コラム(9) -御神饌(しんせん)-

 神に供(そな)える飲食物。神の降臨(こうりん)を願いしばしば神と人が共に食事をするのが日本のまつりの特徴とされる。したがって酒・塩・穀類・蔬菜(そさい)類・魚介(ぎょかい)類など最高のものを供えた。つとるばの多数の容器は、神饌が多種多様であったことを意味しているのだろうか。

安房神社の御神饌

 つとるば遺跡-館山市沼- 鐸鈴のまつり

 土製模造品に象徴される安房の祭祀遺跡のなかでも、他の遺跡にはない用具がみられるのが館山市沼のつとるば遺跡です。遺物は谷の中腹の狭い小範囲から出土していて、6世紀代の土師器(はじき)や大量の手捏(てづくね)土器(カラー図版参照とともに有孔円板(ゆうこうえんばん)や勾玉(まがたま)形、丸玉形、鎌状のものなどのほか、四鈴鏡(れいきょう)・五鈴鏡・七鈴鏡、五鈴釧(すずくしろ)、鐸(たく)などの振る音に関係する土製模造品があります。全国的にみても鈴鏡や鐸などの土製模造品は珍しく、特色のあるまつりが行われていたと考えられます。おもしろいのは大寺山洞穴(参照)と、直線距離にしてわずか1kmしか離れていないということです。のちに詳しく述べますが、土製模造品には強い地方色があるという指摘があり、大寺山の海人(あま)の風習と考えあわせると極めて興味深いものです。

1=つとるば遺跡  2=大寺山洞窟

1=つとるば遺跡  2=大寺山洞窟

22-1.館山市沼・つとるば遺跡出土遺物

22-1.館山市沼・つとるば遺跡出土遺物
土製模造品(有孔円板)

22-1.館山市沼・つとるば遺跡出土遺物

22-1.館山市沼・つとるば遺跡出土遺物
土製模造品(不明品)

22-1.館山市沼・つとるば遺跡出土遺物

22-1.館山市沼・つとるば遺跡出土遺物
(四鈴鏡・五鈴釧)

22-1.館山市沼・つとるば遺跡出土遺物

22-1.館山市沼・つとるば遺跡出土遺物
土製模造品(鐸)

(以上、千葉大学理学部地球科学科蔵)

22-2.館山市沼・つとるば遺跡出土遺物

22-2.館山市沼・つとるば遺跡出土遺物
土製模造品(五鈴鏡・舌)
國學院大學考古学資料館蔵

22-3.館山市沼・つとるば遺跡出土遺物

22-3.館山市沼・つとるば遺跡出土遺物
土製模造品(七鈴鏡)

22-3.館山市沼・つとるば遺跡出土遺物 土製模造品(鐸)
22-3.館山市沼・つとるば遺跡出土遺物 土製模造品(鐸)

(以上、当館蔵)

  館山市館山・北下台洞穴

 古墳時代に墓として利用された海蝕洞穴(かいしょくどうけつ)は、ほかに鋸南(きょなん)町大黒山(だいこくやま)海蝕洞穴と、館山市の鉈切(なたぎり)洞穴、そして北下台(ほっけだい)海蝕洞穴があります。大正時代には航路標識が建てられており、北下台は海から遠めに目立つ小丘であったのかもしれません。この洞穴からは、土師器(はじき)・須恵器(すえき)と銅釧(どうくしろ)・瑪瑙(めのう)製の勾玉(まがたま)・碧玉(へきぎょく)製の管玉(くだたま)が出土しています。

1=大寺山洞穴  2=北下台洞穴

1=大寺山洞穴  2=北下台洞穴

21.館山市北下台出土遺物

21.館山市北下台出土遺物
土師器(11)

21.館山市北下台出土遺物

21.館山市北下台出土遺物
須恵器(12)

21.館山市北下台出土遺物

21.館山市北下台出土遺物
銅釧(10)

21.館山市北下台出土遺物

21.館山市北下台出土遺物
瑪瑙勾玉(9)

21.館山市北下台出土遺物

21.館山市北下台出土遺物
  碧玉管玉(8)

以上:東京国立博物館蔵 Image:TNM Image Archives Source:http://TnmArchives.jp/

  館山市沼・大寺山洞穴

 古東海道の海の道は伊豆半島を回り、東に伊豆諸島を見ながら浦賀水道を通り、上総にいたるルートが想定されます。大寺山(おおてらやま)洞穴は東京湾の玄関口にあり、大地震のたびに隆起しているため、現在は標高20mほどのところですが、古墳時代には波打ち際近くにあったと考えられます。ここから舟形木棺(ふながたもっかん)・人骨とともに三角板皮綴(かわとじ)式と横矧板錨留(よこはぎいたびょうどめ)式の短甲(たんこう)と、剣・鉄鏃(てつぞく)などの武器などがみつかり、土器から5世紀前半・後半、6世紀前半の3時期に埋葬が行われたと考えられています。県内で2領の短甲を出土しているのは君津市八重原(やえはら)古墳だけで、また舟形木棺から海洋民族の舟葬が想定されていることなどから、ここは海の道を支配した安房の海人の墓であると考えられます。

