<安房の俳人たち>

 江戸時代中期以降の安房地域の俳人は、複数の作者の句が掲載される選集などで確認することが出来ます。また奉額と呼ばれる社寺への奉納俳諧額にも、地域の俳人が大勢顔を揃え、俳諧の広がりをうかがい知ることができます。そうしたなかから宗匠として地域リーダーの役割を果たしていた人々を中心に、昭和初期までの俳人たちを紹介します。

56.奉納俳諧額 文政8年(1825)  湯浴堂蔵
56.奉納俳諧額 文政8年(1825)  湯浴堂蔵

《湯浴堂の奉額》 不入斗村(富山町)の心画という俳人が催主となり、村内の友人8人が補助として奉納した。船形村大福寺の臥猪庵露守が撰者を務めている。近隣の友人24人のほか、安房地域の広範囲にわたって主要な地域宗匠の名が見られる。伊勢桑名に転居した井上杉長はじめ、磯村の尾崎鳥周・平館の石井平雄・下滝田の智恩院台重・宮下の素共・山下の無量院百羅・本織の関口馬適・谷向の鈴木木章・金尾谷の吉田文茂・勝山の武田風至・大崩の満蔵寺買風などであるが、江戸の俳人も小林一茶をはじめ、信州出身の月院舎何丸・八巣庵蕉雨、何丸の庇護者小青軒抱儀、一茶と師を同じくする夢々庵玄阿が句を寄せていて、一茶との関わりのある俳人が多い。

56.同上奉額頌(奉納由来記)

56.同上奉額頌(奉納由来記)

 湯浴堂の額を奉納した由来を書いたもの。催主の心画が思い病の床にあったとき、夢に薬師が現れ俳句を捧げている自分の姿を見たところ、病が癒えたとして感謝している。高崎の湯浴堂は温泉を備える薬師堂だった。

57.『房陽郡郷考』 嘉永3年(1850)  千葉県立中央図書館蔵

57.『房陽郡郷考』 嘉永3年(1850)  千葉県立中央図書館蔵
 国学者であり俳人である木更津の鳥海酔車が著した安房国の地誌。巻末の付録には安房の俳人151人の作品が郡別に並んでいる。

58.『国分集 安房之部』 弘化3年(1846年)  船橋市西図書館蔵(無断転載禁止)
58.『国分集 安房之部』 弘化3年(1846)  船橋市西図書館蔵(無断転載禁止)

《国分集安房之部》 安房の俳人208人が作品を寄せている選集で、弘化3年(1846)に笠栖素行という俳人が刊行した。素行については不明。安房国正木村(館山市)の桂庵高梨文酬の書で、江戸の為誰庵由誓の序が記されている。「人名録」があり、俳人の村名ほか別号や姓の記載がある俳人もいる。

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38.万里『旦暮帖』(宗拱三節)   加藤定彦氏蔵

38.万里『旦暮帖』(宗拱三節)   加藤定彦氏蔵

【摩尼窟宗拱】 法印寛榮。朝夷郡平磯村(千倉町)坂本家に、宝暦8年(1785)に生まれる。平磯村観養院十四世住職。江戸の二世採荼庵梅人の門人。特冑庵。享和2年(1802)に境内へ梅人塚を造立。文化14年(1817)11月3日没。60歳。宗拱編の『摩尼屑』が山口郁賀の校正によって文政6年(1823)に刊行されている。

54.杉長短冊   座間恒氏蔵

54.杉長短冊   座間恒氏蔵

【瓢庵杉長】 井上良珉。明和7年(1770)、朝夷郡久保村(千倉町)生まれ。井上四郎兵衛の子。医師。二世採荼庵梅人の門人。別号九華。一茶の二度の訪問をうける。享和3年(1803)、梅人の三回忌集『水の音』編。文化4年(1807)、『梅人句集』編。文化8年に隠居し、房総海岸警備の任にあった白河藩の梅ヶ丘陣屋(千倉町白子)に医師として出仕、文政3年(1820)に家臣となり、文政6年の桑名移封に従う。文政11年(1828)2月15日に桑名で没。59歳。戒定院解脱良恵居士。文政5年、安馬谷の福性院に門人竹由による杉長句碑、天保4年(1833)には野島崎に門人宇明・平雄・方壺・杉奴らによる杉長墳と句碑が建てられている。辞世「蝶を追ふこころもちたしいつまても」。墓は雲龍寺。

