館山地区略年表

西暦 年号 事項
B.C.4000年 この頃沼のサンゴ層が陸地化する
B.C.3000年 -縄文時代- 沼の赤山で人が生活をする
5世紀頃 沼の大寺山岩窟墓がつくられる
7世紀頃 沼のつとるばで古代祭祀が行われる
1096年 嘉保3年 源親元が安房国司となる
1156年 保元1年 沼平太、京都の保元の乱で源義朝に従い崇徳上皇を攻める
1584年 天正12年 里見義頼、岩崎与次右衛門に沼之郷で屋敷地を与える
天正中 里見義頼、家臣上野源八に館山城への在番を命じる
1590年 天正18年 里見義康、館山城を居城とする
1591年 天正19年 里見義康、慈恩院に4貫余、総持院に3貫の寺領を与える
1594年 文禄3年 里見義康、紀伊国高野山西門院へ真倉郷内で寺領20貫を寄進する
1601年 慶長6年 里見義康、城下町での売買を奨励するため法令を出す
1610年 慶長15年 里見忠義、岩崎与次右衛門に町中肝煎の役を命じる
1614年 慶長19年 里見忠義、伯耆国倉吉へ移封され、館山城は破却される
1615年 元和1年 新井浦・楠見浦の水主30人が大坂夏の陣に徴集される
1711年 正徳1年 元禄地震で隆起した北下台下の干潟をめぐり、真倉村と北条村の間で争論がおこる
1781年 天明1年 稲葉正明、一万石の大名となり館山藩をおく
1791年 寛政3年 城山の南麓に館山藩の陣屋がおかれる
1841年 天保12年 漢詩人梁川星巌、城山を訪れる
1858年 安政5年 新井浦の水主清五郎、播洲光塩丸に乗組みフィリピンへ漂流する
1868年 慶応4年 幕府海軍副総裁榎本武揚、江戸を逃れて館山へ上陸後函館へ向う
佐幕派請西藩主林忠祟、館山へ宿陣。柏崎より真鶴へ向う
1871年 明治4年 7月館山藩廃藩となり、館山県成立する。12月館山県を廃止し、木更津県に統合する
明治初 宮城の蛯原久五郎、宮城海苔の養殖をはじめる
1889年 明治22年 上真倉村、下真倉村、館山町が合併して館山町となる。沼村、宮城村、笠名村、大賀村が合併して豊津村となる
1914年 大正3年 館山町、豊津村が合併して館山町となる
1917年 大正6年 北下台に航路標識「正木燈」が建設される
1923年 大正12年 関東大震災で、町の99%が倒壊、焼失の大被害をうける
1930年 昭和5年 宮城沖の干潟に館山海軍航空隊が設置される
1933年 昭和8年 館山町・北条町が合併して館山北条町となる
1939年 昭和14年 那古町・船形町と合併して館山市となる
1943年 昭和18年 大賀に洲ノ崎海軍航空隊開隊する
1945年 昭和20年 太平洋戦争終結し、館山に米軍が上陸する

富士見(ふじみ) 

一号地(イチゴウチ) 二号地(ニゴウチ) 三号地(サンゴウチ) 四号地(ヨンゴウチ) 五号地(ゴゴウチ) 六号地(ロクゴウチ) 七号地(ナナゴウチ)

 大賀から笠名・宮城・沼の北側にある埋立地の大字で、戦後の命名です。大部分が海上自衛隊第21航空群館山航空基地の用地で占められていますが、隣接する鷹ノ島・沖ノ島(館山地番)が風致公園になっていて、館山湾を望み、富士山を遠望する名所として知られています。

大賀(おおか)

東下タ浜(ヒガシシタハマ) 北下タ浜(キタシタハマ) び里止(ビリド) 西浦(ニシウラ) 西台(ニシダイ) 中台(ナカダイ) 上ノ園(ウエノソノ) 塚ノ腰(ツカノコシ) 鷺(サギ) 神田(カンダ) 曽根(ソネ) 下ノ坪(シモノツボ) 石田(イシダ) 初崎(ハツザキ) 前山(マエヤマ) 花輪(ハナワ) 合田(ゴウダ) 谷(ヤツ) 上神田(カミカンダ) 中神田(ナカカンダ) 下神田(シモカンダ) 水余(ミナマリ) 東下浜(ヒガシシモハマ)

