洲宮・茂名

古くからの特色ある神事が現在も伝承されている洲宮と茂名。路傍の石宮や石仏など、地域の人々に信仰されてきたさまざまな神仏にも目を向けながら田園風景を歩いてみましょう。

洲宮・茂名 文化財マップ

洲宮(すのみや)

(1)洲宮神社

(1)洲宮神社

洲宮の鎮守。安房神社の祭神天太玉命(あめのふとだまのみこと)の后神(きさきがみ)である天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)を祀る神社。元日の朝にその年の豊作を願って行われる御田植(みたうえ)神事は、市の無形民俗文化財に指定されている。拝殿向かって左の社は子安神社で、手水鉢(ちょうずばち)は文化元年(1804)に洲宮村の友野吉助が奉納したもの。本殿の脇には3基の石宮が祀られており、中央と右端の石宮は旧社地である魚尾山(とおやま)から移動させたもの。左端の小さな石宮は、山の上に祀ってあったものを移動させた「山の神」。境内には2つの力石があり、大きい方には「四拾五貫目」(約169kg)とあり、「当所若者中」が奉納したことが刻まれている。

(2)薬王院

(2)薬王院

洲宮神社の隣にある真言宗のお寺で、大明山薬王院という。縁起には、洲宮神社の祭神天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)の子孫で神主家の人物が僧となり、永正元年(1504)に薬師如来像を彫刻して庵を結んだのが当寺の始まりと記されている。石段の左に馬頭観音3基が祀られており、中央は天保10年(1839)9月、右端は明治12年(1879)に建立されている。境内にある手水鉢は慶応2年(1866)7月に洲宮村の人びとによって奉納されたもので、願主である川口清右衛門・渡辺六良右衛門のほか施主19名の名が刻まれている。3基並んだ僧侶の墓のうち右端は薬王院中興2世の隆中という僧のもの。刻まれた履歴によれば隆中は竹原村須田氏の出身で、字(あざな)を英浄といった。16歳で仏門に入り、京都の智積院(ちしゃくいん)で修業した後、24歳で地元に戻った。高井の善浄寺の僧となった後、当寺に移ったが、病を患い亡くなったという。墓は明治27年(1894)の建立で、隆中が読んだ漢詩が刻まれている。

(3)不動堂と墓地

(3)不動堂と墓地

墓地の傍らに建つお堂で、不動明王像と両脇侍(わきじ)が祀られている。江戸時代に薬王院の東側にあった不動堂を移転させたものか。以前は茅葺きのお堂で中に土間があったが、平成16年(2004)に建て替えた。不動明王像は明治33年(1900)に修理されており、黒塗りの厨子はそのときに渡辺太右衛門が自ら製作し奉納したもの。渡辺太右衛門は洲宮村の宮大工で、藤原義重とも名乗った。不動堂の脇に置かれた手水鉢は慶応2年(1866)に「当村中」(洲宮村の人びと)が奉納したもの。墓地には、大工渡辺太右衛門が明治24年(1891)に自ら建てた墓があり、履歴が刻まれている。棟梁として多くの弟子を抱え、社寺や民家の建築を行い、彫刻の技も優れていたという。墓に刻まれた肖像画は、沼出身で館山藩に仕え、明治以降は安房神社の神官になった絵師の川名楽山が描いている。墓地の入り口には、江戸池之端の直心法師(俗名吉兵衛)の姿を刻んだ天明8年(1788)の石像がある。

(4)魚尾山(とおやま)

(4)魚尾山(とおやま)

「どうやま」とも呼ばれる。洲宮神社はかつてこの山の上に鎮座しており、鎌倉時代の文永10年(1273)の火災で焼失した後に現在地へ移転したと伝わる。魚尾山の袋畑遺跡からは古墳時代の土製模造品が出土しており、祭祀の場であったことが分かる。

(5)子守り地蔵

(5)子守り地蔵

民家の前にあるお地蔵様。昔、お婆さんが子供を連れてよくお参りに来ていたとの話が伝わっており、子守り地蔵と呼ばれている。

(6)浅間様(せんげんさま)

(6)浅間様(せんげんさま)

山の上に石宮が置かれており、浅間様と呼ばれている。現在、山開き行事は行われていないが、毎年7月の第1日曜日に地元の人々が草刈りを行っている。石宮は明治12年(1879)に洲宮村講中の人々によって建立されたもの。

(7)明神山(みょうじんやま)

(7)明神山(みょうじんやま)

毎年8月に行われる洲宮神社の祭礼の際、神輿がこの山に登り、浜降(はまくだり)神事(お浜入り)が行われる。かつては藤原の獅子神楽も同時に奉納された。

茂名(もな)

(8)下のお墓

(8)下のお墓

江戸時代にお堂があった跡地で、現在は墓地のみが残っている。入口付近に古い石碑が並んでおり、最も大きい如意輪(にょいりん)観音像は貞亨4年(1687)に建立されたもの。左端の「才兵衛殿墓」は、脇に「この墓を参詣する者、その家繁昌」と刻まれている。

(9)成願寺(じょうがんじ)

(9)成願寺(じょうがんじ)

真言宗のお寺で、普門山(ふもんざん)成願寺という。掲げられているご詠歌の額は、安房国八十八か所弘法大師巡礼のもので、「皆人(みなひと)の まいりてやがて 成願寺 来世の道を たのみおきつつ」と記されている。元文元年(1736)に根本の僧智円らが奉納したもので、当寺は第9番札所であった。お堂の裏手には、江戸の東叡山(とうえいざん)寛永寺の役僧になった石井良左衛門が文化10年(1813)に六十六部廻国巡礼を行ったことを記念した供養塔がある。建立は明治8年(1875)とあり、その子孫が建てたものであろうか。境内には力石が置かれている。

(10)要害道(ようがいみち)

(10)要害道(ようがいみち)

茂名から館山地区の沼へ山越えして、宮城へと抜ける山道。里見氏が館山城を居城としていた時代に、布良で獲った鮮魚を城まで運ぶ際にこの道が使用されたことから、「魚買道(うおかいみち)」とも呼ばれる。館山城への鮮魚の運搬に苦労したことから、茂名の人々は里見氏が転封となった際に喜んだという話が伝わっている。

(11)上のお墓

(11)上のお墓

共同墓地の入り口に、江戸時代の石仏などが並んでいる。1番左の地蔵は、享保12年(1727)正月に茂名村の「順礼講仲間」が建立したもの。中央は文化7年(1810)9月の建立で、「四国西国秩父坂東百八十八番供養塔」と刻まれている。行者の藤右衛門が、四国の弘法大師88か所と西国33か所・秩父34か所・坂東33か所観音の合計188か所の巡礼を終えた記念に奉納したもの。右隣に建つ安永5年(1776)の廻国供養塔には越後国蒲原郡下条(げじょう)村(新潟県加茂市または阿賀野市)の三助という俗名とその戒名(家山興国信士)が刻まれており、巡礼の途中に茂名村で亡くなった人物を供養するために建てられたものである。

(12)十二所神社(じゅうにしょじんじゃ)

(12)十二所神社(じゅうにしょじんじゃ)

茂名の鎮守。毎年2月の祭礼は里芋祭りと呼ばれ、国の重要無形民俗文化財に指定されている。階段上の灯籠一対は天保3年(1832)9月に村内の矢田太郎右衛門・和田吉良兵衛・矢田安右衛門・石井弥五右衛門を世話人として奉納されたもので、他に願主21名が名を連ねている。なお、火袋(ひぶくろ)には大正12年(1923)の大震災で倒壊した際に修繕した旨が刻まれている。拝殿向かって左の社は金毘羅社で、村内の他の場所から移したもの。その右には岩壁をくり抜いて石宮が祀られ、下には正方形の手水鉢が置かれている。手水鉢は文化2年(1805)に村内の石井藤右衛門・同谷右衛門が奉納したもの。その脇には明治25年(1892)に氏子らが社殿の修復を行った際の石碑がある。

(13)荒神様(こうじんさま)

(13)荒神様(こうじんさま)

2つの石宮が並んでおり、荒神様と呼ばれている。荒神は屋内で火やかまどの神として祀られるほか、山の神などとして屋外で祀られることも多い。現在も毎年3月に宮司を呼んでお祀りをしている。


館山市立博物館(2016年11月6日作成)
館山市館山351-2 ℡:0470-23-5212

布沼・小原

太平洋に面した平砂浦砂丘の奥、小さく開けた谷にも古代から近世にかけて営まれた人々の生活の痕跡がある。太平洋と東京湾が分岐する場所 平砂浦の昔の姿を思い浮かべてみよう。

