日蓮聖人とその伝説(鴨川編)

日蓮(1222~1282)は自身の生誕地を安房国長狭郡東条郷片海(かたうみ)(鴨川市小湊)と記しているが、その正確な場所は分かっていない。12歳で清澄寺に上り17歳まで道善房(どうぜんぼう)に師事した。鎌倉や比叡山延暦寺等で修業し、法華経が釈迦の真実の教えであると確信すると、32歳で立教開宗をした。翌年、領家(りょうけ)の尼に代わり東条郷(鴨川市)の地頭東条景信(かげのぶ)と係争し勝訴したため、念仏信者の景信の反感をかい鎌倉へ渡ることになった。鎌倉・伊豆での法難後43歳の時、父の墓参りと病気の母を見舞うため帰郷。東条郷の小松原で景信に襲われ、天津領主工藤吉隆(よしたか)と弟子の鏡忍房(きょうにんぼう)が殺害されてしまう。日蓮も左腕を折られ眉間に疵(きず)を負った(小松原法難(こまつばらのほうなん))。このような出来事の中で、この地域には日蓮に関する多くの伝説も生まれてきた。その後、鎌倉へ戻るが、50歳の時逮捕され佐渡流罪が決まる。途中、江の島近くの龍口(たつのくち)で斬首(ざんしゅ)されそうにもなった。53歳の時、流罪を許され鎌倉へ戻るが、身延に入山した。61歳の時、体調を崩していた日蓮は常陸国へ湯治に向かうが、武蔵国の池上宗仲(むねなか)邸に留り、10月8日に日昭(にっしょう)・日朗(にちろう)・日興(にっこう)・日向(にこう)・日頂(にっちょう)・日持(にちじ)を本弟子(六老僧)に定め、13日に入滅した。葬儀後、25日に遺骨が身延へ到着した。

(1)蓮華潭(れんげふち)

鴨川市小湊

日蓮の生家は地震で海中に沈んだが、大弁天・小弁天付近とされる。貞応(じょうおう
)元年(1222)2月16日の日蓮誕生時には、家の庭先に清水が湧き、渚に蓮華の花が咲き誇り、海中に鯛が群れ集まったといわれている。

(2)鯛の浦(妙(たい)の浦)

鴨川市小湊

日蓮の誕生時に鯛が群れをなした蓮華潭で、後年、日蓮が七字の題目「南無妙法蓮華経」を海へ投げると、海上に字が現れ、鯛が群集した。この一帯の鯛は日蓮の化身とされ、今も漁が禁じられている。

誕生水井戸

(3)小湊山誕生寺

鴨川市小湊183

建治2年(1276)、日蓮生家の地に日蓮の誕生と母梅菊の蘇生延寿(そせいえんじゅ)を記念して建てられた。明応7年(1498)の津波により流失。その後、現在地に再建された。境内で湧いた井戸水を、誕生水と名付けている。

(4)妙日山妙蓮寺

鴨川市小湊129-1

文永4年(1268)に日蓮の母梅菊(妙蓮)が亡くなると、日蓮は父重忠(しげただ)(妙日)の墓所に母の墓塔を建て、妙日山妙蓮寺と命名した。両親閣ともいわれる。境内に日蓮御手植えの廣布梅(こうふばい)や蘇生櫻(そせいざくら)の碑がある。

(5)岩高山日蓮寺

鴨川市内浦3094

文永元年(1264)、小松原法難(こまつばらのほうなん)をうけた日蓮は、天津領主工藤吉隆の家臣北浦忠吾(ちゅうご)・忠内(ちゅうない)兄弟にこの地へ案内された。疵を洗った湧水、身を潜めた岩屋がある。岩屋の砂を疵につけると痛みと出血が止まったといわれる。また、吉祥翁(きっしょうおう)に導かれ、岩屋に薬草を褥(しとね)として敷き、砂を傷口にあてて治療したという話もある。老婆お市が寒さ凌(しの)ぎと疵の養生にと、被っていた綿帽子(わたぼうし)を日蓮に差し上げたといわれる。

(6)日蓮の父、貫名(ぬきな)次郎重忠(しげただ)公(こう)流着の地

鴨川市内浦

昭和46年(1971)建立の石柱に、建仁3年(1203)に北条時政により当地へ流されたが、代官滝口兵庫朝家が世話をしたと記されている。

(7)東光山西蓮寺

鴨川市内浦1726

西蓮寺に伝わる伝説では、日蓮は寺の薬師の前に捨てられていた赤子で、薬王丸(薬師丸)と名付けられ、12歳まで養育されて清澄寺に上がったとされている。境内には日蓮の乳母(うば)雪女(ゆきじょ)の墓がある。

(8)光瑞山高生寺

鴨川市内浦544

建長5年(1253)、法華経こそが正法(しょうぼう)だと説くため清澄寺へ行く日蓮は、自分が殉じた時の両親の嘆きを思い、生家の方向を見返って涙した。その場所に中老僧日保が一宇(いちう)を建立した。その後、地震・津波により現在地へ移転している。江戸時代の寛延3年(1750)に鋳造(ちゅうぞう)された日蓮聖人像は、日蓮の銅像の立像としては日本最古である。

(9)朝日堂

鴨川市内浦

高生寺の元の場所。現在は山裾にある。中腹には狭い平坦地があり、文化12年(1815)に建立された法師の墓が祀られている。『日本の伝説安房の巻』にあるように誕生寺を真向かいに見渡すことができる。

(10)天津神明神社

鴨川市天津2950

日蓮は、遺文(ゆいぶん)の中で「昔は日本第二の御厨(みくりや)、今は日本第一なり」、「辺国なれども、日本国の中心のごとし」と記す。開宗後、妙法弘通(ぐづう)を天津神明神社に祈念し川向(かわむこう)の御本尊(曼荼羅(まんだら))を納めたといわれる。

(11)明星山日澄寺

鴨川市天津1850

日蓮が母を見舞うときに随行(ずいこう)した日澄が、清国寺(真言宗)の住職を論破し寺号を日澄にした。小松原法難で討ち死にした天津領主工藤吉隆の菩提を弔うため、寺は吉隆の館跡である現在地へ移転した。

(12)涕涙石(ているいせき)

鴨川市清澄

清澄寺は女人禁制のため母梅菊は善日麿(ぜんにちまろ)(日蓮の幼名)に女人堂で面会したが、修業の妨げになるので来ないように諭された。梅菊が堂の近くの石に座り、善日麿の無事を祈って涙したといわれる岩。

(13)千光山清澄寺

鴨川市清澄332-1

善日麿は天福元年(1233)に清澄寺に入山し天台宗を学び、嘉禎(かてい)3年(1237)に出家し名を蓮長と改めた。境内にある凡血(ぼんけつ)の笹の黒い点は、霊感を得たとき吐いた凡血といわれる。延暦寺などでの修業を終え、建長5年(1253)、故郷に帰った日蓮は、4月28日早朝、旭が森で太平洋から昇る朝陽に向かって題目を唱え、法華宗を立てることを宣言して日蓮と名を改めた。銅像は大正12年(1923)に建立された。

(14)光玉山多聞寺

鴨川市浜荻1145

文永元年(1264)、日蓮が鎌倉から安房への帰途、毘沙門天(びしゃもんてん)(多聞天(たもんてん))の変化(へんげ)した童子が、一夜の宿を提供するため住職に引き合わせて姿を消した。日蓮は住職や郷士(ごうし)北浦忠吾(ちゅうご)・忠内(ちゅうない)兄弟らを教化改宗させた。寺の宗派は天台宗から日蓮宗に、寺号は多聞寺に改められた。

(15)高祖(こうそ)大士(だいし)御疵洗(おきずあらい)井水(せいすい)之霊地

鴨川市浜荻

日蓮は北浦兄弟邸内の姥が池で、小松原法難での疵(きず)を洗い手当を受けた。池は明応7年(1498)の津波で埋もれたが改修され、疵洗い井戸として伝えられる。井戸の前に日蓮が腰掛けたとされる石がある。

(16)袈裟山掛松(けいしょう)寺

鴨川市広場1971

小松原法難のとき北浦兄弟が駆けつけ、ここで日蓮の袈裟を脱がし、路傍の松に掛けて介抱した。その後、この木は切られて日蓮の像を彫刻し当寺に安置された。袈裟掛けの松は植え継がれて4代目になっている。また、日蓮が法難直後に川のほとりにあった松に袈裟を掛け、長い一夜を過ごしたので、川は夜長川と呼ばれているなどの話がある。

(17)上人塚(しょうにんづか)

鴨川市広場

小松原法難での工藤吉隆殉教の地。日蓮は妙隆院日玉の法号を贈り、吉隆をこの地に葬った。後に、人々がこの地に塚を築いて上人塚と呼ぶようになり、鏡忍寺(きょうにんじ)住職日長は明和5年(1768)に碑を建立している。平成25年に小松原法難での死傷軍馬供養の馬頭観音碑が建立された。

(18)小松原山鏡忍寺

鴨川市広場1413

小松原法難で亡くなった鏡忍房(きょうにんぼう)と吉隆の霊を弔って、弘安4年(1281)に妙隆山鏡忍寺が建立された。後に小松原山に改めた。御法難堂は、日蓮が鏡忍房を葬り小松を植えて墓標とした場所である。降神(こうじん)の槇(まき)には、東条景信(かげのぶ)が再び日蓮に刀を振りかざすと、槇が煌(きら)めき法華経を守護する鬼子母神(きしぼじん)が現れ、景信が落馬したという伝説がある。

(19)花房山蓮華寺

鴨川市花房1236

清澄寺での立教開宗により、東条景信に追われた日蓮が逃れた寺。景信の見張りが緩むと、鎌倉遊説に先立って生家を訪ねた。父に妙日、母に妙蓮の法名を授け、自らは蓮長を改め日蓮と名乗ったという伝承もある。文永元年(1264)に父の墓参りと母の病気見舞のため故郷へ帰るが、工藤吉隆邸へ向かう途中、小松原で襲われ再び蓮華寺に逃れた。見舞いに来た旧師の道善房(どうぜんぼう)に法華経を信じるように諌(いさ)めたという。

(20)日蓮聖人御疵洗之井戸

鴨川市花房

蓮華寺への入り口の井戸で、日蓮が法難での傷を洗ったとされる。

(21)仁右衛門島

鴨川市太海浜445

神楽岩は、日蓮が朝陽を拝んで南無妙法蓮華経と唱えた岩とされる。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」 刑部昭一・金久ひろみ・殿岡崇浩>(2020.1.19作)
監修 館山市立博物館 〒294‐0036 館山市館山351‐2 ℡0470‐23‐5212

日蓮聖人とその伝説(内房編)

日蓮は貞応(じょうおう)元年(1222)、安房国長狭郡東条郷片海(かたうみ)の小湊に生まれたとされている。12歳で天津の清澄寺(せいちょうじ)に上り修業し、16歳で出家得度して是正房(ぜしょうぼう)蓮長と改名した。後、鎌倉に遊学して念仏宗や禅宗を研究し仏教の奥義を極め、衆生済度の正法(しょうぼう)は「法華経」の教えであるとの結論に達し、法華経の行者として一生を捧げる決意を固めた。建長5年(1253)、32歳の時、清澄寺の一角旭が森で「南無妙法蓮華経」を唱え、法華宗の開宗宣言を行い、法名を日蓮と改名した。日蓮は鎌倉の松葉谷(まつばがやつ)に庵室(あんしつ)を構え、「辻説法(つじせっぽう)」という新しい方法で法華経の布教に努め、伽藍(がらん)仏教から街頭仏教へと日蓮は大衆教化の道を開いた。正法を法華経とすべきだと北条時頼に進言したが用いられず、法敵として怒りを招き、小松原法難(こまつばらのほうなん)、龍口法難(たつのくちのほうなん)など数々の法難を受け諸宗批判の罪に問われ佐渡流罪となった。文永11年(1274)、日蓮は赦免されて鎌倉へ帰ったが、甲斐国巨摩(こま)郡の身延山に退隠し、著述と弟子の育成に努めることになる。弘安5年(1282)、日蓮は湯治のため常陸国へ向かう途中、武蔵国の池上宗仲(むねなか)邸で死を悟り、弟子の中から法華経の法燈を継ぐ六老僧を定めた。10月13日、滞在中の池上邸にて死去。享年61歳。日蓮が安房と鎌倉を行き来していた時代に立ち寄った安房の土地には、様々な伝説が残されている。

