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館山市の中心市街地をなす地域で、とくに明治以降に安房郡の政治経済の中心地として発展してきました。北条の地名は古代条里制の名残で、これに対して豊房に南条の地名もあります。字名に角ノ坪があり、かつては京ノ坪・屋敷坪などもありました。戦国時代の北条は、今の湊・八幡・上野原・新宿を含む地域の地名だったと考えられます。江戸初期に八幡と湊が分村し、江戸時代の北条村は北条村・上野原村・新宿町・新宿村と長須賀・安布里・大網・国分の各出作を包括するものでした。江戸時代初期の里見氏治政下では、代官の石崎庄右衛門・中山清左衛門、宰相の局の知行地と寺社領が若干のほか、ほとんどが里見氏の直接支配地で、村高1723石余。明治元年には1918石余。その内北条本村は1140石余。北条は館山湾の第3砂丘列上に成立した町場で、内房・外房からの房総往還が合流する要地でした。国鉄の開業後、次第に中心街が南町周辺から駅前へ移っていきます。江戸時代には屋代氏と水野氏による北条藩の陣屋も置かれ、明治には安房郡役所となって、周辺には多くの公官署がおかれるようになりました。幕末になると安房の海岸警備を担当した武州忍藩の陣屋も別に築かれ、のち長尾藩も藩庁に利用しています。また幕末から明治初期にかけて、汐入川河口右岸に小原新田が開墾されているほか、浜で地曳網などの漁をする人々もいました。正徳年中には北下台下の干潟をめぐって真倉村と争論をしています。神社は蛭子神社(南町)・神明神社(神明町)・諏訪神社(六軒町)・稲荷神社(三軒町)があり、稲荷神社は長尾藩本多氏が藤枝から移住の際に勧請したものです。寺院は寺領60石の金台寺、除地1石余の法性寺、除地2石余の不動院のほか、塩蔵寺、海雲寺があり、海雲寺には中世の宝篋印塔の笠が残されています。またかつては浄円寺・円応寺がありました。