布沼・小原 文化財マップ

布沼(めぬま)エリア

(1) 薬師堂

(1) 薬師堂

 戦国武将里見義堯の流れをくむ布沼の郷士の家の薬師堂。寛文4年(1664)・延宝6年(1678)の宝篋印塔型の墓石がある。お堂の天井には竜の絵が描かれている。本尊は薬師如来で、ご詠歌には「大石と重き病も我たのめ 人の布沼にもとの身と成」とあり、病気平癒の祈願をする人々がこの薬師にお参りしていたことがわかる。「大石」とは海岸の弁天様のことで、この郷士の家が弁天様の祭祀に大きく関わっていたらしい。

(2) 深田やぐら

(2) 深田やぐら

 ゴリンサマという室町時代の「やぐら」がひとつある。中には15世紀から16世紀頃と思われる五輪塔と宝篋印塔を組み合わせた塔が3つ建てられているが、もとは宝篋印塔が少なくとも2基、五輪塔が4基はあったはずである。布沼の谷田を地盤にした有力な武士の墓であろう。

(3) 大久保墓地

(3) 大久保墓地

 東光寺の墓地。無縁に寄せられた墓石のなかに、寛政8年(1796)の出羽三山碑がある。出羽三山は山形県の羽黒山・月山・湯殿山のことで、山岳修験の中心地。正面の大日如来像は湯殿山を象徴する仏様である。房総の人々は講グループでこの三山に登山してくると、記念の石塔をつくった。墓地の裏には石積みアーチ式の石橋が架かっている。この道が昔の県道だった。

(4) 東光寺・大久保遺跡

(4) 東光寺・大久保遺跡

 曹洞宗のお寺で、16世紀初頭の記録にみえる。本尊の釈迦如来像も16世紀の室町時代後期の作。裏山の中腹に「やぐら」と思われる穴があり、周辺からは16世紀の常滑焼の破片や17世紀の丹波焼の破片が出土している。また縄文土器・弥生土器、古墳時代の土師器や東海系の須恵器も出土しており、大久保遺跡と呼ばれている。歴代住職の墓域には中世五輪塔の一部とみられる石もある。境内には寺子屋師匠で慶応2年(1866)に没した住職芳明東禅大和尚の墓(筆道の門人が建立)や明治36年(1903)の酒樽形の墓(酒翁盛呑信士)が並んである。また裏参道には、文化14年(1817)から農業が機械化される直前の昭和35年にいたるまでの馬頭観音が、年代順に16基並んでいる。

(5) 厳島神社

(5) 厳島神社

 島状の高台に鎮座する布沼の鎮守で、境内には文化7年(1810)の手水石がある。社殿の裏手に縄文時代の石棒が祀られ、周辺からは古墳時代の土師器が出土するという。

(6) 大石弁天

(6) 大石弁天

 元禄(1703)の大地震での隆起がおこるまでは、海岸の大岩だったと思われる場所。寛政5年(1793)の記録によると、旧暦の6月18日に祭礼があり、布沼・茂名など5か村で雨乞いの祭礼をおこない、弁天様にお神酒を上げて一日遊んだという。里見氏末裔の郷士の家で享保7年(1722)に作った、雨乞いのかっこ舞をするための獅子頭が残されている。境内には寛政12年(1800)の手水石と享和2年(1802)の石鳥居が奉納されている。数年前までは小さな石の舟がたくさん奉納されていた。

小原(こばら)エリア

小原(こばら)の集落は中央の道を挟んで、右(東)が神戸地区の布沼、左(西)が西岬地区の坂井に属する。10世紀(平安時代)の書物に出てくる「安房国安房郡麻原(おはら)郷」は、この周辺だろうといわれている。

(7) 翁作(おきなさく)古墳跡

(7) 翁作(おきなさく)古墳跡

 昭和42年(1967)、ホテルの工事中に発見された古墳。標高35mの砂丘の先端という位置で、当時は砂に覆われていた。ホテルのオープン直前に確認されたため、古墳はすでに消滅し、規模も明らかではない。確認位置は正面アプローチの左下で、地表下2mから人骨・須恵器・剣・刀子・圭頭大刀・環刀大刀が取り出された。葬られた人は6世紀終わり頃の人物で、中央の大和王権に近い安房地域屈指の豪族だったと考えられている。東京湾入口のこの地が大和王権にとって重要な地だったことがわかる。大刀は市立博物館に展示されている。

(8) 蛇堰(じゃぜき)横穴墓

(8) 蛇堰(じゃぜき)横穴墓

 砂山手前の池を蛇堰(じゃぜき)といい、その東側の崖に古墳時代の横穴墓が3つあるという。そのうちのひとつから人骨や刀、勾玉・管玉が出土した。玉類は市立博物館に展示されている。蛇堰の東側の山を蛇堰山あるいは座席山という。安房神社の神様(天太玉命)と后神である洲宮神社の神様が、どこに鎮座しようかと相談するための宴会したときの座席になったという伝説がある。

(9) 小原やぐら

 薬師堂の裏山の山頂ちかくに「やぐら」がひとつある。なかには五輪塔と宝篋印塔の石の一部がはいっている。この小さな谷の周辺にも室町時代に有力な武士がいたのだろう。

(10) 船頭(ふながしら)遺跡

 小原橋下流の小原川の川底から、古墳時代の土師器や祭祀土器が出土している。小原集落の奥の谷では縄文土器が出る。


監修 館山市立博物館

伊戸・坂足・小沼・坂井

太平洋沿いに走るフラワーラインから一歩入ると、そこには地域の歴史を感じさせてくれる寺社や石造物を数多く見ることができます。冬でも温暖な平砂浦の村々をめぐりましょう。

伊戸・坂足・小沼・坂井 文化財マップ

伊戸(いと)エリア

(1)富士登山碑

(1)富士登山碑

入り口付近には大日如来坐像の他、享保2年(1717)の銘記がある台座や、中世の五輪塔・宝篋印塔(ほうきょういんとう)の一部などが積み重なっている。その奥に「富士一山二十八度大願成就」と書かれた山包講の富士登山碑があり、明治7年(1874)に亡くなったと思われる清行参伸が先達で28度の富士登山をなしとげた。その上には「南汀斉千広」という俳人の墓がある。地元ではこのあたりを「みおうどう」もしくは「みようどう」と呼んでいる。

(2)根本青年館(ねもとせいねんかん)

(2)根本青年館(ねもとせいねんかん)

元は新福寺という寺院であったが、現在は伊戸の根本区の青年館になっている。入口に宝永2年(1705)の地蔵尊があり、台座には賽の河原で石を積んでいる子供が地蔵に救いを求める彫刻がある。その隣には寛政6年(1794)の廻国供養塔がある。また敷地内には昭和13年(1938)に日中戦争で亡くなった陸軍歩兵伍長の墓がある。

(3)御嶽神社(みたけじんじゃ)

(3)御嶽神社(みたけじんじゃ)

祭神は日本武尊。文化3年(1806)に若者中が奉納した手水鉢があるほか、天保9年(1838)に黒川忠兵衛と田中屋伝兵衛が奉納した石灯篭がある。拝殿向拝彫刻は、左右の獅子は安西次郎右衛門、正面の鶴は黒川金兵衛が奉納したもの。本殿左側には滝が落ちており、滝の左上部に石仏(不動明王か)が安置されている。かつて行者が修行をした滝だろうか。

坂足(さかだる)エリア

(4)長江山照浪院(ちょうこうざんしょうろういん)(波切不動)

(4)長江山照浪院(ちょうこうざんしょうろういん)(波切不動)

地元では「波切不動」と呼ばれているお堂で、境内には寛政10年(1798)に江戸日本橋本船町の魚問屋米屋嘉兵衛が奉納した手水鉢のほか、文化12年(1815)の六地蔵が残されている。かつては大漁、海上安全のご利益があるとして多くの信仰を集めていた。
本堂は元々茅葺だったが、平成10年に現在の本堂に新築した。昭和20年頃まで守一庵という庵があり住職もいたが、現在は庵があった場所は集会所になっている。

(5)蛭子神社(ひるこじんじゃ)

平成13年頃、嵐で社殿が倒壊した。神輿は残っていたため、平成15年に現在の建物をつくり、神輿を安置している。木造の鳥居があったが、五十年ほど前に焼失している。蛭子は「えびす」とも読み、兵庫県の西宮神社を総本社としている。

小沼(こぬま)エリア

(6)如意山宝安寺(にょいさんほうあんじ)