20.□館山市大寺山洞穴出土遺物

20.□館山市大寺山洞穴出土遺物
鉄鏃

20.□館山市大寺山洞穴出土遺物

20.□館山市大寺山洞穴出土遺物
横矧板鋲留短甲片

20.□館山市大寺山洞穴出土遺物

20.□館山市大寺山洞穴出土遺物
土師器・須恵器

(以上、館山市沼・総持院蔵)

 海蝕洞穴 海人の首長墓

 安房には高塚(たかつか)古墳が非常に少ない一方で、大型の円墳(えんぷん)や前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)への被葬者(ひそうしゃ)に匹敵(ひってき)する有力者が、海の浸食(しんしょく)作用でつくられた海蝕洞穴(かいしょくどうけつ)を墓として使っていました。また小滝涼源寺(おたきりょうげんじ)遺跡からもわかるように、海上交通を基盤(きばん)にして活動した人々の足跡があります。

 これらのことは伊豆半島の南部にも共通し、海洋術にたけた海人(あま)には、海に向かって口を開いた海蝕洞穴を、黄泉(よみ)の国とする考えがあったことが窺(うかが)えます。

 コラム(8) -神郡-

 地方行政区画の一つである郡のうち、特定の神社に奉仕するためのもの。8世紀に伊勢国伊勢神宮の渡会(わたらい)・多気(たけ)、下総(しもふさ)国香取神宮の香取、安房神社の安房、常陸(ひたち)国鹿島神宮の鹿島、出雲(いずも)国熊野神社の意宇(おう)、紀伊国日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)神宮の名草、筑前国宗像(むなかた)大社の宗像の計8郡が定められた。奉仕の内容には不明な点が多いが、役人である郡司が神事に携わり、優遇措置が講じられた。

 安房坐神社 僻地の大社

 『古語拾遺(こごしゅうい)』(コラム(1)参照)には、安房に忌部(いんべ)氏が集団移住し、祖神(そしん)を祀(まつ)ったのが安房神社であると記されています。あくまでも伝承ですが、中央の忌部氏が朝廷の祭祀(さいし)に携わっていたことと、平安時代の『延喜式(えんぎしき)』に書かれた安房の式内社6座(一覧参照)のうち、5座の祭神(さいじん)が忌部氏に関係するという事実には注目できます。時代はさかのぼりますが、さらに8世紀のはじめには朝廷が安房郡を神郡(しんぐん)としている歴史的事実があります。さきに述べた安房が上総から独立したことは、このことが大きな契機になったと考えられ、また『延喜式』に安房国筆頭の大社として記される安房坐(あわにます)神社が大きな存在であったことは確かです。この神話の伝承と歴史的な事実から、安房神社を中心とする祭祀集団の形成に、忌部氏が大きな役割を果たしたと考えることができないでしょうか。

18.『延喜式』 巻九(神名上)

18.『延喜式』 巻九(神名上)
 国立公文書館蔵

18.『延喜式』 巻十八(式部十八)

18.『延喜式』 巻十八(式部十八)
 国立公文書館蔵

19.□土師器高杯

19.□土師器高杯
 館山市安房神社蔵
安房神社境内から出土。5世紀初めの神まつりで使われたものと考えられる。

4.独特な宗教文化の形成~安房の古代祭祀遺跡を考える

 関東の古代祭祀を概観(がいかん)して、5世紀から6世紀にかけて石製模造品が広く一般的に使われていたことがわかりました。しかし今のところこの時期、安房でそれを用いた神まつりを確認することができません。そもそもこの地域では発掘調査がほとんど行われていないため、古代を解明するには制約が多いのですが、それにしても、4世紀末に石製模造品を用いていた安房で、なぜ普及しなかったのでしょうか。

 そして6世紀代になると、土製模造品を用いた神まつりが盛んに行われるようになります。安房の土製模造品の典型的なセットは、勾玉(まがたま)形・丸玉形・鏡形・有孔円板(ゆうこうえんばん)に手捏(てづくね)土器が加わったもので、遺跡のなかには後世の神社に近いところにあるものもあります。さらに特徴のあるものとして、鐸(たく)や鈴鏡(れいきょう)・鈴釧(すずくしろ)など音に関係するものがあります。安房の祭祀遺跡と土製模造品の種類の数や量がほぼ似ているのは、関東では埼玉県大里郡岡部町の狢山(むじなやま)遺跡くらいで、この地域の神まつりは独自の形態であるものとして注目されています。