(1)乾坤山日本寺

鋸南町元名184-4(鋸山)

*石の堂
鐘楼堂からの上がり口に、「日蓮聖人の石の堂」という、昔日蓮が護摩(ごま)修行したという霊蹟が『安房誌』に紹介されている。

*風土かづら
「大仏の嶺石(みねいし)の辺りに見られる風土かづらは、水腫(みずぶくれ)を治す効果があるというので、土地の人たちに珍重されている。日蓮の教えたもう薬草」と『日本の伝説 安房の巻』に紹介されている。

(2)中谷山妙本寺

鋸南町吉浜453-1

本尊は十界曼荼羅(じっかいまんだら)。平安時代末に吉浜村の地頭佐々宇(さそう)家の側に法華堂があったという。日蓮が蓮長と称していた時、房州から鎌倉へ渡り京・奈良へ遊学の途次には必ず法華堂に立ち寄り参籠(さんろう)されたという。日蓮宗富士門流(ふじもんりゅう)の日郷が元徳年間(1329~1330)に、宗祖日蓮誕生の地を慕い房州に下り、保田の地頭佐々宇左衛門尉(さえもんのじょう)から法華堂の寄進を受け、建武2年(1335)に当寺を開創した。里見氏と北条氏の戦で多くの宝物を失ったものの、文和2年(1353)に宝蔵が落成するや総本山の身延から移された多くの日蓮真筆や日蓮等身木造坐像など日蓮にまつわる宝物が残され、年に一度虫払会(むしばらいえ)が催され保存されている。

(3)妙典台 鋸南町下佐久間

文永元年(1264)、日蓮は父の墓参りに鎌倉から安房へ来た時、妙典台で説法をした。人々は感激し、その地に瑞竜山妙典寺を建立した。現在は寺の跡もなく、地名に妙典台と残っているのみである。長年無住だった寺は、元禄元年(1688)に醍醐新兵衛が、勝山の土地を寄進して再建し、「醍醐山妙典寺」として名を残している。

(4)成就山妙福寺

南房総市富浦町南無谷(なむや)119

日蓮は伊豆の流刑が解けて父の墓参と母の見舞いに小湊へ戻った時、小松原法難(こまつばらのほうなん)に遭うが、身を隠しながらも房州各地で布教を行った。以前、鎌倉へ向かって船出した折、逗留した南無谷(なむや)に立ち寄ると泉澤権頭(ごんのかみ)太郎の老母の願いを入れ「妙福」の法号を授けた。弘安2年(1297)、太郎が身延山に日蓮を訪ねると、弟子に彫らせた日蓮の読経(どきょう)中の裸坐像と題目の掛軸を頂いたので、堂を建て安置した。後に、六老僧の一人日頂の弟子日念により成就山妙福寺と号する寺になった

(5)衣洗い井戸(血洗いの井戸)

南房総市富浦町南無谷(なむや)

泉澤権頭(ごんのかみ)太郎の老母が鎌倉へ向かう日蓮の衣を洗った井戸。着替えがなかったので日蓮は裸のまま読経した。妙福寺の北100m程の国道脇に「日蓮聖人衣洗い井戸」の看板がある。また、小松原法難での血の付いた衣を老母が洗ったので、血洗いの井戸という別名もある。

(6)南無谷(なむや)

南房総市富浦町南無谷


*南無谷の地名
南無谷は昔、泉澤と呼ばれる名の村であった。建長5年(1253)、鎌倉へ渡ろうとした日蓮は3日程、地元の豪族泉澤権頭(ごんのかみ)太郎の家に逗留した。これが縁となり文永元年(1264)再び泉澤家を訪れた日蓮は、泉澤家の人たちに熱心に法華経を説いた。やがて日蓮宗が村中に広まり、村の名が南無妙法谷(なむみょうほうや)村と呼ばれるようになったが、いつのころからか略して南無谷村になったという。

*和泉澤(いずみさわ)の名字
南無谷区には「和泉澤」という名字の家が多くある。日蓮が、地元の豪族泉澤権頭太郎の世話になった折、「人は皆、和を持って暮らさなければならぬ、あなたの名字に和を加えなさい」とすすめ、泉澤を和泉澤に変えたといわれている。

*角(つの)なしサザエと鮑(あわび)の恩返し
南無谷の磯には大きな角のサザエがいた。日蓮が鎌倉へ渡るため乗船する際、サザエを踏みつけ足にけがをしてしまうが、怒らず「サザエには、角の無い方がいい」と言った。サザエに罰があたり自慢の角はたちまち消えてしまったという。サザエに悩まされていた鮑はこれに感謝をして日蓮の乗る船に浸水するような穴を見つけると、その穴に吸い付いて塞いだそうだ。

(7)小三郎坂

南房総市富浦町豊岡

岡本(豊岡)から南無谷へ抜ける険しい崖道がある。あえぎながら登る日蓮を近在の漁師小三郎が背負って登ったという。この坂道を「小三郎坂」と呼ぶようになった。

(8)法華崎

南房総市富浦町豊岡

建長5年(1253)、日蓮は鎌倉での日蓮宗の布教を目指し、小湊から岡本(豊岡)の港へ来たが、風浪荒く乗船できなかったので、付近の丘陵に登り、海上安全・心願成就を祈ったところ、激しい風浪も収まったといわれている。現在「法華崎」と呼ばれている所がその場所であり、袈裟をかけたという「日蓮上人袈裟掛松」の碑が建っている。

(9)法輪山法蓮寺

館山市下真倉2487

文永元年(1264)の創立。日蓮が文永元年鎌倉から安房へ戻った時、三原郷(和田町)の地頭池田和泉守が、自分の館に日蓮を招いて7月29日から3日間の説法を願った。和泉守は日蓮に帰依(きえ)して入道し名を法蓮と改め、それまであった草庵を「法輪山法蓮寺」と改称したという。

(10)勝栄山日運寺

南房総市加茂2124

勝栄山日運寺の本尊は日蓮聖人。昔は勝栄坊という真言宗(天台宗という説もある。)の小堂で、日蓮が文永元年(1264)9月、小湊へ帰る途中このお堂に止宿した。当時の坊主(ぼうしゅ)であった勝栄坊行然(ぎょうねん)は日蓮の人徳と高説に敬服し、弟子となり日蓮宗に改宗したという。約300年後、里見の重臣正木時通(ときみち)と弟頼忠(よりただ)は元亀(げんき)2年(1571)に勝栄坊を再興し勝栄山日運寺と改めた。勝浦正木氏の菩提寺であり、頼忠は大檀那として寺領を寄進している。

*日蓮聖人御杖(おつえ)井戸
文永元年(1264)当地に立ち寄った日蓮は、周囲の農民から井戸水が悪くて飲み水に不自由していると聞き、自ら錫杖(しゃくじょう)で聖地を定め、掘ってみると清水がこんこんと湧き出たという。大正中期まで十王堂跡(現集荷場)にあったといい、大正大震災で水脈が変わったが、いかなる旱魃(かんばつ)でも水が枯れることがなかった。昭和8年(1933)頃に道路改修のため黒門(くろもん)跡前に移され、現在は境内に移転している。

(11)日蓮を救った鮑(あわび)

南房総市和田町小川

日蓮は『立正安国論』を著して幕府に献じ、諸宗を責め、幕政を批判したため、文永8年(1271)佐渡へ流罪となった。日蓮を乗せた小舟が佐渡へ向かう途中、荒れ狂う波のため船底の栓が取れてしまい、沈没を待つばかりとなった。こんな危機に日蓮が荒れ狂う海の海面にお題目を書くと、どこから現れたか大きな鮑が船底の穴をぴたりとふさぎ、浸水は止まって、日蓮は危うく難を逃れたという。日蓮を救った鮑の貝殻が、小川の日蓮宗妙達寺の檀家に保管されている。貝殻の内側には「南無妙法蓮華経」と刻まれていて、その家では家宝としてお祀りしているという。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」 刑部昭一・金久ひろみ・殿岡崇浩>(2020.1.19作)
監修 館山市立博物館 〒294‐0036 館山市館山351‐2 ℡0470‐23‐5212

弘法大師伝説を訪ねて

弘法大師の概要

弘法大師(こうぼうだいし)は宝亀5年(774)に讃岐国(さぬきのくに)(香川県)で生まれた。本名は佐伯真魚(さえきのまうお)、出家して「空海(くうかい)」と名乗り、死後「弘法大師」の名が醍醐天皇から贈られました。10代からさまざまな学問に秀でていて、19才頃から山林での修行に入りました。31才から2年間遣唐使(けんとうし)として唐へ留学し、43才の時に高野山を開き、50才の時には東寺を賜って真言密教の道場とし、高野山で835年に62才で没しました。高野山奥の院の御廟(ごびょう)では今も弘法大師が生き続けていると信じられています。故郷の四国では、修行した霊地が四国八十八ヶ所となり多くの人が霊場巡りをします。鎌倉時代から弘法大師の行跡(ぎょうせき)が絵巻物になり、その伝説が全国で語られるようになると、寺院を建立し、仏像を彫刻したのが弘法大師の行いという話になっていきました。弘法大師ゆかりの水の伝説は日本各地に千数百もあるということです。安房南部を中心に弘法大師伝説が多いのは、市内にある小塚大師(遍智院(へんちいん))の弘法大師信仰の影響と考えられています。

(1)日本寺の弘法大師伝説

鋸南町元名(もとな)

本尊は、木像の弥勒菩薩(みろくぼさつ)像で弘法大師作と伝わる。左側が弘法大師のお像。江戸時代の頃、当主が元名(もとな)村の遠代(とおしろ)の岩窟の中に祀られていた弥勒菩薩に子宝を願掛けし、成就(じょうじゅ)したお礼に自宅西側にお堂を建てお祀りしたという。昭和30年頃までは大勢の参拝客があり、武田石翁(せきおう)作の弥勒菩薩像版木で刷られたお札が渡されていた。

(2)篠原家の弥勒堂

鋸南町元名(もとな)

本尊は、木像の弥勒菩薩(みろくぼさつ)像で弘法大師作と伝わる。左側が弘法大師のお像。江戸時代の頃、当主が元名(もとな)村の遠代(とおしろ)の岩窟の中に祀られていた弥勒菩薩に子宝を願掛けし、成就(じょうじゅ)したお礼に自宅西側にお堂を建てお祀りしたという。昭和30年頃までは大勢の参拝客があり、武田石翁(せきおう)作の弥勒菩薩像版木で刷られたお札が渡されていた。

(3)太子山長福寺

南房総市上滝田

弘法大師が巡錫(じゅんしゃく)の折、上滝田に聖徳太子霊場があると聞き訪ね、余りにも小さい庵を嘆いて村人に再建を願った。完成を喜んだ大師は、大聖坊調伏寺(ちょうぶくじ)と名付けたという。後に太子山長福寺となった。

