館山城下町

館山城を居城とした里見氏は、館山の町の基礎を築きました。
今回は、里見氏がつくった城下町、楠見、上町、仲町、新井、上真倉を中心に巡ってみましょう。

館山城下町 文化財マップ
(1)枡形

(1)枡形

「ますがた」と呼ばれる場所で、城郭の入り口にあたり、出陣の際、兵の集まる所でもあった。

(2)上仲公園

(2)上仲公園

仲町上町の諏訪神社があった場所。大正12年(1923)の関東大震災後に館山神社になったため、現在は公園になっている。

(3)仙台藩役所跡

(3)仙台藩役所跡

仙台藩の廻船役所があったところ
藩の年貢米などを輸送する船や改めや、船が難破した際の世話をするところで、藩士2人が詰めていた。

(4)食い違い道

(4)食い違い道

道路を直交させないでわざとずらして交差させた道を「食い違い」という。
碁盤の目をような道路が便利だが、あえて食い違いにすることで、敵の侵攻を妨害する効果がある。

(5)源福院跡

(5)源福院跡

明治21年(1888)の館山の大火で焼失した小谷山源福院の跡地。三福寺の隠居寺だった。浄土宗。
明治11年(1878)に71歳で亡くなった中興開山の信蓮社順誉上人(鳥取出身)の墓がある。前面左側には「ちる蓮で すくひためへや 南無佛」という辞世の句がある。

(6)長福寺

(6)長福寺

長福寺 文化財マップ

普門山長福寺。真言宗の寺院。寛政元年(1460)創建。新井浦の名主だった嶋田三郎兵衛家が大檀那だった。
中世の石造六地蔵尊が祀られている。千葉家、高梨家などの館山藩士や館山藩医宮川元斎の墓があるほか、戊辰戦争の際箱根に出陣した館山藩関係者の供養塔「寄子万霊塔」、遭難した仙台藩士の墓などがある。

(7)三福寺

(7)三福寺

三福寺 文化財マップ

観立山三福寺。浄土宗の寺院。文明3年(1471)創建。
里見氏の時代に城下町の商人頭だった岩崎与次右衛門家(のちの館山仲町名主)が大檀那だった。
館山藩儒者で郡奉行の新井文山の墓と記念碑がある。
里見義康が三福寺住職の望みを聞いたところ「河流を寺領として貰いたい」と言ったとされる。河流を寺領にするということは、汐入川河口を利用する権利を指すものと思われる。三福寺が流通に関わりをもち、土地の代わりに汐入川の利用権をもっていたのではないだろうか。

(8)諏訪神社

(8)諏訪神社

新井と下町の諏訪神社があった場所。館山神社に合祀されたため、現在は新井集会所と下町コミュニティホールがある。
「新井のお船歌」は平成20年(2008)に市の無形民俗文化財に指定されている。

(9)菱沼跡

(9)菱沼跡

長須賀の小字で「菱沼」という人工的な台形をした土地。
江戸時代中期の元禄までは汐入川の遊水地として菱沼があったのだろう。
里見氏の時代に船溜として使われていたと思われる。

(10)本蓮寺

(10)本蓮寺

光海山本蓮寺。日蓮宗の寺院。開山は日泰という。天正2年(1574)創立。
館山下町の商人中山六右衛門家(里見氏の時代の連雀司(れんじゃくのつかさ)=商人頭だった中山彦五郎の縁者か)が開基檀那。下総中山(市川市)から来たという伝承がある。

(11)妙台寺

(11)妙台寺

長樹山妙台寺。日蓮宗。文亀元年(1501)、日台が創立したという。館山藩士などの墓がある。
明治13年(1880)の題目塔、明治28年(1895)の手水鉢がある。

(12)鹿島掘

(12)鹿島掘

里見義康の時代に関ヶ原の戦いの功労で鹿島(茨城県)三万石を加増されたあと、鹿島領民が構築したものと伝えられている。
天王山の下は近年まで水田があった場所で、井戸を掘ったところ、その底には地固め用の割栗石が敷き詰められていたという。
城山駐車場でも水堀跡が発掘されており、慈恩院(19)の前の泉慶院の池も鹿島掘と伝えられている。

(13)御霊山

(13)御霊山

館山城の東方500mにある山。中段の周囲に鹿島掘がある。
現在では消滅しているが、昭和50年(1975)頃には、堀跡が麓から大膳山に向かって延びているのが、航空写真でもはっきり確認できる。

(14)宇和宿

(14)宇和宿

「うわじゅく」と読み、「上宿」のこと。
北西にある刑場跡付近を「下宿(しもじゅく)」と呼んでいた。里見氏以前からの市場機能を持つ中世の宿が置かれていたとされる。かつて下宿から汐入川を渡って青柳と往来できた。

(15)神明神社

(15)神明神社

建長元年(1249)に安西八郎が伊勢大神宮より勧請したという。真倉村の鎮守。
境内には上真倉の集会所がある。

(16)真楽院

(16)真楽院

小河山真楽院。曹洞宗の寺院。由緒書には里見義頼の娘が正木家に嫁いで初産の時、東条家の家臣だった戸倉玄安が調薬を任され、母子とみに安泰であったと伝え、玄安が安産守護の三神を祀った寺。

(17)泉慶院墓地

(17)泉慶院墓地

曹洞宗の寺院で、元亀2年(1571)に里見義弘によって創建された泉慶院があった。開基は義弘室の智光院殿(青岳尼)。
本堂はなくなったが、墓地には開山塔と開基塔がある。

(18)妙音院

(18)妙音院

妙音院 文化財マップ

光照山医王寺妙音院。古義真言宗の寺院。
天正7年(1579)に里見義頼の命により、高野山妙音院の快算法印が開基になった。安房高野山と称される。

(19)慈恩院

(19)慈恩院

慈恩院 文化財マップ

藤谷山慈恩院。曹洞宗。里見義康の弟である玉峯和尚が天正9年(1581)に創建したと伝えられる。
もとは城山の頂上にあった義康の持仏堂で、館山城築城の際に現在の場所に移したとされる。
里見義康の菩提寺で墓所がある。門前には鹿島掘の由来碑がある。

(20)大膳屋敷跡

(20)大膳屋敷跡

館山城域内にはかつて大膳山があり、そのふもとに里見家一門衆の頭、正木大膳の屋敷があったと伝えられる。

(21)采女の井戸

(21)采女の井戸

江戸時代に、稲葉氏の館山藩の陣屋があった場所を「御屋敷」とよぶが、里見氏の時代には重臣屋敷があったと伝えられる。
里見忠義の重臣印東采女の屋敷の井戸を、今も「采女(うねめ)の井戸」という。

(22)館山城切岸

(22)館山城切岸

切岸(きりぎし)とは、山の斜面を垂直に削って人工的に作った城壁のころ。城山の周囲をぐるりと巡っている。


〒294-0036 館山市館山351-2 TEL:0470-23-5212

上真倉・下真倉

上真倉・下真倉 文化財マップ

現在は住宅地が広がる上真倉(かみさなぐら)と下真倉(しもさなぐら)は、館山城の西側に位置し、城下の寺町と豊かな農村というふたつの性格を備えていました。古代から開発されてきた穀倉地帯を歩いてみましょう。

上真倉(かみさなぐら)

(1)法蓮寺

(1)法蓮寺

法輪山法蓮寺という日蓮宗のお寺。江戸時代までは下真倉村に属していた。天正4年(1576)に記された法蓮寺文書によれば、文永元年(1264)、日蓮聖人が説法した三原(南房総市和田町)の地頭・池田和泉守の館の草庵を元に建立され、永禄7年(1564)に北条氏が館山平野へ攻め込んだ際には、那古寺や三芳(南房総市)の延命寺と共に大きな被害を受けたという。現在の鐘楼堂は天保11年(1840)に青柳出身の34世日童が建立したもので棟札が伝わる。墓地には牛頭観音3基や昭和3年(1928)の汐入川溺死者供養碑、関東大震災で亡くなった女性の墓などがある。牛頭観音は大正14年(1925)に長須賀と塩見の人物が建てた2基と、昭和11年(1936)に府中の人物が建てた1基で、牛の姿が彫られている。このほか、境内には玉姫稲荷社と竜神堂が祀られている。

(2)妙善寺跡

正光山妙善寺という日蓮宗のお寺があった場所。江戸時代までは下真倉村に属していた。法蓮寺31世である正光院日到の隠居寺として建てられたと伝わる。法蓮寺の山門前にある「正光山妙善寺」の石柱は宝暦10年(1760)の建立。その左の題目塔は日到が宝暦7年(1757)に建立したもの。

(3)長泉寺

(3)長泉寺

深広山長泉寺という浄土宗のお寺。江戸時代には下真倉村に属していた。墓地には上真倉・下真倉で商店を営んだ加藤兼松氏の事績を記した、昭和8年(1933)建立の青柳堂開祖記念碑がある。本堂前にある六地蔵は享保3年(1718)の建立。以前は「オコモリ」が行われ、近所の女性がおにぎりなどを持って集まった。この寺の周辺が青柳という字で、下真倉村の中心部だった。

(4)日枝神社本宮跡

(4)日枝神社本宮跡

日枝神社の旧社地と伝えられ、以前は祭礼の際に幟旗を立てていた。幟旗が劣化したため、平成30年(2018)に「日枝神社本宮跡」と刻まれた現在の石碑を建てた。近くに「オサンノウ」という屋号の家があり、敷地内の椎の木はご神木と伝わる。江戸時代までは下真倉村に属していた。

