法性寺

日照山法性寺の概要

館山市北条1084

 日照山法性寺(にっしょうざんほっしょうじ)と言い日蓮宗のお寺。興津(おきつ)城主の佐久間兵庫頭(ひょうごのかみ)重貞は、日蓮聖人が興津近辺の疫病(えきびょう)を沈めた法力に感動し帰依(きえ)したといい、その嫡子は日蓮聖人の弟子となり「日保(にほ)上人」と名乗った。後年、日保上人の弟子「日聖(にっしょう)」が北条に草庵を立てたのが法性寺の始まりとされる。日蓮聖人がこの地で説法した文永元年(1264)を開山とし、日保上人を第1世、日聖上人を第2世と定められた。過去の災害等により由緒を詳しく示す記録がなく、歴史的に不明な点が多いが、墓域には房州長尾(駿河田中藩)藩士や、幕末の海岸警備で来房中に没した武州忍(おし)藩・備前岡山藩士のほか、北条の絵師・渡辺雲洋などが葬られている。

(1)題目塔

文化13年(1816)に建てられた。正面にお題目、右側面に「日聖山法性寺」、台座に寄進の世話人5人の名が記されている。日聖山の山号は、第二世の「日聖」に由来すると言われるが、現在の日照山に変わった正確な時期は不明である。明治27年(1894)の『安房国町村誌』では、山号が「日照山」となっている。

(2)本堂及び向拝彫刻

本堂は、大正4年(1915)に建てられたが関東大震災で倒壊したため、元の部材を使用して建て替えられた。向拝(ごはい)の屋根は唐破風(からはふ)とし、懸魚(げぎょ)の彫物は鳳凰、桁隠(けたかく)しは菊水、大瓶束(たいへいづか)の両脇は雲、虹梁(こうりょう)は雲、木鼻(きばな)は獅子、正面には龍が彫刻されている。龍の彫物は3台武志伊八郎信美の作である。他の彫刻の作者は不明。

(3)芥川龍之介邸灯篭

本堂右前に高さ1.8mの御影石の石灯籠がある。作家芥川龍之介邸にあったもので、昭和2年(1927)に龍之介が没した後、友人が邸宅を譲り受け、後に墨田区本所の法泉寺へ寄贈した。同寺と法性寺とは兄弟寺にあたることから、鵜沢住職が昭和56年(1981)に宗祖七百年遠忌の記念に譲り受けた。龍之介はこの灯籠に愛着を寄せており、小説の中にしばしば登場しているという。

(4)お手植えイチョウ

大正4年(1915)の本堂落慶法要の際、京都瑞竜寺(村雲御所)の門跡(もんぜき)村雲日榮尼公が臨席され、イチョウをお手植えしたと伝えられている。尼公は伏見宮(ふしみのみや)邦家親王の第8皇女。日露戦争の後、新島八重が所属していたことで有名な篤志看護婦人会京都支部の活動に尽くし、村雲婦人会を組織して、社会事業に貢献した女性。苗木は檀家の半沢家の寄進。

(5)マキの大木

本堂の前方、墓地の入り口近くにあり、樹齢300年以上とも600年以上ともいわれる。樹高は約21m、幹回りは約8.5m。

(6)東照稲荷

繁昌を祈願する東照稲荷が祀られている。向拝(ごはい)の虹梁(こうりょう)には若芽彫り、蟇股(かえるまた)には二匹の狐が彫られ、錠前に鍵のようなものを銜(くわ)えて見合っている姿。木鼻には獅子が彫られ、蟇股の裏面に「大正五年十一月 彫刻師後藤橘(たちばなの)義光翁六十八作」と刻まれている。檀家の吉田誠が大正の初めに寄進した。

(7)円応寺有縁の墓

芝の円応寺(えんのうじ)と呼ばれ、日蓮宗で山号は妙典山。永正元年(1504)に円応院日長が開基した。元和4年(1618)の北条村検地帳には「円能寺」とある。貞亭3年(1686)に廃寺となったが山号寺号は残し、跡地は安布里の蓮幸寺が管理したが、明治41年(1908)に法性寺へ合併された。字(あざ)小作にあった墓石は法性寺墓地内に「圓應寺有縁(うえん)之墓」としてまとめられ、そこには側面に「千龍山」と書かれた題目塔、中興開山智立院日行の供養塔(宝暦13年=1763年)、泰是院日顕の墓(寛政4年=1792年)がある。

(8)角田家供養塔

「円応寺有縁之墓」左脇に、歯科医角田庄吉による「角田家供養塔」と「舎利塔(しゃりとう)」と刻まれた石塔がある。供養塔は明治32年(1899)、庄吉が父母及び近親者の供養のために立てたもの。左側面には庄吉が法性寺のために志(こころざし)深く尽くしたので、当寺が興津の本山妙覚寺に願い出て、父母と庄吉に居士号を授与したことや、有無縁一切の霊の供養のため7万有余の小石に妙法二字を書いて塔下に収めたことが記されている。

(9)歴代住職の墓

1 大宥院日慎上人

歴代住職の墓域にある第23世の墓石である。墓石の裏面には、京都生まれで内大臣の子息。10歳で出家し山城国通妙字、雑司谷の本立寺、朝夷郡蓮住寺を経て、慶応3年(1867)に69歳で法性寺に来住した。風雅を好み俳句を楽しんだとある。碑の側面には、「かや釣りて入れば隔つ我が世かな」の辞世の句が記されている。俳号は陶々庵延年、明治18年(1885)88歳没。

2 了蓮院日厳上人(無縫塔の塔身)

墓地中央の永代供養墓にある。正面に「了蓮院日嚴聖人」とあり、貞亭2年(1685)の没。高さ85cmの無縫塔だが、地中に約35cm埋もれている。日厳上人は、過去帳の最初に記載されており、中興上人であろう。施主は日厳上人遷化(せんげ)から36年後の住職日由で、亡くなる10か月前の享保6年(1721)に建立した。

(10)館山小学校旧友戦没者慰霊碑

この碑を建てた染谷義雄は、大正11年(1922)生まれ。館山小学校3年の時に両親と兄弟でブラジルに移民として渡った。戦後、小学校の級友を訪ねたが、戦死した者が多く、会えずに落胆のうちに帰国。その後、戦死した級友のため昭和50年(1975)にこの慰霊碑が建立された。

(11)墓域入口の門柱

墓地正面入口に高さ約276cmの安山岩の門柱がある。「大正三年十月 北條病院主角田佳一」と刻まれていて、北条病院初代院長の角田佳一が寄進した墓地の門柱。北条病院は前身が県立の病院で、明治13年(1880)に千葉県安房郡役所、安房北条警察署と同時に設けられた千葉県立千葉病院北条分院であった。後に明治22年(1889)に角田佳一が買い取り民営化した。

(12)高川良次郎の碑

良次郎は、安政5年(1858)、朝夷郡黒岩村(南房総市和田町)に生まれた。明治9年(1876)千葉師範学校に入学、小学四等訓導(くんどう)となり和田・瀬戸・白子学校に赴任する一方、元長尾藩士恩田仰岳(ぎょうがく)の私塾秉彝(へいい)学舎を千倉に設けて猛勉強した。その後病をおして上京し勉学に打ち込むが、病が悪化。順天堂病院での治療後に安房へ帰り北条病院で治療を受けるも、献体を希望しつつ、明治14年(1881)に23歳で没した。北条病院長らが碑を建立。撰文は、良次郎の父元吉の友人で元長尾藩士の恩田城山。篆額(てんがく)は千葉県知事の船越衛。書は元長尾藩士の熊沢直見。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
愛沢香苗・青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・鈴木以久枝・鈴木正
監修:館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

長福寺

普門山長福寺の概要

(館山市館山928-1)

 普門山光明院長福寺といい真言宗の寺院です。伝忠(でんちゅう)法師が寛正(かんしょう)元年(1460)に中興開山したとされ、ご本尊は不動明王。「館山観音」として親しまれ、安房国札観音2番、西口薬師2番、西口六地蔵、南房総七福神(福禄寿)の札所です。館山小学校開校の地で、明治5年(1872)の学政令発布の翌年に、寺小屋だった当寺に開校しました。墓地内に館山藩御典医の宮川元斉の墓、本堂内には関東大震災で倒壊した上町中町の諏訪神社を飾っていた獅子鼻(ししばな)と龍の彫刻(3代武志(たけし)伊八郎作)があります。新井霊園には、江戸大相撲力士で新井出身の錦岩(にしきいわ)浪五郎の墓(慶応3年=1867年没)と、尾張出身の粗宗(そしゅう)が文政6年(1823)に建てた三界萬霊塔(さんがいばんれいとう)があります。

(1)歴代住職の墓

表参道に寛永元年(1624)から寛政12年(1800)没26世住職までの12基と、観音堂横に文政11年(1828)没の27世以降8基の墓がある。

(2)筆小塚(ふでこづか)

歴代住職の墓には筆小塚が2基ある。筆子(ふでこ)と言われる寺小屋の教え子たちによって建立された師匠の墓。26世運仙(うんせん)(寛政12年=1800年没)と27世宥弘(ゆうこう)(文政11年=1828年没)の墓で、館山の教え子たちが建立した。運仙は後に清澄寺15世として出世した。

(3)仙台藩御用船乗組員の墓

仙台藩の重要な港である石巻・宮古・寒風沢(さぶさわ)出身で、御用中に死亡した御用船乗組員3名の墓。仙台藩は江戸初期から房州経由の千石船で年貢米を江戸へ輸送しており、館山には管理の役所があった。

(4)庚申塔(こうしんとう)