(6)如意山宝安寺(にょいさんほうあんじ)

曹洞宗の寺院。本尊は木造虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)で、南北朝期から室町時代にかけての作と考えられている。大正時代に住職をしていた岩永益禅(昭和27年没)が西岬地区に花づくりを広めたことで知られており、墓地の奥にある歴代住職の墓にその名が刻まれている。本堂正面には昭和8年(1933)の西岬消防組第六部の半鐘がかけられている。また境内には寛政5年(1793)に安心房という人物が奉納した地蔵のほか、享保年間の廻国塔がある。

(7)諏訪神社(すわじんじゃ)

(7)諏訪神社(すわじんじゃ)

祭神は建御名方命(たけみなかたのかみ)と八坂刀咩命(やさかとめのかみ)。諏訪神社は山の中腹(小沼)と平坦地(坂井)の2ヵ所にある。長野県の諏訪大社を意識して上諏訪、下諏訪として祀ったものであろうか。境内には 氏子中が奉納した文化10年(1813)の手水鉢がある。

(8)稲荷様

(8)稲荷様

稲荷四体と石宮が祀られている。10年ほど前までは「ふんどし祭り」と呼ばれる初午(はつうま)が行われており、13歳になった地元の子供たちがお参りしていた。初午とは、毎年2月の初午の日にお参りする行事のこと。

坂井(さかい)エリア

(9)地蔵尊

(9)地蔵尊

道路から階段を上がったところに大きな地蔵尊をお祀りしている。隣に青面金剛の庚申塔があり、その右に明治7年(1874)の二十三夜塔がある。庚申塔は庚申講を行った際に建てられるもので、二十三夜塔とは、二十三夜の月が出るのを待って飲食や念仏をする月待行事に関連して建てられる碑のこと。

(10)日露戦役戦没者碑(にちろせんえきせんぼつしゃひ)

(10)日露戦役戦没者碑(にちろせんえきせんぼつしゃひ)

明治39年(1906)に日露戦役で戦死した陸軍近衛工作上等兵の碑。

(11)地蔵堂(坂井青年館)

松寿山地蔵堂。かつては安房108箇所地蔵巡礼の97番目の札所であった。境内には天明4年(1784)、寛政10年(1798)、文化元年(1804)、文政元年(1818)の出羽三山碑があり、三山信仰が盛んだったことがわかる。出羽三山とは現在の山形県にある湯殿山、羽黒山、月山のことで、ここに参拝した人々が建てた碑が出羽三山碑である。また、境内には嘉永2年(1849)、元冶2年(1865)、安政6年(1859)、明治7年(1874)の馬頭観音が並び、中世の五輪塔の宝珠がみられる。

(12)日光大権現(にっこうだいごんげん)

(12)日光大権現(にっこうだいごんげん)

境内には文政4年(1821)に村人が奉納した手水鉢のほか、文政11年(1828)に山田仁助・文七が奉納した狛犬がある。日光大権現は、下野国日光の二荒山神社の日光権現を勧請したもの。

(13)居原台(いはらだい)墓地

墓地の奥に宝暦6年(1756)の廻国塔があるほか、大日如来坐像が祀られている。

(14)諏訪神社

(14)諏訪神社

祭神は建御名方命(たけみなかたのかみ)と八坂刀咩命(やさかとめのかみ)。小沼の山の中腹にある諏訪神社と元々は一体であったと考えられる。境内には明治28年(1895)の手水鉢がある。

(15)弁天様

坂井川沿いにある祠。昔は塩水をくんで供えていた。現在も正月にはお供え物をしている。

(16)稲荷様

(16)稲荷様

地元で「稲荷様」と呼ばれている祠。現在も初午行事が行われている。祠の周囲の木を切ると、腕が痛くなると伝えられている。


館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 TEL:0470-23-5212

洲崎

東京湾の入口で、漁業と航海の神として信仰されてきた洲崎神社があり、源頼朝伝説があふれる里「洲崎」。外房と内房の境界に位置する洲崎を歩いてみましょう。

洲崎 文化財マップ

笠掛(かさげ)エリア

(1) 洲崎神社

(1) 洲崎神社

洲崎神社 文化財マップ

 東京湾の出入口を見下ろすこの神社は、古代から漁師にとっての漁業神であり、船乗りにとっての航海神だった。祭神はアメノヒリノヒメノミコトといい、安房開拓神話に出てくる忌部(いんべ)一族の祖神アメノフトダマノミコトの后神(きさきがみ)とされている。平安時代には朝廷から正三位の位を与えられ、源頼朝が伊豆での挙兵に失敗して安房に逃れたとき、当社に参拝して坂東武士の結集を祈願したのは有名な話。中世には東京湾内の有力な港町にも祀られるようになり、品川神社や横浜駅近くにある洲崎神社の祭神になっている。8月21日の祭礼では、県指定の無形民俗文化財になっているミノコ踊りが舞われ、神輿が勇壮に階段を駆け下りてくる。境内にある「一宮洲崎大明神」の社号標は文政3年(1820)のもの。拝殿の額は、文化文政期に房総の海岸警備を担当した元老中松平定信が、文化9年(1812)に書いたものである。本殿は江戸前期の建築で市の指定文化財。背後の山は県指定の自然林になっている。隋神門脇の大きな記念碑は、大正の地震で被害を受けた栄の浦と洲崎港ふたつの港の復旧記念碑。

(2) 御神石

(2) 御神石

洲崎神社の浜の鳥居から海へ真っすぐ下りた岩場に横たわる黒っぽい石は、正月や例祭のときにはシメナワがはられる。長さ約2m30cm、幅80cm、厚みが65cmから1mほどあり、口を真一文字に結んだような裂目がある。神社の山にあった池が崩れて落ちてきたとの伝承がある。三浦半島にも同じような大きさの石があり、竜宮から洲崎神社に奉納されたふたつの石のひとつが飛んできたと伝えている。その石は横須賀市上吉井(浦賀の西)の明神山のうえに祀られ、安房口神社と呼ばれている。正面に丸いくぼみがあり、洲崎の石とは東京湾をはさんで「阿吽(あうん)」で対になるという。

(3) 富士講行者碑

(3) 富士講行者碑

 富士山を信仰して登山を繰り返し、昭和8年(1933)に八十八回目の登山を達成した人物が、記念に建てた碑。洲崎の富士講先達をしていた鈴木伊右衛門といい、94歳のときのこと。行者名は伊行宝海という。洲崎では現在でも富士講が続けられていて、毎年8月21日の朝に、この碑の前と洲崎神社の社殿前で富士山の方を向いて「おがみ」を行なう。

(4) 養老寺

(4) 養老寺

養老寺 文化財マップ

 真言宗のお寺。正式には妙法山観音寺という。安房国札観音巡礼の三十番札所で、十一面観世音菩薩が本尊。江戸時代までは洲崎神社の管理をしていた修験の寺で、役行者(えんのぎょうじゃ)という修験道の開祖が開いたと伝えられている。境内には行者の石像を祀る岩屋があり、本堂の後ろには行者の霊力で湧いたという独鈷水という井戸がある。また洲崎は源頼朝伝説が多いところで、本堂正面には頼朝が箸に使ったカヤを挿して出たという一本薄(いっぽんすすき)というカヤが生えているほか、頼朝から綿鍋という名字をもらったと伝える旧名主綿鍋家の墓地がある。本堂前には寺子屋師匠の森田三余の墓がある。明治28年没。

(5) サンノウ様

(5) サンノウ様

 山王様と書く。祠の中には三猿を刻んだ石宮が祀られている。猿は山王権現という神様の使いだが、申の日に行なわれる庚申信仰と結びつき、江戸時代前期には山王権現を祀って庚申信仰が行なわれていた。この石宮も江戸前期の寛文10年(1670)に建てられたもの。現在は1月20日と6月9日にオビシャと称してサンノウサマの集まりが行なわれている。

漂(みよ)エリア

(6) 地蔵堂墓地

 墓地の最上段にあるのが地蔵堂。入口に明治37年(1904)の子安地蔵があり、向かいに弘化4年(1847)6月の水難者14名の供養塔がある。内房と外房の境界にあたる洲崎の沖合には、「潮の道」とよばれる急流地帯があり、経験深い漁師にとっても危険地帯だという。水難者の霊が集まって出られなくなる場所だともいい、船幽霊の迷路という伝説がある。

