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館山平野の平久里川以北の広い耕地を占める同村は、歴史的には、南北朝のころからその郷名をみることができ、戦国時代には、里見の重臣正木氏の本貫地だったといわれます。慶長11年(1606)の里見忠義寺領充行状では、正木の一部が平久里川の対岸東国府の宝珠院に寺領として寄進されています。また、元和4年に柴市左衛門他によって検地が行なわれています。 江戸時代を通じて、村高が増加しないのは、耕地としての開発が、江戸初期には、完了していたからと思われます。 明治7年に村内大泉寺を仮校舎として小学校が開設されます。