明治2年(1869)の版籍奉還(はんせきほうかん)によって藩が所有していた土地と人民が天皇に返還されると、藩は明治政府の地方組織となり、それまでの藩主は知藩事という地方官に任命されましたが、藩の主であることに変わりはありませんでした。知藩事は華族(かぞく)、藩士たちは士族(しぞく)と呼ばれるようになり、武家奉公人の足軽や中間(ちゅうげん)は卒族(そつぞく)とされました。
そして、藩主から禄(ろく)を受けて主従関係を結んでいた藩士たちは、士族として明治政府に所属することになります。とはいっても、明治4年(1871)の廃藩までは、税の徴収も藩士への家禄(かろく)支給も藩独自に行っていました。明治政府の指示により家禄の支給額や藩制や軍制が改革されるなかで、主人のために戦うことを職とする武士という身分は危ういものになっていきました。
明治3年(1870)には各藩などから士族庶民の隔たりなく1万石あたり5人の徴兵で国軍といえる組織が作られます。明治6年(1873)には徴兵令によって国民軍が編成されることになり、士族と武力はまったく切り離されていくことになりました。