(5)馬頭観音・牛頭観音

(5)馬頭観音・牛頭観音

右に馬頭観音、左に大正9年(1920)の牛頭観音が並んでいる。牛頭観音は5頭の牛の名前・命日とともに、牛の姿が刻まれている。

(8)字一向堂(あざ いっこうどう)

下真倉の中にある上真倉地番の飛び地。元和元年(1615)、門雪という僧によってこの地に建立された草庵「一向堂」が、上真倉にある浄土真宗の宗真寺の前身と伝わる。その後、寛永2年(1625)に上真倉村を支配した旗本・石川政次が、門雪に土地を寄進し、現在地に宗真寺が建立されたと伝わる。

(9)辻の堂

(9)辻の堂

辻という字にある墓地で、以前は建物があり「お堂」と呼んでいた。寛政5年(1793)の下真倉村絵図(青柳区蔵)では「地蔵堂」と記されている。敷地内には中世の五輪塔の笠石や宝珠が確認できる。向かって左側に並ぶ地蔵のうち右から2体目は、全国を廻国して大乗妙典という経典を奉納した肥後国玉名郡中村(熊本県)の人物が建立したもの。この他、安政2年(1855)の馬頭観音もある。

(10)ヤマンカミ(山の神)

(10)ヤマンカミ(山の神)

辻の集会所を「ヤマンカミ(山の神)」と呼んでいる。以前は山の上にあったが、お参りするのが大変なため、昭和の初め頃に現在地へ下ろしたという。

(11)長光寺

(11)長光寺

富士山長光寺という曹洞宗のお寺。『安房志』によれば、天文元年(1532)に一峰桂寅が開山した。天正17年(1589)に里見義康より高10石を寄進され、江戸時代にも引き続き朱印地10石を有していた。寛政10年(1798)に火災で焼失し、享和2年(1802)に本堂を再建したという。その後、火災により本堂が焼失し、平成5年(1993)に再建された。安房郡札観音巡礼の16番札所。館山市腰越から移転してきたとの伝承もあり、腰越の滝川沿いに長光寺という字がある。寺の向かい側の墓地には「当寺開基」として里見義康と忠義の文政5年(1822)の供養塔があるほか、歴代住職の墓や、延宝元年(1673)の如意輪観音像や延宝8年(1680)の地蔵像などがある。

(12)地蔵堂

(12)地蔵堂

お地蔵様を祀るお堂。墓地には文政7年(1824)に観音講中が建てた三面八臂の馬頭観音像や文化年間の廻国供養塔がある。

(13)浅間宮

(13)浅間宮

上真倉のうち戸倉の人々で管理しており、毎年7月1日に山頂までの参道を掃除する。山頂に浅間宮と明治36年(1903)の手水鉢がある。浅間宮の左手に石尊と呼ばれるお宮と天保2年(1831)の手水鉢があり、小御嶽と思われる。鴨川の富士講の行者・栄行真山が明治8年(1875)にまとめた安房国浅間宮百八番の第48番にあたり、拝み歌「三国を皆白妙の身になして今あら玉の富士の山もと」を記した奉納札がお宮に納められている。昭和12年(1937)建立の鳥居があったが、令和元年房総半島台風で倒壊した。

(14)庚申塚(こうしんづか)

戸倉橋の東側にある塚。「オコウシンヤマ」と呼ばれている。塚の上には元禄4年(1691)の庚申塔と月山・湯殿山・羽黒山の出羽三山碑がある。現在は、オマツリなどは行われていないという。

(15)東田遺跡

汐入川南岸の標高10~14mの河岸段丘に位置する古墳時代の遺跡。国道410号バイパス建設工事に先立って調査が行われ、汐入川から用水を引き入れたと思われる溝状の遺構が発掘された。溝状の遺構から大量の土師器(はじき)や土製模造品などが出土し、祭祀が行われたことが分かる。この他、竪穴住居跡や倉庫と考えられる高床建物跡も確認されている。

下真倉(しもさなぐら)

(6)長須賀条里制遺跡

汐入川北方の館山平野に広がる古代律令制に基づいた条里制遺跡で、国道410号バイパス工事に先立って調査が行われた。調査の結果、弥生時代から古墳時代にかけて営まれた水田や、古墳時代後期の水路、木製品を利用した取水口などが見つかった。古墳時代後期の水路やため池からは大量の破砕された土師器や須恵器、小銅鏡、子持勾玉などが出土しており、水辺の祭祀が行われたと考えられている。

(7)日枝神社

(7)日枝神社

下真倉の鎮守で、江戸時代には山王社、明治期には三輪神社と称していた。寛政5年(1793)の下真倉村絵図(青柳区蔵)では現在地に描かれ、同年の下真倉村明細帳(川名家文書)には「氏神山」と記載がある。江戸時代には加藤家が神職を勤め、現在も「ネギドン」という屋号で呼ばれる。境内には文政10年(1827)奉納の手水鉢や大正3年(1914)奉納の狛犬、昭和3年(1928)に広島県西條町の人物が奉納した石灯籠などがある。本殿右裏手の石碑は、関東大震災の被災に対する天皇からの下賜金を感謝し、大正14年(1925)に建立されたもの。裏面に下真倉区の被害状況が記される。この他、境内には稲荷社が祀られている。


館山市立博物館(2022.11.20作成)
千葉県館山市館山351-2 TEL 0470-23-5212

北条(南町・新宿・長須賀)

安房の中心地として、多くの人々が行き交う北条地区。南町・新宿・長須賀エリアには、古くからの建築物が多く残っています。いつもの道をゆっくり眺めて、町の歴史を味わってみましょう。

北条(南町・新宿・長須賀) 文化財マップ

南町(みなみちょう)エリア

(1)蛭子(ひるこ)神社

(1)蛭子(ひるこ)神社

南町の鎮守で、江戸期の別当は北条北町の不動院が務めていた。「蛭ヶ島権現(ひるがしまごんげん)」とも呼ばれることから、この地はかつて、島状になった川の中州だったと考えられる。境内には、安政6年(1859)に当村(北条村)の釜屋茂兵衛・山田金助が奉納した手水鉢(ちょうずばち)や、無銘の力石がある。また、明治38年(1905)に石垣を築いた際の寄付者51名と世話人3名(稲向儀兵衛・川名惣吉・渡辺恒三郎)の名を記した石垣の一部が残る。

(2)金台寺(こんたいじ)

(2)金台寺(こんたいじ)

金台寺 文化財マップ

浄土宗のお寺で、海養山龍勢院金台寺という。文明8年(1476)の創立と伝えられ、永正2年(1505)に鎌倉光明寺の学頭昌誉順道上人を迎えて開基とした。4世豪誉上人は里見義康の伯父であり、寺領60石を与えられるなど、里見氏の厚い保護を受けていた。江戸時代も朱印地60石を引き続き認められている。墓地には、正徳元年(1711)に北条藩の領民が決起した万石騒動で領民側にたって処刑された代官行貝(なめがい)弥五兵衛親子の墓や、明治の初めに打ち首となった義賊赤忠(あかちゅう)の墓がある。また本堂裏手には、明治36年(1903)から30余年の間、北条に住み、安房中学校で水泳・柔道を指導した本田存(ありや)先生の墓もある。金台寺は、大正2年(1913)に六軒町にあった浄円寺(じょうえんじ)を合併しており、同寺にあった板碑形五輪塔2基も伝えられている。

新宿(しんじゅく)エリア

(3)神明神社

(3)神明神社

新宿の鎮守で、神明町の神明神社(大神明(おおじんめい))に対して「小神明(こしんめい)」呼ばれていた。狛犬は大正9年(1920)に新宿区の女性9名と富浦村岡本の女性1名の計10名が奉納したもので、彫刻師は千倉の3代後藤義光、石工は長須賀の石勝である。境内には力石や戦国時代のものと思われ宝篋印塔(ほうきょういんとう)の笠石がある。神社裏手が一段低くなっており、砂丘上に位置していることが分かる。

(4)海蔵寺(かいぞうじ)

(4)海蔵寺(かいぞうじ)

長新山海蔵寺といい、かつては真言宗のお寺だった。延亨4年(1747)建立の幸福地蔵、天保9年(1838)奉納の手水鉢、安政5年(1858)奉納の永夜塔がある。墓地には幕末の寺子屋師匠・田井義明の石碑や、関東大震災の被災者を弔うために北条町青年団新宿支部が建立した「恭用震災殃死(おうし)者諸民之霊」碑がある。

長須賀(ながすか)エリア

(5)安房高等女学校跡

現在、千葉県職員住宅がある辺りには、昭和6年(1931)まで安房高等女学校(後の県立安房南高校)の校舎があった。同校は明治40年(1907)に安房郡立技芸学校として開校した後、同42年に群立安房高等女学校となり、翌年この地に校舎が落成した。大正10年(1921)に同校が県立となった後も引き続き使用されたが、関東大震災で倒壊したため、北条に新校舎を建設し移転した。

(6)八石三斗(はっこくさんど)

「八石三斗」という小字(こあざ)で、里見氏の時代に製塩が行われていたところ。ここが北条の飛び地になっているのは、この場所での製塩の権利を北条村の人々が持っていたためである。周辺には長須賀の塩場があり、「塩焚(しおたき)」の小字が残っている。江戸時代には六軒町の浜に新塩場ができているが、元禄地震以降、製塩は行われなくなった。

(7)来福寺(らいふくじ)

