【1】最後の武士たち
 (1)館山藩と戊辰戦争

1.館山藩稲葉家の家紋
<折敷(おしき)の内に三文字紋>
1.館山藩稲葉家の家紋
<折敷(おしき)の内に三文字紋>
当館蔵

 江戸時代末期の安房国内には、館山藩稲葉家1万石(館山市など)と勝山藩酒井家1.2万石(鋸南町など)の大名家があり、陣屋を設置して家臣を配し、年貢収納などの村々の支配に当たっていました。また、旗本領の村々の場合は江戸の旗本屋敷に家臣がいて役所となり、現地に陣屋を設けて家臣を置くケースは稀で、幕末の安房国では旗本陣屋は確認されていません。

 江戸時代中期の天明元年(1781)に、館山周辺に領地を与えられて大名となった館山藩稲葉氏の場合は、館山町と呼ばれていた真倉(さなぐら)村内岡上須賀村に陣屋を構えていましたが、大部分の家臣は江戸屋敷に詰めていたようで、館山陣屋での勤番藩士は少なかったと考えられます。

2.稲葉正巳<中央> 右は軍艦奉行の勝海舟
慶応2~4年(1866~1868)頃 
『幕末・明治・大正回顧八十年史』所載
2.稲葉正巳<中央> 右は軍艦奉行の勝海舟
慶応2~4年(1866~1868)頃
『幕末・明治・大正回顧八十年史』所載
当館蔵

  幕末期の4代目藩主である稲葉正巳(まさみ)は有能な人物で、14代将軍徳川家茂(いえもち)の文久2年(1862)に若年寄となり、外国御用取扱や陸軍奉行などを兼ねて、たびたび将軍の供をして上洛しています。元治元年(1864)には持病に苦しんで隠居し、養子正善(まさよし)に家督を譲りますが、翌年に隠居のままそれまでの職に戻されました。15代将軍慶喜(よしのぶ)の慶応2年(1866)には1万石ながら老中格となり海軍総裁をも兼ねて、幕府の軍事部門を中心に要職を務めていました。

 正巳は慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見の戦いの後、2月に老中職を辞して隠居謹慎し、新政府に恭順して館山に蟄居(ちっきょ)しました。

3.御寛典(ごかんてん)を以て稲葉江隠謹慎御免(ごめん)につき沙汰(さた)状
 慶応4年(1868)5月
3.御寛典(ごかんてん)を以て稲葉江隠謹慎御免(ごめん)につき沙汰(さた)状
慶応4年(1868)5月
当館蔵

 しかし、その時期の房総は治安が不安定で、房総3国では3月に旧幕府の旗本などが総房三国鎮静方を設置して、打ちこわしなどの鎮定をはかって新政府軍への圧力を強めていました。また、4月中旬の江戸城開城に従わない旧幕臣は房総での抵抗を試みて戦闘を続け、館山湾には軍艦の引き渡しを拒否した榎本武揚(たけあき)率いる旧幕府軍艦が停泊するなど、騒然とした時期でした。翌閏(うるう)4月中旬になると、連日館山湾に旧幕府軍の軍艦や新政府軍の軍艦が入港するようになっています。

明治時代の館山藩

8.最後の藩主 稲葉正善肖像
8.最後の藩主 稲葉正善肖像
当館蔵

 藩主稲葉正善は、明治2年(1872)3月に朝廷へ領地の返還を上申し、6月に版籍奉還が聞届けられて館山藩知事となり、華族に列せられました。合わせて藩士たちの格式差もなくなり、一律に「士族」という身分になります。藩制も改革されて藩制と知事家政とは別財政となり、士族は藩の職員になりました。政府の指示によって上級家臣の俸禄は削減され、従来の家老に相当する参事は政府の任命になるなど、藩制に対する政府の管理が強まり、中央集権化が進んでいきました。知藩事(藩知事)も藩制の委任を受けた地方長官になったのです。