明治6年(1873)12月、明治政府は家禄(かろく)を奉還(ほうかん)した士族へ資金を支給するという規則を布告しました。士族たちに起業資金を与えるという名目のもので、家禄奉還は希望制でした。希望者には家禄6年分が支給され、半分は現金、半分は年8%の利子がつく秩禄公債(ちつろくこうさい)が交付されました。これも政府の家禄負担解消のための政策です。家禄奉還にあたっては、家禄の低い困窮士族を帰農帰商させるために、官有の山林・田畑・荒蕪地(こうぶち)を時価の半額という低価格で払い下げる政策もとられています。
明治政府が華族・士族などへ支給した家禄と賞典禄(しょうてんろく)(維新功労者への禄)を合わせて秩禄といい、士族たちの生活を維持する年金のようなものでした。家禄奉還の希望者は年金が打ち切られたのと同じでしたが、明治9年(1876)の秩禄公債発行終了までに全国で3分の1の士族が交付を受けました。債権の払い戻しは明治17年(1884)4月までに完了しています。
現金が必要だ!
館山士族の鈴木義章は、明治6年(1873)12月に家禄奉還規則が出ると早速動き出しました。1月には近隣の官有地を調査し、3月に家禄奉還願を提出、明治8年(1875)5月には帰農を前提とした官有地の払い下げを受けています。
しかし、入手した官有山林の開墾願は出すものの、地価の半額で入手した払下地は、数年内に地価で地元の人々に売り渡されていきました。官有地となっていた寺院の元朱印地も地元の人によって買い戻されています。