文武を職能としていた武士にとって、その能力を活かせる仕事のひとつに教師という職がありました。明治6年(1873)から小学校が設立されていき、市内では35校の小学校ができています。それぞれの教員数は1人から2人程度ですが、職を失ったばかりの教養のある士族にとっては最適の就職口でした。なかには青年の教育機関としての役割を持った私塾を運営する士族もいました。裁縫で身を立て東洋英和女学校の寄宿舎監になった加茂令子(明治4年・1871年生)も長尾士族でした。
文武を職能としていた武士にとって、その能力を活かせる仕事のひとつに教師という職がありました。明治6年(1873)から小学校が設立されていき、市内では35校の小学校ができています。それぞれの教員数は1人から2人程度ですが、職を失ったばかりの教養のある士族にとっては最適の就職口でした。なかには青年の教育機関としての役割を持った私塾を運営する士族もいました。裁縫で身を立て東洋英和女学校の寄宿舎監になった加茂令子(明治4年・1871年生)も長尾士族でした。