59.井上杉長肖像画   井上薫夫氏蔵

59.井上杉長肖像画   井上薫夫氏蔵

60.臥猪庵露守宛井上杉長書状  常光寺蔵

60.臥猪庵露守宛井上杉長書状
 常光寺蔵

42.『梅人句集』(都賀の序)  加藤定彦氏蔵

42.『梅人句集』(都賀の序)  加藤定彦氏蔵

【野松庵郁賀】 山口善右衛門。朝夷軍平磯村(千倉町)の人。和田義盛の末裔を称す。二世採荼庵梅人の門人。文化4年(1807)、『梅人句集』を杉長と共編。同年に宗拱と『花声集』を共編刊行。文政10年(1827)6月3日没。實智明範居士。

54.莫非短冊   座間恒氏蔵

54.莫非短冊   座間恒氏蔵

【芝英園莫非】 安馬谷村(丸山町)の人。二世採荼庵梅人の門人。『梅人句集』の跋文を書いている。詳細不詳。

61.也草遺句集『昨露集』  加藤定彦氏蔵
61.也草遺句集『昨露集』  加藤定彦氏蔵

【昨露庵也草】 法印良戒。天明元年(1781)生まれ。朝夷郡川合村(千倉町)地蔵院十一世。権大僧都。字は孝順。文化13年2月6日没。36歳。同年、岡田村の其則・井上杉長によって追善の遺句集『昨露集』が刊行されている。門人に竹由・三斎・等輯。辞世「夕暮のかねも命もつきはてヽなりたきまヽになる我身かな」

和田町沼.沼蓮寺の三斎句碑

和田町沼.沼蓮寺の三斎句碑

【七浦庵三斎】 法印道瑜。朝夷分川戸(千倉町)生まれ。鈴木安左衛門の子。字は智洞。朝夷郡沼村(和田町)の赤坂山沼蓮寺十四世。川合村地蔵院の也草門人。天保10年(1839)11月17日没。翌年8月に尾崎鳥周・石井平雄・井上宇明らにより浜波太村に句碑が建立される。三回忌には小戸連・沼連が催主となり、沼蓮寺境内に句碑を建立。「隔たるや月には山のよい程に」

62.元亥追善集『月嶋集』   正木高明氏蔵

62.元亥追善集『月嶋集』   正木高明氏蔵

【二世瓢庵元亥】 朝夷郡平館村(千倉町)の人。二世瓢庵を名乗る。のち牧野菊由に譲って月嶋舎と称す。菊由が七回忌に追善句集『月嶋集』を刊行。平館の石井平雄が改名したと思われるが、不詳。

63.元亥の採点帖   当館蔵

63.元亥の採点帖   当館蔵

54.元亥短冊   座間恒氏蔵

54.元亥短冊   座間恒氏蔵

【瓢庵平雄】 石井宇門。朝夷郡平館村(千倉町)生まれ。石井新兵衛の子。医師で、画・彫刻にも長じる。井上杉長の門人。杉長の瓢庵を継いでいる。文政6年(1823)、同門竹由の『竹由発句集』編。元治2年(1865)2月21日没。仁徳平雄居士。畑(館山市)の瑞龍院には孫乙次郎が明治33年(1900)に建立した句碑がある。「澄かきりすむや河鹿のゆふ流」

64.閑々追善集『月の名残』万延元年(1860)  吉田毅氏蔵
64.閑々追善集『月の名残』万延元年(1860)  吉田毅氏蔵

【澹泊園閑々】 法印栄道。天明7年(1787)、朝夷郡川戸村(千倉町)生まれ。本名は吉田勘左衛門。井上杉長の門人。二世瓢庵元亥より澹泊園の号を贈られる。のち剃髪して瀬戸村(千倉町)建仁寺の住職となる。権大僧都。万延元年(1860)3月19日没、74歳。同年、門人の二世澹泊園川原竹坡が追善集『月の名残』を編む。辞世「西さしてたち江の舟や月明り」

