(11)木の根街道(船形地区)  

 船形のどんどん橋から八束をぬけ、木の根峠を越えて岩井へ出る道を木の根街道と称し、主要な交通路として利用されてきました。江戸時代の軍記物「房総里見軍記」には、十代里見忠義が、慶長19年(1614年)に江戸へ参府するとき、この道を利用したことがみえます。

◇交通 JR那古船形駅下車徒歩5分

木の根街道(船形地区)

(10)房州うちわ生産地(那古・船形地区) 

 船形と那古は房州うちわの生産地として全国的に知られていますが、その生産を本格的に始めたのは大正震災後の産業復興の政策によってでした。江戸時代は、材料である竹を出荷するだけで、明治20年頃から那古の忍足信太郎が竹を加工した半製品を出荷するようになって、ようやくうちわづくりが始まりました。明治30年には、同じ町に住む岩城庄吉が本格的に <割り竹> の加工をはじめ、大量に出荷するようになり、震災後、うちわ問屋横山寅吉が船形に工場を建て、完成品としての「房州うちわ」が出荷されるようになったのです。房州うちわの特色は手に持つ柄に材料の女竹をそのまま使う丸柄にあります。

房州うちわ生産地(那古・船形地区)

(9)長勝寺(川名地区)

 「釜沼山普門院長勝寺」と言い、寺伝によると養老元年、行基開基とされる真言宗の寺院です。江戸末期には、寺子屋が開かれ、明治5年の学制発布のあと同7年に、小原村・福沢村・川名村三村の生徒を集め、寺を仮校舎として、川名小学校が開かれました。この学校は明治20年に、西行寺の小学校と合併して、船形小学校となりました。

◇交通 JR那古船形駅下車5分

長勝寺(川名地区)

(8)船形用水(船形地区)

 船形用水は、享保年間から昭和10年まで200年以上にわたる船形の人々の長い水とのたたかいを物語る史跡です。用水は享保年間につくられたと考えられ、福沢川の中流日陰山地先で取水し、ほぼ福沢川に沿って流れ白塚橋たもとで大半津(だいはんず)に行く流路と分水し船形に向い、西行寺の前を通り、船形小学校の裏一帯の田ぼをうるおしています。しかし、大正になるとこの用水の水も不足するようになりました。そこで時の船形町長江沢賢治は町民をはげまし、国や県の補助をうけて、昭和10年福沢川の最上流に仲尾沢ダムを作り用水の安定供給を計りました。

◇交通 JR那古船形駅下車徒歩3分(船形小学校裏の水田)

船形用水(船形地区)

(7)船形陣屋跡(船形地区) 

 幕末の元治元年(1864)、幕府の若年寄を務める旗本平岡丹波守道弘は安房国内に1万石を与えられ大名に列し、船形に陣屋を構えました。この場所は木の根街道に面した交通の要衝であり、また、船形の町並や鏡ケ浦を一望することのできる良地でした。しかし、明治元年(1868)に領地を奉還して廃藩となり、陣屋の完成はみることができませんでした。現在でも石垣や堀を残しており、近くの民家には、陣屋の裏門が移築されて残っています。

◇交通 JR那古船形駅下車徒歩5分

船形陣屋跡(船形地区)

(6)民内作右衛門の碑(船形地区)

 江戸時代の終わり頃、船形に生まれた民内作右衛門は明治13年の没後、明治31年に時の船形町長正木清一郎によって、生前の業績をたたえられ、記念碑が建てられました。作右衛門は、現在船形小学校の東端に流れる宇田川を改修、付近の田畑の水利を良くしました。また、屋敷内に井戸を掘り、付近の家に分けるなどして、その徳が明治元年に長尾藩主本多正訥にみとめられ、銭25貫が褒美として与えられています。

◇交通 日東バス館山駅前発船形港下車1分

民内作右衛門の碑(船形地区)

(5)船形漁港(船形地区)  

 船形漁港が、港として最初に整備されたのは、江戸の末、安政年間と言われています。今の船形港の西の端には、安政5年(1858年)に船形村名主正木貞蔵によって築かれた防波堤がのこっています。この防波堤は、大正15年の震災で、海岸が隆起してしまい、役に立たなくなりましたが、その後、新に東側150mの海岸に堤防を築き、間の土を取り除いてコの字型の港ができました。現在では、昭和3年から長い年月をかけて築かれた一番東側の防波堤ができあがり、県営第三種漁港として、富津岬から伊豆大島までの漁業基地となり、東京湾の中でも一番大きな漁港となっています。

◇交通 JR那古船形駅下車徒歩5分

船形漁港(船形地区)

(4)船形城跡(船形地区) 

 堂山の東方の小高い山は、昔、安西氏の居城があったところと言われます。この山は「にいやま」と呼ばれ、頂上は台地状になっていて、そこにかつて塚のようなものがあったと言われます。山の西の端、西行寺の裏あたりには切り割りや、大井戸があり、城跡の名ごりをとどめています。

◇交通 JR那古船形駅下車徒歩8分

船形城跡(船形地区)

(3)西行寺(船形地区) 

 「光勝山西行寺」という浄土宗のお寺で、本尊は木造阿弥陀如来坐像です。寺伝には、長徳2年(996)恵心僧都が草庵を結び、阿弥陀如来の尊像を刻み安置したことに始まるとされます。また鎌倉時代には、西行法師がここで死んだ妻の「呉葉の前」のために建てた堂を安西三郎時重という者が、改修して西行寺と称したとされます。一説に、天正のころ船形城主安西光勝が大檀那となり、寺を現在地に移したとも言われます。

◇交通 JR那古船形駅下車徒歩8分

西行寺(船形地区)

(2)渋沢栄一磨崖碑(船形地区)

 東京都船形学園裏山の崖に、高さ約10m幅6m、文字の大きさ30cm四方という巨大な磨崖碑があります。明治の大事業家渋沢栄一が初代院長となり、明治43年に社会福祉施設として同園が開設されたことを記念して、大正3年、時の船形町長正木清一郎が有志を募り完成させたものです。渋沢自身の書になる碑文でしたが、現在は文字の風化がはげしく、また戦時中の軍による破かいもあって、往時の姿をみることはできません。

注:一般公開は行っておりません。

渋沢栄一磨崖碑(船形地区)