 ところで古代に限らず、半島の突端にあるという地理的要因が、安房の歴史に大きな影響を与えていました。原始から近世に至るまで、海を越えての接触が要素となり歴史が展開していきます。さらに房総でもっとも高い鋸(のこぎり)山、清澄(きよすみ)山丘陵により、上総と分断されたことで独特な文化圏が形成されていました。このことは奈良時代の養老(ようろう)2年(718)に、上総国から平群(へぐり)・安房・朝夷(あさい)・長狭(ながさ)の4群を割(さ)いて安房国がつくられたことからも窺(うかが)うことができます。小さいながらも、安房は一国を形成していました。

 ここで一つの仮説を立ててみます。独自の形態である神まつりをヒントに、古代の安房に一種独特な宗教文化が形成されていたと考えることができないでしょうか。成立するかどうかは、先にも述べたように資料が少ないので今後の課題なのですが、今わかっている考古学的、歴史学的な事実から検討していきましょう。

17.『古語拾遺』〔部分〕(複製)
17.『古語拾遺』〔部分〕(複製)
(原品 前田育徳会尊経閣文庫蔵)

 小滝涼源寺遺跡 -千葉県安房郡白浜町- 海の神まつり

 すでに縄文時代から海は交通路として利用されています。古墳時代になると伊豆半島方面から房総半島を経由して常陸(ひたち)方面に向かう「海の道」が重要な交通路であったことが想定でき、房総半島突端の野島崎灯台の近くには、太平洋の交通路を探るうえで重要な小滝涼源寺(おたきりょうげんじ)遺跡があります。海岸までの距離がわずか400mほどのところから、火を焚(た)いたまつり跡などとともに3万点の祭祀遺物(さいしいぶつ)がみつかりました。遺物はほとんどが土器片ですが、土師器・手捏(てづくね)土器・石製模造品(剣形・有孔円板(ゆうこうえんばん)・勾玉(まがたま)・臼玉(うすだま)など)や鉄製品(剣など)といったものがみられ、4世紀中頃から5世紀はじめを中心にまつりが行われていたことがわかります。

 海の道に面した場所での祭祀というと、玄界灘(げんかいなだ)の沖ノ島(おきのしま)や能登(のと)半島の寺家(じけ)遺跡がありますが、それらには中央政権による国家祭祀という共通点があります。小滝涼源寺も海路に近いうえ火を使うという特殊なまつりで、鉄剣などを用いていることから一氏族のまつりとは考えにくく、畿内(きない)政権の関わりが強く窺(うかが)えます。石製模造品を用いた祭祀遺跡としては全国的にみても古く、また従来5世紀中頃に登場するものだと考えられていた剣形・有孔円板・勾玉・臼玉が4世紀末に使われていることから、多くの議論を呼んでいます。

 これから紹介する、土製模造品に象徴される安房の古代祭祀遺跡とは全く異質の遺跡で、畿内政権が強く介入し、海上交通の安全を願った神まつりが行われていたと考えることができます。

16.白浜町小滝涼源寺遺跡出土遺物 鉄剣
16.白浜町小滝涼源寺遺跡出土遺物 鉄剣
16.白浜町小滝涼源寺遺跡出土遺物 石製模造品
16.白浜町小滝涼源寺遺跡出土遺物 石製模造品
16.白浜町小滝涼源寺遺跡出土遺物 土師器と手捏土器
16.白浜町小滝涼源寺遺跡出土遺物 土師器と手捏土器

(以上、朝夷地区教育委員会蔵)

 コラム(7) -挙手人面土師器- 長野県長野市若穂町出土

 この土器は集落を一望できる高台で発見され、埋もれていた柱状石を取り除いた際、この石の影にかくれるような場所から、朱(しゅ)塗りの土師器高坏(はじきたかつき)や坩(かん)などとともに出土したといわれています。顔面から受ける印象はわずかに笑みをうかべているようで、目と口は土器の壁をくり抜き、表現されています。顔面の左右には耳がつけられ、耳たぶには孔があけられています。挙(あ)げられた手は、内側を向いていて指を表現する刻み目がつけられています。

 一部に朱塗りの跡があり、かつては赤色に塗られていたのでしょう。挙手(きょしゅ)の意味には、豊かな稔(みの)りへの喜びを表現するという説や、この土器を中心に高坏や坩を置き収穫感謝祭が行われたという説があります。6世紀の神まつりで使われたと考えられています。

15.拳手人面土師器

15.拳手人面土師器
國學院大學考古学資料館蔵