(7) 矢尻の井戸

(7) 矢尻の井戸

 源頼朝が伊豆から安房へ逃れてきたときの上陸地は鋸南町勝山地区の竜島だが、洲崎に上陸したという説もある。それがこの下にある臥島(ガジマ)だといい、臥竜島・竜島の別名もあるという。矢尻の井戸は、上陸した頼朝が飲み水がないため、岩間に矢尻を突き立てたところ清水が湧いたという伝説の場所である。また洲崎の頼朝伝説は、ほかに頼朝の上陸を助けた漁師に平島の名字を与えたというものや、頼朝に鍋の穴を綿で塞いで食事を供して綿鍋の姓をもらったという伝説がある。地名でも、洲崎神社に参詣した頼朝が、笠を松に掛けて「あれ見よう笠掛けて」といったことから、頼朝が見た集落を「見様(みよ)=漂」、立っていた集落を「笠掛(かさげ)」というようになったという伝説がある。

(8) 水上特攻艇格納壕

(8) 水上特攻艇格納壕

 太平洋戦争中に館山周辺は軍事基地が集中的に作られていたが、洲崎の栄の浦には、水上特攻艇「震洋」の格納壕がいくつかあった。震洋は五mほどのベニヤ板張りのモーターボートで、爆薬300キロを積み、フィリピンや沖縄で実戦に投入された有人の特攻兵器。安房地方には鋸南町岩井袋を本部に1700名で構成された突撃隊があり、勝山・波左間・洲崎などに50隻が配備された。

(9) コウシン様

(9) コウシン様

 漂(みよ)の庚申講の人々が祀った庚申様。庚申信仰の本尊は青面金剛で、帝釈天の使者である。そのため、ここの庚申様は柴又の帝釈天で授与されたもので、毎月8日の帝釈天の縁日にお籠もりをしている。大漁祈願をする人や、赤ん坊ができてお参りする人もあるという。むかしは「オカノエサマ」といって、ひと月おきに集まったという。庚申講はもとは、60日に一回ある庚申の日の夜に、徹夜をして過ごす風習だった。

(10) 洲ノ崎灯台

(10) 洲ノ崎灯台

 庚申山のうえに、大正8年(1919)12月に建設された。航路標識管理所技手の斎藤新治郎による設計。この建設以前には、東京湾へ入る船は白浜の野島崎灯台を目標に進んでいたため、暗夜などには布良崎を洲崎と誤認して平砂浦に座礁することがあった。

(11) 洲崎御台場跡と台場の石

(11) 洲崎御台場跡と台場の石

 江戸時代の終わり頃、鎖国の日本に異国船が頻繁に現れるようになり、東京湾入口の安房や三浦には多くのお台場が築かれ、大砲が設置された。文化7年(1810)に奥州白河藩主松平定信が警備を担当して、洲崎には5門の大砲が据えられた。その後武蔵忍藩、備前岡山藩に担当が移り、安政5年(1858)に日米通商条約が締結されると、砲台は廃止された。「下の浜」には、二艘の船が警備の御用を勤めるために待機させられていた。お台場の石垣に使われていた石が、近くの民家の石塀に利用されている。

(12) サンヤ様

(12) サンヤ様

 井戸のとなりにある石宮はサンヤ様とよばれている。「三夜様」と書き、二十三夜の月の出をまって拝む「月待(つきまち)」という風習がもとのかたち。二十三日に講の人々が集まって飲食をともにするもので、全国的におこなわれていた行事である。


監修 館山市立博物館

坂田・波左間

古くからの漁村であるとともに、太平洋戦争以前、東京湾防衛の要地となり、数々の戦争遺跡が残る坂田と波左間。海水浴場としても毎年賑わう海に面した集落の歴史を探訪しましょう。

坂田・波左間 文化財マップ

坂田(ばんだ)エリア

(1) 弁天様・ジュウニフナサマ

(1) 弁天様・ジュウニフナサマ

 坂田漁港脇の小高い丘に赤い鳥居が2つある。海のほうを向いているのが弁天様で、石宮の中には安永9年(1780)の庚申塔がある。弁天様の脇には鶏の絵馬と大黒天のお面が奉納されている。絵馬は毎年家庭のお勝手(おかみ様)に祀り、新年にここに奉納するという。もう一つはジュウニフナサマと呼ばれていて、船の仕事に関わる人々の信仰を集めていたのかもしれない。

(2) 洲崎第2砲台跡

(2) 洲崎第2砲台跡

 この地域は東京湾の入口にあたり、古くから東京湾防衛の要地で、大正時代の末から昭和初期にかけては各種施設が建設され、軍事上の重要地帯となった。洲崎第2砲台は大正13年(1924)に起工し、昭和2年(1927)に竣工した。砲台の付近にはトンネル状の弾薬支庫や砲側庫などがあり、橋や井戸、兵舎跡と思われる建物の基礎部分が残されている。バス停近くの門柱は砲台の入口を示すもの。

(3) 実蔵院

(3) 実蔵院

 不動明王を本尊とする真言宗の寺院。熊野神社の別当をつとめていた。境内にある宝篋印塔は36歳で亡くなった隆教の菩提のために師の隆基が建てたもの。天明3年(1787)のもので、鋸山日本寺の千五百羅漢の作者である木更津出身の石工大野甚五郎英令の作。

(4) 熊野神社

(4) 熊野神社

 熊野神社は坂田地区の鎮守。境内には稲荷様と浅間様が祀られている。鳥居前の手水石は文政3年(1820)12月のもの。他に「卍」が刻印された石宮がある。また、別当寺の実蔵院に稲荷明神像が所蔵されている。

(5) 西方寺

(5) 西方寺

 曹洞宗の寺院。本堂内に安置されている虚空蔵菩薩坐像は室町時代の作。本堂脇の墓地には、江戸時代後期に房総沿岸警護のために築かれた波左間陣屋に配置された白河藩士たちの墓が3基残されている。西方寺に近い旧名主家には、江戸時代の文書などが多数残されていて、当時の人々の生活や漁の様子を伺うことができる。

(6) 共同墓地

(6) 共同墓地

 この墓地にある魚籃観音とは三十三観音の一つで、手に魚の入った籠を持つ姿で作られ、海や魚の信仰と関連がある。そのほか文化11年(1814)に坂田の行者大翁壽圓が建てた廻国搭があり、上段の墓地にも寛政2年(1790)に坂田の法心という行者が建てた廻国搭がある。

波左間(はさま)エリア

(7) 浅間様・金比羅様

 戦前までは富士講があり先達もいたが、戦争が始まり講はなくなった。雨の少ないときには浅間様の前で雨乞いを行っていたが、田んぼがなくなってからはやっていない。浅間様に向かう途中には金比羅様があり、船の安全を守っている。

(8) 観音堂

(8) 観音堂

 本尊の十一面観音像は安房郡札辰年観音の第27番札所で、ご詠歌は「あまてらす 月ははさまに かげそへて ふねにたからを 積むはどうざき」。境内にある天保3年(1832)の大乗妙典納経供養塔は行者兵三郎のもので、脇願主は平磯村の寛従。また、観音堂右脇を抜け漁協の裏にまわると3つの石宮があり、それぞれ「リョウゴサマ(竜宮様)」と呼ばれている。

(9) 第59震洋隊滑り台跡

 「震洋」と呼ばれる水上特攻艇は,上陸用船舶の撃沈を目的とし、昭和19年(1944)から終戦までに約6200隻が建造され,房総半島の他,伊豆半島,四国,九州の米軍上陸予想地点に配備された。東京湾口地帯にも震洋隊が配置されたが、その一つが「第59震洋隊真鍋部隊」で,終戦間近の昭和20年(1945)7月14日,波左間を基地とした。後背山手の格納壕には、50隻以上の震洋が配備されたという。現在、波左間海岸に震洋搬出路跡が残っている。

(10) 諏訪神社

(10) 諏訪神社

光明院と諏訪神社 文化財マップ

 波左間地区の鎮守で、建御名方命(タケミナカタノミコト)を祀る。毎年7月1日に行われる祭礼では国の選択記録無形文化財の「ミノコオドリ」が奉納される。拝殿には明治12年(1879)渡辺雲洋作の「仁田四郎猪退治図」や、昭和15年(1940)寺崎武男作の「素戔嗚尊図」がある。境内には砲弾が奉納され、神社周辺にも多くの防空壕が残されている。手水石は弘化2年(1845)江戸本船町の魚問屋伊豆屋善兵衛が奉納したもの。

