明治20年代になると、それまでの宗匠を中心とした権威主義の俳諧を否定して、俳席での互選形式を取り入れた新しい俳句運動がおこりました。その中心になったのが正岡子規です。その俳句流派は日本派と呼ばれ、旧来の月次句合を月並調(陳腐)として攻撃し否定しました。
安房地方でこの近代俳句の動きが興るのは遅く、伯志の影響力もあってか、大正に入ってからのことでした。その運動の中心にいたのが館山町の高橋蒼々子です。東京で日本派の長老内藤鳴雪に師事した蒼々子は、帰郷してから伯志を中心とした旧派の句会に参加していたものの、大正9年の伯志没後、斎藤光雲や伯志門下の石井陵雪などを中心として、臼田亜浪の『石楠(しゃくなげ)』支部である「安房盟楠会」を結成し、安房に新風を吹き込みました。