芭蕉を敬愛する俳人たちが江戸時代以来全国に建てた芭蕉の句碑は、2500基にも及ぶといわれています。芭蕉の供養と神格化された芭蕉の礼拝という意味があるもので、蕉風俳諧が浸透し地方の俳壇が活性化していく様子を知ることができる貴重な資料です。
この普及に一役買ったのが近江国大津の義仲寺で、宝暦11年(1761)以来、各地から芭蕉句碑建立の申告をうけ、諸国の芭蕉碑を紹介する『諸国翁墳(おきなづか)記』を増補しながら小刻みに刊行し続けていました。
安房地方で『諸国翁墳記』に記載されているのは2基だけですが、現在18基の芭蕉句碑が確認されています。個人や数人での建立もありますが、連などのグループによる建立が多くみられます。また地域の有力俳人の徳を偲んで、門人たちが句碑を建てることも行われました。
館山市大神宮.小塚大師の雉子塚
<父母のしきりにこひし雉子の声>
安永4年(1775)10月に、紀伊国の塩路沂風が高野山に建立した芭蕉句碑の模刻。明治31年(1898)、小塚大師の裏山に弘法大師八十八か所霊場の写しがつくられた時のものと思われる。
3.雉子塚拓本(表) 剣持加津夫氏蔵
4.雉子塚拓本(裏) 剣持加津夫氏蔵
館山市亀ヶ原.新御堂跡の陰徳塚 碑銘が摩滅しているが、下の『諸国翁墳記』の記述と掲載されている箇所から、本織村の関口瑞石を中心とする竹之友連が、寛政5年(1793)の芭蕉百回忌を記念して建立したと考えられている芭蕉句碑。現在は新しい石板の句がはめ込まれている。
<人も見ぬ春や鏡のうらの梅>
『諸国翁墳記』(二十七丁) 成田山仏教図書館蔵
丸山町大井.大徳院の芭蕉句碑
<鐘つかぬ里は何をか春のくれ>
碑銘にはないが、文化6年(1809)、勝山村の盲俳人呂風による建立であることが確認されている。
館山市那古.那古寺の芭蕉句碑
<此あたり眼に見ゆるもの皆すヽし>
芭蕉百三十回忌の文政6年(1823)、竹原村の彡戒・山本村の文守・南条村の松涛・白浜村の里遊、ほか白亀・好山の6名が世話人となって建立した。
白浜町白浜野島崎.厳島神社の芭蕉句碑
<あの雲は稲妻を待たよりかな>
境内に同じ句で3基建てられている。右が天保4年(1833)8月に、久保村の井上杉長の子宇明と門人石井平雄・長性寺方壺など6名が、杉長の供養塚「杉長墳」と同時に建立したもの。左は古碑の風損により明治19年(1886)5月、恩田豹隠の書で再建されたもの。ほかに両碑の風化をうけて昭和44年(1969)に建立された句碑がある。
鴨川市北風原.安国寺の芭蕉句碑
<此あたり目に見ゆるものみな涼し>
二世武橘菴橘叟が天保7年(1836)6月、安国寺住職の雨笠・大幡の雪丞・寺門の米寿らの協力を得て建立した。橘叟は下碑の鳥周と同一人物。
鴨川市太海浜.仁右衛門島の芭蕉句碑
<海暮て鴨の声ほのかに白し>
天保11年(1840)3月、磯村の日々房尾崎鳥周が中心となり、如松庵双鳩・此杖菴寛雪とともに鳥周率いる常盤連のメンバーで建立した。
鴨川市西.蓮華院の芭蕉塚
<雪をりヽヽ人を休める月見哉>
芭蕉の句を中心に「雪月花」の三句を並べているが、左右の句は磨耗が激しい。弘化2年(1845)冬の79歳某による建立と刻まれているが、右の『諸国翁墳記』に催主はト山・翠斎とある。
5.『諸国翁墳記』(五十一丁) 成田山仏教図書館蔵
館山市正木.諏訪神社の芭蕉句碑
<此神もいく世か経なむまつの花>
文久3年(1863)3月、諏訪神社神主の関風羅はじめ正木村の丘連18名と、この連を率いる雨葎庵高梨文酬によって建立された。
鋸南町大崩.西根の芭蕉句碑
<いさヽらは雪見に転ふところまで>
大崩村の柚の本鈴木亀甲が、明治10年(1877)10月に建立した。
鴨川市宮山.宮山神社の芭蕉句碑
<春なれや名もなき山の朝霞>
明治18年(1885) 10月、宮山村近在の籬(まがき)社の社中が建立した。
鴨川市平塚.大田代の芭蕉句碑
<野を横に馬引むけよほとヽきす>
明治19年(1886)4月、地蔵尊の傍らに平塚村の大田代連が建立した。
館山市那古.那古寺の芭蕉句碑
<春もやヽ気色とヽのふ月と梅>
4年後の芭蕉二百回忌を見越して、明治22年(1889)4月小原の山口路米が発起人となり、内房地域の俳人139名の協力で建立された。
鴨川市上小原.白滝不動尊の芭蕉句碑
<ほろヽヽと山吹ちるか滝の音>
上小原の伊丹凌雲・田村一梅など、籬連の24名により、明治24年(1891)正月に建立された。