丸山町西原.慈眼寺の福原素兆句碑

丸山町西原.慈眼寺の福原素兆句碑

【昂々堂素兆】 福原長兵衛。寛政2年(1790)、朝夷郡西原村(丸山町)生まれ。井上杉長の門人。杉長より昂々堂を継ぐ。安政2年(1855)1月22日没、66歳。本行院篤曼常阿居士。同年6月、西原の慈眼寺に四方連によって句碑が建てられた。「朧夜と見る間に竹の雫かな」

鴨川市磯村.石見堂の尾崎鳥周句碑

鴨川市磯村.石見堂の尾崎鳥周句碑

【日々房鳥周】 尾崎太玄。昭和7年(1770)長狭郡磯村(鴨川市)生まれ。医師。二世武橘菴橘叟、また如此菴とも称す。常盤連主宰。文化8年に常盤連で『春帖』を刊行。天保7年(1836)に北風原村安国寺、天保11年(1840)に仁右衛門島へ芭蕉句碑を建立し、天保15年に選集『松蔭集』を刊行。磯村の石見堂に自らの句碑を建立「此里の春や鴎が波の花」。嘉永4年(1851)没。82歳。

65.『松蔭集』天保15年(1844)

65.『松蔭集』天保15年(1844)
 船橋市西図書館蔵(無断転載禁止)

54.鳥周短冊   座間恒氏蔵

54.鳥周短冊   座間恒氏蔵

66.常盤連『春帖』   加藤定彦氏蔵

66.常盤連『春帖』   加藤定彦氏蔵

48.鈴木亀甲短冊   山口国男氏蔵

48.鈴木亀甲短冊   山口国男氏蔵

【万歳舎亀甲】 鈴木勘兵衛。平郡大崩村(鋸南町)、寛政10年(1798)生まれ。柚の本とも号す。明治10年に大崩村の西根へ芭蕉句碑を建立。裏面に自句を刻む。明治23年(1890)10月30日没、93歳。顕道亀甲信士。辞世「幸のよい天気になり秋の旅」

鋸南町大崩.満蔵寺の買風句碑

鋸南町大崩.満蔵寺の買風句碑

【北極庵買風】 法印圓蹄。平郡滝田村(三芳村)生まれ。平郡大崩村(鋸南町)の満蔵寺住職。権大僧都。其日庵三世溝口素丸の門人。北極連主宰。文政10年(1827)、北極連中により境内に素丸の句碑を建立し、裏面に自句を刻む。天保2年(1831)7月2日没。辞世「借ものの骸は置て秋は立」

67.鈴木あや雄夫妻肖像画   鈴木方子氏蔵

【老楳居あや雄(文雄)】 鈴木謙助。安房郡西長田村(館山市)、鈴木半左衛門家に生まれ、のち館山藩の稲葉正巳に仕える。初め伝市郎、のち謙助と称す。名は直方、のち敬義(のりよし)。江戸藩邸にも勤番。俳諧は梅閑人(月之本)為山の門人。別号は愛梅居、のち老梅居。江戸で夫人とともにコレラに罹って没したと伝えられる。文久3年(1863)7月28日没。恵眼院為覚浄眼信士。翌年7月に老梅居社中が館山仲町の長福寺で追善の句会を開催、および追善集「おしまつき」を刊行。

 68.鈴木あや雄追善集『おしまつき』

68.鈴木あや雄追善集『おしまつき』
元治元年(1864)  当館蔵

44.あや雄の布良連採点帖   当館蔵

44.あや雄の布良連採点帖   当館蔵

46.あや雄短冊   安西明生氏蔵

46.あや雄短冊   安西明生氏蔵

45.安西谷水宛鈴木あや雄書状  安西明生氏蔵
45.安西谷水宛鈴木あや雄書状  安西明生氏蔵

 江戸呉服町の館山藩上屋敷に勤番をしていたときの、藩内での俳諧流行の様子を伝えている。「お屋敷には点取俳人が二三十人もいて、夜中でも即点をやるといって句を取りに回って来るのが流行だ。みんな雪門風の取るに足らない者ばかりで、相談相手にもならない」と不満を述べている。