(11) 光明院

(11) 光明院

光明院と諏訪神社 文化財マップ

 青龍山光明院といい、不動明王を本尊とする真言宗の寺院。本堂の地蔵菩薩坐像は膝前で着衣を垂らす法衣垂下のスタイルで、室町時代末の作とされている。本堂向拝正面には、後藤利兵衛橘義光の彫刻が施されており、裏面額の銘文により明治元年(1868)に制作されたことがわかる。本堂裏手の墓地には、波左間陣屋に配置された白河藩士たちの墓が数基残されている。

(12) 稲荷様・熊野様

(12) 稲荷様・熊野様

 稲荷神社では以前2月の初午の際にミノコオドリが奉納されていた。熊野神社は紀州から移り住んだ人たちが建てたもので、現在もその子孫が守っている。稲荷神社参道の左側は明治6年(1873)に開校した波左間学校があったところ。

(13) 共同墓地(地蔵堂跡)

(13) 共同墓地(地蔵堂跡)

 安政5年(1858)の出羽三山供養塔があり、天保12年(1841)の出羽三山と西国秩父坂東百観音の供養塔もある。また道路を挟んだ向かい側には、明和4年(1767)の廻国塔と酒樽の形をした墓がある。ここは以前安房国108か所地蔵巡りの第98番札所である地蔵堂があったところで、ご詠歌は「朝まだき はさまが浦に こぐふねは いずくに慈悲の つりやたるらん」。

◆ 波左間のミノコオドリ<国選択記録無形民俗文化財>

 ミノコオドリは、館山市波左間と洲崎、南房総市千倉町川口に伝承され、それぞれ地元の神社における祭礼時などに境内や地区内で踊られる。波左間では小学生から中学生の女子が踊り手で、右手に扇または団扇を持ち、左手にオンベと呼ばれる御幣のようなものを肩に担ぎ、十人前後で輪になって、右回りに踊る。この時、年配の大人4~6人が、歌、太鼓などの演奏をする。南房総地方のミノコオドリは、相模湾西岸に分布する「鹿島踊」と共通点がある一方で、南房総地方独自の地域的特色も見られる。

◆ 波左間陣屋と白河藩士

 寛政の改革で知られる老中松平定信(白河藩主)は、江戸湾警備の担当となり、洲崎に台場、波左間に陣屋を置き江戸の防衛にあたった。波左間の陣屋は松ヶ岡陣屋と呼ばれ、砲台のある洲崎とともに、白河から500人もの人がやってきて警備にあたったという。交替で台場の勤番にあたり、江戸湾に侵入する異国船を見つければ追い払うというのが任務だった。松ヶ岡陣屋が使用されたのは、文政6年(1823)までの14年間だった。今でも陣屋に近い光明院・西方寺・東伝寺(見物)には、白河藩関係者の墓が残されている。


監修 館山市立博物館

浜田・見物・早物・加賀名

なだらかな海岸線が美しい西岬地区北東部。縄文人の生活を伝える鉈切洞穴から足をのばして歩いてみましょう。

浜田・見物・早物・加賀名 文化財マップ

なたぎりエリア

(1) 船越鉈切神社(ふなこしなたぎりじんじゃ)(浜田)

(1) 船越鉈切神社(ふなこしなたぎりじんじゃ)(浜田)

なたぎり 文化財マップ

 海神である豊玉姫命をまつった神社で、参道を登った奥に鉈切洞穴(県指定史跡)があり、この中に本殿がある。鉈切洞穴は、およそ二万年前の沖積世初期にできた海蝕洞穴。縄文時代は住居として使われたらしく、土器や鹿角製の釣針・銛、魚の骨や貝などが発掘されている。古墳時代に墓として利用され、その後信仰の場に変わった。鳥居から参道を入ると、右手の壁面にヤグラが見える。内部には宝塔が浮き彫りにされている。拝殿周辺には、元禄6年(1693)に領主の旗本・石川政住が奉納した灯籠や、集落内の別の山から移してきた浅間様の祠などがある。宝物として独木舟や、元禄10年(1697)に紀州漁民が奉納した鰐口などがあり(いずれも市指定文化財)、海の神であることを伝えている。毎年7月14~16日の祭礼では雨乞いの芸能であるかっこ舞(市指定文化財)が演じられる。

(2) 海南刀切神社(かいなんなたぎりじんじゃ)(見物)

(2) 海南刀切神社(かいなんなたぎりじんじゃ)(見物)

なたぎり 文化財マップ

 浜田の船越鉈切神社とは、かつてひとつの神社として信仰されていた。本殿の裏に2つに割れたような大きな岩があり、神様が浜から上陸したときに手斧で切り開いて道をとおしたという話や、紫ノ池に住む大蛇がわるさをするので、池から水を抜くために神様が鉈で岩を切ったなどといった話が残されている。境内にある灯籠は、長須賀の石工鈴木伊三郎が天保7年(1836)に彫ったもので、狛犬は、楠見の田原長左衛門が天保10年(1839)に彫ったもの。拝殿向拝にある龍や獅子の彫刻は、明治の彫工・北条の後藤忠明による。社殿内には、現代の日本画家・岩崎巴人画伯が描いた絵画もある。浜田と同様に、7月の祭礼でかっこ舞が演じられる(市指定文化財)。

(3) 鳩山荘(見物)

(3) 鳩山荘(見物)

 元首相の鳩山一郎氏の別荘だったところで、昭和35年(1960)に国民宿舎としてオープンした。正面玄関脇に、旧鳩山邸の井戸が残されている。鳩山一郎氏の胸像もあるので、お見逃しなく。

見物エリア

(4) 孝子新四郎の碑(見物)

(4) 孝子新四郎の碑(見物)

 太田新四郎は江戸時代の塩見の人。両親に対する孝行から、寛政7年(1795年)に領主から褒美を与えられた。ここは昭和57年に西岬小学校として統合されるまで、東小学校があった場所。

(5) 東伝寺(見物)

 曹洞宗の寺院。江戸時代は海南刀切神社の別当寺だった。本堂内陣の板戸に、幕末の北条の絵師・渡辺雲洋の松図があり、これと対になった板戸絵は、館山藩の絵画教授だった沼出身の絵師・川名楽山が明治18年(1885)に描いたものである。また日本画家の岩崎巴人画伯も、60枚の天井絵などを描いている。また墓地には、幕末に海岸警備を担当した白河藩士とその家族64名の供養塔がある。白河藩はのちに桑名(現在の三重県)に転封された。

(6) 西岬村役場跡(見物)

(6) 西岬村役場跡(見物)

 明治22年(1889)に西岬村ができてから、昭和29年に館山市と合併するまで村役場があった場所。西岬の地名はこの明治22年以来のもので、香から坂井に至る14カ村が現在も西岬地区と呼ばれる。

(9) 金山神社(早物)

(9) 金山神社(早物)

 早物の鎮守で、鉱山や金属技工の神様とされる金山彦がまつられている。境内に万延元年(1860)の手洗石がある。神社に隣接する観音堂には、文政8年(1825)銘の六十六部廻国供養塔がある。

加賀名エリア

(7) 阿弥陀堂(加賀名)

 別名キリシタン灯籠といわれる織部灯籠の竿部分が、お堂の中にまつられている。戦国時代の文化人として知られる古田織部が創案した灯籠の形であることからこう呼ばれる。竿部分が十字架に見えたり、浮き彫りにされた像をキリストやマリア像にみたてたり、あるいはローマ字を組み合わせたような彫刻がされていたりといった特徴から、キリシタンの礼拝物という説があるが、一般的には五輪塔が変化したものという見方がされている。現在は安産の神様として信仰されているが、県内では市川市のものとここの例しか確認されていない。

(8) 熊野神社(加賀名)

(8) 熊野神社(加賀名)

 加賀名の鎮守。境内にヤグラがあり、中に一石で作られた五輪塔がある。灯籠には嘉永2年(1849)の銘がある。


監修 館山市立博物館

西岬地区香・塩見

平城宮跡で発見された古代の荷札に、1250年ほど前に奈良の都へアワビを運んだ賀宝(かほ=こう)と塩海(しおみ)の人々がいたことが書かれていた。古代から海とかかわってきたこの土地の歴史を歩こう。

西岬地区香・塩見 文化財マップ

香(こうやつ)エリア

(1) 浅間(せんげん)神社

(1) 浅間(せんげん)神社

 香の鎮守で、富士山の神が祀られている。毎年5月31日が「お山」と呼ばれる山開きで、山頂の奥の宮にはだしで登る風習がある。参道には嘉永元年(1848)の石灯篭があり、社前には地元で地引網を営業していた田村網の弥惣兵衛が寛政13年(1801)に奉納した手水石と、田村網で働いていた若者たちが天保12年(1841)に奉納した手水石がある。裏山山頂には奥の院が祀られ、天保11年(1840)の手水石がある。また浜には神社へ向いた鳥居と文政10年(1827)の石灯篭がある。

