布沼(めぬま)

作(サク) 小梅(コウメ) 曲田(マガリダ) 西谷(ニシヤツ) 青木下(アオキシタ) 洞谷(ボラヤツ) 坂本(サカモト) 池白(イケシロ) 池田(イケダ) 根切(ネギリ) 亀山前(カメヤママエ) 亀山前原(カメヤママエバラ) 原下(ハラシタ) 平砂浦(ヘイサウラ) 大久保(オオクボ) 西原(ニシバラ) 小原(コバラ) 立石(タテイシ) 布沼沢(メヌマザワ) 黒ン土(クロンツチ) 深田(フカダ) さゝら(ササラ) 片岨(カタソ) 馬ノ背(ウマノセ) 姥神(ウバガミ)

 温暖な気候を利用した花作りの盛んな地域です。西岬地区の坂井と接し、小原の集落は一部が布沼に含まれ、砂山周辺の遺跡とつづく弥生・古墳期の遺跡がみられます。天正8年には里見義頼が、家臣の真田与十郎に布沼村の田地を知行地として与え、江戸時代初期には、里見家御一門衆之頭正木大膳亮時茂が知行して、村高は240石余。明治元年には218石余でした。明治7年には布沼小学校が開校しています。神社は厳島神社、寺院は室町時代の木造釈迦如来像のある東光寺があります。

布沼村絵図(布沼区有)

茂名(もな) 

谷之脇(タニノワキ) 中通(ナカドオリ) 養老子(ヨウロウシ) 引越(ヒキコシ) 向山(ムカイヤマ) 矢田(ヤダ) 向田(ムカイダ) 細田(ホソダ) 清水(シミズ) 星谷(ホシヤツ) 川原田(カワハラダ) 坂本(サカモト) 大田(オオタ) 堀上(ホリアゲ) 雑談作(ザツダンサク) 和田(ワダ) 矢溜(ヤダマリ) 北(キタ) 砂台(スナダイ) 白岾(シラハギ)

 平砂浦に海岸をもたない谷間の集落で、山を越えて館山城下に出るヨウガイミチ(要害道)という古道があります。江戸時代初期の里見氏治政下では、御一門衆之頭正木大膳亮時茂が知行し、村高は105石余。明治元年には152石余になっています。古くから里芋祭と呼ばれるオビシャ神事が行なわれているところで、神社は十二所神社、寺院は成願寺があります。

茂名村絵図(茂名区有)

洲宮(すのみや)

清水前(シミズマエ) 古川(フルカワ) 養老子(ヨウロウシ) 田中屋敷(タナカヤシキ) 寅見田(トラミタ) 上浜田(カミハマダ) 大畑(オオハタ) 仲浜田(ナカハマダ) 羽崎(ハザキ) 大浜田(オオハマダ) 白岾(シラハギ) 海老塚(エビヅカ) 茶畑(チャバタケ) 茂塚(シゲツカ) 川通(カワドオリ) 平田(ヒラタ) 青木作(アオキサク) 星祭(ホシマツリ) 桜畑(サクラハタ) 袋畑(フクロハタ) 下浜田(シモハマダ) 平砂浦(ヘイサウラ)

 洲宮の地名は、安房開拓神話にまつわる洲宮神社の存在することに由来します。境内地からは祭祀遺物も出土しており、古くから祀りの場であったことがわかります。江戸時代初期の里見氏治政下では、里見義康の弟で里見家御一門衆之頭正木大膳亮時茂が知行し、村高は113石余。明治元年には156石余でした。神社は洲宮神社、寺院は薬王院があります。

藤原(ふじわら)

牛坪(ウシツボ) 小太郎(コタロウ) 樽沢(タルサワ) 松ノ木(マツノキ) 坂本(サカモト) 風早(カザハヤ) 飛石(トビイシ) 四反目(シタンメ) 十郎前(ジュウロウマエ) 大筆(オオフデ) 中瀬(ナカセ) 長尾(ナガオ) 稲荷前(イナリマエ) 外原(ソトハラ) 佐野方(サノガタ) 内長尾(ウチナガオ) 浜田(ハマダ) 大作(オオサク) 大塚(オオツカ) 片フタ(カタフタ) 黒土(クロツチ) 売池(カライケ) 平砂浦(ヘイサウラ) 西原(ニシバラ)

 平砂浦に面した藤原と谷奥の谷藤原の二つの集落からなる地域で、温暖な気候に恵まれて、大正初期から蔬菜の温室栽培が盛んでした。江戸時代初期の里見氏治政下では、廿人衆の本間八郎が知行し、村高は187石余。明治元年には146石余になっています。神社は古俗芸能である獅子神楽を行う藤原神社があり、寺院は室町時代の木造地蔵菩薩像のある藤栄寺と、観音堂があります。また現在平砂浦一帯には南房総国定公園の諸施設が集中しています。

佐野(さの) 