45.安西谷水宛鈴木あや雄書状(部分)  安西明生氏蔵
45.安西谷水宛鈴木あや雄書状(部分)  安西明生氏蔵

 安房の俳人について評を伝えている。「長須賀の涼甫は発句は上手だが盗句を第一にして身を入れない。担々は才能はあるが情がでない。一鳴は才能がなくにぶい。伯茂は物事に疎い。波佐間の波静はまだ駆け出しで取りどころがない。熱心に続ければ谷水に老梅居を譲ることも考えている」とある。

45.畑村(館山市)の鶯梅が谷水に加点を依頼している書状

45.畑村(館山市)の鶯梅が谷水に加点を依頼している書状
 安西明生氏蔵

【菫菴谷水】 安西甚右衛門。天保4年(1833)、安房郡東長田村(館山市)生まれ。明治4年家督を継ぎ、名主・区長・戸長を歴任。豊房村村長、西岬村村長。明治32年に引退して関西を遊杖する。俳諧は鈴木あや雄に師事して、のち北条の森岡木鵞・江戸の月之本為山・月之本素水・穂積永機に学ぶ。菫(すみれ)庵と号す。明治35年(1902)11月13日没、70歳。浄徳甚位居士。辞世「さし引いて総勘定や年の昏」

46.谷水短冊   安西明生氏蔵

46.谷水短冊   安西明生氏蔵

69.すみれ庵谷水の清狂社連採点帖   安西明生氏蔵

69.すみれ庵谷水の清狂社連採点帖   安西明生氏蔵

【稽古堂木鵞】 森岡半圭。文化11年(1814)、武州浅川在の小川村に生まれるという。天保年間から北条村(館山市)に住み、「房州方言歌仙」を編む。百拙とも号す。漢学者として知られる。明治36年(1903)10月4日没、90歳。大道院磨光半圭居士。墓は龍淵寺。

46.木鵞短冊   安西明生氏蔵

46.木鵞短冊   安西明生氏蔵

70.森岡木鵞の御庄連採点帖   岡崎淳氏蔵

70.森岡木鵞の御庄連採点帖   岡崎淳氏蔵

久保椿山肖像

【雲水堂椿山】 久保七左衛門。文政7年(1824)、長狭郡広場村上人塚(鴨川市)生まれ。仙寿斎とも号す。江戸で刊行される俳家番付にもしばしば顔を出し、知名度が高い。明治31年(1898)8月24日没。75歳。宝林院良軌椿山居士。三回忌に男久保扶桑が追善集を刊行。辞世「我の外旅人見えす秋のくれ」

45.久保椿山による返草

45.久保椿山による返草
 安西明生氏蔵

71.久保椿山追善集 明治33年(1900年)

71.久保椿山追善集 明治33年(1900)
 鈴木孝雄氏蔵

45.安西谷水宛久保椿山書状   安西明生氏蔵

45.安西谷水宛久保椿山書状   安西明生氏蔵

 谷水から椿山に作品の加点を依頼したところ、忙しいので遊歴人に選んでもらったことを伝えている。

72.山口梅寿古希選集「梅烟集」 明治20年(1887年)  鈴木孝雄氏蔵
72.山口梅寿古希選集「梅烟集」 明治20年(1887)  鈴木孝雄氏蔵

【松竹園梅寿】 山口五兵衛。文政元年(1818)、安房郡稲村(館山市)生まれ。村の筆取りを勤めた。算術(師は高橋幽斎)・筆法(熊沢猶龍)・歌道(上総伊藤正胤)・挿花(上総旭松菴一澄)・謡(福知山士族)を修め、俳諧は月之本為山に師事。諸国遊歴三十三か国に及ぶ。香月園ともいい、のち御庄の遠藤逸民に譲る。古希祝の選集『梅烟集』刊行。明治40年(1907)10月12日没、90歳。墓は稲村院。