(7)来福寺(らいふくじ)

来福寺 文化財マップ

真言宗寺院で海富山来福寺という。里見氏の時代から江戸時代まで引き続き下真倉(しもさなぐら)に寺領12石を与えられていた。薬師堂には室町時代中頃の木造薬師如来立像が祀られている。境内には彫刻師である初代後藤義光の米寿を祝って建てられた寿藏碑(じゅぞうひ)がある。また、手水鉢は文久3年(1863)に、池田屋金七・糀谷(こうじや)源平など長須賀の有力商人ら14名が世話人となって奉納したものである。安房郡札観音巡礼第21番霊場。

(8)紅屋商店

(8)紅屋商店

金物などの専門店である紅屋商店は、明治26年(1893)に和田(南房総市)から移転し長須賀で開業した。現在の店舗は関東大震災に耐えて残った蔵を利用しており、国の登録有形文化財。

(9)小谷(おだに)商店

(9)小谷(おだに)商店

潮留橋から東に延びる通りは、館山汽船場を利用した物資流通に便利な位置にあり、明治11年(1878)に東京・館山間に汽船が就航した後、問屋街として繁栄した。通りに建つ小谷商店は、おもに車の燃料用や食用の油を扱う問屋で、他に砂糖やメリケン粉も扱っていた。現在の建物は大正7年(1918)頃のもので、関東大震災後に補強と落ちた瓦の葺(ふ)き直しを行っている。昭和40年(1965)頃まで食用油や雑貨・荒物の問屋として営業していた。

(10)稲荷

(10)稲荷

南長須賀町内ホール前に建つ稲荷社は、昭和40年(1965)頃にホール(旧青年館)を建設した際に建てたもの。それ以前は現在ホールがある場所にあった建物の中に祀られており、「お稲荷さんの集会所」と呼ばれ利用されていた。安政4年(1857)奉納の手水鉢と明治34年(1901)奉納の線香立がある。

(11)表町・裏宿

長須賀のうち表町と裏宿は、里見氏の時代に造成された館山城下町の一部であった。北条の北町からこの辺りまで通り沿いに町家が連続しており、一旦途切れた後、汐入川(しおいりがわ)から城の方向へ城下町が広がっていた。

(12)地蔵跡

(12)地蔵跡

現在長須賀の屋台小屋がある場所には、昭和初期まで道沿いにお地蔵様が置かれており、隣の種屋鶏肉店は「ジゾウミセ」と呼ばれていた。この地蔵は現在、(14)熊野神社と宝積院の入口左脇に移されている。

(13)酒のあきやま

寛政年間(1789~1801)創業。以前は秋山酒造店といい、清酒「長楽」やジュース類を製造していたが、現在は小売のみを行う。文政8年(1825)建築の住居が関東大震災でも倒壊せずに残っていたが、昭和32年(1957)に現在の住居に立て替えている。

(14)熊野神社

(14)熊野神社

長須賀の鎮守で、かつては来福寺に鎮座していたと伝えられる。隣接して真言宗の神明山宝積院(ほうしゃくいん)が建つ。入口左の地蔵と境内の三神社は、(12)の場所にあったものを移したと伝えられる。手水鉢は安政6年(1859)に氏子中が奉納したもの。また、三神社の手水鉢は寛政7年(1795)に奉納されたもので、正面に薬師堂と書かれている。神社裏手に架かる幸橋は、明治26年(1893)建造の石橋。

(15)境橋

(15)境橋

新宿と長須賀の間に架かる橋。中世には新宿は北条郷、長須賀は真倉郷に属しており、両郷の境を流れる川が境川と呼ばれた。現在の橋は昭和14年(1939)竣工のもの。


館山市立博物館(2014年11月9日作成)
館山市館山351-2 TEL:0470-23-5212

高井・上野原

古い砂丘列の上に作られ古墳時代から人々が生活した集落の寺社や文化財を訪ねてみよう。

高井・上野原 文化財マップ

高井(たかい)

砂丘列の北部に位置する集落。宮作(みやさく)・宿内(しゅくうち)には土師器の散布する古墳時代の遺跡が残る。江戸初期の里見氏治世下では、使番の岡本右馬之助、百人衆之頭の安西中務、奏者の梅田与九郎が知行した。江戸初期の村高は491石余、明治元年(1868)の村高は397石余。また、江戸時代に平久里川の旧河道を開墾して成立した古川新田は独立した村であったが、明治3年(1870)に高井村と合併した。明治元年の石高は148石余。高井のうち滝川と平久里川の間の地域は桑原と称され、天保頃には家数8軒の桑原村とも記されている。

(1)高皇産霊神社(たかみむすびじんじゃ)

(1)高皇産霊神社(たかみむすびじんじゃ)

高皇産霊神社と善浄寺 文化財マップ

高皇産霊神を祀る高井の鎮守。砂丘の北端に位置している。火災により文書は焼失したため神社の創立年代は不明。境内には嘉永2年(1849)に氏子中が奉納した石灯籠が残る。石工は館山楠見の長左衛門。社殿前の狛犬は、大正14年(1925)に地元の大工である高木久平が82才を記念して奉納した。石工は長須賀の吉田亀石。明治初期に莫越山神社の口添えにより八幡の祭礼に参加するようになった。桑原にあった天神社を合祀している。

(2)石宮群(いしみやぐん)

(2)石宮群(いしみやぐん)

高皇産霊神社と善浄寺 文化財マップ

町内から集められた石宮が高皇産霊神社の境内入口に残る。7基の石宮は、山王様・山の神様・ろくしょう様・権現様・古峰神社・金毘羅大権現・弁天様である。金毘羅大権現は文久4年(1864)に講中により建立された。古峯神社は明治期以降の造立と思われる。石宮の前にある手水鉢は文政9年(1836)に新蔵ら4名により奉納された。

(3)善浄寺(ぜんじょうじ)

(3)善浄寺(ぜんじょうじ)

高皇産霊神社と善浄寺 文化財マップ

真言宗の寺院で、山号は無量山。小網寺の末寺で高皇産霊神社の別当寺であったと思われる。寺の創建年代は不明だが、延宝3年(1675)の記録に「高井村善浄寺」と記されている。本尊は鎌倉末から南北朝期頃の木造地蔵菩薩立像。頭部は後補である。他に室町時代と推定される木造如来立像や江戸時代の木像不動明王立像、木造弘法大師坐像、木造興教大師坐像が安置されている。弘法大師巡礼安房国八十八か所の22番霊場の御詠歌額は元文元年(1736)白浜根本の智圓が願主として奉納した。金剛宥性が明治5年(1872)に開いた安房国百八か所地蔵巡りの107番札所の御詠歌額は初代後藤義光の作である。

(4)砂丘列(さきゅうれつ)

館山平野は砂丘の上に集落が作られたため、海岸に並行して集落が形成されている。古い集落は周囲よりもやや高く中央に南北の道が貫いている。海岸に砂が吹き寄せて丘が形成された後に、地震によって土地が隆起して海岸線が後退することを繰り返していくつもの列が形成された。安布里から上野原・高井・正木にかけての砂丘列は、4,350年前に陸地になった場所で、現在の海抜は16~21mである。

(5)共同墓地(きょうどうぼち)

月除(つきよけ)の共同墓地。敷地内には小宮氏や村中によって江戸末期に建てられた青面金剛碑が残る。天明6年(1786)の大日如来の真言が刻まれた碑は基壇上段に小宮・川上、基壇下段(別物か)に8人の名とともに享和2年(1802)が記されている。他に寛政6年(1794)の廻国供養塔が残る。また、関東大震災で亡くなった親子を供養する碑が、昭和2年(1927)に千葉県師範学校の同級生有志によって建立された。

(5)共同墓地(きょうどうぼち)

(6)三山碑(さんざんひ)

(5)の共同墓地の中に三山碑が並ぶ。出羽三山の登拝記念に建てられたもので碑と基壇の時期が異なる。文政6年(1823)(基壇は昭和14年(1939)・昭和30年(1955))・天保14年(1843)(基壇は明治10年(1877)・昭和9年(1934)・昭和43年(1968))・文化4年(1807)(基壇は明治30年(1897)・明治39年(1906))の碑。正徳4年(1714)・享保8年(1723)・宝暦8年(1758)の大日如来の姿や真言が彫られた碑も並ぶ。

(7)薬師堂(やくしどう)

江戸時代の木造菩薩立像が祀られているが、菩薩像は子どもを抱くような姿をしており子安観音とする説もある。他に江戸時代の木造十二神将立像7躯が安置されている。また、敷地内に中世の五輪塔の断石が散在する。文政9年(1826)の頂部が山型となった廻国供養塔は、前年に死亡した備中上房郡の法師道順・智順法尼の供養塔と考えられ、基壇に高井村世話人の小瀧久右衛門、信州善光寺の教随、廻国世話人の常州源兵衛・筑後重造・尾州多造ら全国の関係者の名が記されている。文化4年(1807)の廻国供養塔は、和歌山出身の食譽邦山法師と心月恵性法師による釈了西・釈妙心の供養塔と考えられ、上部に如意輪観音坐像、下部に円形の光明真言陀羅尼24字と10字の大日如来の真言を記す。また、敷地内に幕末の医師・高木抑斎(1877年没、64才)の墓が残る。高木家は高井村で代々医者をつとめたイシャドン。抑斎は蘭方医学を学び、北条に陣屋を置いた岡山藩や近江三上藩から侍医の誘いがあったが断ったという。漢詩人としても知られ近隣の医師・名主や来遊する江戸の文人と交流した。