沢(サワ) 富士見台(フジミダイ) 島田(シマダ) 郷原(ゴウハラ) 南原(ミナミハラ) 埋田(ウメダ) 苗代場(ナワシロバ) 門前(モンゼン) 中入(ナカイリ) 下ノ作(シモノサク) 袋町(フクロマチ) 稲荷前(イナリマエ) 渡戸(ワタド) 内大下(ウチオオシモ) 外大下(ソトオオシモ) 上芝(カミシバ) 芝中(シバナカ) 芝下(シバシタ) 藤原方(フジワラカタ) 下口(シモグチ) 唐池(カライケ) 谷口(ヤツグチ) 樽沢(タルサワ) 萩山(ハギヤマ) 大砂(オオスナ) 猪(イノウ) 海道(カイドウ) 越郷(エチゴウ) 山田(ヤマダ) 山ノ作(ヤマノサク) 太尾(フトオ) 塚(ツカ) 中尾(ナカオ) 草鹿(クサカ) 谷耕柵(タニコウサク) 楠ノ木(クスノキ) 久保畑(クボハタ) 向(ムカイ) 堀込(ホリゴミ) 京ノ塚(キョウノツカ) 岩見(イワミ) 下白萩(シモシラハギ) 押出(オシダシ) 白萩(シラハギ)

 佐野川の上流に集落があり、地名のおこりは山間の狭い野(狭野(さの))とも、砂丘から下った砂原(砂野(さの))ともいわれます。下流域は現在では平砂浦を開墾した畑地になっています。江戸時代初期の里見氏治政下では、足軽大頭の里見揚安斎が知行し、村高は207石余。明治元年には296石余になっています。明治20年に佐野小学校が開校し、戦時中には海軍砲術学校も開設されました。神社は熊野神社、寺院は千葉院があります。また佐野川に生息するオオウナギは市の天然記念物に指定されています。

犬石(いぬいし)

巴(トモエ) 西蒲生(ニシガモウ) 東蒲生(ヒガシガモウ) 清水(シミズ) 蒲生下(ガモウシタ) 西畑(ニシバタ) 白石(シライシ) 見田(ミタ) 内川田(ウチカワタ) 外川田(ソトカワタ) 関下(セキジタ) 楠見(クスミ) 深田(フカダ) 布沼田(メヌマダ) 射場(シャジョウ) 大谷(オオタニ) 蓮河(レンガ) 山畑(ヤマバタ) 草田(クサタ) 宮作(ミヤサク) 前小山(マエコヤマ) 東小山(ヒガシコヤマ) 北小山(キタコヤマ) 野太(ノブト)  放塚(ホウヅカ) 東黒土(ヒガシクロツチ) 西黒土(ニシクロツチ) 北塚(キタヅカ) 北原(キタハラ) 川向(カワムコウ) 縄原(ナワハラ) 巴原(トモエバラ) 割田(ワリタ) 平砂浦(ヘイサウラ) 川崎(カワサキ) 大道(オオミチ) 長作(ナガサク) 池尻(イケジリ)

 西黒土縄文包含地や犬石洞穴など古い遺跡の散在する地域です。江戸時代初期の里見氏治政下では、村高258石余で、奏者の関神平が91石余を知行し、残りは里見家の直接支配でした。明治元年の村高は311石余。神社は犬石神社、寺院は金蓮院と、竜岡南部の犬石飛地に王蔵院があります。犬石には旧神戸村役場がおかれ、また幕末には金蓮院の住職や名主島田楽山などが寺子屋を開き、明治11年には犬石小学校が開校されるなど、行政の中心となっていました。

竜岡(りゅうおか)

西ノ原(ニシノハラ) 大久保(オオクボ) 西ノ下(ニシノシタ) 西条(ニシジョウ) 上ノ原(ウエノハラ) 作(サク) 矢戸(ヤト) 原田(ハラダ) 倉沢(クラサワ) 草田(クサタ) 横田(ヨコタ) 西原(ニシバラ) 栗ヶ山(クリガヤマ) 二道前(ニドウマエ) 西ヶ谷(ニシガヤツ) 千騎畑(センキバタ) 小花毛(コハナゲ) 池尻(イケジリ) 打越(ウチコシ) 中ノ谷(ナカノヤツ) 大谷(オオタニ) 北原(キタハラ) 石畑(イシバタ) 峯(ミネ) 上ノ山(ウエノヤマ) 太尾(フトオ) 長作(ナガサク) 細見(ホソミ) 小間戸(コマド) 広合(ヒロアイ) 狢ヶ谷(イノガヤツ) 池ノ上(イケノカミ) 宮田(ミヤタ) 庄田(ショウタ)