(2) 祭面(まつりめん)の庚申塔(こうしんとう)

(2) 祭面(まつりめん)の庚申塔(こうしんとう)

 「庚申青面金剛童子」の文字と三猿が刻まれている庚申塔。享保3年(1718)のもので、与兵衛夫妻はじめ8軒の夫婦で建立した。むかしは南側の高台にあったが、穴から落ちてしまったので、与兵衛屋敷の現在地に立て直したものだという。昔は「お猿さんのお籠もり」という庚申講が行われていた。

(3) 宝篋印塔(ほうきょういんとう)と要害(ようがい)

(3) 宝篋印塔(ほうきょういんとう)と要害(ようがい)

 市指定文化財になっている応永8年(1401)の宝篋印塔をふくめて、2基の宝篋印塔と5基の五輪塔がある。裏山中腹のヤグラにあったが、戦時中に軍の施設建設が行われて下ろされた。里見の武将5人の墓という伝説がある。裏山はヨウガイ(要害)と呼ばれ、里見の出城と伝承される戦国時代の城跡。里見家落城のとき2人の武士が逃げてきて切腹したという伝説をもつ中世の五輪塔が、別のお宅の庭の崖にも据えられている。

(4) 金剛寺

 真言宗で大明山という。寛政11年(1799)と文化元年(1804)の光明真言塔が目に付くが、無縁仏のなかに香谷村女念仏仲間19人が建立した如意輪観音像がある。元禄前後のものであろう。

(5) 地蔵堂(上の堂)

 墓地には念仏講による元禄13年(1700)の地蔵尊像や、同講の女性12人が元禄7年(1694)に建立した如意輪観音像がある。如意輪観音像には香村を「かう村」と書いているのが注目される。ほかに寛政8年(1796)の出羽三山碑がある。

(6) 下の堂

 宝永4年(1707)に地元の鈴木七右衛門(蓮求)が日本廻国を成し遂げた記念の廻国塔があり、三界万霊塔・名号塔を兼ねている。また明和5年(1768)に大坂の人が廻国中に建てた廻国供養塔や、豊後国国崎郡(大分県)の人のために地元の弥惣兵衛らが建てた文政11年(1828)の「南無阿弥陀仏」の名号塔がある。

(7) 香掩体壕(えんたいごう)跡

(7) 香掩体壕(えんたいごう)跡

 館山海軍航空隊の航空機格納庫としてつくられた施設で、宮城から香にかけては40か所ほどあったという。現在もはっきりと残されているのは、ここと宮城地区の赤山裏だけである。

塩見(しおみ)エリア

(8) ナナツボラ(横穴墓・ヤグラ)

(8) ナナツボラ(横穴墓・ヤグラ)

 坊山の南側にナナツボラと呼ばれる7つの横穴が並んでいる。ボラとは洞(ほら)穴のこと。古墳時代の横穴墓としてつくられ、南北朝から室町時代頃にヤグラとして改造され再利用されたもの。一番左のヤグラには3基の五輪塔が陽刻され、ほかのヤグラにも五輪塔の痕跡が残るものがある。中央部には窟堂として利用された痕跡もみられる。

(9) 善栄寺

(9) 善栄寺

 真言宗で、安養山という。本尊はあざとり阿弥陀として信仰される阿弥陀如来。門前の石造地蔵尊は寛政元年(1789)の厄除地蔵、その向いにある万延元年(1860)のお百度石は楠見の田原長左衛門作。阿弥陀様へのお百度参りのために建てられたもの。終戦後に地区内にあった真言宗の宝蔵寺を合併している。安房百八か所地蔵の第九十九番札所で、明治6年(1873)の御詠歌額が松の堂に残されている。

(10) 御嶽(みたけ)神社

(10) 御嶽(みたけ)神社

 日本武尊を祀る塩見の鎮守。本殿の彫刻は後藤三四郎作とあり、千倉の彫刻師後藤義光の師匠である江戸の後藤恒俊と思われる。境内にある岩はご神体岩と伝えられている。山王権現などの石宮の周囲には倒壊した文政11年(1828)の鳥居が残されている。

(11) カナクライシの橋

(11) カナクライシの橋

 一般的にはビーチロックといい、サンゴ礁が発達する海で潮間帯に多く見られる石。炭酸カルシウムによるセメント作用で海の堆積物が固まったもので、板状の石灰質砂礫岩である。短期間で固まるので櫛などの人工物が混ざっていたりする。わが国の約200地点に分布しているビーチロックのうち93%はサンゴ礁の発達海域にあるそうだ。塩見ではカナイシ・カナクライシと呼び、切り出したものを二か所で橋として使っていたが、一か所は大水で流されてしまった。

(12) 大屋敷墓地

 地蔵堂の墓地。無縁墓のなかに廻国納経修行塔がある。広島県中野村の女性の墓石で、明治43年(1910)に37歳で没している。巡礼中にこの村へ滞在して亡くなったようで、明治29年(1896)に亡くなった弟妹と思われる二人の少年少女の法名もある。

(13) 松の堂

(13) 松の堂

 江戸時代の幕府老中で奥州白河藩主の松平定信が訪れ、臥龍松と名づけた巨松があった観音堂。安房郡札観音の三十番札所で、「霧の海 霞に浮かぶあま人の むりの願いも浜の観音」が御詠歌。松は東西に50mも枝を広げていたが、大正の大震災頃から枯れはじめ、戦争中に消滅した。名勝として知られていた。跡地には旧道から松の堂への入口に建てられていた道標が移設されている。明治26年(1893)のもの。墓地には文化7年(1810)、尾張国日間賀島(愛知県知多郡)の八幡丸船員の墓がある。この地で亡くなったのだろう。

(14) 中原淳一詩碑

(14) 中原淳一詩碑

 少女雑誌の編集や人形作家・挿絵画家、またファッションデザイナーなど多彩な活躍で知られる中原淳一が、かつてここ塩見で療養していた。昭和36年(1961)に初めて訪れ、昭和58年(1983)に館山で永眠した。70歳。詩碑は平成14年に建立された。

(15) 出羽三山碑

(15) 出羽三山碑

 同じ家3軒で建てた出羽三山碑が2基あり、大日如来像が乗る方は寛政6年(1794)のもの。ほかに念仏講による文政7年(1824)の「南無阿弥陀仏」の名号塔と、文化4年(1807)頃の子育地蔵尊が並んでいる。地蔵菩薩は子供を抱き、その足元に賽の河原で石を積む子供の姿があるもので、子供を救う地蔵尊の姿が刻まれている。

浜田(はまだ)エリア

(16) 高性寺(こうしょうじ)

 真言宗のお寺で、智福山高性寺という。本尊は虚空蔵菩薩。むかしは浜田の鎮守船越鉈切神社の別当寺だった。神社の祭礼の時には鞨鼓舞の行列がこの寺から出発していた。

(17) 弁天祠

(17) 弁天祠

 水神としての弁財天を祀る塚で、この場所は堰から流れる川沿いに位置していた。


監修 館山市立博物館
作図:愛沢彰子

宮城・笠名・大賀

かつては沖ノ島・高ノ島を眼前にした名勝として知られ、昭和になってからは軍事施設が建設されて景観が一変した地域。古代の遺跡から近代の戦跡まで、様々な時代の歴史を探訪しよう。

宮城・笠名・大賀 文化財マップ

宮城(みやぎ)エリア

(1) 赤山地下壕跡

(1) 赤山地下壕跡

 高ノ島との間を埋め立てて昭和5年(1930)に開設した館山海軍航空隊が、太平洋戦争中の防空壕としてつくった施設。全長1.6kmにおよぶ大きな壕で、航空隊の主要部門がこの壕に入る予定だった。治療施設や発電所が備えられていた。

(2) 頼忠寺

(2) 頼忠寺

 里見忠義の家老だった堀江能登守頼忠が開基した寺で、曹洞宗。頼忠は里見忠義に従って倉吉に赴き、3年後の元和3年(1617)に没して倉吉の大岳院に墓が建てられている。頼忠寺にも供養塔があるが、そばに古い宝篋印塔の石がある。本堂には頼忠の木像も祀られている。墓地に嘉永元年(1848)の三山碑がみられ、旧山門付近にあるナギの大木は安房郡内で確認されているなかでもっとも大きいもの。