(4)小三郎坂の風邪大師

南房総市富浦町豊岡

小三郎坂という古道は、日蓮伝説で知られる法華崎(ほっけざき)にあり、豊岡と南無谷(なむや)の境になっている。豊岡側の登り口に「風邪大師」と呼ばれていた弘法大師像が祀られ、熱心に信仰すれば風邪をひかずに過ごせると言われていた。毎月1日と15日の縁日には大賑わいだったが、今ではすっかり忘れられひっそりと佇(たたず)んでいる。

(5)安房高野山八十八ヶ所霊場

館山市上真倉(かみさなぐら) 妙音院

妙音院は戦国時代の終わり頃に、里見義康が高野山から僧を招いて開創した。高野山金剛峰寺(こんごうぶじ)の直末(じきまつ)。八十八ヶ所霊場は、妙音院の裏山に88体の大師像を置いて巡拝できるようにした。明治28年(1895)、上総の前羽覚忍(かくにん)という老女の発願により、近隣の人々の浄財を受け、約2年の歳月をかけて奉納された霊場。霊場の出発点には出生門があり、1体ごとに「褌祝(ふんどしいわい)・女の大厄・男の前厄」など人生の節目が表現されている。この中の34番の「身代わり大師」は唯一の行者姿。88番は安房の彫刻師後藤義光の作品である。

(6)小網寺の弘法ヶ谷

館山市出野尾(いでのお)

真言宗の修行道場であった小網寺(こあみじ)の近くに、弘法大師修行の場として伝えられる弘法ヶ谷(こうぼうがやつ)という場所がある。ここには2つのヤグラがあり、左は高さ1.2mで奥壁に2基の五輪塔が浮彫りにされている。右は2基の五輪塔が据え置かれ、その中央には、右手に五鈷杵(ごこしょ)、左手に数珠を持った石造の弘法大師像が安置されている。文政11年(1828)に出野尾村と岡田村の人々が寄進したもの。ここは法華谷(ほっけやつ)とも呼ばれている。

(7)小塚大師と弘法大師像

館山市大神宮

小塚大師(曼荼羅山(まんだらさん)金胎寺(こんたいじ)遍智院(へんちいん))は815年の創立。安房地方の弘法大師信仰の中心で、関東厄除三大師のひとつ。他は西新井大師と川崎大師。大師がこの地に滞在した時、布良崎(めらさき)に鎮座する天太玉命(あめのふとだまのみこと)が現われ、衆生(しゅじょう)の災難除けのため霊木で大師の像を刻めと告げられた。大師は2体を刻んで1体をこの地に安置し、残る1体を海に流した。この1体が対岸の武蔵の海辺に流れ着き、漁師の網にかかったのが川崎大師のご本尊であると「遍智院縁起」は伝えている。本堂裏にある閼伽井(あかい)には、大師が法曼荼羅(ほうまんだら)を写していた時、井戸の底に金砂(きんさ)が湧き出でたと伝えられている。

(8)北竜の爪彫り地蔵

館山市竜岡(りゅうおか)

地蔵堂の本尊は崖に刻まれた陽刻の地蔵尊で、弘法大師が自分の爪で彫ったと伝えられている。岩屋地蔵とも呼ばれ、イボ取りの信仰がある。安房の百八地蔵巡りの第92番である。

(9)弘法井戸

館山市神余(かなまり)

昔一人の僧が物を請いに尋ねて来た。その家のおかみさんが請われるままに、ありあわせの小豆粥(あずきがゆ)を出した。塩気がないことを僧に問われると、「家が貧しくて塩を買うことが出来ない」と答えた。僧が小川のほとりへ行き錫杖(しゃくじょう)を突き立てて念じ、杖を抜くと塩気を含んだ霊水がほとばしった。この旅僧こそ弘法大師であったという伝説。土地の人はその日を記念して井戸水で小豆粥を作り供えるのを行事としてきた。別名塩井戸。

(10)青木の芋井戸

南房総市白浜町白浜

ある老婆が芋を洗っていると、旅の僧が「芋を分けてもらえないか」と尋ねた。老婆は芋を惜(お)しみ「この芋は石にように固くて食べられない」と答えた。老婆が家に帰って芋を煮て食べようとすると、石のように固くなっていた。怒った老婆が芋を道端に捨てると、そこから清水が湧き出て芋は芽を出した。驚いた老婆はその後旅の僧が弘法大師と知り、改心したという話。

(11)三ッ山地蔵

南房総市千倉町白間津(しらまづ)

弘法大師が白間津巡錫(じゅんしゃく)中に、孝行息子が病弱の父親に鮑(あわび)を食べさせたいと採りに行き亡くなったという話を聞いた。大師はこのような惨事が二度と起こらないようにと、海の見える真間(まま)の岩山中腹の岩窟に地蔵菩薩像を彫り護摩修行をしたという伝説がある。1・5・9月の24日のご開帳には、大勢の参拝がある。

(12)忽戸の灰汁井戸

南房総市千倉町忽戸(こっと) (見学不能)

昔から近隣住民に親しまれた洗濯井戸(灰汁(あく)井戸)で、一年中水量・水温が変わることなく、汚れが真っ白に落ちた。昔一人の旅僧が一夜の宿を求めたところ、大変温かく歓待された。翌朝、家人が冷たい水で洗濯しているのを見た僧が、お礼にと原の中程をトントンと叩くと暖かい水が流れ出た。その僧こそ弘法大師だったと伝わる。昭和50年代半ばまで使われていた。

(13)安房国八十八ヶ所霊場

弘法大師の遺跡を巡る四国八十八ヶ所霊場を写した、安房国八十八ヶ所霊場がある。天正1年(1582)に頼長(らいちょう)という高僧が、遠方の四国八十八ヶ所霊場を巡拝できない老若男女の後生安楽(ごしょうあんらく)を願う希望にこたえ、安房国に霊場の「うつし」をつくったという。安房国内の札所は、1番が旧白浜町の紫雲寺から始まり、88番旧白浜町の法界寺まで、旧白浜町5・館山市29・旧三芳村6・旧富浦町2・旧富山町5・鋸南町3・鴨川市17・旧丸山町6・旧和田町5・旧千倉町10か寺が定められている。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・鈴木以久枝 2019.12.9作
監修 館山市立博物館  〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-521

館山市に残る関東大震災の記念碑と痕跡

関東大震災とは

 大正12年(1923)9月1日11時58分、関東南部を襲った地震の震源は相模湾中央部で、マグニチュード7.9。震源域とみられる海底で最大160mの隆起、180mの陥没があり、陸地では房総半島南部・三浦半島南部・相模湾岸などで2mを越える隆起、丹沢山地などでは逆に沈下がみられ、各地で山崩れ、地割れが発生した。関東全域と静岡、山梨に地震火災の被害があり、全体で焼失戸数212,000戸余り、死者・行方不明者105,000人余、罹災(りさい)人口340万人余、とくに東京の被服廠(ひふくしょう)跡地だけで32,000人が焼死した惨事であった。

 津波の高さは静岡県熱海で6m、千葉県相浜で9.3m、洲崎で8m、神奈川県三浦で6mに達している。鎌倉由比ヶ浜では局地的に9mに達し、逗子・鎌倉・藤沢の沿岸では5m~7mの津波が到達した。隆起は、北条・館山沿岸で約1.8m(6尺)、高ノ島約2.1m(7尺)、沖ノ島約2.4m(8尺)、富崎・西岬約2.4m、船形約1.5m(5尺)、白浜・和田約1.2m(4尺)、鴨川約0.9m(3尺)と記録されている。房州の津波被害は、震源地の相模灘に面する富崎村(館山市相浜・布良)が最も大きかった。

 千葉県では、全壊13,767戸、半壊6,093戸、焼失431戸、死者行方不明者1,346人の被害があり、安房郡では全壊10,808戸、半壊2,423戸、焼失424戸、死者行方不明者1,206人の被害が出た。館山市内では、全壊5,935戸、半壊878戸、焼失417戸、流失71戸、死者727人、負傷者1,884人で、全壊・半壊は九重村で93%、館野村97%、那古町99%、船形町98%、北条町97%、館山町99%にも達していた。千葉県の死者数のうち90%が安房郡、館山市内だけで県全体の54%を占めており、館山市の被害の大きさがわかる。

(1)船形港の安政突堤

館山市船形1133 高尾造船工業㈱横

 大地震にともなう隆起で、全体が地上に露出した安政2年(1855)築造の突堤。旧船形港西端の岩礁先に、砂岩質の凝灰岩(ぎょうかいがん)を積み重ねた約85mの堤(つつみ)が残る。築かれた当時、下部は水面下にあって船を寄せることができた。現在の上部幅約2.7m、地上高2.5m余。なお、私有地のため立ち入りは不可。

(2)正木諏訪神社の震災「復興記念碑」

館山市正木4294

 関東大震災では当社も社殿が倒壊し、氏子たちはすぐに社殿再建をはじめた。県からの補助金も受け、大正15年に起工、昭和2年(1927)に落成し建碑した。書は元長尾藩士の熊澤直見(なおみ)。

(3)鶴谷八幡宮の「震災復旧工事竣成記念碑」

市内八幡68

 撰文・題字は安房神社宮司の稲村真里(まさと)によるもの。碑文は当八幡宮の由緒、例祭の様子に続き、関東を襲った大震災によって当社も社殿が被災し、復旧工事が行われたことを記している。後世に伝えるため13回忌の昭和10年(1935)に建碑された。

(4)-1 北条浜新田の震災記念観音堂

市内北条 中村公園南側

 明治後期に設立された善導会館(現菜の花ホール)に併設されていた観音堂が、大正14年(1925)の安房国札(くにふだ)観音巡礼の際、新設の35番震災記念観音堂となった。御詠歌は震災で孫を亡くした万里小路通房(までのこうじみちふさ)伯爵が制作。昭和2年(1927)に延命寺の佐々木珍龍が、震災死者の冥福のため本堂再建を企画し、佐渡で日蓮上人縁(ゆかり)のご神木で親松佛巌(おやまつぶつがん)仏師が制作した5mの現本尊が昭和3年(1928)に招来(しょうらい)された。昭和8年(1933)頃に駅前の日東交通の地に本堂を建設。昭和20年代に駅前から現在地へ移転した。

(4)-2 反省地蔵尊

館山市北条1547 中村公園南側

 関東大震災の翌年7月に災害時に狼狽(ろうばい)しないための準備はしてあるかという反省のために、佐々木珍龍と安房倶楽部の音尾松蔵を中心に建設が計画された。本尊の地蔵尊は安房の彫刻家戸村誠治の作。地蔵堂前の線香立ては、昭和2年(1927)俵光石(こうせき)の制作。

(5)北条神明神社の「御下賜金紀念樹」碑

館山市北条1119

 北条町は1700戸のほとんどが倒壊し、死者230人、負傷者1300人余の惨事となった。心を痛められた天皇陛下から被災民へ1000万円が下賜(かし)されたことを感謝し、北条町の北町(きたちょう)一同は檜(ひのき)10本を植樹した。碑の脇に二代目が植樹されている。

(6)上真倉神明神社の「震災紀念」碑

館山市上真倉1819

 大正12年9月1日の「震災紀念」碑は豊房村の第3代村長鈴木周太郎の書。裏に区長などの名が連なっている。震災の被害をいつまでも忘れないようにとの思いで建てたのであろう。

(7)沼天満神社の「御下賜金記念碑」

館山市沼1160

 関東大震災の罹災(りさい)者に対する天皇陛下から沼区への御下賜金1,456円の伝達式が、大正12年12月13日当社に於いて行われ、記念として柏・槇(まき)・月桂樹等の植樹をしたと記された碑。