延宝7年(1679)建立。文字と三猿、日月が彫られている。庚申(かのえさる)の夜に眠ると、体の中に潜む三尸(さんし)の虫が天帝に罪状を告げて命が縮まると言われ、講中で宴を開き夜が明けるのを待つ信仰があった。

(5)寄子萬霊塔(よりこばんれいとう)

戊辰戦争の時に、館山藩からやむなく出兵した家臣と、館山の人宿(にんしゅく)相模屋によって集められ、箱根・山崎の戦いで戦死した人々の慰霊碑。宿陣を請け負った相模屋妻吉が上須賀の北下台(ぼっけだい)観音堂境内に建立したもので、観音堂と共に移された。台座正面には「一番組人宿 相模屋妻吉」とあり、塔身の周囲には35名の戒名と練兵士5名、請負人番組(ばんぐみ)人宿補助11名の名が刻まれている。裏には「鐘の音の 落ち葉にさみしき 夕べかな」という萬秋舎豊山(ばんしゅうしゃぶざん)の句がある。

(6)宝篋印塔(ほうきょういんとう)

正面に「宝篋塔」と大きく刻まれ、右側面から時計回りに宝筐院陀羅尼(だらに)経が刻まれている。享保17年(1732)の阿闍梨(あじゃり)■祐一周忌の供養塔で、当寺21世法印宥智(ゆうち)がお経を記し、僧俗万民で建立した。

(7)大檀那(おおだんな)嶋田家の墓

嶋田家は新井浦の世襲名主で、当寺の大檀那である。寛永7年(1615)から元文3年(1738)までの、江戸時代前半の先祖代々の五輪塔・宝篋印塔などの墓塔12基がある。嶋田家には慶長7年(1602)に里見氏、元和元年(1615)に徳川氏が関わった古文書がある。たびたびの震災等で倒壊した際に修復されたが、誤換・混成が生じている。

(8)戦没者墓碑

8-1 海軍特務少尉 張替安造君の墓碑

昭和4年(1929)横須賀海兵団に入団。日中戦争に従軍し、昭和15年(1930)6月重慶の空中戦闘で戦死した。享年30歳。館山の人。撰文と書は豊房村に日新学舎を創立した鈴木貞良である。

8-2 海軍二等機関兵曹 嶋田留男君の墓碑

昭和14年(1939)横須賀海兵団に入団。太平洋戦争に従軍し、昭和18年(1943)4月太平洋上の戦闘で戦死した。享年26歳。那古の人。

8-3 陸軍上等兵 里見吉之助君の墓碑

太平洋戦争に従軍し、昭和17年(1942)9月中国浙江省杭州で戦死した。享年22歳。館山の人。

8-4 地区郡歩兵上等兵 今井辰夫君の墓碑

昭和13年(1938)に召集され軽機関銃射手として日中戦争に従軍し、昭和14年(1939)3月白襷(しろだすき)決死隊の一員として中国南昌(江西省の省都)攻略戦で戦死した。享年23歳。北条の人。

8-5 陸軍准将 金子勤一郎君の墓碑

昭和10年(1935)に佐倉歩兵連隊へ入団。日中戦争に従軍し、昭和14年(1939)から北支(中国北東部)を転戦中、昭和16年(1941)10月に戦死。享年28歳。館山の人。撰文と書は船形在住の陸軍大将多田駿(はやお)。

8-6 海軍特務少尉 小幡晋治君の墓碑

太平洋戦争に従軍し、昭和17年(1942)8月に南太平洋のソロモン諸島ツラギ島で戦死した。享年36歳。館山の人。

8-7 陸軍歩兵上等兵 鈴木茂君の墓碑

昭和13年(1938)に佐倉歩兵連隊へ入団。日中戦争に従軍し、南昌攻略に参戦。昭和14年(1939)に同地で戦死した。享年27歳。優秀な館山郵便局員だったという。撰文は部隊長の秋葉正、書は豊房村の教育者鈴木貞良である。

8-8 陸軍歩兵上等兵 吉田馬之助君の墓碑(新井霊園)

明治27年(1894)の日清戦争に従軍。日露戦争にも従軍し、明治37年(1904)10月の第2回旅順総攻撃で戦死した。享年34歳。館山の人。正面の書は北条在住の伯爵萬里小路(までのこうじ)通房、背面の撰文と書は『安房志』を書いた安房中学校教員斎藤東湾である。

(9)六地蔵

嶺岡山系の蛇紋岩(じゃもんがん)製。戦国時代のものだが、笠と敷茄子(しきなす)は江戸時代のもの。六角柱で、舟型の光背(こうはい)に収まり、5体はほぼ同じ高さだが、南面の1体だけが少し背が低く、合掌している。

(10)手水(ちょうず)石

安山岩製のどっしりした手水石で、正面に「観音堂」、背面に「茂原氏」と刻まれている。北下台(ぼっけだい)から観音堂と一緒に移された。茂原氏は館山藩初期に茂原道右衛門という家臣がいたことが記録にあり、この一族と思われる。

(11)如意輪観音像

総高約120cm。舟型光背の文字から、念仏講の人々の菩提のために清覚禅定尼が本願人となり、寛文12年(1672)に造立したとわかる。大檀那嶋田家の壽慶(じゅけい)が結衆(けっしゅ)として加わっている。

(12)阿閣亮吟(あかくりょうぎん)居士の墓

「預修(よしゅ)」とあるので、生前供養を目的に享保18年(1733)に建立された。法名に「吟」が入り、その両脇に辞世の歌「たまのおは たえてもよしや みほとけに ■■を■■りの いしとなりけれ」と添えられ、和歌を嗜(たしな)む人であったとみえる。

(13)観音堂

国札観音31番札所で、本尊は千手観音菩薩。「観音へ 詣りて沖を眺むれば 岸うつ波に 舟ぞ浮かぶる」の御詠歌があり、元は海の見える北下台(ぼっけだい)にあって、館山城の鬼門だった。関東大震災での倒壊により本尊は長福寺に移された。館山観音は房州の「北向き観音」として親しまれている。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・鈴木以久枝・羽山文子・山杉博子 2017.11.12作
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

光明院と諏訪神社

青龍山光明院と諏訪神社の概要

(館山市波左間599,639)

 波左間(はさま)地区は、海岸線と丘陵に挟まれた狭い地形から「狭間(はざま)」と呼ばれた地で、縄文時代より海に関わり生きた人々の暮らしが営まれた漁村です。真真言宗の青龍山光明院(本尊:不動明王)と波左間の鎮守諏訪神社(祭神:健御名方命(たけみなかたのみこと))に守られたこの地区は、かつては網漁で賑わい安房地方でも有数の漁獲高を誇っていました。漁師の信仰心は厚く、網漁の一株分が神社の維持管理費に充てられていたことが伝えられています。諏訪神社祭礼では国の記録選択無形民俗文化財の「みのこ躍り」を継承しています。凝灰岩(ぎょうかいがん)で出来た加工しやすい岩盤を開削してつくられた境内には、幾つもの岩窟(いわや)があり神仏が祀られています。下の段に光明院、上の段に諏訪神社が並んで鎮座していますが、江戸時代末の文久年間(1861~1864)の火災で同時に社堂を焼失したことがあります。光明院の創建年代は不詳ですが、本堂の地蔵菩薩法衣垂下(ほうえすいか)坐像は室町時代後期の作と推定 されています。

(1)六地蔵

参道左手の岩窟(いわや)、境外墓地に向う道路沿い、境外墓地の中の3か所に六地蔵が安置されている。日本では六地蔵は墓地の入口などによく祀られている。道路沿いにある六地蔵の像高は約60cm。参道にある6体の六地蔵は約44cm。境外墓地の六地蔵は一石で宝暦3年(1753)の作である。お地蔵様は地域の境界に安置され悪病の侵入を防ぎ人々を守ると信じられており、子供達からも親しみを持たれている。

(2)延命地蔵尊

二体の延命地蔵尊のうち、左側の延命地蔵の蓮華座(れんげざ)には「念仏講」の文字が彫られている。坂田(ばんだ)との境にある浅間山(せんげんやま)の麓にあった地蔵尊で村境の道祖神(どうそじん)として祀られ、仏に救済を求める念仏講もあった事がわかる。昭和の初めに道路拡張に伴い現在の場所に安置された。

(3)青面金剛(しょうめんこんごう)像

60日ごとにくる庚申の日の夜に眠ると、三尸(さんし)という3匹の虫が体を抜け出し、天帝に罪科を告げ、天帝はそれを聞いて人の死期を早めると信じられていた。そのため人々は講を作って集まり、夜を眠らずに過ごして健康長寿を願った。崇拝の対象である青面金剛は庚申の主尊である。頭に髑髏(どくろ)を戴(いただ)き、背後の手は輪宝(りんぽう)・三股叉(さんこさ)・弓・矢を持つ。前面左手はショケラといわれる女人の髪をつかみ、右手には剣を持つ穴がある。上部には日・月・足元左右には鶏、踏みつけられた邪鬼(じゃき)の下には三猿が描かれている。この像は、寺号碑裏の石段を登りきった所にある岩窟(いわや)に祀られていたが、お参りが大変なので現在の場所に移されてたという。

(4)光明院本堂の彫刻

松や鶴の浮彫りを施した向拝虹梁(ごはいこうりょう)の上に、鋭い爪に長い胴、出っ張った丸い眼に大きく口を開けた頭部をもつ龍。木鼻(きばな)には獅子と象。肘木(ひじき)は波に亀。桁隠(けたかく)しに山鵲(さんじゃく)。堂を囲むように配した蟇股(かえるまた)などの彫物がある。文久年間の火災後に再建された際に作られたもので、初代義光(よしみつ)こと後藤利兵橘(たちばなの)義光が、明治元年(1867)、53才の時に制作した。寄進者として早川善兵衛など6名の名が刻まれている。なお、屋根の露盤(ろばん)には波の龍の鏝絵(こてえ)がみえる。

