藩が消滅して、武士としての身分も特権も失った士族たちは、金禄公債を手にしたとはいえ、新しい生活の糧を求めなければなりませんでした。長尾藩士の場合は、先祖以来140年を過ごした駿河国田中(藤枝市)の地から転出して間もないことから、縁故を求めて帰る者が多くいました。また長く江戸屋敷に居た者や新天地を求める者は政治経済の中心地である東京へ出ていき、千葉県内でも県都千葉へ移る者もいました。しかし多くは移転したばかりの安房で新生活を模索しています。一方館山藩士の場合、多くは東京へ出たと思われ、館山に残った士族の数はあまり確認されていません。しかし、館山士族が共同行動をとることはあり、明治22年(1889)、千葉県に対して授産金拝借願を出そうとしています。
幕末・維新期の武士たちには、西洋の新しい武器や技術などの知識が必要とされていました。個人の能力や業績が評価される時代になっていたのです。武士の中ですでに家禄という秩序が揺らいでおり、先祖の功による登用は武士たちによって批判されるようになってもいました。明治政府という国家に貢献できる能力ある武士は、武士という身分を否定して新しい官職を手に入れ、平民でも能力があれば官職という新しい士族待遇を受けることが可能になった時代でした。
地方でも官職を得ることは、武士としての威信を満足させるものでした。しかし、多くの士族はそうした職に就けず、新商売にも失敗して困窮していきます。大多数は同藩士族で結社をつくってまとまり、就産事業を試みるなど結束して難局を乗り越えていきました。