(8)柏崎国司神社の「大震災御下賜金記念碑」

館山市沼931

 裏面に柏崎での被害状況などが刻まれている。天皇陛下から勅使(ちょくし)が派遣され慰問の言葉とお手元金の下げ渡しに感謝し、区民一同が御恩を忘れず後世に伝えるためにこの碑を建てた。下段には震災直後に活動した功労者たちの名が刻まれている。

(9)鷹島弁財天の「大正地震記念碑」

館山市館山1562

 題字は貴族院議長徳川家達(いえさと)公爵、撰文は千葉県知事元田敏夫。この碑は安房郡全体の記念碑で、郡内43町村の被害状況や復興支援などの様子を詳細に記し、安房郡震災復興会を組織して官民一体で復興に努力したことなどが刻まれている。4回忌にあたる大正15年9月に建てられた高4.4mの巨大碑である。

(10)見物海岸の地震段丘

館山市見物764 公衆トイレ前

 見物海岸は、砂浜と海岸段丘(だんきゅう)が繰り返すとても綺麗な海岸である。複数の海岸段丘が一目で見られる地形は非常に珍しく、元禄時代の地震と関東大震災による隆起でできたものである。最低位の段丘は大正地震により隆起・離水した平坦面で、大正ベンチと呼ばれている。その上の段丘(元禄段丘面)は沼Ⅳ面と呼ばれる。

(11)洲崎神社の「敬神風化之碑」

館山市洲崎1697

 関東大地震と昭和11年(1936)の大津波で破壊された社殿や港の再建を、信仰心の篤い住民たちが一体となって成し遂げたことを記念した碑。日本精神の真髄を示し教本にもなりうるので後世に伝えようと、敬神の精神を讃えている。題字は玄洋社社主頭山満(とうやまみつる)、撰文と書は明治大学教授の藤沢衛彦(もりひこ)。裏面に歌浦靖城の書で発起人と漁業組合員の名が刻まれている。昭和12年(1937)の建立。

(12)布良崎神社の「満井武平頌徳碑」

館山市布良379

 富崎村村長満井(みつい)武平の顕彰碑。関東大震災で幸いにも布良は倒壊家屋も死者もなかったが、2.4mの隆起で港に船が出入りできずに、漁業に支障が出て生活は困難を極めた。大正15年(1926)に漁港の復旧事業を遂げた武平に対し、村民が謝意を捧げた碑である。

(13)岡田八幡神社の「震災記念」碑

館山市岡田164

 悲惨を極めた大震災での豊房村の被害は、住宅全壊316戸、半壊204戸、死者33人、負傷者10人というなか、全壊21戸だった岡田区の被害は「軽く真(まこと)に天佑(てんゆう)であった」と書いている。天皇陛下の御下賜金で復興したことを感謝した碑。

(14)下真倉日枝神社の震災「御下賜記念碑」

館山市下真倉1

 3回忌にあたる大正14年(1925)9月1日の建碑。裏面に下真倉区の被害状況が書かれ、区内105戸の内全壊79戸、半壊13戸、死者4人、負傷者が9人の被害だった。天皇陛下から下賜された金一封に感謝して、区民がこの事を永遠に伝えるため建碑した。

(15)安布里源慶院の「再建新命碑」

館山市安布里647

 天正年間(1573~1592)に里見義弘の娘佐與(さよ)姫により創建され、のち古屋敷より現在の地に移ったという曹洞宗の寺院。関東大震災で本堂などが倒壊し、昭和7年(1932)に再建修理がなされた。昭和12年(1937)に完成記念で建てられた碑である。

(16)安東熊野神社の「大正大震災」記念碑

館山市安東564

 4回忌の大正15年9月1日に、九重村の安東区青年団が建てた。安東区は全戸数49戸の内全壊47戸、半壊1戸、住宅でないものを含むと全壊64棟、半壊37棟とある。死者は6人だった。皇室からの救恤(きゅうじゅつ)金の下賜や、全国からの慰問品が届いた。安東区には恩賜(おんし)金420円、義援金466円、給与金1385円が届き、皇室や全国の人々への感謝の気持ちを永遠に伝えるために建碑された。

(17)腰越延命院の「大正十二年大震記念」碑

館山市腰越509-1

 「大きな震えに見舞われ、山は崩れ家屋は悉(ことごと)く倒れ、人が死に負傷した。天皇陛下は御下賜金を賜いこれを救った。」と記される。館野地区腰越の在郷軍人会と青年団一同が、追悼のために大正13年の一周忌に建てた碑。この記念碑の左に倒れている大きな岩は、露頭(ろとう)の岩の基礎部が地震により折れて倒れたものである。

(18)延命寺断層

南房総市本織2014-1 延命寺前

 関東大地震により生じた最大の断層(だんそう)。南房総市本織(旧三芳村)の延命寺丘陵を中心として生じたので命名された。館山市江田の水田地帯を含む府中北部から中の大沼に至る延長約4㎞の断層である。80余年を経た現在、圃場(ほじょう)整備や道路工事などで表面的には痕跡を止めていないが、わずかに本織字稲荷森(とうかんもり)の山中に見られ、「南房総市指定天然記念物(自然遺跡)」として保存されている。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
川崎一・鈴木正・山杉博子・吉村威紀 2019.11.26作
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

房州と江戸・東京を結ぶ文化財(市内南部)

このシリーズでは、かつて安房地方や館山市が江戸・東京と海路で結ばれていたことを物語る文化財を紹介しています。水産物を中心に房州の産物が取引されていたことを背景にした神仏への奉納物や、江戸・東京へ出て成功した房州の人々やその交流を背景にした江戸職人の製作物など、痕跡は数多くみられます。それらの文化財ついて館山市内を3エリアに分けて紹介しました。市内湾岸北部エリア館山平野部エリア・市内南部エリアを合わせてご覧ください。

(1)館山神社(館山)の手水石<拝殿前>

館山神社文化財マップ参照

 館山新井浦出身の錦岩(にしきいわ)浪五郎(本名:森紋次郎)が、江戸で大相撲力士となり、文政9年(1826)の十両昇進に際して新井浦の諏訪神社に奉納したもの。錦岩浪五郎は文化14年(1817)に霧の海と名乗り江戸大相撲に登場し、文政5年(1821)の三段目の時、錦岩浪五郎と改名した。文政7年(1824)幕下へ昇進、文政9年(1826)に十両へ昇進した。天保5年(1835)の引退後には新井浦の廻船問屋として海運業で活躍している。慶応3年(1867)に没し、墓は長福寺新井霊園にある。

(2)館山神社(館山)の手水石<末社稲荷社>

館山神社文化財マップ参照

 館山各町内の石宮がならぶ一角の手水石は、文政3年(1820)に地元の庄司仁兵衛・中山勇助らによって奉納されたもの。裏には江戸領国の石工滝口某が作ったという銘文が見られる。

(3)館山神社(館山)の槙の植樹記念碑

館山神社文化財マップ参照

 元は江戸深川の鈴木某が願主として寄進した鳥居だったもので、貫(鳥居の横の柱のこと)を差し込んでいた穴が見られる。関東大震災後の館山神社合祀創建にあたって、昭和2年(1927)に楠見(くすみ)区の厳島神社から3本の槙を植樹し、震災で破損していた鳥居を記念碑として使用した。2基で一対であり、社殿に向かって右側の「奉」とある碑は平成18年(2006)の祭礼で破損し再建されたもの。左側の池際の碑は移植当時のままで正面に「献」と刻まれ、裏には植樹にかかわった楠見区の人々の名が刻まれている。「奉献」は鳥居の痕跡である。

(4)北下台(館山)の関沢明清碑

北下台文化財マップ参照

 明治期の水産官僚で、近代水産業の先駆者として捕鯨や遠洋漁業などに功績を遺した関沢明清(あけきよ)の記念碑。大日本水産会の会頭・彰仁親王の篆額(てんがく)、同会長(初代幹事長)品川弥二郎の撰文(せんぶん)、日下部東作の書で、東京駒込の石工・井亀泉(せいきせん)が製作した。日本水産会の重鎮や地元有志21名が発起人となり、明治33年(1890)に建てられた。

 関沢明清〔天保14年(1843)~明治30年(1897)〕は加賀藩士で、幕末の江戸で大村益次郎らに蘭学・航海術を学んで渡英している。その後も政府官僚としてウィーン万国博覧会等を視察して、日本の水産業振興策の重要性を痛感し、アメリカ式近代捕鯨やサケ・マスの人口ふ化、缶詰製造法を日本へ導入した。また、明治22年(1889)に水産伝習所(現東京海洋大学)を開き、水産教育を実践している。以来現在に至るまで館山が実習所である。その後、自ら館山に居住し関沢水産製造所を設立、勝山の捕鯨船団・醍醐新兵衛と組んで捕鯨や遠洋漁業の事業を興した。伝習所裏山の北下台(ぼっけだい)に建碑されている。

(5)三福寺(館山)の新井文山の墓碑

三福寺文化財マップ参照

 新井文山は江戸林家塾で学んだ幕末の儒学者。館山新井浦に生まれ、幼少の時より三福寺住職や地元柏崎の素封家鈴木直卿に学問の指導を受け、14歳の時住職の援助で江戸へ出て儒学を学んだ。28歳で帰郷して私塾を開き、地域の教育に力を注いでいる。天保7年(1836)、館山藩主稲葉公に仕えて、天保13年(1842)には目付兼郡(こおり)奉行となった。嘉永4年(1851)に73歳で没した。碑は嘉永6年(1853)、昌平黌(しょうへいこう)教官佐藤担(たいら)の撰文で、房州保田の石工武田石翁(せきおう)の製作である。裏参道に文山夫妻の墓がある。

(6)三福寺(館山)の俵三石作釈迦三尊像

三福寺文化財マップ参照

俵三石は東京美術学校彫刻科の高村光雲のもとで学んだ石彫家。慶応4年(1688)、館山楠見浦の石屋に生まれ、明治24年(1891)頃上京。明治27年(1894)に同校の石彫教場助手に任命されて教官となったが、明治30年(1897)頃には館山へ戻り家業の石屋を継いだ。寺社に狛犬、不動明王、地蔵半跏像(はんかぞう)など優れた作品を残しているが、三福寺境内の釈迦三尊像や酒樽型の墓は有名である。

(7)慈恩院(上真倉)の関西商人座古屋墓地改修之碑

慈恩院文化財マップ参照

 江戸中期に新井浦で、押送船(おしょくりぶね)7艘で鮮魚輸送を請け負った館山の代表的な魚商人である。当時の魚商人は干鰯(ほしか)や鮮魚の仲買を営み、江戸に魚問屋を起業するなどして、江戸100万人の消費を支えていた。当家の座古屋(ざこや)清五郎は江戸開府に当たり、摂州座古多村(大阪市西区カ)から房総へ進出した関西商人の一人とされている。

(8)海南刀切(なたぎり)神社(見物)の狛犬

なたぎり神社文化財マップ参照

 見物村の若者中で天保10年(1839)に奉納したもの。楠見浦の石工田原長左衛門とともに江戸京橋石川橋の彫工・兼吉が共同製作した。

(9)諏訪神社(波左間)の狛犬

光明院と諏訪神社文化財マップ参照

 昭和2年(1927)に波左間漁業組合や東京・横浜の商店が奉納したもの。奉納者のひとり「八丁幸商店」は横浜市場の仲買人で、現在の「ヨコレイ(横浜冷凍株式会社)」である。波左間の喜久丸の池田家から婿を迎え、当時製氷業で繁盛した。屋号(?(かさじゅう))は魚のブランドとなり高値で売買されたためニセモノがたくさん出回った。