(5)大岡越前守家臣伊藤郡司の娘の墓

本堂裏手に名主佐野家の墓所があり、左端に天保14年(1843)2月に47歳で亡くなった「芳(よし)」の墓がある。碑文には三河国西大平藩(岡崎市)藩主である大岡越前守忠愛(ただよし)の家臣伊藤郡司の次女で江戸生まれとあるが、佐野家と彼女との関係については伝えられていない。

(6)白河藩士の墓

墓地の右手奥に10基の墓石が並び、その中に白河藩士の墓がある。文化7年(1810)、幕府より奥州白河藩に房総沿岸警備が命じられ、藩では波左間に陣屋(じんや)を置き500人を送り込んだ。親や妻子を伴って赴任した藩士も多く、文政5年(1822)までの約12年にわたる駐屯期間にこの地で亡くなった者も大勢いた。墓地の中央辺りにも2基の小さな幼児の墓があり、文化13年(1816)8月1日、2日と同時期に亡くなっている。白河藩士中部直方が建てたと刻まれている。

(7)首藤(すどう)金右衛門俊秀の墓

首藤金右衛門は白河藩の火術方で、藩主松平定信の命により、越後から鋳物師(いもじ)を招いて、波左間の陣屋で大小砲127門を作らせ、洲崎・百首(ひゃくしゅ)(富津)の砲台に備えた人物である。平砂浦で試射もしている。墓石から文化12年(1815)に69歳でこの地で没したことがわかる。

(8)元禄地震犠牲者の墓

墓地の崖際の一面に古い墓石がまとめられている。その中のひときわ大きな墓石の右側に、「元禄十六癸未之天(みずのとひつじのとし)(1703)十一月廿二日?蓮成鎮各霊位」と元禄地震の日付が刻まれている。左側には「元禄十一年霜月十日海水底流各霊位」とある。この墓石は、元禄地震や水難事故により亡くなった人達を供養した墓石と思われる。

(9)狛犬(こまいぬ)と寄付者記念碑

昭和2年(1927)に建立された「狗犬壹對(こまいぬいっつい)寄附者御芳名」の碑には、波左間漁業組合などの漁業関係団体・商店・船名・個人名が34組記され、8件ある商店名は、東京・横浜など県外の魚問屋と思われる。狛犬の乗る御影石(みかげいし)の台座には、奉納した「氏子中」「昭□二年六月吉日」と発起人2名の名前がある。1名は芳名碑にも記されている。

(10)諏訪神社の手水鉢(ちょうずばち)

正面に「奉納灌水(かんすい)」、右側面に「弘化二己巳(つちのとみ)(1846)夏五月良辰 神通(じんつう)従(したごう)書」、左側面に「江戸本船町(ほんふなちょう) 願主伊豆屋善兵衛」とあり、江戸日本橋の魚問屋による奉納とわかる。「灌水(かんすい)」の文字を書いた神通は、殿岡北海(とのおかほくかい)という富山藩士。9代藩主前田利幹(としつよ)に仕えた。江戸で国学者の清水浜臣(はまおみ)に学び、書に堪能だった人物。慶応元年(1865)没。

(11)諏訪神社拝殿の彫刻

社殿は平成の再建で、向拝(ごはい)の龍と肘木(ひじき)は現代の彫工稲垣祥三の作。それ以外は旧社殿のもの。作者は特定できないが、安房後藤派の流れを汲んだ作で、木鼻(きばな)の振向き獅子は初代後藤義光の弟子後藤義信(よしのぶ)の作品と酷似している。虹梁(こうりょう)や火灯窓(かどうまど)の上の貫(ぬき)に彫られた若芽彫(わかめぼり)の菊は初代義光の作と思えるほど彫りが深く丁寧な作り。切妻(きりづま)屋根の懸魚(げぎょ)には波にクジラと思しき彫刻がある。

(12)回国(かいこく)供養塔

境外の道路に面した崖面に彫られた岩窟の中に、六地蔵の右端に並んでいる。台座正面に「昭和四丁亥(ひのとい)(1767)天」、中央に「日本回国供養仏」とある。通常の大乗妙典(だいじょうみょうてん)六十六部供養塔とは異なり、「回国供養仏」と記され、塔身の上に地蔵立像が乗る。「行者空心」の銘があるが、生き倒れの六部(ろくぶ)の供養か、空心が供養したかは不明。台座・蓮華座・地蔵尊の石材は全て異なり、寄せ集めた可能性もある。

(13)三山碑(百観音供養塔)

正面に「月山、湯殿山、羽黒山」、右面に「西国、秩父、坂東百番観音供養塔」と「天保十二辛丑(かのとうし)(1841)二月」の年号が刻まれ、上に大日如来坐像が座(ざ)す。三山詣(まい)りは、仮の葬儀をして死出の旅として行うもので、出羽三山までは六道遍歴になぞらえて百観音霊場を巡り、三山で新しく生まれ変わって、行人(ぎょうにん)の資格である剣梵天(けんぼんてん)を頂き帰宅するまでの修行と信仰である。長い旅は3年を要した。行人の身代わりとして剣梵天を埋め供養塔を建てた。なかでも行人名のある三山碑は拝むだけで地獄、餓鬼(がき)、畜生(ちくしょう)の三悪道から永久に逃れられるという。三山碑は家族の墓地とは別に街道に面して建てられた。


作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
刑部昭一・鈴木正・殿岡崇浩・中屋勝義・吉村威紀 2017.6.25作
監修 館山市立博物館 〒294-0036 館山市館山351-2 TEL:0470-23-5212

三福寺

三福寺の概要

(館山市館山1195)

觀立山九品院三福寺(かんりゅうさんくほんいんさんぷくじ)は浄土宗の寺院です。文明3年(1471)に相蓮社順譽上人(そうれんしゃじゅんよしょうにん)によって開山され、元禄16年(1703)の大津波の後、新井浜(あらいはま)から現在地に移ったという伝承があります。里見義康(よしやす)が館山の城下町を造るために新井浦の土地を割り振る際に、寺の土地をとりあげたため、三福寺は代替地として汐入川(しおいりがわ)河岸を所望しましたが、後に河口から砂が押しあがり、河川の補修に必要な費用さえ捻出できず肝心の寺領にならなかったことから「御上地(ごじょうち)に、あてがいなしの三福寺」と言うことわざが生まれたと伝えられます。しかし、汐入川河口の利用は流通に関する権利を持つことを要求したのであり、先見の明と当時の権力者と深く結びついていたことを示すことわざとも言えます。元禄16年(1703)の大地震や大正12年(1923)の関東大震災による焼失等度々災難に遭い、寺宝、過去帳や文献等が失われていますが、境内には、館山ゆかりの偉人の碑や墓があり、創建以来の歴史の一部をうかがい知ることができます。かつて山門は境内の西側に位置していましたが、現在は汐入川沿いにも入口ができ、本堂はその正面に平成10年(1998)に再建されました。

(1)庚申塔

寛文11年(1671)7月に建立された。正面に一面六臂(ろっぴ)の青面金剛、足元に三猿が彫られている。新井光明講中の施主の館山中町9名の名が刻まれている。家内安全、五穀豊穣等を祈り建立したもの。60年に一度の庚申の年ではないので庚申講の集まりを3年18回続けた時に建てられたと思われる。

(2)新井文山夫妻墓碑

-1 新井文山(あらいぶんざん)は幕末の房州の儒学者。館山新井に生まれ、幼少時より三福寺住職や地元柏崎の素封家鈴木直卿に学問の指導を受け、14才の時住職の援助で江戸に遊学する。昌平黌(しょうへいこう)(昌平坂学問所)に入門し儒学を学び、28才で帰郷して塾を開き地域の教育に力を注いだ。天保7年(1836)、館山藩主稲葉公に仕え、天保13年(1842)に目付兼郡奉行となる。中央が文山、左に先妻、右に後妻の法名が記されている。左側面には先妻を讃えて門人の上野清泰が墓誌を記している。

-2 文山は嘉永4年(1851)73才で没。碑銘は嘉永6年(1853)、次男の可大(かだい)に請われた昌平黌教官の佐藤坦(たいら)(号は一斎(いっさい))の撰文で、保田の武田石翁により刻まれている 。

(3)宮司政吉君の碑

明治40年(1907)建立。館山町生まれ。明治37年(1904)2月に開戦した日露戦争に翌月出兵し、同11月旅順において戦死した。享年23歳。東宮職御用掛(ごようがかり)小野燗(かん)による選書と篆額(てんがく)である。小野?(小野鵞堂(がどう))は、明治初期北条にあった長尾藩の人。28歳で「明倫歌集」を歌かるたにして昭憲皇太后に献上した。38歳で東宮職御用掛、明治・大正期のかな書道界を代表する大家である。基壇にある2個の砲弾は、直径の大きさから三笠型の副砲ではないかと思われる。

(4)伊串歌夕墓碑

三秋庵歌夕(さんしゅうあんかせき)は通称平六といい、俳諧(はいかい)を能(よ)くした人物。大阪の人で宝暦5年(1755)生まれ。館山で櫛(くし)屋を営む伊串(いぐし)氏に婿入し、文政2年(1819)に亡くなった。櫛の絵が描かれた墓碑は天保4年(1833)に友人達が資金をだし、新井文山が碑文を書いた。