(3) 熊野神社

(3) 熊野神社

 宮城の鎮守。境内には、幕末の名主で明治初期には戸長を勤め、地租改正に尽力した宮木久左衛門の碑や、上総大堀で海苔養殖を学び、明治時代に宮城の産業に育てあげた蛯原久五郎の碑がある。また境内に奉納されている向拝の彫刻や鳥居・狛犬・手水石などはすべて明治44年(1911)のもので、この年に丘陵部から現在地に移転したという。境内右手の高台には浅間様が祀られている。

(4) 宮城掩体壕(えんたいごう)跡

(4) 宮城掩体壕(えんたいごう)跡

 館山海軍航空隊・洲ノ埼海軍航空隊の航空機格納庫としてつくられた施設で、宮城から香にかけて40個ほどあったといわれている。はっきりと残されているのは、ここと香地区の浅間山下だけである。

(5) 薬師堂跡

 頼忠寺持ちの薬師堂があった。宮城村の名主家の墓地には、室町時代から戦国時代にかけての宝篋印塔・五輪塔の一部がある。

笠名(かさな)エリア

(6) 洲ノ空射撃場跡

(6) 洲ノ空射撃場跡

 笠名から大賀にかけての原に、昭和18年(1943)、航空兵器の整備訓練機関として洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空)が開設された。ここはその施設のひとつで、戦闘機の機銃調整の試射を行なった全国的にも珍しい施設である。正面にある5基の壕の内部に砂を盛って斜面とし、標的にしたもので、壕周囲のレンガ面には機銃痕が残っている。

(7) 天神山

(7) 天神山

 かつて天神宮が祀られていたが、洲ノ空開設によって神明神社に合祀された。この山には洲ノ空で利用した防空壕があるが、洲ノ空の指令部が使用する予定だったという。山の東側には昭和16年7月30日設置の東京湾要塞第一区地帯標があり、山の南側にはコンクリートで覆われた半地下式の防空壕も残されている。なお館山海上技術学校の正門横に洲ノ空の記念碑が建てられている。

(8) 神明神社

 笠名の鎮守。境内に31貫・38貫・28貫と刻んだ力石がある。隣に真言宗の長泉寺がある。

(9) 安楽寺

(9) 安楽寺

 浄土宗の寺。江戸時代前期の1680年代に笠名村の領主石川八十郎が念仏道場として創建した。境内に天保3年(1832)の出羽三山碑、宝暦4年(1754)と宝暦13年(1763)の日本廻国供養塔がある。参道にある大きな石のお地蔵様は、念仏講が享保14年(1729)に寄進して建てたもの。

大賀(おおか)エリア

(10) 天王山横穴墓

 かつてこの上に天王様を祀っていた。洲ノ空開設によって積蔵院の北側に移されたが、今も天王講が続けられている。岩山の北面に洲ノ空の防空壕に使われた壕があるが、古墳時代の横穴墓を再利用して広げたものである。

(11) 御滝神社

(11) 御滝神社

 大賀の鎮守。宝篋印塔と五輪塔を重ねた石蔵様(セキゾウサン)と呼ばれる塔が祀られている。里見の侍が遭難して建てられたと伝えられていたが、洲ノ空の開設によって大賀の原の中からここへ移されてきた。ほかに念仏講が寄進した万治2年(1659)の山王大権現、享保12年(1727)の庚申塔が祀られているほか、天保9年(1838)の手水石がある。境内のタブノキも大きなもの。

(12) 積蔵院(しゃくぞういん)

(12) 積蔵院(しゃくぞういん)

 真言宗の寺。江戸時代の後期に寺子屋を開いていた住職祐敝の筆子塚がある。天保10年(1839)に没し、弟子たちによって建てられた。県道沿いには天明2年(1782)の出羽三山碑、文化6年(1809)の西国・坂東・秩父百観音巡礼塔があるほか、境内にも文政12年(1829)の百観音巡礼塔がある。

(13) 従軍慰安婦の碑

 かにた婦人の村に入所していた元従軍慰安婦の意思により、深津牧師が敷地内の山頂に昭和60年に建設した。また同敷地内には洲ノ空中島分隊が昭和19年8月に建設した戦闘指揮所の壕もある。


監修 館山市立博物館

岡沼・柏崎

沼地区周辺は、明治時代に豊津村と名付けられた。豊かな港になろうという意味。海とともに歩んだ沼地区の歴史を歩こう。

岡沼・柏崎 文化財マップ

岡沼エリア

(1) 十二天神社

(1) 十二天神社

 千葉県で最大のビャクシンの木がある。推定樹齢 800年。幹の周りは7.45m、高さ17m。枝は東西20m、南北24mに広がり、11本に枝分かれしている。ハゼノキ・イヌビワ・シロダニ・マサキ・トベラなどが着生している。社殿の向拝にある龍の彫刻は、館山藩の絵師だった川名楽山が明治時代に奉納したもの。作者は安房を代表する彫刻師の後藤義光。

(2) ヒカリモ・沼サンゴ層

(2) ヒカリモ・沼サンゴ層

 ヒカリモは、この一帯の山裾の洞窟に点在している。黄金色に輝く藻。ミクロ単位の小さなもので、水中に浮かび、気候の条件によって水面に膜をはる。ヒカリモ自身が光を出すのではなく、外の光が細胞の奥で反射され、細胞の色素によって美しい黄金色に輝く。沼サンゴ層もこの一帯にあり、県の天然記念物。75種類のサンゴ化石がある。約6000年前の縄文海進のときに育っていたサンゴが、土地の隆起によって標高20mのところで化石になったもの。「キクメイシ」と呼ばれたりしている。香や南条・出野尾などでも見ることができる。

(3) 薬師堂

 むかしは真言宗の広徳院といった。墓地のなかに中世の石塔や残欠や享保元年(1716)の西国巡礼の塔がある。堂のなかには沼の絵師勝山調が描いた「スサノオの図」の額がある。

(4) 天満神社

(4) 天満神社

 平安時代の国司源親元が建てたとされている。境内には地元の絵師川名楽山の記念碑(明治33年)や枇杷山開拓者法木翁の碑(昭和44年)、溜池竣工記念碑(昭和28年)があるほか、書家小野鵞堂が揮毫した明治35年の菅公一千年祭記念碑、北条にいた伯爵万里小路通房が題額を書いた拝殿改築記念碑(大正8年)などがある。菅原道真の歌を書いた明治35年の植樹記念碑もある。

(5) 石塚のヤグラ

(5) 石塚のヤグラ

 上の台地には墓地があり、むかしは地蔵堂だった。南側の道にそって中世のヤグラがあり、その壁面には4基の五輪塔が浮き彫りされていた跡がわかる。鎌倉時代から室町時代のこの地域の武士の墓だろう。

(7) 総持院

(7) 総持院

 真言宗の寺院。平安時代の国司源親元が永長2年(1097)に建てたと伝えている。里見時代の古文書が伝わっていて、里見義康が天正19年(1591)に寺領を寄進したものと、里見忠義が慶長11年(1606)に寺領を与えたときのもの。境内には、沼の絵師で狂歌師だった勝山調の辞世の狂歌碑がある。寺の北側にある観音堂には、山調の娘クラ女の墓がある。

(8) 大寺山洞穴

(8) 大寺山洞穴

 標高25mにある海食洞穴。高さ3m、奥行25m。古墳時代に墓として利用され、発掘調査で人骨・土師器・須恵器・大刀・短甲二種類・丸木舟などが出た。ヤマト王権と結びついたこの地域の実力者のもの。近年の調査では棺につかったたくさんの丸木舟が出ており、海の道を支配した安房の海人の墓とされている。保存のため、現在は立ち入りは禁止。

柏崎エリア

(6) 浄閑寺

(6) 浄閑寺

 浄土宗の寺院。墓地のなかに、天保13年(1842)に建てられた鯨漁の供養塔がある。また本堂横には山の神と思われる金太郎の石像がある。

(9) 国司神社

(9) 国司神社

国司神社 文化財マップ

 平安時代の1096年~1100年まで、安房国の国司だった源親元を祭神にしている。仏教を通して安房の政治を行い、人々に慕われた人物。勤めを終えて京都に帰るとき、柏崎から船で出発したが、その時別れを惜しむ人々に着物の袖を与えた。親元の死後屋敷跡に袖を祀ったのが神社の始まりだとされている。神社横の広場は、むかし国司神社を管理していた泉光院という寺の跡。境内には天保3年(1832)の石鳥居と石灯籠や、豊津村の日露戦争碑があり、階段下には宝暦5年(1755)の廻国供養塔がある。

