(1)大福寺(船形地区) 

 「船形山大福寺」という真言宗のお寺で、崖の観音の名で親しまれています。本尊は、堂山(船形山)中腹の観音堂内陣の自然の崖に刻まれた十一面観音立像です。寺伝には、養老元年 (717)に僧行基が、東国巡歴の途中ここに立ち寄り、神人の霊を受け、船形山中腹に、漁民の海上安全を祈願して十一面観音像を刻んだことを開基とし、後に慈覚大師が寺門を建立したとあります。また、江戸時代の正徳5年(1715)旗本石川氏により庇懸式の観音堂に整えられたと言われます。安房国観音巡礼札所第三番の霊場として、また、風光明媚な館山湾(鏡ケ浦)を一望のもとに見渡せる観音堂のあることから、多くの人々が参けいに訪れます。本尊の磨崖十一面観音立像は市の指定文化財となっています。村社諏訪神社は、向ってすぐ左隣りにあります。

◇交通 日東バス・館山駅前発→崖観音前下車徒歩2分

大福寺(船形地区)

那古・船形地区略年表

西暦 年号 事     項
B.C.6000年 -縄文早期-稲原に集落ができる〔稲原貝塚〕
7世紀頃 稲原・那古小学校裏・正木岡上御狩・正木岡山岸に横穴古墳群がつくられる
13世紀前半 千葉胤時、那古寺銅造千手観音立像を造像する
1324年 元亨4年 高橋景綱・平重行、那古寺木造阿弥陀如来坐像を修理する
1348年 貞和4年 室町将軍足利利義詮、建長寺の僧竺仙和尚に正木の田地を寄進する
1486年 文明18年 関白藤原房嗣の三男道興准后、川名及び那古寺へ来遊する
1494年 明応3年 正木時綱、相州三浦を逃れ、里見氏をたよって正木に住す
1514年 永正11年 里見義通、那古寺梵鐘を再鋳する
1557年 弘治3年 正木時茂、那古寺梵鐘を再鋳する
1591年 天正19年 里見義康、正木西光寺及び寺領を持仏堂(慈恩院)へ寄進する
1606年 慶長11年 里見忠義、那古村・八幡村のうち256石を那古寺へ寄進する
1616年 元和2年 江戸幕府、那古字に109石、正木諏訪神社に3石を寄進する
1685年 貞享2年 平郡の地頭石川六左ヱ門重興大福寺を修理し、槍を寄進する
1703年 元禄16年 大地震で海岸が隆起する。このとき那古寺の堂塔が倒壊する
1705年 宝永2年 船形村名主正木九右ヱ門、どんどん川を改修して古川新田・川名新町・那古浜新田を開く
享保中 福沢川より分水して船形用水が開かれる
1757年 宝暦7年 那古寺本堂再建、続いて宝暦9年に観音堂再建、宝暦11年に多宝塔建立される
文政頃 十返舎一九、那古へ来遊する
1864年 元治1年 若年寄平岡道弘、船形藩1万石を領し船形御霊に陣屋を構える
(明治元年領地を奉還して廃藩)
1873年 明治6年 那古・船形・川名・正木・亀ヶ原・小原の各村、千葉県に編入される
1881年 明治14年 船形村正木貞蔵、安房共立汽船会社設立
1887年 明治20年 那古村忍足信太郎、房州うちわを創始する
1889年 明治22年 船形村・川名村、合併して船形村となる
那古村・正木村・亀ヶ原村・小原村、合併して凪原{なぎはら}村となる
1893年 明治26年 凪原村、町制を施行して那古町と改称
1897年 明治30年 船形村、町制を施行
1910年 明治43年 渋沢栄一、東京市養育院安房分院(現船形学園)を開設する
1915年 大正4年 那古に電灯つく
1918年 大正7年 国鉄北条線(現内房線)那古船形駅開業
1939年 昭和14年 那古町・船形町、館山市と合併する

正木(まさき)

