崎氏が隣郷沼之郷で屋敷を与えられていることから、海の番城としてまた流通の拠点としても利用されていたことが窺える。
慶長19年(1614)9月9日、里見忠義は幕府による移封の名のもと、配流同然で館山を出ていくことになった。大阪の豊臣氏攻撃をひかえた幕府軍は、13日には内藤家長の指揮のもと城受取りに現れている。下掲の書状からは、18日には本多・嶋田の幕府役人が忠義たちの荷物を運び出す段取りをしていることがわかる。早々に城は破却されてしまった。
館山城跡(館山市)
13.里見義頼書状
館山市立博物館蔵
城崖跡
空掘跡
15.館山城跡出土遺物
(館山市立博物館蔵)
陶磁器片(灰釉小皿、白磁片、青花碗片、緑釉皿片等)
灯明皿
カワラケ・ほうろく片・土錘
石臼片
淡黄緑釉茶碗
天目茶碗片
(白く見える片は高度の熱で焼けたもの)
瓦片
丸瓦片
刀子
◇◆ 城郭用語一口メモ(3) ◆◇
-堀切(ほりきり)-
山城に見られる空堀で、連続する峰や長い尾根を、鉈で切ったように直線的に区切ったもの。主要な曲輪の連続性を遮断し、敵の攻撃も断ち切る。また山の傾斜面を利用しての敵の侵入を防ぐために斜面に垂直に掘った空掘もあり、竪堀(たてぼり)という。