(10) 鈴木家住宅

(10) 鈴木家住宅

 江戸時代に盛岡藩(岩手県盛岡市)南部氏の廻米を扱う御穀宿という船宿だった。南部屋と呼ばれて、藩から赤門を建てることを許されていた。高の島湊へ藩の船が風除けに避難してくると、積荷の保護や乗員の世話などをした。明治時代になって医者になり赤門病院と称した。住宅は大正の大地震直前に建てられた本格的な洋館。

(12) 西の浜青年館(西の浜)

 大正3年(1914)に館山町で建てた道路元標がある。もとは西の浜と上須賀の境のバス通りに建っていた。ちなみに館山地区公民館に、明治26年(1893)に豊津村が建てた道路元標もある。もとは宮城の豊津ホール入口にあったもの。

(13) 地蔵尊(上須賀)

(13) 地蔵尊(上須賀)

 見留橋のたもとにある地蔵尊。江戸の法心と千葉の浄心という日本廻国の行者が、江戸時代中期の享保年間に建てたもの。右にあるのは文化9年(1812)に十九夜講で建てた如意輪観音。十九夜講は、女性たちが安産祈願をする子安講のこと。

鷹の島エリア

(11) 鷹島弁天閣

(11) 鷹島弁天閣

鷹の島 文化財マップ

 高の島の弁天様は、平安時代の嘉保年間に源親元が勧請したといい、漁師の信仰をうけてきた。大正10年(1921)には湾内12の網主が、魚付林としてマテバシイ 300本、杉50本を植樹している。境内には大正15年に建てた大正地震紀念碑がある。題字は貴族院議長の徳川家達、撰文は千葉県知事の元田敏夫。社殿前の手水石は館山海軍航空隊が奉納したもの。社殿周囲の玉垣は地元の人ばかりでなく宮城県や茨城県などの船主も寄進している。波切不動もあり、海で生活する人々の信仰の様子を伝えている。


監修 館山市立博物館

城山とその周辺

戦国大名里見氏最後の居城・館山城。城山とその周辺を歩いて、城跡をたどってみましょう。

城山とその周辺 文化財マップ
(1) 館山神社(たてやまじんじゃ)

(1) 館山神社(たてやまじんじゃ)

館山神社 文化財マップ

 関東大震災で倒壊した館山町内の神社を合祀して、昭和5年(1930)に新しく建てられた神社。合祀されたのは、新井と下町の氏神だった諏訪神社と、中町と上町の氏神だった諏訪神社、上須賀にあった稲荷神社と八坂神社、楠見の厳島神社、城山南麓の御屋敷にあった稲荷神社。境内には、地元出身の大相撲力士錦岩が奉納した文政9年(1826)の手洗石がある。また文政11年(1828)に江戸深川の鈴木某が奉納した鳥居の脚が槙の植樹記念碑に再利用されている。狛犬は楠見の石工・俵光石の作で、大正6年(1917)の銘がある。光石は東京美術学校で高村光雲の指導を受け、石彫科助手を勤めたことがある。

(2) 城山(しろやま)

(2) 城山(しろやま)

 現在、地名になっている「館山」は、もともとこの城山のことをさしていた。戦国大名里見氏の居城跡だが、明治時代に山麓から里見氏以前のものである中世の五輪塔や陶磁器が掘り出されており、古くから武士の城館だった。里見氏が慶長19年(1614)に移封された後は、江戸時代後半に稲葉氏が館山藩をたてて、城山南麓に陣屋を築いた。太平洋戦争中に高射砲陣地となり、山頂や周辺がかなり破壊されたが、戦後は城山公園として整備された。(城山内の文化財については、別刷のマップ 「城山の文化財にふれよう!」をご覧ください)

(3) 熊野神社(くまのじんじゃ)と熊野堂(くまんどう)

(3) 熊野神社(くまのじんじゃ)と熊野堂(くまんどう)

 神社とお堂がある山が熊野山と呼ばれている。熊野堂には、中世の宝篋印塔の笠石部分がみられる。熊野山の南西の水田はかつて沼だったところで、館山城の城崖跡とみられる切岸が残っている。

(4) 慈恩院(じおんいん)

 曹洞宗のお寺で、館山城主里見義康の菩提寺。もとは歴代の持仏堂として城内に創建されていた。慶長8年(1603)に没した義康の墓所がある。墓地には、市内ではあまり例をみない中世の陽刻五輪塔がある。また幕末から明治にかけて活躍した沼出身の絵師・川名楽山や、東京高等商業学校長だった坪野南洋の墓などがある。館山藩士の墓も多い。入口付近には、里見義康のときに構築された鹿島堀に関する由来碑がある。「鹿島堀」の名は、義康が加増をうけた常陸国鹿島の領民が普請したとのいわれによる。堀の遺構として現在見ることができるのは、泉慶院跡の池と、御霊山・天王山をめぐるように残された堀跡だけ。発掘調査などから、城山の東南から北側にまで、ぐるりと水堀がとりまいていたと推定されている。(別刷のマップ「慈恩院の文化財解説」をご覧ください)

(5) 妙音院(みょうおんいん)

(5) 妙音院(みょうおんいん)

 高野山金剛峯寺の直末のお寺で、古義真言宗。天正7年(1579)に里見義康が高野山から僧を招いて創建したと伝えられる。境内には中世宝篋印塔の一部が残る。裏山には、四国八十八ヶ所の霊場をうつした「安房高野山八十八ヶ所」がある。縁起によれば、明治28年(1895)に上総の老婆がやってきて霊場をつくるように説いたという。石工の俵光石など、地元の人々が88体の弘法大師の石像を奉納して完成させた。その後桜の名所として有名になったが、昭和20年に戦災を受けて本堂が焼失した。鐘楼堂の焼け跡が、戦災の様子をいまも伝えている。(別刷のマップ「妙音院の文化財解説」をご覧ください)

(6) 泉慶院跡(せんけいいんあと)

(6) 泉慶院跡(せんけいいんあと)

 ここに曹洞宗の寺院があった。開基は智光院殿という。この人は、足利義明の娘で青岳尼といい、鎌倉太平寺の尼僧だった。寺を捨てて安房へ渡り、還俗して里見義弘の妻になっている。開山は淳泰和尚で、義弘の息子梅王丸のこと。梅王丸は義弘の死後に兄義頼と家督を争って敗れ、出家させられた人物。梅王丸の母は義弘の後室で足利晴氏の娘。青岳尼ではない。里見氏の時代には160石もの寺領を与えられて保護されていたが、江戸時代は7石となり衰退した。墓地に開基と開山両人の供養塔がある。池は館山城の鹿島堀の一部。泉慶院を含めた館山城跡の東南一帯は寺院が多い。このあたりは館山城の外郭としての役割があったと考えられている。

(7) 大膳山跡(だいぜんやまあと)

(7) 大膳山跡(だいぜんやまあと)

 大膳とは、上総小田喜城を本拠地とした里見氏の重臣・正木氏の家督を継いだ二代目正木大膳亮時茂(時堯の名で知られる人)のこと。二代目時茂は里見義康の弟で、忠義の時代には実質的に里見家をきりもりした。その居住地として大膳山・大膳屋敷などの名前が残されている。

(8) 御霊山(ごりょうやま)・天王山(てんのうやま)

(8) 御霊山(ごりょうやま)・天王山(てんのうやま)

 城山だけでなく、この御霊山・天王山のあたりまで、館山城の城郭であった。両方の山をめぐるように、山の腰に堀の跡がはっきりと残され、北から東にかけては切岸になっている。発掘の結果、水堀であったことが確認されている。

(9) 宗真寺(そうしんじ)

(9) 宗真寺(そうしんじ)

 市内で唯一の真宗の寺院。里見氏の移封後に館山の領主になった旗本の石川八左衛門が、現在の境内地に創建した。檀家は関西方面から江戸時代に移住してきた家が多い。もとは館山城の馬屋があったと伝えられる場所である。

(10)  キリスト教共同墓地(きょうどうぼち)

(10) キリスト教共同墓地(きょうどうぼち)

 明治年間に医療伝道のため来日した、イギリス出身のコルバン夫妻がここに眠っている。コルバン医師は、自身の療養のため明治末から大正にかけて市内八幡に住み、結核療養所を開いた。コルバン医師の没後、夫人は安房各地で伝道を行って教会を建て、南三原・和田・鴨川などに幼稚園も開設した。コルバン夫人は昭和15年(1940)に亡くなり、コルバン医師の眠るこの墓地に葬られた。


監修 館山市立博物館