川原畑(カワハラバタ) 西郷(ニシゴウ) 姫宮(ヒメミヤ) 畑ケ田(ハタケガタ) 市合免(イチゴウメン) 川田(カワタ) 道免(ドウメン) 新作(シンサク) 大芝(オオシバ) 干潟(ヒガタ) 川崎(カワサキ) 白沼(シラヌマ) 三貫目(サンガンメ) 鰹免(カツオメン) 反町(ソリマチ) 用号(ヨウゴウ) 馬場(ババ) 熊ノ田(クマノタ) 正木台(マサキダイ) 下沼(シモヌマ) 上沼(カミヌマ) 高田(タカダ) 八反目(ハッタンメ) 山岸(ヤマギシ) 谷田(ヤタ) 中沼(ナカヌマ) 下御狩(シモミカリ) 上御狩(カミミカリ) 葛原(クズハラ) 大道(ダイドウ) 横山(ヨコヤマ) 田ノ谷(タノヤツ) 奥山(オクヤマ) 諏訪山(スワヤマ) 神明前(シンメイマエ) 蓼原(タデハラ) 住吉(スミヨシ)

 館山平野の平久里川以北の広い耕地を占める同村は、歴史的には、南北朝のころからその郷名をみることができ、戦国時代には、里見の重臣正木氏の本貫地だったといわれます。慶長11年(1606)の里見忠義寺領充行状では、正木の一部が平久里川の対岸東国府の宝珠院に寺領として寄進されています。また、元和4年に柴市左衛門他によって検地が行なわれています。 江戸時代を通じて、村高が増加しないのは、耕地としての開発が、江戸初期には、完了していたからと思われます。 明治7年に村内大泉寺を仮校舎として小学校が開設されます。

元和4年正木村水帳写
元和4年正木村水帳写
(加茂惟信氏蔵)

亀ヶ原(かめがはら)

長生田(チョウセイダ) 蔵敷(ゾウシキ) 町ノ内(マチノウチ) 若沼(ワカヌマ) 川田(カワタ) 神余田(カナマリダ) 五丁分(ゴチョウブ) 下タ田(シモタダ) 京田(キョウタ) 米田(ヨネタ) 石橋(イシバシ) 前田(マエダ) 大橋(オオハシ) 新田(シンデン) 寅丸(トラマル) 苗代町(ナワシロマチ) 鴻ノ免(コウノメン) 昭和(ショウワ) 五反沼(ゴタンヌマ) 青木根(アオキネ) 根方(ネガタ) 横峯(ヨコミネ) 川間(カワマ)

 同村八幡神社には、元和6年(1620)の遷宮棟札が残っていて、亀ケ原村の「諸旦那」つまり、豪農層が施主となって社殿が再興されたことがみえ、代官樋口又兵衛等の名が記されております。地理的には、那古から三芳へ向う古道の途中に位置している村落です。平久里川の水利をめぐって蔵敷と下流の西郷は、たびたび水争論を重ねてきました。明治7年には、小学校が秀満院を仮校舎として開校し、明治17年には、正木村の小学校に合併、他村との合併の先駆となりました。

亀ケ原の村社八幡神社
亀ケ原の村社 八幡神社

小原(こばら) 

弁天前(ベンテンマエ) 下ノ原(シモノハラ) 菅ノ入(スガノイリ) 鶴作(ツルサク) 北ノ谷(キタノヤツ) 大苗代(オオナワシロ) 宮ノ前(ミヤノマエ) 立石(タテイシ) 桜田(サクラダ) 梅田(ウメダ) 引通(ヒキドオシ)

 地形的には、富浦側に流れる福沢川流域にある村落で、横穴古墳の散在する歴史のふるい地域です。人々は農業を主に生業とし、谷あいの水利を上手に生かしてくらしてきました。また、船形の江戸との廻船業の発達につれて、江戸に送る木炭は、この村からも供給されたと思われます。幕末は、勝山藩の領地となりましたが、明治元年に長尾藩の領地となり、明治22年の凪原村への合併の基礎となりました。

那古寺多宝塔に勧進した銘をのこす小原村名主甚左衛門(高瀬家文書)
那古寺多宝塔に勧進した銘をのこす小原村名主甚左衛門(高瀬家文書)

那古(なご)