(8)マキの生垣(まきのいけがき)

(8)マキの生垣(まきのいけがき)

道路沿いの家々が高さのあるマキ(イヌマキ)の生垣で囲まれている。イヌマキは千葉県の県木で、南房総の温暖な気候に適した潮風に強い常緑樹である。マキの生垣は防風・防砂・防潮や防寒・防暑、さらに防火・防音といった効果を期待して作られた。

(9)機関庫用貯水池(きかんこようちょすいいけ)

機関庫用の貯水庫。蒸気機関車は石炭を燃やして水を沸騰させ、発生した蒸気の力を動力としたため、蒸気機関車を動かすためには大量の水を確保する必要があった。安房北条駅(現館山駅)は大正8年(1919)開業。この地は館山駅から約3km離れている。付近の地中からは駅へ水を送るためのレンガ造りの水管が出土している。

北条正木(ほうじょうまさき)

(10)桑原の堂(くわばらのどう)

(10)桑原の堂(くわばらのどう)

明治22年(1889)の合併は平久里川を境界としたため、正木村の下ノ原(しものはら)と天神台(てんじんだい)は北条町に合併された。天神台には桑原という地名がありかつては天神社があった。堂付近に日月を彫った石祠が安置されている。境内には江戸中期以降と思われる大日如来の碑が残る。

上野原(うえのはら)

砂丘列上の農業地域で、江戸時代初期は里見氏の直接支配地の北条村の一部だった。寛永16年(1639)に北条村の枝村として成立したといわれ、享保12年(1727)頃に上野原村の名が確認できる。「上ノ原」とも書くことから北条村の内陸部(上手)の原を意味する名と考えられる。明治元年(1868)頃に正式に分村した。村高192石余。

(11)獣魂碑(じゅうこんひ)

食用の動物を供養するために建てられた碑。昭和7年(1932)3月21日に北条屠畜主の藤平孝一、代理人藤平完爾、松下三之助によって建立された。大正11年(1922)の「北条館山市街図」にはこの付近に屠殺場と家畜市場があったと記されている。

(12)薬師堂(やくしどう)

(12)薬師堂(やくしどう)

本尊は江戸時代の木造薬師如来立像である。他に江戸時代の木造阿弥陀如来坐像や安政5年(1858)に上野原村の人々が奉納した鏧子(きんす)が伝わる。境内には昭和28年(1953)に建立された大東亜戦争戦没者之碑が残る。また、天保2年(1831)・文政年間など4つの馬頭観音が集められている。入口には天保15年(1844)の地蔵菩薩像が残る。

(13)天神社(てんじんじゃ)

(13)天神社(てんじんじゃ)

天神様を祀る上野原の鎮守。大正11年(1922)の「北条館山市街図」には「菅原社」と記されている。現在は、鶴谷八幡宮と同じ日に祭礼を行い「総社御祭礼」と染め抜かれた幟を掲げる。鳥居は昭和51年(1976)7月竣工。狛犬と水屋は平成16年(2004)10月に奉納された。手水鉢は文化5年(1808)8月に上野原出身の即道によって奉納されたものである。本殿裏には不動院と記された小祠が残る。


館山市立博物館(2024.11.10作成)
千葉県館山市館山351-2
TEL 0470-23-5212

八幡・湊・鶴ヶ谷

古代には安房国の主要港「淡水門(あわのみなと)」があり、中世以降は安房国総社鶴谷八幡宮を中心に開けた地域。八幡宮と鶴ヶ谷の陣屋跡を中心に、槙の生垣に囲まれた地域の歴史を探訪しよう。

八幡・湊・鶴ヶ谷 文化財マップ

八幡(やわた)エリア

(1) 鶴谷(つるがや)八幡宮

 安房国の総社とされ、例祭の9月14・15日には安房国内から古社10社の神輿が渡御して八幡の祭がおこなわれる。もとは安房国府が所在した三芳村府中に鎮座していたとされ、鎌倉時代に頼朝か現在地に遷したという説と、室町時代の里見義実によって遷されたという説がある。八幡の祭は府中にある元八幡神社でお水取りをしてから始ることになっている。里見氏の篤い信仰によって保護をされ、政治的にも利用された。江戸時代の社領は171石余で、別当の那古寺が管理していた。
<境内奉納物の詳細は「鶴谷八幡宮マップ文化財ガイド」参照>

(2) 千灯院 

(2) 千灯院 

 真言宗の寺院。江戸時代には八幡宮の領地から6石の配当を受け、社僧が住して仏事で八幡宮に奉仕した寺。八幡宮の別当を務めた那古寺の配下でもあった。境内には廻国修行者の鈴木七兵衛が建てた寛政5年(1793)の廻国供養塔や、八幡村の念誦講で光明真言を一億回唱えたことを記念して建てた天保12年(1841)の一億万遍念誦塔がある。

(3) 槙の生垣

(3) 槙の生垣

 神社周辺の古い集落地域では、屋敷の周りが背の高い槙の生垣で囲われ、毎年八幡の祭礼前に行なわれる刈り込みによって常に美観が保たれている。ホソバと呼ばれる槙は千葉県の県木で、房総半島が自生の北限である。塩に強く砂地にも適した木で、密集した枝によって防風・防火にも効果的であることから、海が近い安房地方では生垣によく使われている。八幡はとくに迫力のある歴史的集落景観が保たれている。

(4) 阿弥陀堂 

 現在は八幡地区の墓地のお堂になっているが、明治になるまでは八幡神の本来の姿である阿弥陀如来を祀る本地堂であり、鶴谷八幡宮の付属施設として社殿の隣にあった。仏が人々を救うために神の姿を借りて現れるという本地垂迹説では、八幡神の本地は阿弥陀如来である。また堂内には、かつて八幡宮一の鳥居と二の鳥居の間にあった弁天社に祀られていた弁財天像も祀られている。戦国期末の里見時代のもの。

湊(みなと)エリア

(5) 薬師堂 

(5) 薬師堂 

 寛永21年(1644)に薬師堂へ奉納された鰐口がある。山下郡湊村と書かれた江戸初期のもの。参道入口には順礼講中間で寄進した地蔵像が祀られている。墓地には正徳元年(1711)の北条藩万石騒動の際に刑死した三義民のひとり湊村名主秋山角左衛門の墓や、元文6年(1741)に明神丸乗船中に遭難したと思われる7人の供養碑がある。

(6) 六地蔵の道標 

(6) 六地蔵の道標 

 正木寄りの三叉路に、年号はないが「右正木 左やわた」と刻んだ道標がある。むかしは道の中央に建っていたそうである。北条と湊の境の十字路にも「北まさき 東こくぶん寺 西やわた」と刻んだ同様の道標がある。ともに四角柱で子どもの戒名を刻んだ六地蔵になっている。はやり病で死んだ子どもたちの供養のために建てられたと伝えられている。

(7)子安神社 

(7)子安神社 

湊の鎮守。天正18年(1890)には子易大明神として記録されている。修験の徳蔵院が代々別当として神社の管理をしていた。子安の名から安産の信仰があり、底の抜けた袋が奉納されている。境内には「青面金剛」の文字を刻んだ庚申塔がある。寛政12年(1800)の庚申の年に湊村の庚申講で建立したもの。手水石は文政13年(1830)に相州西浦賀の鈴木弥吉という人物が奉納している。境内周辺は古墳時代から平安時代の土師器が出土するところで、向原遺跡と名づけられている。

鶴ヶ谷(つるがや)エリア

(8) 稲荷遺跡(北条)

 この周辺は古墳時代から奈良・平安時代の土師器などの土器が出土する遺跡。北条村北町中で奉納した稲荷の石宮を祀っている。

(9) 庚申塔(八幡)

(9) 庚申塔(八幡)

 安房高の生垣のなかに、青面金剛の像を刻んだ庚申塔が祀られている。安永5年(1776)の申年に八幡の彦右衛門が建立したもの

(10) 稲荷神社(北条鶴ヶ谷)

(10) 稲荷神社(北条鶴ヶ谷)

 長尾藩の陣屋が鶴ヶ谷につくられた際、旧領地の駿河国田中(静岡県藤枝市)の城内から移されてきた。稲荷は藩主本多氏の鎮守で、廃藩後も旧藩士が葵恩会を結成して神社を維持してきた。境内には大砲の碑や明治3年に横須賀の大工松蔵が奉納した手水石がある。

(11) 長尾藩陣屋跡(北条鶴ヶ谷)

 安房高校周辺から六軒町の諏訪神社までの地域に、明治3年(1870)、長尾藩4万石の陣屋がおかれ藩士たちの居宅も建設された。稲荷神社の向かいに藩主邸、その海寄りのほぼ陣屋中央に藩の役所がおかれた。藩庁があった場所は正方形に区画されており、幕末には海岸警備の任にあたった武蔵忍藩や岡山藩が陣屋をおいていた場所である。<詳細は「長尾藩ゆかりの地マップ」参照>

(12) 長尾藩士共同墓地(八幡)

(12) 長尾藩士共同墓地(八幡)

長尾藩士の墓地として開発されたところで、長尾藩家老の遠藤俊臣、勘定奉行熊沢菫、藩校日知館の監察雨宮信友などの藩重役はじめ、剣術師範小野成顕・成命父子など50家におよぶ藩士の墓がある。そのほか西南戦争で戦死した八幡の小林真吉の碑もある。また安房高校寄りには八幡地区の墓地があり、八幡の村用掛として明治初期の地租改正に尽力した岩崎彦右衛門の墓碑などがある。


