長須賀(ながすか)

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 新宿との境を流れる境川と、館山側の汐入川とにはさまれた地域で、この二つの川と館山湾が形成した砂洲に町場として成立した村です。地名もその砂洲に由来するものと考えられます。江戸時代は、館山へ向かう房総往還に沿って新宿から続く町並みがあり、表町・裏町の地名が残っています。慶長11年の里見忠義の法度に長須賀町とあるのが初見ですが、里見氏治政下では独立した村として記載されていません。正保頃には高184石余の村としてあらわれます。明治元年で186石余。他に北条村に96石の出作がありました。また上野原の東にある長須賀の飛び地は、江戸時代は新宿村といい、村高199石で長須賀村持添の無民戸の村だったところで、明治元年に北条の出作とともに長須賀へ合併したものです。江戸中期の元文から安永頃に、汐入川対岸の新井浦と河原の芝地をめぐって争論があり、現在の境界線が確定しています。神社は熊野神社、寺院は来福寺と宝積院があり、それぞれ下真倉に朱印12石・除池3石を有していました。幕末になると詩歌などの文芸サークルが成長し、当村の名主池田琴嶺をはじめ、医師の上野三英、高井の医師高木抑斎などが参加していました。