 海岸よりの高台に集落があり、江戸後期頃から湾内漁業に進出して、明治になると海苔養殖も始めるなど半農半漁の生活を営んでいましたが、関東大震災での海岸隆起と海軍基地の設置などで、昭和初期から海での生業ができなくなりました。江戸初期の里見氏治政下では、右筆の三浦半右衛門が知行し、村高は127石余。明治元年には157石余になっています。神社は御滝神社。樹高20m、目通り樹周4m80cmの老松は立派なものです。寺院は積蔵院で、天保年間頃に寺子屋が開かれていました。

笠名(かさな)

下具曽(シモグソウ) 中台(ナカダイ) 浜(ハマ) 西浜(ニシハマ) 二反畑(ニタンバタ) 走落(ハシリオチ) 森上(モリノウエ) 割田(ワリタ) 上具曽(カミグソウ) 南割田(ミナミワリタ) 蟹田(カニタ) 石田(イシダ) 東新田(ヒガシシンデン) 根本(ネモト) 西新田(ニシシンデン) 作ノ田(サクノタ) 天神前(テンジンマエ) 花輪(ハナワ) 万沢(マンザワ) 風早(カザハヤ) 芝新田(シバシンデン) 平田(ヒラタ) 久保山(クボヤマ) 苗代田(ナワシロダ) 西ノ谷(ニシノヤツ) 五斗代(ゴトシロ) 山ノ作(ヤマノサク) 背羽谷(セバヤツ) 三斗原(サンドハラ) 梶作(カジサク) 菖蒲(ショウブ) 山ノ神(ヤマノカミ) 大関(オオゼキ) 新田(シンデン) 岡(オカ) 新風早(シンカザハヤ) 天神(テンジン) 新具曽(シングソウ)

 丘陵地よりの蟹田川左岸一帯に、弥生・土師の遺物を包蔵する笠名遺跡があり、千葉県では唯一の石包丁が見つかっています。江戸時代初期の里見氏治政下では、廿人衆頭の宅間監物が知行し、村高は216石余。明治元年には238石余になっています。江戸時代後期から湾内漁業に進出し、明治には宮城海苔の養殖もはじめていますが、昭和初期に漁業は不可能となりました。神社は神明神社、寺院は長泉寺と、平安時代の像様をもつ木造阿弥陀如来立像を本尊とする安楽寺があります。

宮城(みやぎ)

嶋田(シマダ) 越地(コエチ) 御屋敷(オヤシキ) 寺脇(テラワキ) 寺下(テラシタ) 東浜(ヒガシハマ) 西浜(ニシハマ) 浜田(ハマダ) 三反目(サンタンメ) 石畑(イシバタ) 五丁目(ゴチョウメ) 明堂前(ミョウドウマエ) 青木下(アオキシタ) 東ノ前(ヒガシノマエ) 洞田(ホラダ) 二反畑(ニタンバタケ) 宮脇(ミヤワキ) 前山(マエヤマ) 大江沢(オオエサワ) 大久保(オオクボ) 大嶺(オオミネ) 照尾(テルオ) 南新地(ミナミシンチ) 北新地(キタシンチ) 新寺脇(シンテラワキ)

 南側の丘陵よりの岡方の集落と、海岸よりの浜方の集落からなる地域です。江戸時代後期から湾内漁業をはじめ、明治になって蛯原久五郎が海苔の養殖産業をもたらして宮城海苔の名がつきました。江戸時代初期の里見氏治政下では、大家老の堀江能登守頼忠が知行し、村高205石余、明治元年は250石余になっています。寺院は堀江頼忠を開基とする頼忠寺があり、江戸時代は寺領10石。神社は熊野神社で、向拝の龍は後藤義光の弟子後藤義定が明治44年に制作したものです。戦時中は海軍航空隊基地があったため、周辺には航空機や物資保管用の壕が数多く残されています。

沼(ぬま)

