江戸には立机をして宗匠となり、作品に点をつけて謝礼(点料)を取り生活をする、業俳というプロの俳人が大勢いました。一門を経営するためには指導を乞う人々を大勢確保することが必要であり、行脚をしながら地方へその勢力をひろげていく宗匠たちもいました。
江戸の宗匠に師事した俳人は、地域のリーダーとして連を率いたり、後継者を育てる役割などを担いました。彼らは地域宗匠として安房地域各地で広範囲に月次句合などの撰者として活動することで、安房の地域を政治や経済だけでなく、文芸文化を通して地域のまとまりをつくりあげていきました。
鋸南町大崩.満蔵寺の素丸句碑
【其日庵素丸】 溝口素丸は葛飾派の蕉門で其日庵三世を称した。葛飾派は芭蕉の友人山口素堂の流れで、其日庵はその本流。文政10年(1827)にこの句碑を建てた大崩村満蔵寺の住職買風や、寛政2年(1790)に鋸山日本寺に素丸の師である其日庵二世長谷川馬光の句碑を建てた元名村の岩崎児石も門人。『歳旦帖』には、鋸南地域の元名連・市井原連・小保田連・吉浜連・勝山連と、那古・正木を含む千代(三芳村)連が句を寄せており、広く内房に勢力を浸透させた。寛政7年(1795)没。
【田喜庵護物】 田喜庵は谷川護物といい、春秋庵白雄門の鈴木道彦の門人。芭蕉の門人岩田涼菟の伊勢派の流れを汲む。宛名の露守は船形村大福寺(崖観音)の住職。護物の門人露取が安房方面へ行脚に出たので、心置きなく風交してほしいと奨めている。また文政5年(1822)から刊行をはじめた田喜庵の春帖『梅文庫』が、例年どおりに刊行されたことを伝えている。弘化元年(1844)没。
【採荼庵梅人】 平山梅人は芭蕉の門人杉山杉風からの流れで、二世白兎園宗瑞の門人。二世採荼庵と称す。久保村(千倉町)の井上杉長はじめ、平磯(千倉町)・安馬谷(丸山町)など朝夷地域に門人を抱えていた。この句集も安房の門人たちの編集で刊行されている。享和元年(1801)没。
また本織村(三芳村)には二世白兎園宗瑞の門人関口瑞石がいた。
千倉町平磯.観養院の梅人塚 享和2年(1802)
この梅人塚は門人である観養院住職の宗拱が梅人の一周忌に建立した。<蜀魂(ほととぎす)鳥の声皆老にけり>の句が刻まれている。
43.『芳春帖』 寛政10年(1798) 当館蔵
【雪中庵】 雪中庵で年頭の句を披露した春帖。雪中庵は芭蕉の門人服部嵐雪を祖とする雪門の主流。門下の房州麓浦連10名がみえる。どの地域の連であるかは不明だが、雪門も安房に入り込んでいたことがわかる。
38.万里『旦暮帖』 文化12年(1815)
加藤定彦氏蔵
【採荼庵万里】 採荼庵の四世を継いだ太田万里は、二世梅人の人脈を受け継いだ。『旦暮帖』には杉長や宗拱などの門友のほか、天津小湊町域の天津連や朝夷地域を中心とした安房連の俳人たちが句を寄せている。
【為誰庵由誓】 撰者の豊島由誓は其角門の稲津祗空の流れにある四時観派夏目成美の門人。天保期の江戸俳壇の一角を担った宗匠で、安政6年(1859)没。
この採点帖は神戸富崎地域を中心とした布良連による、牛頭天王奉灯句合の撰者を務めているもの。参加者の中には魚問屋が軒を並べる江戸本船町の一輪という人物がいる。漁村である布良と江戸の宗匠を結びつける人物であろうか。布良連には江戸の宗匠に撰を依頼した月次句合が多い。
45.安西谷水宛関為山書状 安西明生氏蔵
44.布良崎神社奉灯句合採点帖 明治10年(1877) 当館蔵
【月之本為山】 伊勢派の小寺希因の流れである関西の桜井梅室の門人。館山藩の鈴木あや雄の師であり、あや雄に師事する東長田村の安西谷水もあや雄なきあとは為山の教えを受ける。上の書状は添削した詠草を返却するという内容。明治11年(1878)没。
46.関為山短冊 安西明生氏蔵
46.岸弘美短冊 安西明生氏蔵
【檉斎弘美】 為山の門人。上の書状は、遊歴の俳人が季語の使い方で谷水に異論を言ったことで相談を受けた返答「つまらぬ事申し立て人をおどかす当世の遊歴がままある」とのこと。 明治28年(1895)没。
46.三森幹雄短冊 安西明生氏蔵
【春秋庵幹雄】 春秋庵は伊勢派のうち加舎白雄が安永9年(1780)におこした俳諧流派で、幹雄は十一世。明治期の旧派俳諧の中心的人物として知られる。明治期には安房でも指導をうける俳人が多く、月次句合の選者に依頼したケースも多い。明治43年(1910)没。
48.四世近藤金羅短冊 山口国男氏蔵
【夜雪庵金羅】 夜雪庵は其角門の稲津祗空の系統で、18世紀後半から夜雪庵金羅として続く。夜雪庵四世近藤金羅は幹雄とならぶ勢力をもち、月次句合の撰者として活躍した。