(2)長尾藩士の移住

16.長尾藩本多家の家紋
<丸に立葵(たちあおい)紋>
具足の背に付けた旗指物
16.長尾藩本多家の家紋
<丸に立葵(たちあおい)紋>
具足の背に付けた旗指物
個人蔵

 慶応3年(1867)10月に大政を奉還し、12月に将軍職を辞した徳川慶喜は、翌年の鳥羽伏見の戦いで敗れて謹慎します。家督を継いだ家達(いえさと)は一大名となり、駿河・遠江・三河国で70万石を領する府中藩主になりました。その結果、それまで駿遠両国に配されていた7家に及ぶ諸藩は、旗本領がなくなった房総で新たな領地を与えられて移封してきました。

 安房国へは、国内4郡で4万石を与えられた駿河国田中藩(藤枝市)の本多氏が、長尾藩として北条村(館山市)に陣屋を構え、安房国長狭郡と上総国で3.5万石を与えらえた遠江国横須賀藩(浜松市)の西尾氏が、花房藩として横渚(よこすか)村(鴨川市)に陣屋を構えて新たな領主となったことで、多くの藩士が家族を伴って移住してくることになりました。

18.長尾城地分見縮図(部分)
明治3年(1870)
18.長尾城地分見縮図(部分)
明治3年(1870)
当館蔵

 長尾藩の場合は7月に移封の通達を受け、当初は滝口村から白浜村に広がる長尾川中流域(南房総市白浜町)の段丘や旧河道の谷地を開墾して城地を建設し、仮役所を設けました。翌明治2年(1869)正月頃から5月頃にかけて家族ともども藩士の移住が行われたとされ、東海道を移動して三浦半島の浦賀から渡海する一家や、焼津から直接渡海して房州へ来た家族などがあったと伝えられています。しばらくは長尾周辺の民家に仮宿したとされますが、長尾城では藩士の居住屋敷を優先的に造成していったことが発掘調査で確認されています。

 しかし基礎工事が脆弱(ぜいじゃく)であったことも同時に確認されており、そのためか7,8月頃の台風で建設中の陣屋が倒壊してしまい、翌年10月には内房の北条村へ陣屋が全面移設されました。藩士たちも北条村から八幡村に広がる鶴ヶ谷の地に転居しますが、収容しきれなかった藩士は北条村新塩場や国分村萱野、八幡村・正木村の浜添海岸林の中に屋敷地が分散してつくられていきました。

19.最後の知藩事 本多正憲肖像
19.最後の知藩事 本多正憲肖像
当館蔵

 移封時の藩主本多正訥(まさもり)は博学の藩主として知られ、幕末には昌平坂学問所を管轄する初代学問所奉行に就任しました。江戸屋敷には藩政を担う人材を育成するために藩校江戸日知館を開設しています。さらに駿府城代を勤めて、慶応4年(1868)には徳川宗家を継いだ徳川家達(いえさと)へ駿府城の引渡しを行っています。

 版籍奉還で長尾藩知事となり、明治3年(1870)5月に北条陣屋へ着任しますが、12月に養子の正憲(まさのり)に家督を譲って隠居しました。正憲はすでに明治2年(1869)から長尾へ移住して大参事として政務に当っており、正訥の隠居によって2代目知藩事となりました。廃藩後には宮中に仕えて明宮(はるのみや)(大正天皇)勤務をしています。

20.長尾藩士 長房包満(かねみつ)肖像
20.長尾藩士 長房包満(かねみつ)肖像
当館蔵
21.長尾藩士 加茂惟信(これのぶ)肖像
21.長尾藩士 加茂惟信(これのぶ)肖像
個人蔵

藩士一家の引っ越し荷物

22.行李(こうり)
江戸時代
22.行李(こうり)
江戸時代
個人蔵

 藩士たちは移住に当って、先祖伝来の武具や文書はもちろん、石臼や箪笥などの家財道具も運んできました。