芦谷(アシヤ) 見余(ミヨ) 宮田(ミヤタ) 笹山(ササヤマ) 大戸入(オオトイリ) 柳作(ヤナギサク) 野庭(ノニワ) 尾附(オヅケ) 大谷(オオタニ) 谷(ヤツ) 堀之内(ホリノウチ) 坊ケ下(ボウガシタ) 石塚(イシヅカ) 西之浜東(ニシノハマヒガシ) 西之浜西(ニシノハマニシ) 礒崎(イソザキ) 西原(ニシバラ) 大和田西(オオワダニシ) 大和田東(オオワダヒガシ) 前山(マエヤマ) 根ケ谷(ネガヤツ) 作ノ田(サクノタ) 横田(ヨコタ) 手呂尾(テロオ) 長関(ナガセキ) 坊ケ谷(ボウガヤツ) 東町(ヒガシマチ) 仲町(ナカマチ) 西町(ニシマチ) 西町浜(ニシマチハマ) 仲浜(ナカハマ) 東浜(ヒガシハマ)

 沼の地名は沼沢地が広がっていたことに由来するといい、東南部の谷奥ではサンゴ層を見ることができます。丘陵部には縄文から古墳時代の遺跡が多く、とくに沼つとるばの祭祀遺跡や総持院裏の大寺山洞窟遺跡などの古墳時代の遺跡はよく知られています。平安時代の『保元物語』で源義朝に参じた武士として登場する沼平太はこの地の人と考えられています。江戸時代初期の里見氏治政下では、里見氏の直接の支配地で、村高371石余。明治元年には429石余になっています。江戸時代には岡方の農業集落と浜方の漁業集落に分かれており、浜方を沼村之内柏崎村と呼んでいました。柏崎の神社は国司神社、寺院は浄閑寺。岡方には天満神社、寺院は総持院と栄洗寺、江戸時代には広徳院や妙安寺もありました。江戸後期になると職業画人の勝山調や狩野派絵師川名楽山などの画人を輩出しており、天満神社には川名楽山の記念碑が建っています。また石塚の地蔵堂跡には中世のヤグラがあり、五輪塔の陽刻がなされています。

下真倉(しもさなぐら)

山王(サンノウ) 東塚(ヒガシヅカ) 羽打(ハウチ) 舞台(ブタイ) 割畑(ワリバタ) 辻(ツジ) 松之木(マツノキ) 東小沼(ヒガシオヌマ) 竹之下(タケノシタ) 東鳴谷(ヒガシナルヤ) 住吉(スミヨシ) 西小沼(ニシオヌマ) 山之神(ヤマノカミ) 東田(ヒガシダ) 万貫石(マンガンイシ) 長尾(ナガオ) 小作房(コサクボウ) 石橋(イシバシ) 高根(タカネ) 井鏡(イカガミ) 海蔵寺(カイゾウジ) 平田(ヒラタ) 砂田(スナダ) 梅田(ウメダ) 塚之越(ツカノコシ) 堂ノ下(ドウノシタ) 大坪(オオツボ) 青柳(アオヤギ) 引田(ヒキダ) 弥治堀(ヤジボリ) 経之坪(キョウノツボ) 菜畑(ナバタケ) 四之宮(シノミヤ) 金堀(カナボリ) 水神松(スイジンマツ) 岩川(イワカワ) 代田(シロタ) 坂田川(バンダガワ) 長須賀(ナガスカ) 梶房(カジボウ) 菜飯(ナメシ) 新工(アラク) 塩場渕(シオバブチ)

 汐入川中流の右岸に位置する農業地域ですが、現在は宅地化が進んでいます。江戸時代初期の里見氏治政下では、里見氏の直接支配地で真倉村の一部でした。江戸中期頃から真倉村の枝郷として真倉村之内下真倉村として資料に現われます。明治元年の村高は517石余。神社は日枝神社。現在上真倉地番になっている長泉寺や法蓮寺は江戸時代には下真倉村の寺で、現在は廃寺になりましたが妙善寺もありました。日枝神社は江戸時代には山王社と称して2石の寺領がありました。また、三輪大神とも呼ばれていました。幕末には長泉寺で寺小屋が開かれています。

上真倉(かみさなぐら)