 江戸時代には松岡村・南竜村・北竜村の三ヵ村に分かれており、明治7年の合併のとき各村名の一字をとって竜岡の地名ができました。発掘の行われた松岡遺跡をはじめ縄文から古墳時代の遺跡が多いところです。江戸時代初期の里見氏治政下では、松岡村は村高118石余で廿人衆黒川千勝の知行、南竜村は村高71石余で黒川千勝と百人衆櫛田惣右衛門などの知行、北竜村は村高31石余で廿人衆細野修理が知行していました。明治元年にはそれぞれ138石余、85石余、64石余。神社は八幡神社、子野神社、熊野神社があり、寺院は千竜寺があります。また松岡には正見院がありましたが現在は集会所になっています。

中里(なかざと)

下田(シタダ) グゾ(グゾ) 下台(シタダイ) 上ノ原(ウエノハラ) 笠登(カサト) 塔ノ下(トウノシタ) 塔〆(トウジメ) 大芝(オオシバ) 諏訪入(スワイリ) 草田(クサタ)

 県立安房養護学校裏の山裾に天田ヤグラという中世の武士の墓が4基あり、里見氏以前にもこの地域に有力な土豪のいたことがわかります。ここのやぐらからは五輪塔や宝篋印塔の残欠がたくさん出土しています。江戸時代初期の里見氏治政下では、廿人衆の黒川千勝が知行し、村高は77石余。明治元年には115石余になっています。神社は八坂神社、他に薬師堂があります。

大神宮(だいじんぐう)

巴井(トモイ) 田中谷(タナカヤツ) 大坪(オオツボ) 香取(カンドリ) 根本(ネモト) 西(ニシ) 中郷(ナカゴウ) 宮ノ谷(ミヤノヤツ) 川坂(カワサカ) 小久保ヶ谷(オクボガヤツ) 前畑(マエバタ) 下西沢(シモニシザワ) 上西沢(カミニシザワ) 東沢(ヒガシザワ) 菅坐(スゲサ) 手取(テドリ) 新関(ニイゼキ) 菅ヶ谷(スゲガヤツ) 鳥ヶ谷(トリガヤツ) 樋ノ口(ヒノグチ) 内大塚(ウチオオツカ) 外大塚(ソトオオツカ) 岩井作(イワイサク) 長岡(ナガオカ) 枇杷ヶ谷(ビワガヤツ) 下萩谷(シモハギヤ) 中萩谷(ナカハギヤ) 西萩谷(ニシハギヤ) 東萩谷(ヒガシハギヤ) 小塚(コツカ) 大網(オオアミ)

 大神宮の地名は式内社である安房神社の存在することに由来します。安房神社境内をはじめ大塚山・小塚・長岡など縄文から古墳時代の遺跡が数多く分布し、開発の古い地域であることがわかります。江戸時代初期の里見氏治政下では、廿人衆の真田瀬兵衛・印東河内、使番十人衆の里見源次郎らが知行し、村高は519石余。天和2年には領主河野氏に対する一揆が起こりましたが、村の代表者七人が斬罪になっています。神社は安房神社のほかに、神明神社・八幡神社・稲荷神社があり、寺院は小塚大師として知られる遍智院をはじめ千祥寺・大鑑院があり、他に観音堂があります。明治22年に神戸村の大字となりますが、海岸よりの一部は富崎村に含まれました。

富崎・神戸地区

 シリーズ3回目として神戸と富崎の二地区を取り上げました。両地区とも安房開拓にまつわる神話の伝えられる地域で、神戸の名は、古代当地域が神戸郷と称され、安房神社に属する神戸という民家(封戸)があったことに由来します。また富崎の名も、当地域にある布良崎神社の祭神が天富命で、岬に位置する地域であることに由来し、ともに明治22年の両村成立のときの命名です。

 神戸は農業、富崎は漁業を生業とし、両地区あわせて市全域の18.4%にあたる20.19k㎡(神戸19.39、富崎0.80)の面積に人口が5209人(神戸3309、富崎1900)で市全体の9.2%の人が生活しています。

 安房神社周辺には縄文・弥生の遺跡が多く、早くから開発された地域であることがわかりますが、両地区一帯は平安時代には安房国安房郡神戸郷と称し、安房神社を中心とする文化圏になっていました。戦国時代から江戸時代の初めまでは里見氏が支配し、その後幕府や旗本などの領地となります。江戸時代は大神宮・中里・松岡・南竜・北竜・犬石・佐野・藤原・洲宮・茂名・布沼・布良・相浜の13ヵ村があり、明治7年に松岡・南竜・北竜の各村が合併して竜岡村となりました。明治22年に各村合併の結果、神戸村・富崎村が成立し、館山市と合併するのは昭和29年のことです。

戸数のうつりかわり

旧町村名 天保 明治24年 世帯数
昭和35年 昭和62年
大神宮 105 117 158 187
中里 29 31 33 44
竜岡 松岡 23 50 47 53
南竜 15
北竜 11
犬石 68 78 98 184
佐野 51 56 92 134
藤原 35 50 89 119
洲宮 29 40 61 140
茂名 31 32 33 37
布沼 44 48 50 61
布良 231 345 338 338
相浜 126 200 282 264
合計 789 1,047 1,281 1,561