指導者である宗匠を中心に連と呼ばれるグループの仲間(連衆)が集る句会を月次(つきなみ)俳諧といい、定例的に行なうものがありました。また企画ものとして、宗匠などが催主となって句題を出し、一般から句を募集して宗匠が点をつけ結果を公開する、月次句合と呼ばれる興行も頻繁に開かれ、そのときにも運座という句会がもたれました。出句者の作品は清書された詠草本となって宗匠に点を付けられ、高点者には景品、最高点の者には採点された詠草本も褒美になりました。
宗匠は地域にもいましたが、江戸の有名宗匠に依頼する地域もありました。
19.布良連の採点帖 当館蔵
豊房地域周辺の人々が参加している初心連の月次句合での、撰者を依頼した挨拶状。明治年間。
21.点印 川原晋氏蔵
点者・判者とよばれる宗匠が、作品を評価する点をつけるときにつかった印鑑を点印という。写真21は澹泊園のすみれの点印。
写真22で評点を加えた澹泊園竹坡が中央に使っているのがこの点印。
22.雪香の詠草 安政2年(1855) 川原晋氏蔵
21.澹泊園竹坡の雅印 川原晋氏蔵
23.安西谷水の詠草 幕末 安西明生氏蔵
写真23は愛梅居鈴木あや雄宗匠に添削を依頼した安西谷水の詠草。表紙に質問が書いてある。
24.清狂社句合詠草(明治年間)
安西明生氏蔵
東長田周辺の俳句結社「清狂社」が北条の稽古堂盛岡木鵞に加点と批評を依頼し、返送されてきた詠草。
42.『梅人句集』 加藤定彦氏蔵
芭蕉の門人杉風の流れを汲む江戸の採茶庵平山梅人の遺句集。文化4年(1807)に久保村(千倉町)の井上杉長、平磯村(千倉町)の山口郁賀・観養院宗拱、安馬谷村(丸山町)の芝英園莫非はじめ安房の門人たちが編集刊行した。
60.『昨露集』 加藤定彦氏蔵
川合村(千倉町)地蔵院の也草の遺句集。文化13年(1816)に友人の井上杉長・岡田村(館山市)の其則が著した。門人に沼村(和田町)沼蓮寺三斎・安馬谷村(丸山町)の竹由などがいる。
芭蕉の門人嵐雪にはじまる雪門から分かれた一派<東都一家嵐雪門>を継ぐ蹄雪庵前田伯志が、門人雨宮卓堂を宗匠として認め、伯志の師匠が使用していた不黒庵の号を与えた免状。安房地方でも昭和のはじめまでは多くの俳系で師の庵号が引き継がれていた。
天保4年(1833)2月、沼村(和田町)沼蓮寺の七浦庵で、武蔵行脚に赴く俳人素隠のせん別のため、正式俳諧の連歌会が興行された。平館村の石井平雄を宗匠にさまざまな役割に分かれ、16名の連衆が参加している。
地方では発句のみの点取り俳諧が好まれたが、複数で句を詠み合う連句が正式な俳諧。そうした連句の会席では進行の作法や連衆の心得などが決められており、それにのっとって表向きはのどやかに実体は速やかに会が進行された。
会席での座席、文台や硯箱・盆香炉などの道具の置き方にも作法がある。上の図は前田伯志の<東都一家嵐雪門>が伝える二条流の俳則。
28.天神名号 当館蔵
俳諧の会席では、連歌の神である菅原道真の画像か「天満大自在天神」などの神号を床に掛ける。写真の掛物は布良村で使われたもの。天保8年(1873)、館山藩儒者新井文山の書。
29.文台 安西明生氏蔵
30.文台伝来記 安西明生氏蔵
俳諧の宗匠として認められると文台を与えられる。これを立机といった。文台は宗匠の位を象徴する道具で、俳席では執筆の前におかれて進行上の中心的な役割をする。写真30は江戸の葎雪庵午心から甘雨亭介我、蹄雪庵伯志へと受け継がれた文台を、河上風子へ譲った際の伝来記である。
布良連(館山市)で催した月次句合の採点帖。布良崎神社や感満寺不動尊・蔵王権現などの奉灯を名目にしたものが多いが、採点をしているのは館山から江戸へ出た老梅居あや雄・朝夷郡の瓢庵・北条の稽古堂木鵞・鋸山の無漏庵無漏など安房の宗匠だけでなく、為誰庵由誓・狐山堂卓郎・月之本為山などの江戸宗匠に依頼しているものもある。