 反町(ソリマチ) 鮫渕(サメブチ) 神明(シンメイ) 辻ノ前(ツジノマエ) 十六枚(ジュウロクマイ) 藤ノ木(フジノキ) 山岸(ヤマギシ) 和ラ田(ヤワラダ) 池(イケ) 天ノ脇(テンノワキ) 新宿(シンジュク) 長作(ナガサク) 柳作(ヤナギサク) 那古山(ナゴヤマ) 閼伽井下(アカイシタ) 中浜(ナカハマ) 上入会(カミイリアイ) 下入会(シモイリアイ) 中入会(ナカイリアイ) 芝崎(シバサキ) 寺町(テラマエ) 宿町(シュクマチ) 東(ヒガシ) 蓼原(タデハラ) 新林(シンバヤシ) 住吉(スミヨシ) 塩田(シオタ) 御霊(ゴリョウ) 大芝(オオシバ) 小川端(オガワバタ) 川崎(カワサキ) 溜(タマリ) 荒尾(アラオ) 大浜(オオハマ)

 那古山の南側、板東三十三番巡礼札所補陀落山那古寺の門前として、江戸時代まで、寺と盛衰を共にしてきました。那古寺は、養老年間行基開基という真言宗の古刹で、本尊は千手観音像です。戦国期には里見氏の帰依を受けて、寺運は隆盛しました。 江戸期になると同寺を補陀落浄土とみなす信仰が盛んとなり、参詣する信者でにぎわい、西之坊・恵日坊などの宿坊をかねた塔頭、わき寺がいくつか出来ました。 元禄16年(1703)の大地震で那古寺の堂宇は、倒壊しましたが、観音堂は宝暦9年(1759)に、多宝塔は同11年に那古の商人伊勢屋甚右衛門の安房国全域におよぶ万人講勧進によって再建されました。里見の倉吉移封の後も寺領はそのまま安堵され、江戸時代を通じて、寺運は安定していましたが、明治維新により、寺領は没収されることとなり、以前のような寺運の隆盛はみることがなくなり、門前のにぎわいは、明治22年に設立された東京湾汽船会社の発着場となった那古桟橋の周辺に、一時移りました。

那古寺全景と町並
那古寺全景と町並
那古寺観音堂
那古寺観音堂

川名(かわな)

清水下(シミズシタ) 古那古下(コナゴシタ) 大座久保(オオザクボ) 頼朝免(ヨリトモメン) 御園(ミソノ) 滝ノ沢(タキノサワ) 鳥居抜(トリイヌキ) 栗坪(クリツボ) 野高(ノダカ) 金堀(カナボリ) 谷畑(ヤツハタ) 南畑(ミナミバタ) 向浜(ムコウハマ) 新町(シンマチ)

 文明18年(1486)、関白藤原房嗣の三男、道興准后が、房総巡遊の途中、「河名」をとおり、那古観音にもうでています。現在の川名浜を通る那古からの道は、ふるくは、那古山と峰続きの古那古を通り、川名岡から木の根街道へぬけていました。江戸中期に、土地の隆起により、川名浜が形成されると、街道は海岸へ回るようになったようです。 宝永2年(1705)船形村名主久右衛門はどんどん川を改修し海岸に新田を開きました。 また、幕末長勝寺の僧法印頼長は、寺子屋を開き、明治6年に小原・福沢・川名3村の生徒を集めて同寺に開設された川名小学校の基礎を築いています。

川名小学校印
川名小学校印(川名童花氏蔵)

船形(ふなかた)

御霊(ゴリョウ) 籠作(カゴサク) 十六田(ジュウロクタ) 宮田(ミヤタ) 根岸(ネギシ) 南(ミナミ) 円配(エンパイ) 沼頭(ヌマガシラ) 集(アツマリ) 六反目(ロクタンメ) 古川(フルカワ) 浜田(ハマダ) 小浜(コハマ) 汐切山(シオキリヤマ) 向台(ムコウダイ) 宇田川(ウダガワ) 大塚(オオツカ) 田町(タマチ) 堀合(ホリアイ) 髭沼(ヒゲヌマ) 沼(ヌマ) 猿作(サルサク) 反田(ソリタ) 寺ノ下(テラノシタ) 蟹作(カニサク) 水口(ミズグチ) 新山(ニイヤマ) 岩部(イワベ) 石田(イシダ) 堂ノ下(ドウノシタ) 柳塚(ヤナギヅカ) 芝(シバ) 山ノ手(ヤマノテ) 東(ヒガシ) 前浜(マエハマ) 中宿(ナカジュク) 西(ニシ) 磯崎(イソザキ) 外浜(ソトハマ) 上ノ塚(ウエノツカ) 水足(ミズタリ) 嬉ケ久保(ウレシガクボ) 丸山(マルヤマ) 野房・港(ノボウ・ミナト) 新港(シンミナト)