井鏡(イカガミ) 平田(ヒラタ) 砂田(スナダ) 梅田(ウメダ) 小川崎(オガワザキ) 西小沼(ニシオヌマ) 大坪(オオツボ) 堂ノ下(ドウノシタ) 辻(ツジ) 松之木(マツノキ) 塚ノ越(ツカノゴシ) 浅倉(アサクラ) 上小沼(カミオヌマ) 東小沼(ヒガシオヌマ) 竹之下(タケノシタ) 住吉(スミヨシ) 奥成谷(オクナリヤ) 東成谷(ヒガシナリヤ) 山之神(ヤマノカミ) 戸倉(トグラ) 東田(ヒガシダ) 向田(ムカイダ) 万貫石(マンガンイシ) 小池作(コイケサク) 細田(ホソダ) 日枝(ヒサカ) 関ノ上(セキノウエ) 鍋田(ナベタ) 菅ケ尾(スゲガオ) 石橋(イシバシ) 笹尾(ササオ) 深田(フカダ) 蓑笠雨(ミノカサアメ) 長尾(ナガオ) 吹畑(フキバタ) 小作房(コサクボウ) 海老田(エビタ) 川民(カワダミ) 高根(タカネ) 谷屋敷(タニヤシキ) 海蔵寺(カイゾウジ) 浪石(ナミイシ) 梶房(カジボウ) 坂田川(バンダガワ) 代田(シロタ) 岩川(イワカワ) 金保利(カナホリ) 四ノ宮(シノミヤ) 経ノ坪(キョウノツボ) 弥治堀(ヤジボリ) 引田(ヒキタ) 青柳(アオヤギ) 舞台(ブタイ) 割畑(ワリバタ) 羽打(ハウチ) 山王(サンノウ) 一向堂(イッコウドウ) 羽鳥(ハドリ) 宇和宿(ウワジュク) 磯岡(イソオカ) 五霊(ゴリョウ) 上藤井(カミフジイ) 下藤井(シモフジイ) 御廏(オウマヤ) 庚申山(コウシンヤマ) 城山(シロヤマ) 城井戸(シロイド) 向田嶋(ムコウタジマ) 新堀(シンボリ) 天王下(テンノウシタ) 海磯(カイイソ) 波石(ナミイシ)

 汐入川中流左岸に位置する農業地域で、中世には実倉の字を充てており穀倉地帯だったことを思わせますが、現在は急速な住宅地化が進んでいます。江戸時代は館山三町四浦及び北下台村、根古屋村、上真倉村、下真倉村を合わせて一村とし、真倉村と呼んでいました。現在の上真倉は、明治4年に上真倉村と根古屋村が合併したもので、根古屋村は字海磯周辺の地域のことです。戦国時代末、里見氏が実倉郷のうちで鶴谷八幡神社に祭礼の供物として刈田16俵を寄進しています。江戸時代初期の里見氏治政下では、館山城下にあたるため真倉村は里見家の直接の支配地で、村高は1354石余。明治元年には1400石余で、内上真倉村は545石余、根古屋村は229石余。上真倉には寺院が多く、上真倉村には長光寺(朱印10石)、妙音院(75石余)、慈恩院(15石)、泉慶院(7石)、正吽寺(5石)、吉祥院(14石)、秀明院(5石)、真楽院、千光寺があり、根古屋村には宗真寺、本蓮寺、妙台寺がありました。正吽寺、吉祥院、秀明院は現在廃寺になっています。神社は神明神社。寺院が多いのは館山城の外郭としての役割があったためと考えられています。

館山(たてやま)

西ノ浜(ニシノハマ) 北下台(ボッケダイ) 矢倉下(ヤグラシタ) 仲通(ナカドオリ) 町通(マチドオリ) 新町(シンマチ) 梅田(ウメダ) 白子町(シラコマチ) 広小路(ヒロコウジ) 天王台(テンノウダイ) 城山(シロヤマ) 根古屋(ネゴヤ) 熊野台(クマノダイ) 熊之山下(クマノヤマシタ) 城山下(シロヤマシタ) 浜通(ハマドオリ) 大浜(オオハマ) 南側(ミナミガワ) 北側(キタガワ) 浜町(ハマチョウ) 浜道(ハマミチ) 浜地先(ハマチサキ) 東(ヒガシ) 南(ミナミ) 西(ニシ) 浜(ハマ) 西町上(ニシマチウエ) 東町上(ヒガシマチウエ) 東上(ヒガシウエ) 西町下(ニシマチシタ) 東町下(ヒガシマチシタ) 堂ノ下(ドウノシタ) 川原(カワハラ) 古川(フルカワ) 中坪(ナカツボ) 丸壱場(マルイチバ) 東大浜(ヒガシオオハマ) 出口(デグチ) 西大浜(ニシオオハマ) 高ノ島(タカノシマ) 沖ノ島(オキノシマ)