(5)石造釈迦如来三尊坐像

参道の左に館山町楠見の石工、俵光石(たわらこうせき)による釈迦三尊像がある。礎石を含めた高さは3.85m。伊豆の小松石を用い、螺髪や口髭を付けふっくらしたお顔で脇侍(わきじ)を従えている。舟形の光背には菩提樹の葉を模った光輪、その両脇にはインド風な仏塔が配されている。釈迦像の下には獅子と上向きに手を合わせた人物が彫られている。裏面上部に「明治三十六年十一月建立 當山廿(にじゅう)九世頂譽圓順代」、同下部に発起人16名の名と「高村光雲(たかむらこうん)門下俵光石彫刻」等と刻まれている。

(6)魚麟供養塔  

享保15年(1730)9月建立。「浄土三部経一字一石」と刻まれているので無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経の3つの経典を小石に一文字づつ書き写して埋め、建立した塔である。新井浦は、昔、漁村であったので魚を供養する為に建立された。

(7)先達(せんだつ) 辰野浄全墓

墓石は1.5m程で大満虚空蔵(こくうぞう)講中により建てられている。浄全は明治43年(1910)37才で亡くなった。大満虚空蔵とは茨城県東海村の村松山大満虚空蔵尊のことと思われ、館山から浄全を先達として参詣したと推察される。

(8)俵 光石の墓碑 

境内墓地の俵光石の墓には、「昭和十年二月十三日没 行年六十八才 俗名房吉」とある。俵光石は慶応4年(1668)7月、安房郡楠見村の石屋を営む家に生まれた。明治24年(1891)頃上京して東京美術学校彫刻科教授高村光雲の門下生となり、明治27年(1894)年同校同科石彫教場助手に任命され教官となる。しかし、明治30年(1897)、館山に戻り稼業の石屋を継いだ。光石は、芸術的な作品にも意欲を見せ、当境内の釈迦(しゃか)三尊像や酒樽型の墓、寺社の狛犬、不動明王像、地蔵半跏(はんか)像など優れた作品を残している。

(9)岩崎家の墓域 

「岩崎家先祖代々 一切精霊墓碑」に岩崎与次右衛門(いわさきよじえもん)のものと思われる戒名「仰譽求道淨圓居士 寛永六年(1629)夘四月十四日」が刻まれている。岩崎与次右衛門は安房里見氏の居城館山城下館山町(上町・中町・下町)の肝煎(きもいり)役で豪商の一人で三福寺の大檀那。岩崎氏は米を中心に多角的な経営によって巨富を築いた商人であり、天正12年(1584)里見義頼(よしより)から館山城下沼之郷(館山市沼)に屋敷地を与えられた。義康(よしやす)の時代には城下商人の頭取(とうどり)を、慶長15年(1610)には忠義から町中肝煎役を命ぜられた。慶長19年(1614)、里見氏が改易になると「浄延斎」と号して隠居したが、元和元年(1615)、幕府から再び名主役を命ぜられた。三福寺が拝領した汐入川河口部の水運や湊機能を維持するのに必要な費用負担が莫大だったため、人的・経済的能力のある岩崎氏が深く関与していたのだろうか。

(10)徳本上人名号塔 

名号塔(みょうごうとう)とは、塔面に「南無阿弥陀仏」の六文字を刻んだものである。徳本上人(とくほんしょうにん)の独特の書体の文字と花押(かおう)が刻まれている。文政2年(1812)に二十六世 應運社瑞譽秀阿上人(おううんしゃずいよしょうあしょうにん)の時に建立された。台座には、90名余りの戒名と供養した者の町・村と名前が記されている。なお、徳本上人は、江戸時代後期の浄土宗の僧で、念仏講を組織して関東、北陸、近畿地方の農民、大名などから熱狂的な支持と崇敬を受けた。


<作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
青木悦子・金久ひろみ・佐藤博秋・佐藤靖子・鈴木正>
監修 館山市立博物館  〒294-0036 館山市館山351-2 ℡.0470-23-5212

伝説の山里・神余(かなまり)

神余地区の概要

館山市豊房地区の南部に位置し、東は豊房地区畑、西は神戸地区、南は南房総市白浜町に隣接している。神余の地名は、平安時代の『和名類聚抄』に「加牟乃安万(末)利」と記され、神戸郷を割いて余戸をおいたので「神余」になったと伝えられている(古代日本の律令制では、里(郷)は50戸ごとに編成された)。永享年間(1429~1441)頃まで安房郡を領有していた神余氏は、家臣山下定兼の反乱により滅び、安房郡を山下郡と呼んでいたことがあり、『南総里見八犬伝』の題材にもなっている。
明治22年(1889)、12村が合併して豊房村が誕生し、昭和29年(1896)、豊房村は館山市に編入された。神余区は、上・大倉・加藤・平田・久所・上台・畑中・山下の8組に分かれ、神余地区の中央を北から南に流れる巴川を挟んで、西に山下城跡、東には神余城跡があり、隣接する神余小学校は神余氏の居館跡と伝えられている。

(1)御腹やぐら

 畑地区に近い小字地蔵畑の斜面にある(間口3m高さ2m奥行3m)。内部に宝篋印塔がある。神余景貞は家臣山下定兼の謀反に遭い、自性坊の介錯によりこの地で自害したと伝えられる。宝篋印塔の基礎部分に「宗菴」「禅定門」とあるが、景貞の法名は香山受心大居士である。

(2)地蔵畑の地蔵

 御腹やぐらのある北側約100m山道の山林の中に位置する。石地蔵が2基あるので地蔵畑と言われるようになった。坐像と立像で頭部欠損。立像の裏面に「神余村地蔵畑往古ヨリ本尊ハ元禄十六癸未年十一月廿二之夜大地震ニテ岩屋崩木像故別当自性院エ奉遷則」とある。

(3)自性院

 真言宗の寺院。本尊は不動明王。室町時代、神余の豪族神余景貞が家臣の山下定兼の反逆にあい、地蔵畑の岩屋にて自刃したとされる。ここに自性坊が供養のため自性院を創建したと伝えられ、元禄の大地震で岩屋が倒壊したため現在地に移ったとされる。平安時代中頃の阿弥陀如来座像と阿弥陀如来立像から発見された鎌倉時代の水晶製六角五輪塔形舎利塔は、市指定文化財。

(4)日吉神社

 旧村社で祭神は大山咋命。神余地区の鎮守。7月19・20日の例祭で奉納されるかっこ舞は、平成8年(1996)に館山市無形民俗文化財に指定。手水石は天保9年(1838)、名主金丸氏や和頴氏などが寄進した。石工は白浜滝口の亀吉。寛保2年(1742)の石燈篭や力石がある。江戸時代は安楽院が別当をしていた。

(5)医王山安楽院跡

 神余茂詮開基の真言宗寺跡。開山は文安5年(1448)、頼智法印(神余景貞の第2実弟)、本尊は薬師如来。大正の震災で潰れ、昭和3年(1928)に自性院に合併された。金丸氏の子孫で名主を勤めた伊佐家や、医師や学者を出した和頴家などの墓がある。

(6)塩井戸

 旅の僧に貧乏のため塩気のない小豆粥を出したところ、僧は川に杖をさして塩を湧き出させたという。その僧が弘法大師だという言い伝えがあり、千葉県有形民俗文化財に指定。井戸の手前には明治時代の弘法大師像が残る。手水石は明治19年(1886)。上流の石積みアーチ式の橋は明治44年(1911)に架設。

(7)智恩寺

 曹洞宗、本尊は地蔵菩薩。開基は里見義康で慶長8年(1603)建立。寺領は10石。開山は斧山良?(ふさんりょうとつ)。慶長18年(1613)、寺領寄進の里見忠義の古文書や、初代武志伊八郎の彫刻(龍や鶴)が残る。天保13年(1841)奉納の手水石には里見氏の家紋がある。石工は館山楠見の田原長左衛門。境内に「大乗妙典一字一石書写」の石塔がある。白浜川下浦の二人の女性が石に経文を一字ずつ書上げ、享保13年(1728)に神余の念仏講中と埋納した。

(8)無量山来迎寺跡

 塩井戸の奇跡を起こした弘法大師をもう一度お迎えしたいと、大同4年(809)、来迎三尊(阿弥陀、観音、勢至)を安置して開山したと伝えられる。塩井戸の管理も行っていたが、大正12年(1923)の震災で倒壊し自性院に合併。本尊阿弥陀如来の頭部からは水晶の舎利塔が発見された。墓地が無く、入口に寺留守居番の墓石があるのみ。隣に回国巡拝塔、馬頭観音がある。寺跡は岩壁に囲まれた修験の山寺の様相が残る。

(9)福聚山松野尾寺跡

 応永26年(1419)、金丸26代景貞3回忌供養で、旧居城の一角に文殊菩薩と阿弥陀如来を祀る念仏堂を建てたとされる。文安5年(1448)、福寿山満福寺と改め、城跡山頂にある薬師如来を守護させた。後に松野尾寺となり、本尊文殊菩薩、観音堂には聖観音を祀り、安房国札観音28番札所となる。大正の震災で倒壊したが庫裏は仮校舎として使用。昭和3年(1928)自性院に合併された。今は墓地と弘法堂跡が残っている。

(10)大井戸

 大高尾大井戸。集会所脇には、古来から清泉が湧き出ており、飲料水として近年まで使用されてきた。左手の壁面にある記念碑には、生活様式の変遷に伴い改修が重ねられたが、非常用水の必要性から大正14年(1925)に、地区の共有地として買収し大改修したとある。援助者、世話人、石工、共有者等の11名が記されている。

