【1】人間山調とその事績
 1.山調の生涯 

 勝山調(かつさんちょう)については、未だ明らかでないことが多いが、子孫である館山市沼の鈴木謙太郎家に伝わる過去帳によると、山調は俗名を市蔵といい、画号を勝山調守種といった。天保9年(1838)戊戌4月26日に行年77才で世を去っているので、逆算して宝暦12年(1762)生れであることを知る。父の名は鈴木半七、母はおはる。安房郡沼村の内、柏崎浦西の浜に住している。成人するまでの記録はないが、江戸馬喰町1丁目の紙屋五郎兵衛のもとへ奉公に出たらしい。

 安永9年(1780)に母おはるの他界に前後して帰国し、同村の渡辺弥五兵衛の娘ハルと結婚する。寛政3年(1791)には父半七も亡くなり、山調は鈴木家の家督を相続し、この頃より本格的に絵を描きだしている。

 寛政5年(1793)に『画本拾葉』を、寛政10年(1798)には『画法式』を著すが、山調が絵を描くうえでの幅広い知識を持っていたことが理解される。

 伝えられる作品のなかには山調が粉本を模写学習したものや、逆に後進の指導教育ため山調が著した習画手本、家計を支えるために職業絵師として積極的に描いた神仏画などがある。

 山調は大勢の子どもに恵まれながらも皆早世し、養子にまで先立たれているのであるが、晩年の天保5年(1834)に著した『戯作神燈画』の中には「予が子孫にも画を好むたわけものあり。我が身にくらべて是をゆるす」と書き記している。

左:鈴木家系譜(図1) 右:2.山調模写「卒都婆{そとば}小町」 土佐流の写し
左:鈴木家系譜(図1)
右:2.山調模写「卒都婆(そとば)小町」 土佐流の写し
3.山調模写「関羽」 後素軒橘守国{こうそけんたちばなもりくに}画写
3.山調模写「関羽」 後素軒橘守国(こうそけんたちばなもりくに)画写