(10)諏訪神社(波左間)の手水石

光明院と諏訪神社文化財マップ参照

 江戸日本橋本船町の魚問屋伊豆屋善兵衛が、弘化2年(1846)に奉納した。漁村だった波左間と取引があったのだろう。「灌水」の文字を書いた神通(じんつう)は富山藩士の殿岡北海といい、江戸で国学者清水浜臣に学んだ書家である。慶応元年(1865)の没。

(11)八坂神社(伊戸)の狛犬

 伊戸村の網元・吉田角右衛門が元治元年(1864)に奉納したもの。江戸の石工・七右衛門に注文して造らせた。伊戸村は江戸時代から明治にかけて、漁業で栄えていた。

(12)照浪院(坂足)の手水石

歴史探訪マップ伊戸坂足参照

 江戸日本橋の魚問屋米屋嘉兵衛が、寛政10年(1798)に奉納したもの。かつての照浪院(しょうろういん)は、波切不動として漁師たちから大漁・海上安全にご利益があるとして信仰を集めていた。

(13)相浜神社(相浜)の石灯籠

歴史探訪マップ相浜布良参照

 江戸芝金杉の魚問屋須原屋喜兵衛・和泉屋三良兵衛、江戸深川の多田屋又兵衛・水戸屋次良右衛門・和田屋七良兵衛が、文政13年(1830)に奉納したもの。純漁村の相浜村と取引があったのだろう。石工は館山楠見浦の田原長左衛門である。

(14)香取(かんどり)神社(相浜)の石垣

歴史探訪マップ相浜布良参照

 石垣寄付記念碑は、東京日本橋の魚河岸米喜・尾佐・米久・角米・伊豆魚等20名の魚商が、明治32年(1899)に石垣を奉納した際のもの。現在も石垣の一部が残されている。

(15)布良崎神社(布良)の石灯籠

布良崎神社文化財マップ参照

 江戸日本橋蔵屋敷の米谷久七、地元網元の豊崎藤右衛門・橋本権右衛門、船大工、帆屋などが元治元年(1865)に奉納したもの。日本橋川は水運の要路で、房総・伊豆からの新鮮な魚介類を運んでくる押送船(おしょくりぶね)で賑わい、全国からの廻船も入って幕府や江戸市中に物産が供給される重要な場所だった。房州屈指の漁村である布良村も押送船の基地だった。石工は神余の権四郎と滝口の松五郎・竹二である。

(16)小網寺(出野尾)の銅造地蔵菩薩坐像

小網寺文化財マップ参照

 観音堂前の銅造地蔵菩薩坐像は、江戸神田の鋳物師(いもじ)多川薩摩の鋳造である。安永2年(1773)の策で、総高270cm、像高188cm。明和9年(1772)に本堂・仁王門等の再建にあわせ、神余村出身の僧宗真が寄進したもの。台座に当寺住職26世の隆澄(りゅうちょう)が、発起人宗真の尽力を讃えるとともに小網寺再建の経緯を記している。

(17)大円寺(大戸)の山下楽山の碑

歴史探訪マップ大戸長田参照

 江戸で開業した医師。江戸で中川法印に内科を、渡部吉郎に外科を学び、その後京都へ行き賀川光崇に産科を学んだ。父は館山藩侍医(じい)で山下村の山下玄門。碑は楽山の23回忌に子供の安民(やすたみ)が母の地元に建立した。安民は千葉師範学校の教授だった。題額は勝海舟。書は下総の村岡良弼(りょうすけ)、石工は東京駒込の井亀泉(せいきせん)(酒井八右衛門)。


作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・鈴木以久枝 2019.2.2作
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡:0470-23-5212

房州と江戸・東京を結ぶ文化財(館山平野部)

このシリーズでは、かつて安房地方や館山市が江戸・東京と海路で結ばれていたことを物語る文化財を紹介しています。水産物を中心に房州の産物が取引されていたことを背景にした神仏への奉納物や、江戸・東京へ出て成功した房州の人々やその交流を背景にした江戸職人の製作物など、痕跡は数多くみられます。それらの文化財ついて館山市内を3エリアに分けて紹介しました。市内湾岸北部エリア・館山平野部エリア・市内南部エリアを合わせてご覧ください。

(1)新塩場(北条)の南寿庵

 館山は明治・対象時代から保養地や海水浴場として利用され、勝れた景色、温暖な気候、素朴な人情風俗に魅かれ来房する人が多かった。明治11年(1878)に東京からの汽船が館山へ就航し、大正8年(1919)に安房北条駅まで鉄道が開通、大正13年(1924)夏には震災後の観光客誘致も再開し、別荘を持つ人も急速に増えた。南寿庵は東京電灯株式会社社長の永橋剛一郎の別荘として、大正12年(1923)12月に、土地所有者で大工の辰野銀次郎により、二階建てヒノキ造りの和風建築として建てられたものである。

(2)金台寺(北条)の本田存(ありや)先生の墓

金台寺文化財マップ参照

 群馬県館林生まれで、水府流太田派の水泳を極め、柔道は講道館八段の師範である。当初は東京高等師範学校の生徒を率いて来房し、のち30余年間北条に住んで、阿波中学校をカッパ中学と称されるまでに育てた、房州の水泳・柔道の開祖である。昭和24年(1949)、北条海岸の東京高師学校寮(現筑波大学北条寮)で没した。79才。泡水泳倶楽部・安房柔道有段者会・茗渓会(めいけいかい)(東京高師OB会)により、金台寺へ分骨埋葬された。お墓は本堂裏の井戸近くにある。

(3)金台寺(北条)の伯爵万里小路通房の子供の墓

金台寺文化財マップ参照

 万里小路通房(までのこうじみちふさ)は明治23年(1890)に明治天皇の侍従を退官して北条に別荘を構え、ほとんど北条で過ごした伯爵。農業に関心を持ち、明治27年(1894)には耕地を習得し、農業の指導者を読んで野菜の促成栽培を進めた。また安房大道会などで青年の社会教化活動にも取り組んだ。金台寺近くに屋敷があり、その間に没した子供たち<通守(明治29年(1896)没)・津由子(明治35年(1902)没・多美子(明治41年(1908)没>の墓がある。

(4)大巌院(大綱)の雄譽霊巖の墓

大巌院文化財マップ参照

 檀蓮社雄譽霊巖(おうよれいがん)松風上人は浄土宗の中興の祖で、全国的に活躍した高僧。諸国を巡行し、房州では里見氏のもとで大巌院を創建した。のち房総はもとより全国的な海上交通の要所である日本橋近くの霊岸島に霊巌寺を建立している。将軍家の命により寛永6年(1629)に浄土宗総本山の京都知恩院32世となり、寛永18年(1641)に88歳で没した。遺骨は所縁の寺々に分骨されている。

(5)大巌院(大綱)の四面石塔

大巌院文化財マップ参照

 四角柱の石塔で雄譽(おうよ)上人が建立した。玄武岩製で高さは219cmある。北西東南面にそれぞれインドの梵字(ぼんじ)、中国の篆字(でんじ)、朝鮮のハングル、日本の和風感じで、「南無阿弥陀仏」と刻まれている。ハングル文字は15世紀半ばに制定された初期の字体で、現在は使用されておらず、韓国でも極めて貴重なもの。建立した元和10年(1624)は文禄の役(秀吉の朝鮮出兵)から33回忌にあたり、雄譽上人と寄進者の山村茂兵が戦没者供養のため建立したとの考え方がある。

(6)大巌院(大綱)の石灯籠

大巌院文化財マップ参照

本堂前の石灯籠は、雄譽上人の書で「南無阿弥陀仏」と刻まれ、左塔は元和10年(1624)に弟子の霊譽(れいよ)上人が、右側は翌寛永2年(1625)に孫弟子の光譽(こうよ)上人が建立した。

(7)大巌院(大綱)の鈴木家歴代の墓誌

大巌院文化財マップ参照

 鈴木家は里見家の家臣の家柄と伝えられ、江戸中期から7代にわたる医家であった。5代正儀(まさよし)は江戸昌平黌や大田錦城の門で儒学を学んだ。医術は古医学・蘭方を学んで館山へ戻り、医者を継いでいる。6代東海は正儀の二男で、江戸の医師坪井信道に蘭学と蘭方医学を学び、その後石土生玄碩(はぶげんせき)(シーボルトに眼病治療法を学ぶ)にも学んで館山へ戻り、医者を継いだ。江戸の儒者や漢詩人等と交流を持ち、医業の傍ら子弟に漢籍を教授していた。7代抱山(1833~1898)は正儀の三男で、江戸の佐藤商に奉公したのち、叔母の世話により医師伊東玄晁(げんちょう)(江戸種痘所を開いた伊東玄朴(げんぼく)の高弟)に師事、その代診をするほどになったという。22才で帰郷し医者を継いだ。その後医業の傍ら子弟の教育にあたるとともに、江戸の文人墨客が来訪して交流を重ねた。

(8)金乗院(山本)の高木氏族譜碑

歴史探訪マップ安布里山本参照

 山本村の医師高木敏(とし)(周岱(しゅうだい))が旧高木一族の系譜を刻んだもので、安政3年(1856)の建碑。題額は江戸の戸川安清(やすずみ)書は小島知足(ともたり)による。戸川安清は長崎奉行や勘定奉行を歴任した旗本で、篆書(てんしょ)・隷書(れいしょ)を得意とする書の達人であり、14代将軍家茂の書の師範であった。小島知足は備後国福山藩士で儒者。藩主阿部正弘が老中として将軍の命でロシアに返書をした際に清書し、書家として名声が高かった。

(9)国分寺(国分)の三名主の碑

国分寺文化財マップ参照

 江戸時代の農民一揆「万石騒動」で犠牲になった三人の名主(三義民)の顕彰碑で、撰文と篆額は文学博士の細川潤次郎(じゅんじろう)、署は諸井春畦(もろいしゅんけい)。明治43年(1910)に200回忌で建碑された。細川潤次郎は土佐藩士で、藩主山内容堂の侍読(じどく)及び藩校教授として洋学を教えた。維新後は明治政府に出仕して元老院議官や女子高等師範学校長を務めている。「法律起草のエキスパート」で、刑法・陸海軍刑法・医事法・薬事法起草の中心となった法律家として知られる。明治27年(1894)に安房への公務出張中に「万石騒動」の歴史を知り、後にその事績を公刊した。諸井春畦は埼玉県出身で、書の大家である西川春洞に学び書家として大成した人物である。

(10)国分寺(国分)の伴直家主の碑

国分寺文化財マップ参照

 『続日本後記』に孝子として記される伴直家主(とものあたいやかぬし)を顕彰した石工の武田石翁が、国分寺境内に家主の両親の墓碑として嘉永4年(1851)に建碑した。篆額は大納言日野資愛(すけなる)・書は道本賢壽(どうほんけんじゅ)である。賢壽は京都地積院に40年在山し、佐渡の蓮華峰寺(真言宗三大聖地)を経て、江戸浅草大護院住職となった僧で、雄渾な書きぶりの能書家として知られる。石翁は多くの文人と交流をもったことでも知られる。

(11)孝子塚(国分)の伴直家主の碑

歴史探訪マップ国分滝川参照

 伴直家主(とものあたいやかぬし)の事蹟は、勅撰の正史に記載されているにもかかわらず、地元では殆ど忘れられていたが、天保10年(1839)頃に武田石翁がその墓を発見して孝子塚と名付け、嘉永3年(1850)になって碑が建てられた。篆額は日野資愛(すけなる)の揮毫で「孝子家主之碑」と題され、本文は加藤霞石(かせき)の筆で『続日本後記』の文を書いてある。日野資愛は江戸後期の公卿で、皆川淇園(きえん)に儒学を学び、詩文や和歌にも優れた。加藤霞石は安房平久里(へぐり)中村の医師で、漢詩人。詩文や書に優れ、その住まいには大沼枕山、梁川星巖等の文人が来訪した。

