明治20年代になって安房地方が保養地として知られるようになると、政治家や文化人などの来遊が多くなり、東京から転居をしてくる人々も現れてきました。明治28年(1895)に館山へ移住してきた東京の俳人前田伯志もそのひとりです。伯志は明治31年に都新聞が行なった俳諧十傑の全国投票で第九位に選ばれた俳豪で、大家に数えられる人物でした。明治33年刊行の『明治新撰俳諧百人一首』や明治45年の『明治俳家之俤』にも紹介されています。
初めて館山へ来遊したのは明治24年(1891)で、館山の北下台で下宿を営んでいた知友の金近虎之丞を訪ねてきたものでした。明治27年にも再度来遊すると、その翌年には館山に庵を構え定住してしまいます。知名度の高い俳人の来住は、安房の俳人たちの関心を集め、指導を乞う人たちが伯志の周りに集まりました。やがて安房地方の俳人の交流を深めるため、360人に及ぶ安房の俳人名簿がつくられ、俳人のネットワークが広がっていくことになりました。
【蹄雪庵伯志】 前田國橘。天保元年(1830)生まれ。幕府旗本で、御馬医。戊辰戦争で上野・函館を転戦したのち、明治5年頃に新政府の陸軍獣医官になる。西南の役に従軍し、明治19年退官。三等獣医正、従七位。公務で各県の名所旧跡を巡る。
俳諧は天保13年(1842)、雪門の暉雪庵村岡黒駱の門に入り、その没後村岡三曜に師事。文久2年(1862)5月、納涼の一題をもって一日三千句を独吟し、免判に列す。節句庵と称す。函館から戻って横浜に閑居し、この頃に其角門の甘雨亭介我に学ぶ。東都一家嵐雪門を起こし明治元年に没した師三曜の後を受け、一派の棟梁を嗣ぐ。のち東京本所に住し、明治20年1月に浅草西鳥越に転居。明治24年に館山へ来房。明治28年(1895)秋に館山三十番地(館山市上須賀)に庵を構える。明治37年本籍を館山に移す。明治35年安房地方俳士名簿を載せた『房の栞』刊行。明治40年喜寿祝の選集『残の雪』刊行。大正9年(1920)5月28日没、91歳。東京での門人に無心庵大竹葩雪・三世不黒庵雨宮卓堂などがいる。
89.『俳諧明倫雑誌』第182号 明治31年
加藤定彦氏蔵
都新聞が行なった俳諧十傑の評論が掲載されている。上位20名に東京の宗匠が並ぶなかの9位に「安房蹄雪庵伯志」とある。論評には「現職にこそなけれ将軍たれば、此勝算はものの数にもあらざるべし」と、当然の入選と評価されている。このときの賞品が写真29の文台である。
88.『明治新撰俳諧百人一首』 明治33年(1900)
加藤定彦氏蔵
90.伯志の『館山紀行』 堀口角三氏蔵
48.伯志短冊 山口国男氏蔵
46.伯志短冊 安西明生氏蔵
81.伯志撰句聯 安西明生氏蔵
92.伯志の『甲午春館山記行』
明治27年(1894) 堀口角三氏蔵
91.『今様檜笠』 明治31年 堀口角三氏蔵
明治時代の俳諧師を風刺した伯志の作品。薄識をうわべの風流で覆う地方の発句点取の宗匠や、それを承知で遊歴し寄食する俳諧師、一般からの作句の添削料や染筆料を取り決めて営業する東京の大家などが批判の対象になっている。東京での謝礼規約に反発して館山に隠棲したのが伯志であるが、安房では連句のできる俳人が少なく、発句の点取ばかりだと嘆いている。
93.前田伯志喜寿選集『残の雪』
堀口角三氏蔵
『房の栞』は、佳作を耳にしても作者がわからず風交に不便なことを嘆いた85歳の老俳、稲村の山口梅寿が企画し、伯志の名の下に安房国内366人の作を集め俳人名簿を作成した。明治35年(1902)。この頃は安房郡内の統一的な動きが活発だった。
96.蹄雪庵興行俳諧之連歌懐紙
安西明生氏蔵
伯志は安房では連句に力を入れた。
95.人名録出詠者名簿 安西明生氏蔵
(俳士名簿原稿)