小櫃川と養老川の下流域にある中間台地の先端で、東京湾に面する位置にある。市原市椎津の城山と呼ばれる標高31mの小丘陵である。
天文初期には真里谷信隆が在城して武田氏内訌の舞台となったが、天文21年(1552)、後北条氏と通じる真里谷氏は里見義堯によって滅ぼされたという。しかし里見氏も長くはこの城を維持できず、永禄3年(1560)には後北条氏による城の大改修が行われている。永禄12年には、市川・松戸まで進軍した里見勢が椎津まで退去してきたことが知られ、天正4・5年(1576・1577)になると、北条氏政が千葉氏一族の高城氏を椎津の番手に置くなど、里見氏と後北条氏とのあいだで、めまぐるしい攻防の的となった城である。
二重の堀切で2郭を形成し、境川を自然の濠とする。発掘調査の結果、16世紀の中頃に主郭とニノ郭で大規模な火災があったことが確認されている。
椎津城跡(市原市)
2.上総国市原郡椎津古城之図
國學院大學図書館蔵
28.北条氏政書状
千葉市立郷土博物館蔵