(11)道標

 集会所入り口に子安地蔵の道標がある。文化2年(1805)8月「右くにふだみち」と記されている。元の場所は定かではないが、集会所に入る道路入り口付近にあったと伝えられる。安房国札第28番が松野尾寺(9)、第29番が市内神戸地区犬石の金蓮院である。

(12)金明様

 大高尾字揚橋に石宮一基がある。伝承によると、源頼朝の家臣が石橋山の合戦で深手を負い、頼朝に仕えることができないと自刃し、頼朝は、伊豆国を望める小山に埋葬して金明社と名付けたという。白浜方面の漁師は金明様に願をかけると海難を免れ、大漁になると信じられたため、かつては参拝者が多く茶店がたつほどであった。

(13)逸郷の滝

 巴川上流の字市郷にある。直径約12mの滝壷を備えた景観は房総のナイアガラと表現されるように見事である。ここにはかって不動明王を祀ったお堂があったが、このお堂が洪水に押し流され相浜に流れ着いたのが感満寺であるという伝承もある。感満寺は、現在の相浜神社の前身。

(14)神余六地蔵

 上の台、久所橋近くの地蔵(f)に「神余六地蔵第六番終」とあり、周辺に他の地蔵はないため、辻や街道、牛馬墓地、寺院入口など神余各地に点在する以下の地蔵が「神余六地蔵」と推定される。

(a) 久所堰面地蔵 (画像のもの)

(b) 神余畑入口

(C) 山下墓地入口

(d) 松野尾寺入口

(e) 来迎寺入口(安永9年(1780))

(f) 上の台、久所橋近く(享保元年(1716))


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」 佐藤博明・佐藤靖子・鈴木以久枝・鈴木惠弘・中屋勝義>
監修 館山市立博物館

日枝神社

日枝神社(ひえじんじゃ)の概要

 古くは那古(内房)から清澄方面(外房)への往還沿いにあたる館山市竹原字山王(さんのう)に鎮座する神社です。社伝によると仁寿2年(852)、近江国(滋賀県)にある日吉(ひえ)大社を勧請し、慈覚大師が創建したと伝えられています。祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)で、配祀は素盞鳴尊(すさのおのみこと)と誉田別命(ほんだわけのみこと)です。別当寺が今宮山浄蓮院(宝珠院末)であったことから、今宮山王(今宮山王大権現)と呼ばれていました。明治政府の神仏分離令にともない、明治3年(1870)に日枝神社と改称しました。この神社は、その昔治承4年(1180)、安房に拠った源頼朝が再興を祈願したことから、建久6年(1195)に祠堂を建立し、竹原・江田・中・御庄・山名の5か村から90石を寄進されたと伝えられています。後に里見氏も永正7年(1510)に社殿を修復し、今宮山王分として広瀬村の内で5石を与えたとされ、更に徳川幕府からも引き続き高5石が安堵されました。また、稲村城の鬼門除けの社とされたという口碑や、頼朝との関係で同所横枕に摂社として源頼朝公霊神を祀る御霊社もあります。毎年10月10日の例祭では、大正時代までは社前で竹原・江田・中・御庄・山名の各村の人々を中心とした流鏑馬(やぶさめ)・競馬の神事が行われていました。浄蓮院は41世まで続き、神仏分離令で廃寺になると日枝神社の神職になりました。この神社には祭神の本地仏(ほんじぶつ)である薬師如来(慈覚大師作)が祀られていましたが、分離令とともに現在は近くの宝樹院(真言宗)に安置され、安房国48か所薬師如来霊場の東口12薬師、第10番のお薬師様として寅歳に開帳されています。

(1)鳥居

 国道128号のバス停「竹原口」より100m東、左の直線700m先に見える真正面の鳥居が日枝神社である。朱塗りの鳥居は両柱の前後に控柱を付け、本柱を2本の控貫でつないだ両部鳥居である。笠木の上に屋根を付けるのは神仏習合の神社に多いという。日枝神社も明治までは今宮山王大権現と称し、真言神道・山王神道とのかかわりがある両部神道であった。

(2)御神木(びゃくしん古木)

 御神木のびゃくしんは山の上の浅間様の傍らにあった千年の高木で、海上からの目印にもなり漁業関係者に重宝されていた。今から約150年前の落雷により枯木になり虚(うろ)が出来てしまったが、神社前の三叉路に移され、交通の要所として目印になった。毎年6月の田植の頃、豊作を祈念する「虫おくり」の神事が虚(うろ)に火を炊き込め行われてきた。木の中が黒く焦げているのはそのためである。昭和47年、土地改良基盤整備により鳥居脇の現在地に移された。

(3)石燈籠

 境内中段にある石燈籠は高さ約2.6mで、慶応2年(1866)、地元の鳥海助八を願主に、77名という多数の世話人氏子中により寄進された。石工は和七となっている。向かって右側の燈籠には願主が寄進を思いたったいきさつが刻んである。八丈島の文字が見え、読んでみると興味深い。

(4)手水石

 境内の中程に、巾125cm・奥行56cm・高さ53cmの大きな手水石が2基の台座に支えられている。手水石の前面には「献水」の文字が刻まれ、左側面には文政13庚寅(かのえとら)9月吉日(1830)と願主若者中とある。また右側面には石番匠(ばんじょう)和七という文字があり、石工に復古的な中世の職名が使われている。

(5)狛犬(こまいぬ)

 境内の階段を上まであがると全高1.8mほどの狛犬が両脇にいる。昭和11年(1936)10月、地元の小倉ますが寄進。石工は館山地区楠見の俵徳次。

(6)石燈籠

 拝殿の前にある石燈籠は高さ1.7mほどあり、左側の燈籠には安永6年(1777)酉9月吉日と彫られ、氏子中により建てられた。竿の部分に「銀燭」の文字が見える。(明治28年の古社調書には載っていないので、その後他所から移したのかとも思われる)

(7)拝殿・本殿(社殿)

 現在の社殿は昭和59年9月に建立され、拝殿は間口5間・奥行2間、本殿は間口2.5間・奥行2間の権現造りである。拝殿の扉上には波と日枝神社の神号の彫刻を施した掲額がある。「彫刻師後藤利三郎橘義久」「東宮侍講(じこう)従四位本居豊穎(もとおりとよかい)敬書」とある。後藤義久は竹原村真岡の生まれであり、初代後藤義光の弟子で四天王の一人といわれた人物。日露戦役がはじまった明治37年(1904)に制作したものである。向拝の梁上には竜の彫刻があるが銘は見当たらない。拝殿内には熊野大権現(素盞鳴尊(すさのおのみこと))・山王大権現(大山咋命(おおやまくいのみこと))・八幡大菩薩(誉田別命(ほんだわけのみこと))と彫刻された掲額がある。

(8)境内末社

 境内西側にある覆い屋(間口2.54m・奥行1.62m、銅板葺)に、天満天神(菅原公霊神)・八雲社(素佐之男命(すさのおのみこと))・大宮大神(大宮能賣命(おおみやのめのみこと))・神明社(天照大神(あまてらすおおかみ))が祀られている。木札に「昭和49稔新嘗(ねんにいなめ)祭日 改修奉鎮」の墨書がある。この4社は村内にあった小社を明治期に合祀したものであろうか。中にある石宮1基はそのうちの元宮であろうと思われる。

(9)駒留地蔵尊

 真岡地区の入口右側の山肌にある。高さ1.2m・間口1.5m・奥行76cmの岩窟の中央に、60cm角の台座上に高さ95cmの石造地蔵菩薩半跏(はんか)像が安置されている。台座に「南無地蔵」の刻字がある。延喜2年(1745)に念仏の同行中によって競馬で亡くなった人の供養として建立されたと伝えられている。また、左脇には板碑状の石造馬頭観音菩薩立像、右脇には蛇紋岩製の「光明真言一百万遍塔」と彫られた石塔がある。なお、ここは階段が急で周りの岩石が崩れ易いので注意のこと。

(10)出羽三山碑

 境内の山腹に高さ1.3mの三山碑がある。正面には湯殿山を中心にした江戸時代とは違う配列で文字が刻まれている。右から出羽大神・月山大神・湯殿大神とあり種子は刻まれていない。碑の裏面には施主として当所の加藤徳次郎・鈴木清次郎・石橋惣吉・小柴定右衛門の名前と明治42年(1909)7月16日の日付が記されている。
 この碑の正面の文字の配し方については、明治新政府は慶応4年(1868)に国家の基本方針の宣言として、「五ケ条の誓文(せいもん)」と王政復古、神武創業の始めに基づき諸事御一新・祭政一致の制度にかえてという布告をする。さらに「神仏分離令」の宣言があって、以後廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)という騒動にまで発展してしまった。この三山碑の配字変更をした理由には次のような事情があった。従来月山と表示していたものは、月読命(つくよみのみこと)を祀る官幣大社「月山神社」となり、湯殿山は大山祇命{おおやまづみのみこと}を祀る国幣小社「湯殿神社」、また羽黒山は稲倉魂命{うがのみたまのみこと}(伊氏波神)を祀る国幣小社「出羽神社」に列格することとなり、神社の社格を考慮して、以降月山大神を中心に刻字されることになった。

馬場と競馬神事

 この神社の例祭は、古くは9月8日・9日に執行され、神事として流鏑馬(やぶさめ)・競馬が行われていた。この神事は古来鶴谷八幡宮の命婦(みょうぶ)武内家が取り仕切った神事で、8日に鏡ヶ浦に行き禊(みそぎ)をして鶴谷八幡宮に参詣、流鏑馬の神事を行い、怨敵退散・天下泰平を祈った。その後日枝神社に帰り、鳥居内で流鏑馬の神事があり、競馬は旧浄蓮院前から西へ駒留地蔵手前の大黒屋前までを馬場として、8日に5回、9日に7回行われた。明治になって10月9日・10日に改められ、競馬は大正時代まで行われていた。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
青木悦子・中村祐・御子神康夫・吉野貞子>
監修 館山市立博物館