(12)杉間堂(広瀬)の唱題一千部之塔

歴史探訪マップ腰越広瀬参照

祖師堂前にある唱題一千部之塔は、相模西浦賀の人がかかわって、日蓮の六百遠忌の報恩のため明治12年(1879)に建立された。基壇に記された名前の並びから、この人は海発村(南房総市)出身の可能性が高く、東京湾をまたいだ信仰が感じられる。

(13)手力雄神社(大井)の手水石

手力雄神社文化財マップ参照

 文政9年(1826)に白子村(南房総市)の人達が寄進した手水鉢は、深川(東京都江東区)の石工露崎長兵衛が製作した。江戸には干鰯(ほしか)問屋があり深川には干鰯揚場(あげば)があったことから、深川の富岡八幡宮境内には、干鰯問屋の久住(くすみ)屋へ納めていた干鰯の仕入中が、文政7年(1824)に奉納した手水鉢がある。そこにはかつて「仕入中」として「房州白子浦 酒屋與兵衛」の文字があったといい、その名は手力雄神社の手水鉢にもある。江戸時代後期には白子村に干鰯場があった。

(14)手力雄神社(大井)の石井氏碑

手力雄神社文化財マップ参照

 明治30年(1897)に建立された手力雄神社神官石井昌道(まさみち)(1818-1896)の顕彰碑である。昌道は江戸の昌平校に学び、志士たちと交わって勤皇の志を抱いたという。安房地域の医師で詩人鱸松塘(すずきしょうとう)、高木抑斎(よくさい)との交流や、海防論を書いた医師高木周岱(しゅうだい)と慶應4年(1868)に治安維持の勤皇隊である「房陽神風(しんぷう)隊」を結成したことが載る。隊員は90名程で、半数は神職・医師・名主で安房全体に広がっていた。明治2年(1869)に隊が解散すると、昌道は教育者として活躍した。


作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
青木悦子・刑部昭一・鈴木正・殿岡崇浩 2019.2.16作
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡:0470-23-5212

房州と江戸・東京を結ぶ文化財(湾岸北部)

このシリーズでは、かつて安房地方や館山市が江戸・東京と海路で結ばれていたことを物語る文化財を紹介しています。水産物を中心に房州の産物が取引されていたことを背景にした神仏への奉納物や、江戸・東京へ出て成功した房州の人々やその交流を背景にした江戸職人の製作物など、痕跡は数多くみられます。それらの文化財ついて館山市内を3エリアに分けて紹介しました。市内湾岸北部エリア・館山平野部エリア市内南部エリアを合わせてご覧ください。

(1)船形学園(船形)の大磨崖碑

 この碑は渋沢栄一が明治42年(1909)に、東京市養育院安房分院を開設したことを記念して、大正6年(1917)に建設された。碑は、16mの崖を削ったもので、高さ10m、幅6mあり、1文字の大きさは30cm四方もある。碑文には、養育院の元手が旧白河藩主で老中だった松平定信が行った寛政の改革による貯蓄を充てて創立されたことや、社会福祉にも取り組んだ実業家の渋沢栄一が初代院長となり、身体の弱い自動を船形町に移して療養させたことが記されている。

 船形に分院を開設したのは、結核治療法を研究していた富浦出身の川名博夫が、温暖な海辺での転地療養を取り入れた館山病院を開業したことにあった。博夫の妻とりは館山出身で資生堂を設立した福原有信の長女で、四女の美枝は栄一の二男渋沢武之助の妻であった。博夫の三女露子は二代院長穂坂与明の妻なる。穂坂は渋沢栄一が渡米した際に侍医として随行しており、船形への誘致には地元出身者のネットワークがいかされていたのである。

<大磨崖碑の見学希望の方は、必ず事前に学園事務所へご相談ください。>

(2)諏訪神社(船形)の石灯籠

歴史探訪マップ船形西部参照

 参道入り口の灯籠は、主に内房地域内の魚問屋と取引をしていた江戸の魚問屋が、文政10年(1827)に奉納したもの。世話人は地元の小買(こかい)商人(魚の仲買人)で、船形は江戸へ生魚を送り出す汚職利船の基地であった。竿の部分には神仏習合を反映して大福寺の住職の名がある。石工は保田の武田石翁の長男金蔵で、ふっくらとした感じの獅子などが彫られている。基壇部分に「江戸 内安房 魚問屋」と「世話人 当■ 小買中」、さらに「石工 元名 金蔵」とあり、竿の部分に「文政十年九月」と「當山現住宥應」とが刻まれている。

(3)崖観音(船形)の石段

崖観音文化財マップ参照

 明治39年(1906)、東京魚河岸の魚問屋の融資と地元の船形魚商組合とが資金を出し合い、石段を寄進した際の記念碑がある。当時、この地域は漁業が盛んであったことに加えて、多数の櫓と帆を装備した押送船(おしょくりぶね)といわれる船を仕立て、、獲った魚を「鮮魚」として江戸・東京へ送っていたこともあって、双方の絆が深く、海上の安全と豊漁を祈願し、東京の魚問屋が奉納したものと思われる。なお、平成28年(2017)の観音堂改修までこの碑の隣に石灯籠が置かれていた。それはこの碑と同時に奉納されたもので、竿の表に「常夜燈」、裏面に「明治三十九年」、基壇には複数の魚問屋の名が刻まれていた。

(4)崖観音(船形)の手すり

崖観音文化財マップ参照

 明治時代に造られた参道の石段が劣化し、昭和33年(1958)に改修工事を行った際、檀家の青木兼吉が発起人となり、東京に暮らす船形出身者に声を掛け、有志20名が手摺り(支柱は鋳物製)を寄進した。彼らはその数十年前に東京の合羽橋・入谷・千束・竜泉寺などに移り住み、様々な商売を覚え店主になった人たちなどで、柱には寄進した者の名が鋳出されている。かつて有志20名の名を記した額が観音堂にかかっていたが、観音堂改修工事の際に外され、今は本堂に保管されている。

(5)那古寺(那古)の力石

那古寺文化財マップ参照

 江戸の人々により奉納された力石。右は上総小浜(木更津市)の幸助・深川木場の庄之助の奉納で重さ65貫(約244kg)。中央は霊岸島東湊町の亀治と八丁堀の玉川銀治で58貫余(約218kg)。左は地元那古の森田治兵衛と湯島天神町の成田金蔵・佐助で75貫余(約282kg)。江戸の人々の那古観音信仰の深さや、那古住人と江戸住人の交流もみられる。

(6)那古寺(那古)の観音堂扁額

那古寺文化財マップ参照

 観音堂を意味する「円通閣」の扁額は、文化14年(1817)に白河藩主松平定信が揮毫(きごう)したもの。翌文政元年(1818)に江戸築地南飯田町の日高屋与兵衛と伊三郎が願主となり、築地・霊岸島・深川などの江戸各地の商人が奉納した。那古寺が行った本尊の江戸出開帳がきっかけになっているが、坂東観音巡礼の納札所である那古寺の信仰の広がりがわかる。

(7)那古寺(那古)の納札塚

那古寺文化財マップ参照

 大正4年(1915)に観音霊場を巡拝納札する東京納札会によって納められたもの。浅草・神田・両国などの巡拝者名が刻まれている。

(8)那古寺(那古)の手水舎の玉垣

 宥応と宥賢という住職の名から、天保年間と幕末の二期に分けての奉納と分かる。那古の谷口武兵衛が願主となり、江戸の萬屋市右衛門や相洲浦賀・武州岩付などの商人も寄進に加わっている。

(9)那古寺(那古)の蘇鉄石垣

那古寺文化財マップ参照

 那古寺は元禄大地震で倒壊したが、安房全域におよぶ万人講(まんにんこう)勧進や江戸出開帳などが行われ、多くの人達によって再建された。坂東三十三番観音巡礼札所の結願寺として知られ、江戸の人たちの信仰が厚い。本坊前には蘇鉄が左右にあり、それぞれ石垣に囲まれている。左の囲石には、一力長五郎が嘉永7年(1854)閏7月に奉納した際の銘がある。この年江戸大相撲の幕内力士一力長五郎が境内で勧進相撲を行って石垣を奉納したといわれる。右の蘇鉄は昭和45年に館山市の天然記念物に指定された。幹は根本近くで12本に枝分かれし、樹高は6mに達している。雌株で市内一の大樹である。

(10)厳島神社(那古)の手水石

歴史探訪マップ那古川崎参照

 この辺りは、江戸時代の元禄16年(1703)の地震で隆起してできた土地で、それ以前は波打際であった。境内にある文政7年(1824)の手水石は、江戸問屋中が願主として奉納したもの。世話人は地元と思われる惣治良と権吉である。弁天様は漁業神・水の神として親しまれていたが、那古村でも漁業が行われており、おそらく那古の地引網漁師や運送業者と取引していた江戸の魚問屋の奉納であったと思われる。

(11)諏訪神社(正木)の石灯籠

正木諏訪神社文化財マップ参照

 文化7年(1810)に、正木村の下組・鈴木甚左衛門、向井組・篠瀬丈助、上組・庄司長兵衛の領主が違う三組の名主が、共通の鎮守に一対で奉納した灯籠。江戸の石工が製作したもので、左灯籠の基礎裏面に「江戸芝切通富山町 石工與七」の銘がある。当時石材は江戸に集められ全国に発送できるシステムが確立しており、多くの石工が江戸で開業していた。そのため各地からの注文が江戸に集中していたが、やがて各地に石工が誕生していったという。

(12)八雲神社(正木)の狛犬

歴史探訪マップ那古川崎参照

 正木村の浜集落である川崎の鎮守にある狛犬で、弘化4年(1847)に地元講中が奉納した。石工は江戸石工十三組に所属する八丁堀材木町組の石工で、「江戸京橋太刀売」と称する石工藤兵衛と、弟子で同所居住の包吉(かねきち)によるもの。包吉の花押も刻まれている。包吉は浦賀東叶神社の狛犬も制作している。

(13)子安神社(湊)の手水石

歴史探訪マップ湊八幡参照

 浦賀の経済的中心であった相洲西裏賀(横須賀市)の鈴木弥吉が奉納したもの。西浦賀の浦賀奉行所では105軒の廻船問屋が安房から江戸への流通品も検査していた。廻船問屋か水揚商人であった鈴木弥吉が、取引のあった湊村の鎮守に奉納したものだろうか。


作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
川崎一・鈴木正・中屋義勝・山杉博子 2019.2.9作
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡:0470-23-5212

石彫師 武田石翁を訪ねて 3.(鋸南町・鴨川市編)

武田石翁と銘

その他の銘

  • 天然斎石翁、石翁是房等の銘があり天然斎、石翁、是房が組み合わされ使用された。
  • 20歳半ば頃から自分の銘を入れ始め、40歳頃までの作品はあまり多くないが周治、壽秀の銘が使われた。
  • 作品の殆どは石翁銘の50歳以降が多く60歳頃より安房石翁、78歳頃より東海鋸山下田石翁と自分の居所を銘に入れだした。
  • 是房、天然斎は単独で使われず、まず「石翁」という銘があり、その飾りとして石翁の前に天然斎が、石翁の後ろに是房が使われているようであるが、作品は少ないようである

(1)新當斎先生試技碑と十二神将像(日本寺)

