修行のために諸国を遍歴して歩く雲水僧のように、江戸時代には諸国を行脚しながら各地の俳人と交流することが盛んに行なわれました。旅に明け暮れた芭蕉にならい、蕉風の俳諧はこの行脚によって地方に広がり、多くの人々に浸透していきました。
遍歴しながら地方の宗匠クラスの俳人を訪ねて句作を交わし、生活の糧を得ながら実力をつけていく俳人は行脚(あんぎゃ)とか雲水と呼ばれました。そして俳人同士の交流を「風交」と呼びます。
地方の俳人も伊勢参宮などの寺社参詣の機会に、名所を巡りながら句作をかさねたり、松島行などの芭蕉の足跡をたどる旅を盛んに行ないました。
11.『行脚掟』 安西明生氏蔵
己を慎み他を思う、行脚の心得17か条が記された『行脚の掟』の写。芭蕉の作と伝えられている。
芝山町近辺の耕庵鶴寿という69歳の俳人が、小湊誕生寺へ参詣をしたときの旅日記。内房から那古寺を経て外房へ廻り、清澄・小湊から北上して帰郷した20日間の旅だが、諸所で句を作っている。
先次亭のもとへ信州松代から訪問して来た俳人白兆老人を紹介する文面。「もしあなたのもとへ立ち寄ったらよろしく風交してください。着衣は汚れ頭髪も束ねて驚くような風体なので門前払いをしたくなるが、心根は見かけと違うようだ。」と伝えている。
雪中庵蓼太の門人で化政期に江戸の重鎮だった八朶園蓼松に師事した江戸の俳人一円窓欣月の句集。安房に住むようになって房総三国を遊歴、安房をはじめ風交した各地の俳人の句を集めている。序文は江戸の小青軒抱儀、跋文は大津(富浦町)の白梅居平島香雪が記している。安政3年(1856)刊。
16.老鼠堂永機句幅 明治32年(1899) 安西明生氏蔵
東長田(館山市)の安西谷水は隠居をした67歳のとき、関西を遊歴して京・大坂の俳家を訪い、見聞を広めてきた。写真16は帰途東京の俳家穂積永機のもとを訪れて揮毫してもらった遊歴記念の書。写真17は江戸材木町で庵を結んだ梅之本為山の門人其葉が、はじめて谷水に風交を求めてきた挨拶状。
川戸(千倉町)の修験僧文殊院頼充こと俳人竹坡が、30歳のとき京都を中心に関西を遊歴した日記。各所旧跡を訪ねて句をつくり、また各地の句碑などを記録している。