長尾士族小川徳は、農業を「中計・中策」と位置付けましたが、自身は生まれつき体が弱く病気がちで「暑日寒風」に堪えられないので、自分が出来ないことをするのは失策のもとだとしました。しかし土地を手に入れて農業を始めた士族もいます。
長尾士族の前田義光は、明治4年(1871)の廃藩後も萱野28番屋敷に住み続け、52歳の明治14年(1881)に茨城県の下館士族だった29歳の鉦吉を養嗣子(ようじし)に迎えています。兵役が明けた翌15年に家督相続した鉦吉は、明治17年(1884)に本織村(南房総市)で7筆5反余の田畑を405円で購入します。明治19年(1886)には本織村の田畑に隣接する腰越村で畑を購入し、そこへ2年後に転居しました。本格的な農業経営に転身したということです。