監修 館山市立博物館

亀ヶ原・西郷・府中

古代には安房国の国府がおかれ、中世に至るまで安房地方の中心地だった亀ケ原・府中・西郷に刻まれた歴史を歩いてみよう。

亀ヶ原・西郷・府中 文化財マップ

府中(ふちゅう)エリア

(1) 宝珠院

 真言宗のお寺で、金剛山宝珠院といい、江戸時代までは安房国にある真言宗寺院の支配所であり、学問所でもあった。広い境内にいはま本堂(本尊地蔵菩薩立像)と左手の観音堂・清滝権現がある。観音堂は安房国札観音巡礼の第23番札所で、十一面観音菩薩を本尊とする。鎌倉時代の徳治2年(1307)のお像で、もとは西光院という子院の本尊だった。西光院は尼寺と呼ばれ、御詠歌にも「あまでらへ 参るわが身も たのもしや はなのお寺を 見るにつけても」とあり、享保15年(1730)の御詠歌の額が残されている。観音堂はもとの仁王門を改修した建物で、欄間の龍は初代武志伊八郎による寛政2年(1790)の作品。境内には里見義康の家臣岡本左京亮頼元が慶長11年(1606)に、死後の冥福を願って建てた逆修塔がある。宝珠院周辺が安房国府の推定地とされているが、発掘調査では確認されなかった。

(2) 八坂神社

(2) 八坂神社

 府中の鎮守。むかしは宝珠院の子院である徳蔵院が別当を勤めていた。本殿の左側に並ぶ石祠のなかに、午頭天王(ごずてんのう)とあるのは八坂の神様のこと。山包のマークは浅間様で、明治8年(1875)に建てられている。道祖神は疫病などが村へ入らないように境を守る神で、この地方では道陸神(どうろくじん)と称することが多い。なお昭和62年に社殿の裏側で発掘調査が行なわれ、古墳時代の円墳が削られて埋没しているのが確認されている。

(3) 元八幡神社

(3) 元八幡神社

 安房国府が府中周辺にあったころ、安房国の総社とされる鶴谷八幡宮がこの場所にあったと伝えられている。そのため元八幡神社と称している。江戸時代には八幡宮の神主がこの神社周辺の土地を将軍家から与えられていた。また毎年「やわたのまち」のときには、ここの井戸で水を汲むことから祭りがはじまっており、八幡宮にとって由緒ある場所といえる。

(4) 閻魔堂(えんまどう)

 府中の台という集落にある閻魔王像を祀っているお堂。境内入口に並ぶ石塔や無縁の石塔のなかに、諸国巡礼の記念塔である廻国塔が多く見られる。古いものは正徳2年(1712)に能登国長福寺の弟子川名多次兵衛が建てたもので、四国八十八か所と坂東・秩父・西国の百観音を巡礼している。ほかにも宝暦5年(1755)・文化7年(1810)・天保3年(1832)の塔がある。墓地の奥には、千倉の円蔵院・真言院・真野寺と府中の佐野由蔵の四人が明治29年に四国遍路をしたときの記念碑がある。

(5) 庚申塔

(5) 庚申塔

 塔の三面に三猿の像を刻んだ庚申塔。年代は刻まれていない。西郷にも「サンノウサマ」と呼ぶ石宮があり、天明8年(1788)と文政7年(1824)の年号が刻まれた庚申塔である(5-2)。

西郷(にしごう)エリア

(6) お地蔵さま

 府中と那古を結んだ主要街道に沿った場所にある。地蔵尊像は天保7年(1836)のもので、他に文化15年(1818)の馬頭観音と文政4年(1821)の出羽三山碑がある。

(7) 姫宮様

(7) 姫宮様

 田のなかに複数の中世の石塔の石がまとまって据えられている。五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)の一部で、地元では里見氏の姫を葬ったものと伝えている。むかしは一段低い田のなかにあった。

(8) 六所神社

(8) 六所神社

 六所神社は一般に、古代国府に付随しておかれたもので、国内の主要な神社の神を国府に集めて祀ったものをいう。ここも安房国府に関連した六所神社と考えられている。神社が所在する西郷は、里見氏の時代に現在の府中を東国府と称したことに対する、国府の西側という意味であろうか。境内右手には西郷の川上新次郎を社長とする山三浅間講社が建てた、明治18年(1885)の浅間祠が祀られ、左手にはクジラの骨を祀った祠がある。社殿には明治20年の俳句額が掲げられている。

亀ケ原(かめがはら)エリア

(9) 新御堂(にいみどう)

(9) 新御堂(にいみどう)

 元来は、真言宗の秀満院境内地である。秀満院は大正震災で倒壊していたため、昭和42年に亀ケ原北方の青木根から新御堂が移転してきた。新御堂は安房国三十三観音霊場の第二番の札所として知られ、本尊は聖観音立像。堂内には明治3年につくられた大きな大黒天像もまつられている。境内の宝篋印塔は明和5年(1768)のもの。なお、この周辺を蔵敷(ぞうしき)といい、律令時代の国衙などの下級役人「雑色(ぞうしき)」を意味する称が地名となったものであり、安房国府との関連が考えられる地域。

(10) 八幡神社

(10) 八幡神社

 江戸初期の元和6年(1620)に再建したときの棟札が残されている。境内には四十八貫目(180kg)と刻んだ力石や文化10年(1813)の手水石、文政11年(1828)の灯籠がある。灯籠には籠り所や灯籠の油代の費用にあてるために、田が寄進されたことが記されている。入口にある昭和天皇の御大典記念碑は、八幡に引退してきていた高級官吏の檜垣直右(ひがきなおすけ)の揮毫。

(11) 六地蔵

(11) 六地蔵

 道の角に建てられた六地蔵。正徳4年(1714)10月24日に還誉生愚が建て替えたもので、それ以前には宗春という人物が建てたものがあったと刻まれている。六地蔵は辻や村の入口・墓地の入口・寺の入口など、この世とあの世の境といわれる場所に建てられる。地蔵は、生きものが輪廻(りんね)する六つの世界の入口にいて人々を救うとされている。

(12) 新御堂旧地

(12) 新御堂旧地

 青木根の中腹にある墓地は新御堂の旧地で、御詠歌に「にいみどう 見上げてみれば 峯の松 くびこい鶴(汲み越えつる)に亀井戸の水」と歌われている井戸が山裾にある。亀井戸が「亀ケ原」の地名の由来といわれ、また文化年間の火災までは、お堂へかぶるように峯の松があったと伝えられている。跡地には正徳4年(1714)の石造地蔵菩薩立像が立ち、辻の六地蔵と同時につくられたものである。また、鏡ケ浦にかけて「人も見ぬ春や鏡の裏の梅」と刻んだ芭蕉句碑がある。宝暦11年(1761)以前のものであることが確認されている。天明5年(1785)の灯籠は、「武州崎玉郡八条領青柳村」(埼玉県草加市)の高橋氏と三蔵院・東覚寺(ともに真言宗)が施主となって建てたことが書かれているが、由緒は不明。

(13) 横峯(よこみね)堂

 山田家の墓地に幕末の剣士山田官司の供養碑がある。北辰一刀流の剣豪千葉周作の高弟で、理論派として知られる。幕末には安房の人々にも剣術指南をしているが、出羽庄内藩が指揮した新徴組に参加して、肝煎取締役という指導的立場についた。戊辰戦争の際に、旧幕府方の庄内藩と行動をともにして戦ったが、銃弾をうけた傷がもとで翌年に死亡した。墓は山形県鶴岡市にある。


監修 館山市立博物館

那古地区正木

館山平野の北部、海を臨む丘陵には縄文遺跡や古墳が分布し、平野部には戦国武将正木氏の伝承や諏訪神社の民話が残る土地。信仰深い人々が残したたくさんの石碑を見て歩こう。

那古地区正木 文化財マップ

正木岡(まさきおか)エリア

(1) 谷田(やた)の出羽三山碑

(1) 谷田(やた)の出羽三山碑

 谷田集落のカワッパナという場所で、安永8年(1779)に谷田の文内ら9人が登拝したときの出羽三山碑と、文政年間の出羽三山碑がある。大日如来像は宝暦6年(1756)のもの。丸石に阿弥陀三尊を刻んだ塔は文政9年(1826)の西国三十三観音の巡拝塔。地蔵尊は延享3年(1746)に念仏講で建てたもの。かつて酪農が盛んだったことから、正木岡乳牛組合によって昭和29年(1954)に牛魂碑が建てられている。

(2) 八幡神社

(2) 八幡神社

 社伝では、延元2年(1337)に再建され、戦国時代の里見義弘のときに家臣正木大膳の祈願所になったと伝えている。手水石は天保12年(1841)、石灯籠は天保14年(1843)のもの。

(3) 大日さま

 中央に大日如来を祀る岩屋。本尊の石仏は峯岡の蛇紋岩で中世のもの。上半身が欠けた同質の像もある。中世の五輪塔の笠もあり信仰の古さを伝えている。地元ではお産の神様とされ、そこの抜けた袋が安産祈願で奉納されている。また文政元年(1818)建立の光明真言塔の塔身があり、元名の石工吉五郎作。享和元年(1801)に没した了覚法印の供養塔になっている。