 城山の北側に広がる商業地域で、江戸時代以来安房地方の政治文化の中心として発展してきました。江戸時代は真倉村の一部で、館山上町・館山中町・館山下町・新井浦・楠見浦・浜上須賀村・岡上須賀村の三町四浦と北下台村に分かれ、浦方の村は古くから館山湾での漁業を行っていました。明治元年の村高は館山上町が12石余、館山中町11石余、館山下町16石余、新井浦9石余、楠見浦5石余、浜上須賀村9石余、岡上須賀村38石余、北下台村は6石。明治8年に浜上須賀・岡上須賀・北下台の3村が合併して上須賀村となり、さらに明治10年他の5町浦とも合併して館山町となりました。明治22年には上真倉村・下真倉村も合併します。役場は上須賀に置かれました。天正18年(1590)に里見義康が館山城を居城としてから城下町として整備され、家臣の勝長門守や町方の岩崎与次右衛門などがこれに尽力しています。また元和元年(1615)に新井浦・楠見浦から、大坂夏の陣に徳川方として水主30人が召集されていますが、港町としても発展し、上町には仙台藩の廻船役所がおかれ、明治以降は近年まで館山桟橋に汽船が発着していました。江戸時代は旗本領、幕領、旗本領と支配が移り、天明元年(1781)から明治に至るまでは館山藩稲葉氏の支配となり、陣屋もおかれました。しかし稲葉氏支配以前は、北下台村だけは支配が異なり、正徳元年(1711)には北条藩屋代氏の支配で、元禄地震でできた干潟をめぐり北条村と真倉村で争いをおこしています。寺院は三福寺・長福寺・観乗院、神社は館山神社・金刀比羅神社・城山の浅間神社などがあります。浅間神社の社殿天井画の龍は、幕末~明治頃に北条村の渡辺雲洋が描いたものです。

館山地区

 シリーズ5回目として館山地区を取り上げました。市域の中央部に位置し、近世以降安房地方の中心地として繁栄した地域です。館山という地名は、里見氏が居城とした館山城址(城山)が古くから城館として利用され、この山を館山と称したことから、城下も一般に館山と称していたもので、明治・大正の町村合併に際しても館山の名称が継承されました。

 館山地区は大きく館山と豊津の二つの地域に分かれ、館山は漁業と商業、豊津は漁業と農業をそれぞれ生業としてきました。現在は地区全体が新興住宅地と化し、市全域の8.5%にあたる9.3k㎡の面積に、人口が14,635人が市全体の26.0%の人が生活しています。

 館山湾南岸に位置し、集落は南部の丘陵との間に展開します。沼を中心に縄文から古墳時代の遺跡や中世のヤグラなどが分布しますが、近世初頭に里見義康が館山城を居城として以来、城下町が整備されるなどして安房の中心地として発展しました。

 江戸時代は、館山上町・館山中町・館山下町・新井浦・楠見浦・浜上須賀・岡上須賀・北下台・根古屋・上真倉・下真倉の11カ村からなる真倉村と、沼村・宮城村・笠名村・大賀村の5カ村がありました。明治22年に真倉村は館山町となり、沼・宮城・笠名・大賀は合併して豊津村となります。豊津村は当地が船舶出入の港津だったので、その繁栄を願い命名された村名です。館山町と豊津村は成立当初より町村組合を組織して行政にあたりましたが、大正3年に合併して館山町となりました。大正12年の大震災のとき海岸線が隆起し、沖ノ島・鷹ノ島が地続きになりましたが、昭和5年ここに館山海軍航空隊が設置され、戦時中は軍都としての様相を呈していました。

戸数のうつりかわり

旧町村名 天保 明治24年 世帯数
昭和45年 昭和64年
真倉村 新井浦 館山 142 530 1,528 1,523
館山上町 37
館山中町 45
館山下町 65
楠見浦 51
岡上須賀 61
浜上須賀 30
北下台村 0
根古屋村 上真倉 31 113 424 628
上真倉村 67
下真倉 59 71 246 808
沼村 沼村 129 291 675 813
柏崎浦 117
宮城 78 106 164 714
笠名 77 77 210 360
大賀 36 39 273 628
合計 1,025 1,227 3,520 5,474