手力雄神社

手力雄(たぢからお)神社の概要

 館山市大井字船田にあり、古来安東明神または神力山(みたきやま)明神として人々に尊崇されてきました。江戸時代には手力雄明神や大井明神と呼ばれ、明治初年に手力雄神社と改称されます。養老2年(718)、舎人(とねり)親王(天武天皇第五皇子)による創建と伝えられ、祭神は天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)を主神とし、天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)、太田命(おおたのみこと)の三柱を祀っています。天手力雄命はあの天岩戸の神話に登場する神です。「素盞鳴尊(すさのおのみこと)が乱暴な振舞いをするので天照大神(あまてらすおおみかみ)は天岩屋(あまのいわや)におかくれになった。天下は闇の状態になり、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)(天御中主神の子)は神々を集めて協議され、思兼神(おもいかねのかみ)の考えを容れて、榊に鏡や鈴、麻や木綿の帛(ぬさ)を掛け、天鈿女命(あめのうずめのみこと)に歌や踊りを舞わせたところ、大神は何が起きたかと岩戸を少し開けてご覧になった。そこで天手力雄神が岩戸を開き大神をお出しした」という神話です。そのため天手力雄神は大力の武勇の神として崇拝され、武士の間では信仰が厚く、源頼義・義家父子や源頼朝などが戦勝祈願に立ち寄ったと伝えています。また足利義満や里見義実・義豊なども社殿を造営したとされ、里見氏や徳川将軍からは朱印地43石3斗を賜りました。この地域は古くから開発された地で、周辺には多くの横穴墓が残っています。太古はこの辺まで海だったようで、麓の社務所西隣にある船田池(ふなだがいけ)の池底から寛永年間に丸木舟が発掘された記録があります。神社は神力山中腹にあって、現在の三間社流れ造りの本殿は宝永6年(1709)の竣工で県の指定文化財。幣殿(へいでん)(瓦葺)と拝殿(銅板葺)はいずれも神明造りで明和5年(1768)の竣工です。拝殿前の杉の大木は市指定の天然記念物。年中行事は9月14・15日の鶴谷八幡宮国司祭への出祭、10月9日の例大祭があり、かつては12月25~31日に御狩(みかり)神事が行われていました。

(1)両部鳥居(りょうぶとりい)

 けやき材で高さ約4mの朱塗りの両部鳥居で、神額に神力山(ミタキヤマ)とある。昔舎人(とねり)親王が朝夕神拝のたびに、この祭神を「見たきの神」と唱えたことから見度山(みたきやま)と呼んだのを、のち神力山に書き改めたという。鳥居の建立は寛政10年(1798)で、昭和63年に屋根(甍覆(いらかおおい))だけを残して改修された。

(2)石灯篭

 安永7年(1778)に隣村薗村の名主影山(景山)与左衛門が願主となって奉納した。当社の祭神天手力雄命は武勇の神としてだけでなく、農耕の神としても近隣の人々の信仰を集めていた。

(3)手水石(ちょうずいし)

 文政9年(1826)3月、白子村(南房総市白子)の佐藤八左衛門ほか16名が願主となって寄進している。世話人は白子の石井卯兵衛、石工(いしく)は江戸深川大工町霊岸前の霜崎長兵衛とある。

(4)狛犬(こまいぬ)

 太田太郎兵衛が願主となり、大井村の氏子たちを世話人として、明治16年(1883)に奉納された。太郎兵衛は(11)の記念再興碑を建てた太田重太郎の父で、当社と深い関係を持った家である。

(5)大杉

 拝殿前に聳え立つ大杉はご神木であり、注連縄(しめなわ)が張られている。市内最大のスギで、昭和47年(1972)に館山市の天然記念物に指定された。幹周4.64m、樹高28m、推定樹齢700年とされている。地元の伝承によれば、明和4年(1767)に幣殿・拝殿を造営するおり、2mほど根元が埋められたという。

(6)御即位記念樹

 拝殿前には三代の即位記念樹がある。向かって左は、大正5年(1916)3月に植樹された大正天皇即位記念の月桂樹で、現在は古株から育った孫生(ひこばえ)になっている。向かって右には、昭和4年(1929)3月に植樹された昭和天皇即位記念のヒマラヤスギと、平成3年(1991)3月植樹の今上天皇即位記念のナギ2樹がある。

(7)拝殿

 拝殿内正面左の額は病気平癒記念の額で、明治44年(1911)に地元の太田重太郎が病気平癒を感謝して奉納した。左部分に病の重太郎が産土神(うぶすながみ)に参詣して全治したことが書かれ、右側に古事記天岩戸の場面が彫物師後藤義信の手で彫刻されている。俳諧額は明治3年(1870)2月、小原村(館山市)の俳人山根路行が催主となり、田村菱湾・平島占魁・森岡木鵞など安房地方南部の代表的俳人の歳旦句を集めたもの。額縁には後藤義光の龍の彫物があり、北条村の絵師渡辺雲洋の梅の図が添えられている。

(8)本殿

 側面2間、正面3間の流れ造り。反りの大きい破風(はふ)、屋根は重厚な檜皮葺(ひわだぶき)、側面の羽目板(はめいた)は丹青(たんせい)で色彩してある。三方に匂欄(こうらん)を廻らし、脇障子(わきしょうじ)を立てる。舟肘木(ふなひじき)、三斗組(みつとぐみ)、蟇股(かえるまた)、木鼻(きばな)などの組物の間を江戸の彫物師による彫刻で飾り、幣殿(へいでん)と本殿を7段の木階(きざはし)で結んでいる。江戸時代中期の宝永6年(1709)に改修が施されているものの、豪華な装飾と躍動美を特徴とする桃山時代の様式をとどめる建造物として、昭和55年に県の有形文化財に指定された。

(9)石井氏(昌道)碑

 明治29年(1896)に手力雄神社の神主石井昌道(まさみち)が没したのを惜しみ、翌年功績を顕彰して建てられた碑である。昌道は幕末から明治期に活躍し、慶応4年(1868)の維新の混乱期に近隣の治安維持のため、独自の勤王隊として神主や医師などを中心とした房陽神風隊(ぼうようしんぷうたい)を結成した。碑文には、昌道が江戸昌平校で学んだ生い立ち、維新政府の東海道先鋒総督府への神風隊設立の願い、昌道が中風症で倒れたことなどが漢文で記されている。建碑発起人として九重村など12村96名の名が刻まれている。

(10)船田池(ふなだがいけ)

 社務所下にある船田池から、江戸初期の寛永年間に池を浚って三艘の丸木舟が発見されたと伝えられている。そのため御舟(みふね)池(神舟(みふね)池)とも呼ばれていた。天手力雄命が当国に来たときの丸木舟だというが、今に伝わらない。かつては広い池で水蓮の映える美しい景観であったが、真野大黒天への道路整備などによって池は縮小された。今は弁天祠とともに数本の桜が名残をとどめるだけである。

(11)大井大明神止止山鼻(どどやまのはな)大岩屋旧跡記念再興碑

 手力雄神社裏の止止山から西側に約50m伸びた尾根の麓に、昔岩屋があったといい、その場所に記念碑が建てられている。この記念碑を建てた太田家は、そのむかし手力雄神社の別当職円行寺(修験)であったと刻まれている。昭和24年、太田重太郎建立。

(12)神代古蹟保存再興碑

 皇紀2600年(昭和15年)記念事業として、手力雄神社の主祭神である天手力雄命の事跡を伝えるとともに、神代の古蹟保存の大切さを啓発するために建てられたものである。碑の場所は、天手力雄命が当国に初めて上陸し、滞留したと伝えられている九重地区安東の足掛塚(あしかけづか)(JA安房農協本店裏)と呼ばれる地である。


<作成:ふるさと講座受講生
青木悦子・井原茂幸・金久修・君塚滋堂・鈴木惠弘・御子神康夫・山井廣・吉野貞子>
監修 館山市立博物館

国分寺

日色山国分寺(こくぶんじ)の概要

館山市国分字天神前にある真言宗の寺院で、奈良時代の天平13年(741)に聖武天皇が全国に建立した国分寺のひとつです。国分寺建立の詔勅の時、安房国はまだ上総国の一部だったので、安房国分寺が置かれるのは独立した天平宝字元年(757)以降のことになります。寺伝では天平15年に国司の太木綿麿(ふとぎゆうまろ)が寺地を寄進し、行基作の薬師仏を本尊に堂宇を建立、日色御堂と称したのをはじまりとしています。今は東口十二薬師巡礼の第一番札所です。山門をくぐって正面の薬師堂が本堂で、向拝には国分と山本の講中で奉納した享保18年(1733)の鰐口があり、堂内には元禄16年(1703)再興の本尊薬師如来坐像、聖武天皇肖像画、歴代住職の位碑などが安置され、寛政2年(1790)の孝子伴直家主(とものあたいやかぬし)礼拝図の絵馬が掲げられています。左手の一段高い土盛は旧国分寺の金堂跡で、境内には旧国分寺の礎石もあります。ほかに南北朝期の五輪塔や孝子家主の記念碑、江戸時代に北条藩領の万石騒動で犠牲となった安房三義民を顕彰する石碑が多くみられます。