(4) 切通しの巡拝塔と庚申塔

(4) 切通しの巡拝塔と庚申塔

 稲原集落との境の切通し。中央は青面金剛を刻んだ庚申塔、左右に地蔵像がある。左の地蔵尊は秩父34か所と坂東33か所の観音順礼塔で、浄心という人が安永10年(1781)に建てたもの。

(5) 寒念仏塔

(5) 寒念仏塔

 丸彫りの延命地蔵尊を乗せた寒念仏塔で、正木村中沼集落の若者たちが享和3年(1803)1月に建立した。寒念仏は、寒中に30日間巡回しながら念仏を唱えて功徳を得る修行のひとつ。北東の高台はヨウギ山(要害山)と呼ばれ、戦国時代の砦跡と考えられる。ここは那古・正木から平久里へ抜ける街道沿いであり、交通路を監視する位置にある。

(6) 御狩(みかり)の出羽三山碑

 弘化4年(1847)の出羽三山碑。正木村御狩集落の久兵衛など5人と上堀村の3人が登拝した記念碑。横に祀られている新しい石宮は眼の神様。

(7) 観音堂

(7) 観音堂

 墓地に入ってすぐの場所にある馬頭観音像は伝蔵・あさ夫妻によるもので、江戸時代の百観音(西国・秩父・坂東札所)の巡拝塔。地蔵菩薩を乗せる塔も同じ百観音を供養するもので、清蔵が文化4年(1807)に建立した。ほかに諸国順礼をしていた石見国浜田(島根県浜田市)の覚道が安政5年(1858)に建てた廻国塔で、右面を地元の清造ら3人が四国八十八か所と百観音を巡拝した供養塔にする石塔があったが、今は見当たらない。裏山の山頂に前方後円墳とされる塚があり、大塚山古墳と呼ばれている。

(8) 諏訪神社

(8) 諏訪神社

諏訪神社 文化財マップ

 平安時代の中頃、たびたびの津波に村人が困っていたところ、延喜元年(901)に信濃国諏訪社の御霊が現われ祈願をすると波が治まったことから、村の鎮守にしたという伝説がある。旧郷社。里見氏からは3石の社領を与えられていた。境内の石灯篭は文化7年(1810)に上・下・向の三組が奉納したもので、石工は江戸の与七。狛犬は明和9年(1772)、手水石は寛政11年(1799)のもの。文久3年(1863)の芭蕉句碑「此神も いく世か経なむ まつの花」は、地元の宗匠高梨文酬が組織する俳諧グループ丘連(神主の関風羅ほか17名)が建立した。そばの石宮は浅間様で地元の富士講グループである山三講のもの。社殿右には関東大震災の復興記念碑があり、書は元長尾藩士の熊沢直見による。

正木本郷(まさきほんごう)エリア

(9) 外輪堂(亀ヶ原下台)

 亀ヶ原区下台集落の共同墓地。入口に天保2年(1831)の出羽三山碑がある。伝蔵ほか16人が登山した記念碑。代参講の人々と忠蔵が一両ずつ出して修覆を行ったことも彫られている。墓地には中世の五輪塔の笠や宝篋印塔の笠があり、古い集落であることがわかる。

(10) 西光寺

(10) 西光寺

 曹洞宗で、山号は正木山という。江戸初期の里見忠義のときに本山の真倉慈恩院に寺領の一部として与えられていたことが古文書にみえる。山門をくぐってすぐ丸彫りの地蔵尊がある。嘉永5年(1852)に名主鈴木甚左衛門が願主となって奉納したもので、作者は安房の代表的な石工武田石翁。ほかに年不詳の出羽三山碑、元禄8年(1695)・寛政1年(1789)の六地蔵がある。墓地には長尾藩士木村慶寿(明治18年没)の墓がある。ほかに台湾征討に参加して明治28年(1895)に台北で戦死した近衛野戦砲兵生稲良吉(22歳)、明治37年に日露戦役で出征し清国田義屯で戦死した陸軍歩兵一等卒木村昇蔵(24歳)・病死した陸軍騎兵二等卒山下平助(22歳)、大正13年に日本海越前海岸で座礁殉難した特務艦関東の海軍一等機関兵庄司喜一(21歳) の4基の忠魂碑がある。

(11) 熊野神社

(11) 熊野神社

 江戸初期の元和元年(1615)に再建されたと伝えられる。かつて近くに修験の医王山峯野院があり別当として管理していた。手水石は文久3年(1863)のもので、社殿の向拝龍彫刻は峯野院と医師戸倉玄雄の奉納、獅子は地元の吉津屋・辰巳屋・川名の加渡屋の女性たちが奉納している。峯野院跡には念仏講中の男女22名によって建立された万治2年(1659)の念仏講供養塔がある。

(12) 日露戦役戦没者忠魂碑

 正木出身の陸軍歩兵上等兵庄司久蔵の忠魂碑。日露戦役に出征して戦地の伝令として活躍し、明治37年(1904)10月の清国沙河の会戦のとき、指揮官の江橋中尉を介抱中に戦死したとある。文はその江橋中尉が書いている。

(13) 狐塚の石

(13) 狐塚の石

 この石は、そのむかし諏訪神社と那古寺がケンカをして、諏訪神社が那古寺に向かって投げた石が途中で落ちたものだそうである。耕地整理のため元の場所から西へ移動してしまっている。那古小学校西側にある白岩弁天の前には、那古寺が諏訪神社に向かって投げた石があったという。

(14) 薬師道の道標

(14) 薬師道の道標

 天保6年(1835)建立の道しるべ。「横山やくしみち」とあるのは正木の谷奥にある横山の薬師堂への順礼道を示している。方向をさし示す指は薬師様の手だという。横山の薬師堂跡には同じ年に建てられた石造の十二神将像が6体残されている。また堂跡には鉱泉が湧く井戸があり、明治の初め頃には肌に塗ると腫れ物に効くといわれ、大正時代には湯治場として賑わっていた。


監修 館山市立博物館
作図:愛沢彰子

那古・川崎

那古は坂東観音札所の古刹那古寺の門前町として賑わった。海に面した砂丘上に続く浜方の村を、川崎まで歩いてみましょう。

 那古寺の門前町として栄えた那古の町は、江戸時代は那古寺が支配した寺領と呼ばれる地区と、旗本が支配した東領と呼ばれる地区に分かれていました。今の寺赤・宿・芝崎が寺領で、東藤・辻・大芝などが東領です。

那古・川崎 文化財マップ

那古寺門前(なごじもんぜん)エリア

(1) 浜弁財天

(1) 浜弁財天

 この辺りは、江戸時代の元禄16年(1703)の地震で隆起してできた土地。弁天様は漁業神・水の神として親しまれている。境内にある文政7年(1824)の手水石は江戸問屋中が願主として奉納したもので、おそらく那古の漁師や運送業者と取引をしていた魚問屋だろう。社前に力石が2個奉納されている。社殿内には宇賀弁財天像が祀られている。稲荷様の前にある灯篭は明治44年(1911)に館山町の女性が奉納したもの。境内には地元の女性と娘たちによる灯籠の一部も残されている。

通りに面して寛政9年(1797)に念仏講で造立した地蔵像と、天保6年(1835)に浜町と寺町の大師講中で建立した南無大師遍照金剛の名号塔がある。

(2) 那古町道路元標(げんぴょう)

 釜屋の前の交差点の路端に那古町の道路元標(みかげ石)がある。以前は釜屋の前の交差点の路端にあった。大正頃のものだろうか。市内では船形町・富崎村・西岬村でも同じ時のものがある。道路の路線の起点・終点そ示すもので、各市町村に1個ずつ置かれた。

(3) 芝堂

(3) 芝堂

 那古寺の境外仏堂で、芝崎にある寺領区域の墓地。墓石の屋号をみると、いかにも街場らしく、全国各地から商人が集まったようで、「駿河屋・上総屋・越後屋・鹿島屋・相模屋・栃木屋・大和屋」などが見え、その他にも「伽羅屋・米屋・飴屋・経師屋・釜屋・丸屋・喜寿屋・三増屋・田村屋・坂本屋・宮沢屋」など、商店の屋号が並ぶのが興味深い。また江戸初期の浄土宗の中興の祖・雄誉霊巌の書を彫った、嘉永5年(1852)の名号碑がある。

辻・川崎エリア

(4) 金毘羅(こんぴら)神社

(4) 金毘羅(こんぴら)神社

 那古の浜集落である大芝の漁業従事者が四国の金毘羅さんを祀ったのだろう。金毘羅様は海難救済と豊漁の神として漁業者の信仰する神様。昭和40年頃まではこの場所は塚のようになっていて、魚見塚(うおみづか)と呼んでいたそうだ。またオカノエサマとも呼ばれていて、社殿の中に金毘羅様の石祠と並んで庚申塔(こうしんとう)がある。オカノエサマとは庚申の庚が「かのえ」の日の信仰であることからの呼び名である。青面金剛(しょうめんこんごう)像を彫っているのが仏教系の庚申塔で、猿田彦(さるたひこ)大神の文字のある塔が神道系の庚申塔。

(5) 御霊(ごりょう)神社

 御霊大権現は厄病神で、疫病などの流行を鎮めるために祀られた。村はずれに祀られることが多い。ここは那古の辻に位置するようだが、じつは正木の川崎地区の飛び地にあり、川崎の人々の信仰をあつめる神様である。天保12年(1841)に地引の網元五左衛門と引子の若者中が奉納した手水石があり、浜で生活する人々の信仰があった様子がわかる。

(6) 安房堂(あんぼうどう)