 船形の地名は、背後の堂山が船を伏せたかたちに似ていることに由来するとされます。むかしから人々は漁業を生業として、崖の観音に安全を祈願してくらして来ました。江戸に幕府が開かれ、人口が急増すると「おしょくり(押送)船」と呼ばれる江戸通船を使った、干鰯(ほしか)を中心とする魚や薪を送る廻船業が盛んになり、寛政5年(1794)の「船形村明細帳」で3艘の押送船の数が、文化5年(1808)の「明細帳」では33艘となり、自給自足の漁村から、廻船の基地へと大きく発展しました。宝永年間頃には当村の名主で廻船業者でもあった正木久右衛門がどんどん川を改修して、新田をひらき、さらに享保年間ごろ、福沢川より船形用水をひいて、村の発展の基礎を築きました。また、幕末の元治元年(1864)には、平岡丹波守道弘が安房国に一万石の領地を与えられて、根岸字御霊に陣屋を構えましたが、明治元年に領地を奉還し廃藩となっています。明治維新のあと明治政府の殖産興業政策により、廻船業を中心として村はますます発展しました。

明治14年には、正木貞蔵により、安房共立汽船会社が設立され、明治26年には、全長85mの船形港突堤が造られるなど、近代化が進みました。

船形村明細帳
船形村明細帳(小宮達雄氏蔵)
勝山調筆「おしょくり船」
勝山調筆「おしょくり船」(稲垣祥三氏蔵)

<近代>

 明治元年(1868)に、国替えで、静岡藤枝より房州に入った長尾藩の支配下に一部をのぞいて入りますが、廃藩置県により、明治4年に木更津県、明治6年には千葉県の治政化になりました。

 前記の江戸時代の幕藩政治のなかで、村の政治や文化は、五人組制度などにみられるように、閉鎖的なもので、村役などの社会秩序は村を単位に行なわれました。このなごりは、今も、各区に残るお堂が集会所として使われたり、村ごとに祭礼が催されるところにもみることが出来ます。

 明治22年に船形は川名村と合併して船形村になり、那古は、正木、亀ケ原、小原と合併、凪原(なぎはら)村となりますが、以前の村単位の社会秩序は、そのまま多く現在に残っています。江戸時代まで平郡に属していた同地区も、昭和14年に合併して館山市となり、鏡ケ浦を囲む市の一部となったのです。

神社

神社名 祭神
船形 諏訪神社 建御名方命
川名 日枝神社
金刀比羅神社
大山咋命
大物主命
那古 神明神社
日枝神社
天照皇大神
大山咋命
小原 若一神社

稲荷神社
伊弉諾尊
倉稲魂神
倉稲魂神
亀ヶ原 八幡神社 誉田別命
正木 八幡神社
諏訪神社
八雲神社
誉田別命
建御名方命
素戔鳴尊

<中近世>

 中世のこの地区は、在地の豪族安西氏が支配していたと伝えられますが、戦国時代になり、上野より入国した里見氏が在地の国人領主を家臣化して戦国大名となると、当地区もその支配するところとなりました。しかし、江戸時代になり、慶長19年(1614)に里見氏が伯耆倉吉(鳥取県)に移封されると、幕府領となり、のちに、旗本の石川、三枝、諏訪などが、各村を分割して支配し、幕藩体制が整備されるにつれて、忍、館山、勝山、船形、三上などの小藩が、やはり細かに分割して領地とし、多くの村が相給となり、幕末を迎えました。

支配の変遷 村高の変遷
那古・船形地区