(1)孝子伴直家主(こうしとものあたいやかぬし)之里碑

 伴直家主は平安時代の初期の人で、『続日本後紀』に記されている「孝子(親孝行者として顕彰された人)」。承和3年(836)に、親の死後も墓前で孝行を続けた徳行が朝廷から表彰された安房の人で、国分村の出身とされることから、明治45年(1912)に時の館野村長や元安房郡長らによって、国分を家主の里として顕彰するために建てられた。

(2)水準点

 一等水準点として大字国分字天神前958番2に所在する。2000年度の再測量により標高19.4148mとされている。水準点とは水準測量に用いる際に標高の基準となる点のことである。

(3)三義民の墓

 正徳元年(1711)、北条藩屋代家の財政建て直しのため、用人川井藤左衛門が行った増税に対し、領内27か村の農民の一団が減免を訴えて、幕府老中へ直訴した事件があった(万石騒動)。川井は薗村名主五左衛門・湊村名主角左衛門・国分村名主長次郎の3名を代表として処刑。しかし直訴が受け入れられて、川井は翌年斬首され、屋代家は領地没収となった。犠牲となった名主は「三義民」と称されて供養塔が建てられ、命日には今も多くの人々が集まり盛んな供養祭が行われている。萱野の処刑場跡とともに館山市の指定史跡である。

(4)安房郡三名主の碑

 三義民200回忌の明治43年(1910)、館野村の篤志家らが27か村に呼びかけて建立した。撰文と篆額は枢密顧問官で文学博士の細川潤次郎である。彼は明治27年(1894)に公務出張中に当地で「万石騒動」の歴史を知り、後にこれを公刊した。碑文には万石騒動の顛末と、感銘を受けた思いが漢詩で綴られている。書は茨城県出身の諸井春畦。

(5)念仏講供養碑

 元禄9年(1696)、南無阿弥陀仏を唱える念仏講の人たちが建立した。中央に南無阿弥陀仏、その下に小さく念仏講衆とあるが、講員の名前は不鮮明。碑の左右両側に蓮の花の線刻が鮮明に残っている。

(6)本橋米吉君墓碑

 日露戦役で戦死した陸軍歩兵一等卒本橋米吉の墓。米吉は国分の人で、明治37年に征露の軍に従い、同年12月、旅順攻略戦のなかで清国松樹山にて名誉の戦死を遂げた。享年23歳。

(7)無縁墓地

 石造の地蔵尊・出羽三山碑2基・廻国供養塔などがある。地蔵菩薩立像は国分の地蔵講が寛政10年(1798)に立てたもの。同坐像は嘉永4年(1851)。三山碑は奥が文政10年(1828)、手前が文化6年(1809)のもの。廻国供養塔は寛政3年(1791)に地元の善蔵・松次郎が日本一周の旅を終えた記念に建てたもの。享保12年(1727)の大日如来もある。

(8)相川直治君墓碑

 千葉師範を出て在職4年で亡くなった山本小学校(現館野小学校)訓導の墓。明治33年(1900)没、享年22歳。篆額は郡長吉田謹爾、文は漢学者恩田利武で、教員鈴木周太郎の書。

(9)原田伝次君墓碑

 日露戦役で戦死した陸軍歩兵一等卒原田伝次の墓。明治38年(1905)3月の奉天会戦のとき、清国の盛京省田義屯で戦死。享年22歳。

(10)三義民飯田長次郎(国分村名主)の墓

 三義民の供養塔と別に地元の飯田長次郎の墓がある。戒名は貞信院剣室道霜居士。処刑の日、陣屋から縄もっこに乗せられた長次郎は、家の前で待っていた妻や子どもに見送られ、萱野の刑場に向かったという。正徳元年(1711)11月26日のことである。

(11)後藤喜三郎の墓

 「国分の彫り物師」として親しまれる後藤喜三郎橘義信の墓。喜三郎は本名を行貝福松といい、嘉永2年(1849)国分に生まれた。安房を代表する彫刻師後藤義光の門人であり、兵三・利三郎・庄三郎とともに後藤の四天王といわれた。多作な人で館山市内にある明治・大正期の山車・屋台の多くは義信の作だという。大正15年(1926)没、77歳。後藤氏に関係する墓が薬師堂右手裏にもある。

(12)旧国分寺礎石

 境内には径約60cmの旧国分寺の礎石と伝わるものが4個ある。うち1個は薬師堂前の枝垂れ柳の下、残り3個は日露戦没者墓(6)近くの立ち木の下にある。寺の西方、国道西側の畑から掘り出された。

(13)織原直之の寿蔵碑

 房州出身の儒者織原伴左衛門直之の功績を讃えた寿蔵碑で、86歳の文化14年(1817)建碑。朱子学者山崎闇斎の学統である野田剛斎の弟子間斎に江戸で朱子学を学び、国分村に戻って数百人に学問を授けている。建碑の2年後に没し、法名は操賢院大智恵観居士とある。

(14)石造地蔵菩薩立像

 山門左手前の墓域入口に南面して、総高150cmの地蔵菩薩立像がある。光背に阿弥陀三尊の梵字、念仏衆生摂取不捨の祈願文、元禄10年(1697)8月建立の記録、講衆19人の男女の名前が刻まれている。

(15)軍神西尾常三郎大佐の墓

 南側新墓地の中ほどにあり、約2mの白い標識が目印。三義民のひとり飯田長次郎の後裔で、日中戦争で金鵄勲章を受けた軍人。太平洋戦争中の昭和19年11月、陸軍特別攻撃隊富嶽隊の隊長としてフィリピン島沖で敵戦艦に特攻、戦死した。大佐に特進。享年29歳。

(16)手水石

 弘化4年(1847)に国分村中と隣村山本村から奉納された。

(17)万石騒動250年忌供養塔

 三義民と万石騒動関係者52名さらに一万石領内良民一同の霊を慰める塔として、昭和34年5月に建立された。裏面に万石騒動一揆神文誓書連判者名を列挙して偉大な先祖の冥福を祈念している。

(18)孝子家主(やかぬし)の碑

 嘉永4年(1851)、安房屈指の石工武田石翁が、家主の両親の墓碑として建てた。碑下部には父母の塚に礼拝する孝子の像が描かれている。篆額は大納言日野資愛、書は江戸大護院の高僧道本憲壽、画と刻字は石翁。同様の碑が家主の墓とされる萱野の「孝子塚」にもある。

(19)五輪塔

 南北朝時代(14世紀後半)のものとされ、完全な形のものでは市内で一番古い。高さ1m余の安山岩製で四方に梵字が刻まれている。五輪塔とは、下から方・円・三角・半月・宝珠の五輪を積み上げ、地・水・火・風・空という密教で説く宇宙の構成要素を表している。

(20)金堂(こんどう)跡

 天平13年(741)に聖武天皇が国ごとに護国寺を創置したとき、他国に遅れて安房の国分寺が建立された。昭和51年から3か年にわたる発掘調査の結果、境内北側の竹林となっている一段高い土盛が旧国分寺の「基壇」として確認され、金堂跡と推定されている。また多量の古瓦や三彩の獣脚の破片が出土し、現在も瓦片を見ることがある。


<作成:ふるさと講座受講生
石井道子・岡田喜代太郎・加藤七午三・金久ひろみ・鈴木以久枝・鈴木巽・山口昌幸>
監修 館山市立博物館

里見家の姫ゆかりの地/源慶院・高田寺

源慶院(げんけいいん)の概要

 館山市安布里(あぶり)にある曹洞宗の寺院で、山号は安布里山。本尊は延命地蔵菩薩。里見義弘の長女といわれる佐与姫が開基とされ、天正7年(1579)に亡くなった姫の追福のために里見義弘の帰依によって創建されたと伝えられています。本尊の胎内には姫の守本尊が納められているそうです。慶長年間には里見氏から安布里村と北条村で25石余の寺領を与えられ、その後徳川家からは15石を与えられて保護されました。元禄地震から60年ほどのちに仮本堂があった古屋敷というところから現在地に移転したと伝えられています。また昭和3年に隣接していた末寺の長楽寺が岐阜県へ移転したのにともない檀家を引き継いだことから、山号を安龍山から現在の安布里山に変えています。また安房国百八地蔵参りの104番札所で、聖観音菩薩は辰年開帳の安房郡札三十三観音の12番札所でもあります。

(1)安布里山源慶院再建記念碑

 源慶院の由来を記したもので、天正年間に里見義弘の娘によって創建されたことがわかる。その後元禄大地震、関東大震災など幾多の変遷を経て、昭和7年(1932)に檀徒を中心に本堂・庫裏を再建して、昭和12年に完成したことを述べている。とくに再建の功徳を一切あまねく皆に及ぼすことを祈念して、この石塔が建てられたものであると記されている。

(2)一字一石大乗法華塔

 これは仏や使者への供養を目的に、法華経を一個の小石に一文字づつ書いて埋納した上に建てた石塔である。手間がかかるので強く功徳が信じられた。大乗というのは他者救済を重視し多くの人々を悟りに導くことをいう。享保年間(1716~1736)に当寺八世応海が石書した法華経を埋めた場所の上に、元治元年(1864)になって時の住職泰雲のとき、渡辺半右衛門・吉田作右衛門を中心に、当地区の曹洞宗寺院6か寺や檀信徒の協力でこの塔が建立された。石工は楠見の田原長左衛門である。

(3)日露戦役戦没将士の墓

 海軍二等水兵石井清次郎の墓。明治14年(1881)に安布里村に生まれ、34年に志願して呉鎮守府海兵団に入営、明治37年(1904)2月に日露戦役に出征して、中国で三度旅順攻撃に参加した。不幸にも病にかかり舞鶴に戻ったが、6月に病死してしまう。24歳。明治39年にこの碑が建立された。