(6) 安房堂(あんぼうどう)

 正木の川崎地区の堂。嘉永7年(1854)の百八十八カ所供養塔がある。四国霊場と西国・坂東・秩父の各観音霊場を巡礼した記念の塔である。そのほか出羽三山碑や明治34年(1901)再建の線刻六地蔵碑、寺子屋の師匠だった徳誉教善の筆子塚がある。筆子塚は文政9年(1826)に筆弟子26人と念仏講の仲間が建てたもの。また川崎では、昭和20年(1945)5月19日に20余個の爆弾による空襲により27人が犠牲となっており、供養碑が建てられている。境内には、馬頭観音などの石碑も多く集められている。

(7) 八雲(やぐも)神社

(7) 八雲(やぐも)神社

 正木の浜集落である川崎の鎮守。拝殿の正面には明治19年(1886)の鳥居形銭額が奉納されている。境内の狛犬は江戸京橋の石工藤兵衛の弟子包吉(かねきち)の作。弘化4年(1847)。石灯籠は文政8年(1825)。社殿のなかには日清・日露戦争への従軍者が当八雲神社へ参拝する姿を描いた絵馬などがある。

(8) 念仏供養塔

(8) 念仏供養塔

 寛文5年(1665)に念仏講で建立した石の阿弥陀像がある。石灯籠は天保11年(1840)のもの。右手前には室町時代頃の宝篋印塔の基礎石が残っている。

(9) 神明神社

(9) 神明神社

 辻の神社。手水石は弘化2年(1845)、氏子の奉納。灯籠も弘化2年9月のもの。力石もある。境内地からは奈良・平安時代頃の土師器片などが出土する。

(10) 薬王院

(10) 薬王院

 辻堂と呼ばれる。昭和8年(1771)の出羽三山碑や安政7年(1860)の百万遍念仏塔、日蓮宗の題目「南無妙法蓮華経」を刻んだ馬霊塔、馬頭観音・庚申塔などがある。墓地のなかには、那古の富士講先達で誠行重山こと秩父屋与兵衛が、明治17年(1884)に48回目の富士登山を達成した記念碑がある。明治21年に85歳で没した。また天保水滸伝で有名な銚子の五郎蔵は那古の出身と伝えられ、その兄で同じく侠客になった神花(じんが)の初五郎の墓がある。天保3年(1832)没。

東藤(ひがしふじ)エリア

(11) 車地蔵

(11) 車地蔵

 藤ノ木の交差点にある延命地蔵で、那古と川崎の人々によって宝暦4年(1754)に建立された。水向(みずむけ)の正面に「右清澄へ九里、左大山へ四里」とあり、道標になっているが、バイパス工事によって位置が南へ10mほど移動している。傍に昭和10年に再建された後生車(ごしょうぐるま)がある。死後によい世界に生まれ変わるため、参拝者がこの車を回転させるのである。

(12) 白岩弁財天

(12) 白岩弁財天

 この弁天の池の奥は鍾乳洞(しょうにゅうどう)になっていて、白岩の名は鍾乳石のことをいうらしい。 徳川家光の頃に津波があり、その時小川をさかのぼってきた白蛇がこの池に入ったため宮を建てたそうだ。むかしこの池の水は目薬などにされたという。力石が2個奉納されている。手水石は天保11年(1840)のもの。裏山の中腹には、那古にあった富士講の「山三」講中で建てた浅間様の石宮がある。

(13) 横穴墓

 字天ノ脇のバイパスに沿ったところに古墳時代の横穴墓(よこあなぼ)がある。

◆ 那古寺◆

養老元年(717)に僧行基が建てたとされる。江戸時代に元禄大地震で倒壊したが、安房全域におよぶ万人講勧進によって再建された。坂東三十三番札所の結願寺として知られ、本尊の千手観音像、阿弥陀如来像、多宝塔など多くの文化財がある。寺の裏山は自然林が保存され、山頂からは市街や伊豆半島がよく見わたせる。


監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 TEL.0470-23-5212

根岸・川名・小原

港を持つ漁村船形の後背地にあたる根岸と川名の岡集落と、さらに谷奥の小原。鎌倉道といわれ明治時代までの脇往還として多くの人びとが行き来した木の根道周辺の、豊かな文化を探訪しましょう。

根岸・川名・小原 文化財マップ

根岸(ねぎし)エリア

(1) 船形藩陣屋跡

 元治元年(1864)から慶応4年(1868)まであった船形藩の陣屋だった場所。若年寄の平岡丹波守道弘が1万石で船形藩をおこした。陣屋の建設途中で明治となり、他の大名にさきがけて領地を奉還して船形藩は廃藩となり、平岡道弘は徳川宗家の静岡藩家老になった。

(2) 名主古屋敷

(2) 名主古屋敷

 船形村の世襲名主の古屋敷で、石垣が残っている。元禄大地震後に現在地へ移転するまでの屋敷地。地震で海岸に隆起地ができると、どんどん川の河道に古川新田を開発し、宝永3年(1706)に領主から屋敷地を拝領して海に近い現在地へ移転した。名主家は里見氏家臣の後裔とされ、江戸時代は川名村の名主を兼ねることも多かった。船形は川名から分かれた村とされている。

(3) 木の根道切通し

(3) 木の根道切通し

 房総半島をめぐる中心的な往還の一部で、千葉方面から内房を通って館山へいたる道。岩井の市部から八束の丹生(にう)へ出る木の根峠を経て那古へ至り、館山や府中へ向かう。船形藩陣屋や名主古屋敷がこの道に面しているのも、重要な街道沿いという立地条件からで、かつて大街道と呼ばれていた。切通しは明治40年に切り下げ工事が行われたもので記念碑がある。もとはわずかながら峠になっていた。

(4) 根岸三荒神(御霊神社・大六天神社・竃神社)

 根岸区の御霊神社(高皇産霊神(たかみむすびのかみ))・大六天神社(午頭天王(ごずてんのう))・竃神社(奥津彦之神(おくつひこのかみ))の三社を根岸三荒神(こうじん)と呼んでいる。御霊神社にある明治45年の水神宮は、船形陣屋跡地に祀られていたという。また、かつて三宝荒神と呼ばれた竃(かまど)神社には嘉永元年(1848)の馬頭観音がある。

(5) 里程標

(5) 里程標

明治26年(1893)の里程標(りていひょう)。東京や千葉県庁・佐倉、近隣町村などとの距離を表示している。当時の町村ごとに建てられたもので、これは船形町の里程標。船形と那古を結ぶ道と木の根道との交点に建てられたもの。この近辺は古川新田として元禄地震の翌々年宝永2年(1705)に開発された。このとき、どんどん川の流路は岩山を削って東寄りに付け替えられている。川名の町場は新町といわれるが、この地震での隆起以後に人が住めるようになった。

川名(かわな)エリア

(6) 金比羅神社

 四国から来た漁師が江戸時代に建てたと伝えられている。手水石は、天保15年(1844)のもの。

(7) 等覚院跡

(7) 等覚院跡

 那古寺への古い参道に沿ってあった修験(しゅげん)寺院の跡。現在は安永4年(1775)に川名の行者秀善が四国八十八か所を巡礼した供養塔や、3基の庚申塔<石宮形・文化6年(1809)の青面(しょうめん)金剛の文字塔・文政11年(1828)の青面金剛像>、安政4年(1857)・慶応2年(1866)の馬頭観音像、明治42年(1909)の牛頭(ぎゅうとう)観音、明治6年(1873)の牛供養塔、そのほか出羽三山碑、明治5年(1872)の石宮があり、高台には天保14年(1843)の山三(やまさん)講の浅間祠(せんげんし)が祀られている。

(8) 千日堂

 修験等覚院の隠居所として戦国時代初期に建てられたという。船形村名主家の墓所に、江戸初期の寛永年号の古い墓もある。本尊は江戸時代初期の地蔵菩薩坐像。入口に享保18年(1733)の三界万霊塔、文政8年(1825)の弘法大師供養塔がある。

(9) 長勝寺

(9) 長勝寺

 釜沼山普門院長勝寺といい、真言宗の寺。釜沼山は寺の裏山で野高と呼ばれ、かつて寺領の水田があり、水田の中央には弁天様が祀られていたという。現在は本堂左手の池に移されている。本尊は地蔵菩薩で、南北朝期の木造坐像。明治5年(1872)に金剛宥性(ゆうしょう)が選定した安房百八地蔵尊の第10番札所で、ご詠歌の額が掲げられている。里見氏から1石の寺領を与えられていたが、徳川氏からは認められなかった。墓地には中世の五輪塔の笠石が残されている。

(10) 日枝神社

(10) 日枝神社

 川名の鎮守で、山王権現と呼ばれていた。那古寺の旧本堂から東北に位置して、那古寺の鬼門除けであったといい、那古寺の境内にある日枝神社はこれを分祀したものという。石灯篭1組は似た形をしているが、文化14年(1817)と明治4年(1871)のもの。

小原(こばら)エリア

(11) 若一神社<若一王子明神>

 小原の鎮守。「若一王子明神」は紀州熊野大社に祭られる神で、「にゃくいちおうじ」と読むことが多い。本来は「わかいちおうじ」と読む。中世に熊野権現が各地に祀られるようになり、天照大神を祭神とすることが多いが、ここではその父イザナギを祭神にしている。房総に多い熊野信仰のひとつだが、若一王子を中心に祀るのはこのあたりでは少ない。別に「若女一王子」「若宮王子」「若王子」などとも呼ぶ。八束地区に多い若王子の名字は、この信仰と関係があるのかもしれない。境内に安政4年(1857)の手水石と日露戦役の従軍記念碑がある。小原からの従軍者は11人。