48.梅寿短冊   山口国男氏蔵

48.梅寿短冊   山口国男氏蔵

73.角田江斎の寺谷連採点帖  鈴木孝雄氏蔵

【二世七浦庵江斎】 角田勘作。文政4年(1821)、朝夷郡下三原村(和田町)渡辺家に生まれ、のち中三原村角田勘四郎の養子となり、名主を継ぐ。俳諧は沼蓮寺の三斎に師事。60歳で隠居し、師の七浦庵を嗣ぐ。のち正文寺の座間●山に譲る。明治26年(1893)7月8日没、73歳。中道院甘露日住。次男佳一が明治28年に追善集『ちなみ集』刊行。墓は御塚。墓碑に『河豚しるやいきても鶴の十分一」

74.角田江斎追善集『ちなみ集』   鈴木孝雄氏蔵

74.角田江斎追善集『ちなみ集』   鈴木孝雄氏蔵

48.江斎短冊 山口国男氏蔵

48.江斎短冊 山口国男氏蔵

48.菊由短冊   山口国男氏蔵

48.菊由短冊   山口国男氏蔵

【三世瓢庵菊由】 牧野万右衛門。朝夷郡小戸村(丸山町)の人。平館の元亥より井上杉長の別号瓢庵を継ぐ。のち前田(丸山町)の小柴文園に譲って千歳庵と称す。弘化年間より作品がみえる。大正元年(1912)12月13日没。瓢庵菊由日然信士。

75.牧野菊由撰句扇面  岡崎淳氏蔵
75.牧野菊由撰句扇面  岡崎淳氏蔵
73.牧野菊由の寺谷連採点帖  鈴木孝雄氏蔵
73.牧野菊由の寺谷連採点帖  鈴木孝雄氏蔵
75.平島占魁扇面  岡崎淳氏蔵
75.平島占魁扇面  岡崎淳氏蔵

【自在菴占魁】 平島氏。平郡宮本村(富浦町)の人。江戸で豊後国岡藩の中川久昭に仕えながら、惺菴西馬に師事して俳諧を学ぶ。松島へ行脚。兄の死により帰郷し家督を継ぐ。明治26年(1893)11月25日没。自在庵翁占魁。辞世「しら蓮や一ツ二ツの明からす」

76.占魁句聯   生稲謹爾氏蔵

76.占魁句聯   生稲謹爾氏蔵

76.占魁短冊   生稲謹爾氏蔵

76.占魁短冊   生稲謹爾氏蔵

48.菱湾短冊   山口国男氏蔵

48.菱湾短冊   山口国男氏蔵

【甘実園菱湾】 田村園右衛門。平郡那古村(館山市)の人。屋号小新宅。江戸に出て孤山堂卓郎の書生として俳諧を学ぶ。椿山・占魁・百拙の句を含む『水かがみ集』を編む。幕末から明治中期に作品がある。

70.加瀬成文の御庄連採点帖   岡崎淳氏蔵

70.加瀬成文の御庄連採点帖   岡崎淳氏蔵

【三世昂々堂成文】 加瀬治郎右衛門。天保7年(1836)、朝夷郡西原村(丸山町)生まれ。井上杉長の別号昂々堂を岩糸(丸山町)の丸白磨から継ぐ。のち岩糸の和田杉甫に譲って蠖堂と号す。また美とり庵とも称す。明治43年(1910)12月31日没、75歳。和楽院顕道成文信士。

48.成文短冊   山口国男氏蔵

48.成文短冊   山口国男氏蔵

46.狸白短冊   安西明生氏蔵

46.狸白短冊   安西明生氏蔵

【晩翠居狸白】 小谷玄真。朝夷郡南朝夷村寺庭(千倉町)の人。明治30年代に作品がある。

63.小谷狸白の古茂口連採点帖   当館蔵

63.小谷狸白の古茂口連採点帖   当館蔵