鋸南町元名184

★新當斎(しんとうさい)先生試技碑

呑海楼(どんかいろう)庭先の新當斎先生試技碑は、下総佐原の剣豪千葉右門の武芸を讃えた碑。号は新當斎。天保元年(1830)4月建立。碑は幅94cm・総高約265cm。剣や槍(宝蔵院流十二世)の奥義を窮め名を成した。一斉に放たれた矢を槍で悉く打ち砕いて見せたという。石碑の撰文は亀田梓、書は大竹培、篆書は巻大任。文を囲むように阿吽の龍が線刻され、「田石翁鐫(せん)」の銘がある。尚、この石碑は休祭日に茶室(呑海楼)を利用する方のみ見ることが出来る。

★十二神将像

心字池近くの洞窟に納る伊豆石を用いた石像は十二神将の内の一体で安底羅(あんていら)大将。方位を示す干支の申(さる)を表す猿の彫り物が頭頂と腹部の帯に確認できる。中国風な甲冑を付け右手に宝珠を持つ凛々しい姿。像高は約67cm。この地は明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)等により破壊されたため別の所に保管されている。その中で動物の彫り物を頼りに、名を特定できるのは背面に「壽秀(花押)」と武田石翁の銘が刻まれている真達羅(しんだら)大将(寅)、招杜羅(しょうとら)大将(丑)、因達羅(いんだら)大将(巳)、波夷羅(はいら)大将(辰)、按?羅(あんにら)大将(未)の5体。乾坤山日本寺は奈良時代の神亀2年(725)、薬師如来を祀るお寺として創建されており、薬師如来の眷属像として造立された。現在は曹洞宗の寺。

(2)石翁墓石(存林寺)

鋸南町元名1183

境内墓地の小滝家墓域内左側、上部に如意輪観音坐像を刻んだ墓がある。台座を含め高さ約81cmで、石翁の戒名「白堂石翁信士」を中心に左に妻いちの戒名と右に女性の戒名が刻まれている(石翁との関係は不明)。天保15年(1844)妻いちが没し長徳庵に葬られた。石翁自らが嶺岡産の石を用いて自分の墓とを兼ねて造立したもので、石翁も安政5年(1858)に亡くなると妻と同じ墓に埋葬されたという。長徳庵は昭和43年元名青年館建設のため廃寺となり、本尊・墓と共に存林寺に移された。存林寺は曹洞宗(通幻派)のお寺で本尊は宝冠釈迦如来。同寺には石翁(71歳)作開山嶺雲禅師像をはじめ、本堂の須弥壇の武志伊八郎伸由作彫刻等、多くの文化財が保管・管理されている。

(3)駿河屋墓碑(昌龍寺)

鋸南町保田1933

本堂脇の墓地に駿河屋(高浜家分家)墓碑といわれる総高125cmの墓がある。基壇の牡丹をくわえた獅の彫刻は、銘はないが力強さや躍動感があり、(7)八雲神社の手水鉢の獅子等と作風の類似性がみられる。『安房先賢偉人傳』にも、「駿河屋墓碑(墓石に獅子が牡丹に戯れている彫刻があり、石工の模範となっている)」と紹介されている。墓石の裏面全体には文政6年(1823)に亡くなった女性についての碑文が刻まれている。撰文は林世文(新井文山)である。大峰山昌龍寺は曹洞宗のお寺で本尊は阿弥陀三尊。慶長18年(1613)創建で、開基は高浜図書之介(ずしょのすけ)利賢(高浜家初代)である。

(4)叟阿(そうあ)の句碑(円照院)

鋸南町小保田187

句碑は円照院の下の墓地にあり、高さ約170cm・幅約65cmの石に「後ろから叟阿をたたく柳かな」と辞世の句が彫られ、その下に独嘯坊(どくしょぼう)叟阿墓とある。叟阿は明和6年(1769)生まれ。越後、信濃を遊歴し、没年は天保9年(1838)で70歳だった。小保田村の名主の世話になり、堂守をしていた二つ堂の庭に句碑(墓)は建てられていたが、明治21年(1888)県道改修のため、円照院に移された。銘はないが村人が石翁に句碑を依頼したといわれる。大慈山円照院は真言宗で本尊は不動明王。円照院では毎年1月に火渡り祭が行われる。

(5)諦應(ていおう)和尚の筆子塚(奥山公民館)

鋸南町奥山305

高さ116cm・横59cm・厚さ14cmの自然石の碑。正面には「月見ても花見ても南無阿弥陀仏 逸東」。裏面には「□世筑前人真蓮社聴譽上人諦應和尚碑 嘉永四年歳在辛亥十月 筆弟等建之 時七十三田石翁?」と諦應和尚の筆子塚であり石翁73歳の作であることが記されている。今は廃寺となっているがもとは真光寺という浄土宗のお寺があり、そこで開かれていた寺子屋の教え子が諦應和尚を顕彰した碑である。真光寺、諦應和尚の詳細は、ともに資料が乏しく、不明である。

(6)役行者像(大山寺)

鴨川市平塚1718

手水舎の奥に、像高約68cmの役行者の石像が置かれており、かなり以前から祀られていたようだ。岩座に座り、右の下駄を脱ぐ半跏像姿。両手にそれぞれ何かを握っていた様子が窺える。顔の表情は捉え難く、角度によっては高笑いしている様にも見える。銘はないが、この像と共通する像容の役行者が鋸南町で確認されており、武田石翁の作とされることから、本像も石翁作ではないかといわれている。高蔵山大山寺は真言宗のお寺で本尊は不動明王。神亀元年(724年)良弁{ろうべん}僧正が創建したと伝えられる修験寺。大山寺では毎年5月の第3日曜日に火渡り祭りが行われる。

(7)手水鉢(八雲神社)

鴨川市貝渚2202

境内右側にある手水鉢が石翁42歳の作である。高さ63cm・幅118cm。背面中央に左三つ巴の紋、その両脇には獅子、正面に「奉献」、左側面に「文政三年庚辰九月吉日 元名村 彫工 壽秀(花押)」。右側面に「氏子中」と彫られている。祭神は天照大神・須左之男命・事代主命。創建年歴の記録はないが永和3年(1377)に出雲大社の霊を移したとされる。須左之男命の化身である牛頭天王を祭神としたことから現在でも天王様と呼ばれている。神社には、波間に浮かぶ船を現わした「大浦水交団」の担ぎ屋台がある。神輿のように担ぐ屋台巡行は、鴨川市無形民俗文化財に指定されている。

(8)狛犬(香指(かざし)神社)

鴨川市太海2370

拝殿正面の左右に阿吽姿の狛犬がある。二体共に前足を揃え、右の狛犬はやや首を傾け、左の狛犬は正面を向き、この神社を守護するその強固な意志が強くにじみ出ているようだ。武田石翁の作品に似ている。祭神は弟橘姫尊(おとうとたちばなひめのみこと)。神社に残る棟札によれば文化14年(1817)5月に社殿を再建している。本堂は岩をくり抜いた洞窟の中に、拝殿は崖の下にあり、鳥居は海側と山側の2ヶ所にある。神社の名前の由来は弟橘姫尊が身を投じた際に、髪を飾るかんざしが波に運ばれ浜に流れ着き、神社に祀られたといわれている。香指という名は「かんざし」が転じたものと伝えられている。境内には縄文時代の遺物を包蔵する浅い洞窟があり「香指神社遺跡」とよばれている。


作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」 愛沢香苗・青木悦子・金久ひろみ・鈴木正・殿岡崇浩・羽山文子・山杉博子・吉村威紀・刑部昭一
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 TEL:0470-23-5212

石彫師 武田石翁を訪ねて 2.(南房総市編)

(1)石翁 父金明の墓(東福院)

南房総市本織1167

石翁の父である金明の墓。総高約89cmの角柱墓で「謙虚道順居士 位」「文政八乙酉十一月二日」「武田金明 八十四翁倅石巧有而造之 石工周治」と刻まれている。石翁47歳の作。隣に如意輪観音坐像を載せた「実相妙鏡大姉位」「文政九戌年」「十二月十日」と刻まれている墓がある。総高約137cmの内約45cmの如意輪観音坐像だが、欠損が激しい。銘はないが石翁48歳の作と言われている。

平寿山東福院は真言宗のお寺で、宝珠院の末院。本尊は薬師瑠璃光如来。境内西側奥には石翁の生家武田家の墓域がある。

(2)石翁生誕碑(旧本織神社)

南房総市本織1178

境内に「武田石翁誕生之地の碑」と石翁の紹介板がある。石翁は安永8年(1779)安房国本織村(南房総市本織)字戸に生まれた。性は鎌田、名は周治。本織神社から200mほど離れた場所が生誕地である。

本織神社の祭神は金山彦命(かなやまひこのみこと)で創建は安永8年(1779)。現本織神社(三芳村本織667番地)は、旧本織神社、荒神社、稲荷神社、天満神社、熊野神社を昭和39年に住吉神社として合併し、その後「住吉神社」から「本織神社」に改めた。

(3)手水鉢(荒神社)

南房総市本織市場1726

境内入り口にあり高さ約45cm、幅約82cm、奥行約53cmの自然石。正面に「氏子中」、背面に「天保十一庚子二月 石翁鐫」の銘がある。水盤縁の左右には凹みがある。「カエルが彫ってあり、子供の頃釘で衝いたりした」との証言があることから、壊された痕跡とみられる。荒神社の祭神は八衢考命(やちまたのみこと)。昭和39年に本織神社に合祀された。

(4)十一面観音立像(宝珠院)

南房総市府中687

石翁作の十一面観音菩薩立像を祀る観音堂は仁王門を改修した建物。像高56.5cmの観音像は六角形の基壇、敷き茄子、蓮華座の上に立ち総高は83cm。右手は与願印、左手は水鉢を持ち、頭に高く結いあげた髷を囲むように10の仏頭が置かれている。敷き茄子の裏側に「文化三己寅二月現住温恭造立 武田氏出生 本名村住 石工 周治」とある。金剛山宝珠院は真言宗のお寺で本尊は地蔵菩薩。

(5)狛犬(八坂神社)

南房総市府中273

境内の狛犬が石翁作と伝えられ、天保13年(1842)の作である。総高は150cm程で、向かって右の吽像の基壇に「施主 當村中」、その下の壇には風化や欠損があるが三芳地区以外の広範囲の地域の地名、屋号、名前が10数名分確認できる。左の阿像の基壇には「願主 若者中」とある。
八坂神社は府中の鎮守で、祭神は須佐之男命である。

(6)延命地蔵半跏像(普門院)

南房総市本織番場652-1

境内に、右手に錫杖(今は無い)、左手には宝珠を持つ像高約78cmの延命地蔵半跏像(安山岩製)がある。基壇等を含め総高約290cm。基壇は3段からなり最上部表側は肉厚で躍動感のある獅子が彫られ、裏面は「世話人光明講中」「十方檀那法界萬霊」、中段は地蔵信仰の銘文と「文化十一甲戌年五月吉祥日 當寺現住春淨宥應」、下段は「當村 石巧 武田産 秀治」の銘があり、寄進した人たちの名や先祖の戒名などが刻まれている。
日照山普門院は真言宗のお寺で本尊は不動明王

(7)青面金剛像(熊野神社)

南房総市本織不入斗572-1

境内南東端の道路脇にあり、高さ約75cm。風化が激しく一面四臂(ぴ)の持物の弓矢と鉾が残り、邪鬼を踏みつけている。左側面に「當村 石工 周治」と彫られている。青面金剛は庚申信仰の供養塔であるが古老の言では供養した記憶はないと言う。
熊野神社の祭神は須佐之男命。昭和39年に本織神社に合祀された。

(8)大般若講寄進銘塔(延命寺)