(12) 菅ノ入横穴墓群

(12) 菅ノ入横穴墓群

 ふたつに分かれた丘陵先端部にあり、西側の丘陵先端に28基、東側の丘陵先端に6基ある。古墳時代の横穴墓で、西側には「人王六十五代天王■代天神七代」の文字が刻まれている横穴や、複室形式につくった特殊な形のものがある。

(13) 稲原貝塚

 那古小学校の裏山にある。昭和27年に発掘調査が行われて、縄文早期の土器や外洋性の貝類、鏃(やじり)として使われた黒曜石が刺さった状態のイルカの骨などが出土している(市立博物館で複製を展示)。「かいがらばたけ」と呼ばれる場所もある。

(14) 山口路米句碑

(14) 山口路米句碑

 個人墓地にある。路米(ろべい)は房州の俳諧宗匠(そうしょう)として知られた雨葎庵(うりつあん)四世で、本名は山口茂兵衛といい、小原村名主でもあった。明治34年(1901)の句碑は70歳の古希記念のもので、「出てみれは 出てよき日なり 長余なり」とある。また弘化4年(1847)の先祖供養碑には、「逢ひかたき 御法(みのり)の流れ 山口の 行すへ永く 住むよしもかな」という歌が刻まれている。

(15) 稲荷神社

 若一神社の末社。境内に文政9年(1826)の庚申塔、文政10年の金毘羅講供養塔、明治13年(1882)の古峯講の供養塔などがある。

(16) 稲原弁天

(16) 稲原弁天

 水をたたえた洞窟に祀られている弁天様。那古小裏の白岩弁天の池とつながる洞窟といわれている。傍らの碑は、日露戦役で中国の松樹山(しょうじゅさん)攻撃で戦死した歩兵山根長吉の忠魂碑である。明治40年(1907)の建立で、題字は北条にいた伯爵万里小路(までのこうじ)通房(みちふさ)の筆、文章は安房中教師で『安房志』の著者斎藤顕忠(東湾)の作である。


監修 館山市立博物館

船形西部

船形の人々は昔から漁業を生業とし、崖の観音に安全を祈願して暮らしてきました。西行伝説も残る古い土地で、現在も多くの人が暮らす漁業の町・船形の歴史を探訪しましょう。

船形西部 文化財マップ

柳塚(やなぎづか)エリア

(1)岩船地蔵尊

(1)岩船地蔵尊

左側の岩船地蔵尊は石でつくった舟に乗っている。はじめは念仏をして疫病除けを祈願する信仰だったが、そのうち大漁祈願や海上安全が祈られ、新造船の安全祈願や船酔い防止の祈願に変わっていった。右側には明治6年(1873)と大正2年(1913)の馬頭観音がある。

(2)西行寺

(2)西行寺

浄土宗のお寺で光勝山西行寺という。その昔、西行法師の妻「呉葉の前」が夫を探して船形へ来て死んだ後、里人が葬ってその塚に柳を植えたので、この地を柳塚といい、後日訪れた西行がこれを聞いて西行寺を建てたという伝説がある。墓地に永禄7年(1564)正月8日に死んだ人の宝篋印塔があるが、この日は市川市で有名は国府台合戦があった日。寺の裏山は戦国時代の船形城跡で、安西氏がいたという。円光大師第7番札所、安房国48ヶ所薬師巡礼西2番礼所。

(3)民内翁碑と大井戸

(3)民内翁碑と大井戸

幕末に村民の民内作右衛門が宇田川の改修や農業改良に努めて、明治元年(1868)に長尾藩主から表彰されている。記念碑は明治31年(1898)に建設されたもの。記念碑前の大井戸は、飲み水に困っていた人のために、作右衛門が屋敷内に掘ったもの。

堂の下(どうのした)エリア

(4)大福寺

(4)大福寺

崖観音 文化財マップ

崖観音で有名な真言宗のお寺で、船形山大福寺という。本堂は関東大震災で倒壊して、4年後の昭和2年(1927)に再建した。富浦(南房総市富浦町)の彫工後藤義房作の向拝彫刻は翌昭和3年のもの。境内に元禄16年(1703)の大地震の津波で犠牲になった。摂津西宮(兵庫県西宮市)の人々の供養塔がある。高野山の木食観正が正面の字を書いている。文政5年(1822)の弘法大師供養塔にも海難事故の被災者と考えられる人々の名がある。安永5年(1776)の船形村行者による廻国供養塔のほか、明治39年(1906)の日露戦争記念碑、明治40 年に建てられた二代目船形村長川名宗寿翁碑などがある。

(5)崖観音

(5)崖観音

崖観音 文化財マップ

本尊は平安時代末期の作とされる磨崖仏の十一面観音立像で、海上を行き来する人々から見やすい位置にあり、漁民や海運など海上に生活する人々の信仰を集めてきた。崖から張り出すような堂ができたのは、江戸時代の元禄地震後の復興のときで、関東大震災のあとも同じように再建された。観音堂内には、享保15年(1730)に長狭の佐生勘兵衛によって寄進された御詠歌(船形へ参りてみれば崖作り磯打つ波は千代の数々)の額、明治39年(1906)に船形の人々が寄進した賽銭箱、昭和33年(1958)に船形潮俳句会から改築記念に贈られた14作品の俳句、地元民奉納の天井絵などがある。観音堂の縁先に立つと、鏡のように波静かな館山湾を一望できる。安房国札観音巡礼の第3番札所。

(6)諏訪神社

(6)諏訪神社

崖観音に並んである諏訪神社は船形地区の総鎮守で、船形住民の氏神としてあがめられている。社殿は関東大震災後の昭和2年(1927)の再建で、向拝の彫刻は後藤義房による大正15年(1926)の作。神号額は初代義光の弟子で国分(館山市国分)の後藤義信の作。狛犬は安政2年(1855)、元名村(鋸南町)の名石工武田石翁の傑作。石段下には文政10年(1827)に江戸と内房の魚問屋が奉納した石灯籠があり、彫刻は元名の金蔵という石工の作品。7月の第4土曜・日曜に諏訪神社の例祭が行われる。

(7)渋沢栄一磨崖碑

(7)渋沢栄一磨崖碑

注:一般公開は行っておりません。
船形学園は明治42年(1909)に東京市養育院安房分院として開設された。それを記念して大正6年(1917)に建設された記念碑。16mの崖を削って、高さ10m、幅6mのなかに一文字30cm四方の大きさで由来が書かれている。書は初代院長で明治の大実業家渋沢栄一、撰文は二松学舎を創設した三島中洲による。戦後は文字が摩滅していたが平成9年(1997)に復元された。

(8)旧丸山公園

(8)旧丸山公園

海に突き出した岬のようになった岩場で、伊豆半島や大島・鏡ヶ浦を一望できる。大正時代には公園になっていて、松が30本ほどもあったという。昭和27年(1952)の遭難者を供養する六地蔵や、漁の神様の海神宮などが祀られている。

(9)芝堂

(9)芝堂

西行寺の境外仏堂。船形で魚の仲買いをしていた大仲間が六人の霊を弔った安永5年(1776)の供養塔や大漁祈願の魚藍観音を描いた昭和11年(1936)の石碑、明治38年(1905)5月24日の動物供養の墓などがある。

浜三(はまさん)エリア

(10)安政築堤

(10)安政築堤

磯崎湊とよばれていた場所に江戸時代末の安政2年(1855)につくられた堤防。一度台風で崩れて明治6年(1873)に再建したようで、大正12年(1923)の関東大震災で現在の場所まで上がってしまった。この堤防の東側が現在の船形港でいちばん古いところ。

(11)正木清一郎胸像

(11)正木清一郎胸像

船形村最後の名主正木貞蔵の長男で、船形町長を長く勤め、千葉県の水産業の発展に尽くし、水産翁とよばれた。館山の北下台に父貞蔵の顕彰のため「正木灯」を建てた。胸像は昭和5年(1930)に建てられたが、戦時供出され、現在の像は昭和59年(1984)に再建されたもの。

(12)山神社(山之神神社)

(12)山神社(山之神神社)

大山咋命を祀っている神社で、明治30年(1897)の絵馬が奉納されている。江戸時代には、祭礼に出るお船がここで飾り付けを行っていた。

大塚(おおつか)エリア

(13)庚申塔群

(13)庚申塔群

享保13年(1728)・文政4年(1821)など江戸時代の庚申塔が7基ある。手前には明治2年(1869 )の手水石がある。

西行伝説

船形の西行寺に伝えられている『西行因縁記』には、西行とその妻「呉葉の前」の悲しい伝説が書かれている。西行は鳥羽上皇の北面の武士として活躍し、呉葉の前を妻としたが、ほどなく出家し、諸国行脚の旅に出る。呉葉の前は2人の子どもと寂しい日々を送っていたが、子ども達も病気で亡くしてしまい、自らも出家し旅に出た。やがて安房に入った呉葉の前は、船形に庵を結んで念仏を称える日々を送っていたが、若くして亡くなる。村人たちが呉葉の前の死を悼み、塚を築いて一本の柳の木を植えたので、この地を柳塚というようになった。その後西行がここを訪れ、呉葉の前の菩提のために西行寺を建てたという。


館山市博物館
〒294-0036 館山市館山351-2 TEL:0470-23-5121