山調は自ら過去帳に書き記したように、多くの子供に恵まれながら幼くして亡くしてしる。
ただ一人画業を継いだといわれるのが、四女クラであった。
クラは寛政8年(1796)生れで父山調の一心の期待を受けながらも、あまり活躍することなく、文政2年(1819)に24歳で夭折する。
山調の落胆ぶりは思うに余りあるが、死んだ子の年を数えるように、クラの遺作となった「徳本(とくほん)上人名号(みょうごう)図」にクラの作品であると書き入れている。
![41.クラ画「徳本上人名号図」](http://history.hanaumikaidou.com/wp-content/uploads/2020/02/0303-022-01-01.jpg)
![42.クラの墓碑(裏面) 大寺観音堂墓地](http://history.hanaumikaidou.com/wp-content/uploads/2020/02/0303-022-01-02.jpg)
山調は自ら過去帳に書き記したように、多くの子供に恵まれながら幼くして亡くしてしる。
ただ一人画業を継いだといわれるのが、四女クラであった。
クラは寛政8年(1796)生れで父山調の一心の期待を受けながらも、あまり活躍することなく、文政2年(1819)に24歳で夭折する。
山調の落胆ぶりは思うに余りあるが、死んだ子の年を数えるように、クラの遺作となった「徳本(とくほん)上人名号(みょうごう)図」にクラの作品であると書き入れている。