南房総市本織2014-1

山門左手の木陰にある総高139cmの角柱塔で、大般若講中の祈願によるもの。塔身側面に寛政9年(1797)から19年にかけての山門や庫裏・鎮守石鳥居など境内施設の修復事業の様子が記録され、基壇正面に唐獅子遊戯図と右側面に「石工 周治 文化十二亥四月吉日」の銘が刻まれている。石翁37歳の作。
長谷山延命寺は安房曹洞宗の中心の寺。本尊は虚空蔵菩薩。戦国大名里見氏の菩提寺で、裏山に後期里見氏歴代の墓所がある。安房国三十四観音巡礼の24番札所。

(9)酒豪八郎右衛門墓碑(智蔵寺)

南房総市山名386

本堂脇の道を登ると谷を背に八郎右衛門の墓碑があり、天保12年(1841)石翁の作と伝えられている。酒樽の上に60cm程の出羽三山に参拝する行者姿の像が刻まれ、酒樽の前面には「無漏」(煩悩の無い境地のこと)の文字、裏面に辞世の「百の銭九十はここで飲み別れ、六文を持って長の道中」が刻まれている。
富士山智蔵寺は曹洞宗の寺院で本尊は地蔵菩薩。「山名の大寺」と呼ばれている。夷隅の真常寺末。安房国の初期大名三枝守昌の菩提寺。寺伝によると文亀3年(1503)の開基とある。

(10)七福神(厳島神社)

南房総市白浜町白浜629

石翁19歳の作と言われており周治と呼ばれた頃の作品である。銘等の刻みはない。本殿に向かって右手に祀られている。大黒天、恵比寿、毘沙門天、福禄寿、寿老人、布袋の六体が表情豊かに刻まれている。弁財天は存在しない。古来この地には弁財天を祀る祠があり、その後厳島神社に改称された。祭神が弁財天であるため、石翁は弁財天を除く六体を制作したものといわれている。神体の高さは59cm~70cmである。
厳島神社の祭神は市杵嶋姫命{いちきしまひめのみこと}で創建年代は不詳である。


作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋・鈴木正・吉村威紀
監修 館山市立博物館 294-0036 館山市館山351-2 TEL:0470-23-5212

石彫師 武田石翁を訪ねて 1.(館山市編)

武田石翁とは

安永8年(1779)~安政5年(1858)8月4日 享年80歳

武田石翁(たけだせきおう)は安永8年(1779)に、安房国平郡本織(もとおり)村宇戸(現南房総市本織)に鎌田四郎左衛門金明の末子として生まれました。本名は小瀧周治(又は秀治)といい、安房国平郡元名(もとな)村(現鋸南町元名)に住んでいた石工です。鎌田氏の祖先は甲斐の武田一族と伝えられ、武田本織という人物が房州を訪れて本織の地を開き、その地を本織村、自分が居住する住所を武田と称したといわれています。鎌田家は代々名主を務める旧家でした。石翁は小瀧(おだき)家に養子に入った後も、「鎌田周治」と名乗り、後には「武田」の「石翁」と名乗るようになります。

周治は幼いころから手先が巧みで、7歳の頃には目が動き舌を出す天狗の面を作り、近所の人たちを驚かせたそうです。寛政3年(1791)、13歳の時に、元名村の石工小瀧勘蔵に弟子入りしました。寛政9年(1797)、19歳の頃には白浜村厳島神社に七福神を、その翌年には、遠く上州(群馬県)の榛名山で、瀧口の龍を彫刻しました。23歳の時、師匠の小瀧勘蔵の娘いちを妻とし、小瀧家の養子になりました。養子となってから初めての大製作は福楽寺の宝塔で、享和3年(1803)、石翁25歳の時でした。

石翁の作品が円熟味を増してくるのは40歳以降です。この頃から周治は石翁の号を用います。文政元年(1818)の正月7日、石翁は飛ぶ龍の夢を見て、龍を黒石に彫りました。この一角龍が長年良い作品を作ろうと苦心してきた石翁の会心の作品だったそうです。しかし、彫刻家として成功するほど家業の石屋がおろそかになり養父や妻とすれ違いました。文政3年(1820)、42歳の時には、長女げんの死をきっかけとして家庭がうまくいかなくなり、石翁は小瀧家から出ていき翌年まで戻りませんでした。50歳をすぎる頃から「石翁」の銘を刻む作品が多くなり、60歳を越えてからは秀逸な作品が多くなります。70歳から80歳の頃には広く名が知られるようになりました。天保11年(1840)、62歳の時、平郡米沢村白井の池田家の依頼によって作った2尺に余る立派な黒石の二角龍は、房州遊歴中の嶺田楓江(みねだふうこう)がたまたま目にしたところ感激して詩を作ったほどの出来栄えでした。嘉永6年(1853)には、会津藩主松平容保(かたもり)が海防のため房州へ訪れた時に池田家でこの龍を所望し、当主から献上されたと伝えられています。

石翁は40歳のころから学問を始め、篆書(てんしょ)、俳諧、琵琶、歌謡、生花、茶事に至るまで親しんでいました。号は是房、壽秀、天然齋、天然道人、鯉石、石翁などを称し、三河国西大平藩主・大岡忠愛(ただよし)、館山藩の留守居・高梨良右衛門などと親しくして、諸侯のところに出入りがあったようです。性質は頑健で寡黙であり、常に自己を磨く努力は怠らず利欲には淡白でしたが、芸術上の名誉心や自信は強かったようです。

(1)諏訪神社の狛犬

館山市船形833

祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)。境内4社、境外12社を擁する船形の鎮守。拝殿前に獅子や龍、象、馬の彫刻を施した架台に座り眼光鋭く精悍な顔立ちをした狛犬(座高約43cm)がある。狛犬に文字は刻まれていないが、神社に保管されている棟札に「奉納 安政二歳次乙卯(1855)七月二十六日吉祥 駒犬別願主 板屋助三郎 柴田平七 細工本石(名カ) 武田石翁」と書かれているとされ、武田石翁76歳の作品と分かる。7月26日は船形祭礼の初日。礎石を含め総高約178cm。

(2)西光寺の地蔵菩薩半跏(はんか)像

館山市正木1930

正木山西光寺は曹洞宗のお寺。本尊は十一面観音菩薩。山門を潜ってすぐ左に像高約46cmの地蔵半跏像がある。蛇紋岩を用い、敷茄子(しきなす)と蓮の反花(かえりばな)を刻んだ六角台座に座る。澄んだ表情で、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を持ち、左足を蓮華座に下(おろ)す半跏の姿。六角台座の正面に地蔵菩薩諷教(ふきょう)の一節を、右側面に「願主 鈴木勘左衛門、世話人 林兵衛、有檀無檀 施主面々」、左側面に「嘉永5年(1852)壬子十一月二十四日 当山十七世玄興代 七十四 石翁作」と刻まれている。総高約178cm。

(3)萱野の孝子塚(こうしづか)碑

館山市国分1241

高さ350cm余の伴直家主(とものあたいやかぬし)の顕彰碑。伴直家主は平安初期の承和3年(836)、朝廷より親孝行を表彰され位を授かり生涯税を免除された。石翁は、この孝子(こうし)の埋もれていた墓を探し出し顕彰しようと10年近く活動してこの地を見つけ、嘉永3年(1850)に完成させた。

篆額(てんがく)は日野大納言資愛(すけなる)、書は平久里の医師。書家の加藤霞石(かせき)、肖像画は日本画家の菊池容斎。碑は当初、長尾藩士の屋敷が並ぶ区画の近くにある共有基地の北隣に位置していたが、そこから東の「天王休所」という場所(現在地)へ移動した。移動の時期は不明だが、明治7年(1874)旧長尾藩士等が提唱して台石を造ったころと考えられる。大正3年(1914)には、千葉県名勝旧蹟保存規定によって基台が改築された。昭和61年(1986)、市の史跡に指定されている。

(4)国分寺の孝子家主の碑

館山市国分959-2

国分寺は真言宗のお寺で日色山国分寺という。本尊は薬師瑠璃光如来。国分寺薬師堂の右脇にある「孝子家主(こうしやかぬし)の碑」は、嘉永4年(1851)、石翁が家主の両親の墓碑として建てたもの。総高175.5cm。家主顕彰碑文とその下に父母の塚に拝礼する孝子の像が描かれている。画と刻字は石翁73歳の時のもので、篆額は日野資愛(すけなる)、書は江戸大護院の高僧道本憲壽。他に薬師堂内に父母の墓に拝礼する孝子を描いた額が飾られている。

伴直家主(とものあたいやかぬし)とは親の死後も墓前で孝行を続けた徳行が「孝子」に値するとして、承和3年(836)朝廷から表彰された安房の人で、国分村の出身とされる。石翁が同志の助成・資財を請い、碑を建てたという。

(5)三福寺 新井文山翁の碑

館山市館山1195

觀立山九品院三福寺(さんぷくじ)は浄土宗のお寺。本尊は阿弥陀如来で文明3年(1471)に相蓮社順譽上人によって開山された。汐入川に面した山門を入ると、本堂から北側入口までの中程、墓地を背に東向きに新井文山(あらいぶんざん)の碑がある。嘉永6年(1853)、石翁76歳の時の制作。文山は館山藩の儒学者。昌平黌(しょうへいこう)で学び、28歳で帰郷後塾を開き地域の教育に貢献した。幼い頃父と死別し、母親孝行でも知られる。嘉永4年(1851)73歳で没した。石翁と文山は同年であり交流があった。高さ44cmの台石の上にある高さ250cmの碑は、文山新井翁墓と題字があり、その下に江戸の昌平黌教官の佐藤一斎の撰文、関淡海の書で文山の生涯が刻まれている。

(6)泉福寺の地蔵菩薩半跏像

館山市古茂口403

曹洞宗のお寺で本尊は阿弥陀如来。参道中ほどの石仏のうち地蔵菩薩半跏像が石翁の作で、享和3年(1803)に建てられた。総高170.5cm。台座の上に牡丹の花を刻んだ中段の台座、その上の蓮華座に半跏座(はんかざ)の姿で祀られている。その中段の台座右側面に「本名邑(もとなむら) 石工周治 五左ヱ門」、左側面に4名の戒名が刻まれており、五左衛門が4名の供養のために建てたと思われる。石翁25歳の作で、福楽寺の宝塔と同時期に作られた。周治は本名で、「石翁」は40歳ごろから名乗った。

(7)福楽寺の宝塔

館山市山荻281

真言宗のお寺で、多聞山福楽寺という。本尊は弥勒菩薩(みろくぼさつ)。この寺には光明真言の宝塔が一基あったが失われていたため、寛政10年(1798)から享和3年(1803)までおよそ6年をかけて光明真言を六億遍唱え、これを記念して宝塔を再建した。正面に「光明真言六億遍供養塔」、側面には願主6名、住持2名、背面には「本名村石工周治」の銘があり、この宝塔の再建の経緯と関係者の名が刻まれている。享和3年(1803)に建立されたもので、石翁25歳の作である。供養塔は寺の中央部にあり、地上からの総高は398cm。

(8)山荻神社近傍の「馬頭観音」

館山市山荻神社近傍

山荻(やまおぎ)神社近傍に地蔵尊を中心に馬頭観音が並ぶ。丸像2体、角柱3体。丸彫の馬頭観音像は、六角の台座に「享和二(1802)壬戌?(みずのえいぬのとし) 当村施主佐野八良右衛門」「本名村石工周治」と刻まれている。石翁24歳の作である。山荻神社の西側の裾から寺の裏を通って山の背を東に行く道がある。この山道は、かつて館山、豊房方面から千倉へ行く重要な街道の一つであった。この道の起点に幾つかの像が置いてあるのは、この道を通る人々の安全を祈願してのことなのだろう。総高89cm。


※これら武田石翁の作品は一般の方々が行けば直接見ることができますが、所有者のご迷惑にならないように見学してください。

作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」<青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・鈴木正・吉村威紀>
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 TEL:0470-23-5212