(4)小池敏学の墓

 宝暦12年(1762)生まれで、静岡県藤枝市にあった田中藩の柔術・棒術の師範。文政4年(1821)に没し、藤枝の源昌寺に葬られた。明治元年に田中藩が安房長尾に入封したとき子孫が北条へ移住し、明治19年(1886)に小池房右衛門が先祖の墓とともに供養塔として建立した。敏学は門人141人にも及ぶといい、小池家の中興とされた人物なのだろう。

(5)林栄之助の墓

 元松平能登守家臣林栄之助という人の墓がある。能登守は美濃国岩村藩(岐阜県恵那市)3万石の藩主で、松平乗命(のりとし)という。明治になって栄之助は東京で士族となり、明治10年(1877)に北条へ転居してきたが、目的や経歴は不明である。明治24年に58歳で亡くなっている。

(6)忍(おし)藩士家族の墓

 幕末に幕府の命令によって、異国船が出没する東京湾の海岸警備を命じられた武州忍藩(埼玉県行田市)から藩士たちが館山周辺へやって来た。ここの墓地には派遣期間中の1842年から1853年までの間に亡くなった藩士の家族の墓が2基ある。後藤伍八重郷の母と内藤弥学昌幹の伯父で、ともに嘉永3年(1850)に没している。藩士が家族をともなって赴任していたことがわかる。

(7)佐与姫(さよひめ)の墓

 里見義弘の長女で当寺の開基とされる佐与姫の供養塔である。住職墓域の奥にある。どのような経歴の女性かは不明だが、法名は源慶院殿一法貞心大姉といい、天正7年(1579)5月15日没とされている。

(8)山門

 嘉永6年(1853)に建立された四脚門である。当初は萱葺きの屋根だったが、大正12年(1923)の関東大震災で損壊して瓦に直し、近年の改修で銅葺きになった。彫刻には鶏と竹を裏表に彫り分けた欄間や兎の作品があるが、作者は不明。

(9)延命地蔵菩薩

 像高60cmの石造地蔵菩薩立像で、台座の正面に「七難即滅・厄除地蔵」、右側面に「一字一石書写延命地蔵菩薩経」と刻まれている。地蔵菩薩経を石に書き写してここに埋納したのだろう。この地蔵菩薩は、昭和7年(1932)9月吉日に本堂再建入仏記念として建立された。

(10)白山妙理大権現

 岩窟の中に、昭和のはじめに造立された白山様と呼ばれる石宮があり、「白山大権現」を祀っている。曹洞宗大本山の永平寺(福井県)ではこの神を鎮守としており、曹洞宗寺院ではこれに倣って白山大権現を守護神として祀ることが多い。白山は岐阜・石川両県にまたがる日本三大霊山のひとつで、毎年の山開きには永平寺の修行僧が「白山妙理大権現・仏法大統領」を唱えながら登山する。

(11)白土坑

 参道にある延命地蔵尊の手前に、昭和初期まで白土(はくど)を採掘していたという洞穴がある。地元ではここを白土坑と呼んでいた。白土は食器洗いとか歯磨き粉などに利用された生活必需品で、明治時代から昭和25年頃まで盛んに採掘されていた。房州砂と呼ばれるほど安房地方の有力な産業のひとつだった。真倉から豊房、山本にかけて多い。現在は福井県鯖江市でメガネフレームの研磨に使われている。

高田寺(こうでんじ)の概要

館山市安東にある曹洞宗の寺。山号を福智山といい、虚空蔵菩薩が本尊です。里見氏の娘といわれる高田姫が開基の里見家ゆかりの寺です。位牌には高田寺殿花室妙香大姉、天文5年(1536)6月3日没とあり、菩提のために寺が建てられたと書かれています。誰の娘であるのかはわかりませんが、稲村城に近く、天文の内乱から間もない天文5年に亡くなっていることから、前期里見氏の関係者なのでしょうが、慶長期には里見氏から寺領を与えられていませんでした。この周辺には双子に関する話が伝えられています。戦国の頃は双子が嫌われて、双子だった高田姫が殺されて二子区にあった二子塚に葬られたという話や、高田寺へ預けられたという話、ひとりは寺に預けられ高田姫は里見家で育てられたという話などです。「高田姫和讃」では高田姫が17歳のときに19歳の夫に死に別れて出家したと伝えています。同じ谷の奥が寺の旧地で、昭和46年に現在地へ移転しました。跡地には高田姫の墓と伝えられる五輪塔が残されています。


<作成:ふるさと講座受講生
石井祐輔・加藤弘信・川崎一・川名美恵子・神作雅子・中村祐・長谷川悦子>
監修 館山市立博物館

大巌院

大巖院(だいがんいん)の概要

 館山市大網字大ミタにある浄土宗寺院で、仏法山大巖院といいます。慶長8年(1603)に、浄土宗の高僧、雄譽(おうよ)上人が布教のため房州を訪れたとき、里見義康の帰依をうけ、大網村に32石の寺領を与えられて創建されました。不幸にもこの年に義康は32歳の若さで亡くなります。後継の幼主里見忠義も慶長19年(1614)に改易となって鳥取県の倉吉に配流(はいる)され、房総里見氏が終焉を迎えるという波乱の時でした。後に雄譽上人は倉吉の忠義のもとへ尋ねています。徳川家からも寺領を安堵され、末寺18か寺、配下の寺7か寺をもち、42石の寺領を擁する安房における浄土宗触頭(ふれがしら)の寺院となりました。雄譽上人は寛永6年(1629)に総本山京都知恩院の32世住職になりました。開山以来、阿弥陀如来を本尊として極楽浄土の説法を庶民に広め、「盗賊の切腹」という法話が今も語り継がれています。本堂の窓には来迎(らいごう)図や蓮華浄土図がステンドグラスで描かれ、幻想的な雰囲気に包まれています。山門脇にも蓮池を配し、極楽浄土世界を見せてくれる寺院です。

(1)圓光大師(えんこうだいし)七百年報恩塔

 浄土宗開祖法然(ほうねん)上人の700回遠忌(おんき)の記念に建てられた。圓光大師の名は法然が東山天皇から賜った称号である。建暦2年(1212)1月に入滅、明治44年(1911)が700回遠忌だった。本堂・庫裡(くり)の修復・増築の紀念と合わせて、大正2年(1913)正月に建てられた。

(2)台湾出兵兵士墓碑

 日清戦役に勝利した後、植民地として領有した台湾に行った憲兵上等兵の墓で、明治31年(1898)3月、公務中に金包里(きんぽうり)という村で事故死した。享年27歳。上官・同僚らが建立義捐金を提供した。

(3)日露戦役戦没者墓碑

 日露戦役で最初の本格的な戦闘となった遼陽(りょうよう)攻撃を始めた明治37年(1904)8月28日に、27歳で戦死した陸軍歩兵軍曹の墓。7日間の戦闘で日本軍は5千5百名の戦死者と1万8千名の戦傷者という犠牲があり、ロシア軍にも2万名余の犠牲者が出た。

(4)日露戦役戦没者墓碑

 日本軍は明治38年(1905)3月1日に奉天(ほうてん)への総攻撃を開始し、10日に奉天城内に突入し勝利した。この墓の主、陸軍歩兵上等兵は田義屯(でんぎとん)という村で負傷し、9日に戦傷死した。日本軍は約25万名、ロシア軍は約32万名の兵力を結集した日露戦役中最大の戦闘だった。日本軍は7万名の死傷者、ロシア軍は9万名の死傷者があり、ロシア兵は2万名余が捕虜となった。

(5)四面石塔(しめんせきとう)

県指定文化財(昭和44年)

 元和10年(1624)に雄譽霊巖(おうよれいがん)上人が建立した玄武岩製の四角柱の石塔で、高さは219cmある。北面にインド梵字(ぼんじ)、西面に中国の篆字(てんじ)、東面に朝鮮のハングル、南面に日本の和風漢字で、それぞれ「南無阿弥陀仏」と刻まれている。ハングル文字は15世紀半ばに制定された初期の字体で、現在は使用されておらず、韓国でも極めて少ない貴重なもの。建立した元和10年が文禄の役(秀吉の朝鮮侵略)から33回忌にあたり、雄譽上人と寄進者・山村茂兵(北面に刻まれた人物)が、戦没者供養と世界平和祈願をこめて建立したのではないかとの考え方がある。

(6)誕生仏(たんじょうぶつ)(=お釈迦様)

 四面石塔の裏側に、生まれたばかりのお釈迦様の姿である誕生仏を刻んだ墓石がある。高さ60cm。お釈迦様が生まれたとき、右手指で天を指し左手指で地を指して、「天上天下(てんじょうてんげ)、唯我独尊(ゆいがどくそん)」と唱えたという姿。墓石の側面には文化7年(1810)、心体信士、奥州丸森村(宮城県)の善兵衛と刻まれている。ちなみにこの台座は、寛永10年(1633)の宝篋印塔(ほうきょういんとう)の基礎で、里見時代を生きた別人のもの。

(7)真里谷(まりやつ)氏墓塔

 誕生仏の後に、キリーク(阿弥陀如来)の美しい梵字(ぼんじ)が刻まれた板碑型の墓石がある。貞享4年(1687)、真里谷氏信重妻と刻まれている。真里谷氏は戦国時代の上総武田氏の子孫とされ、里見氏に仕えたのち、江戸時代に真倉(館山)村で大名主を勤めていた。

(8)(9)(10)太平洋戦争戦没者墓碑

(8) 終戦後の昭和20年(1945)11月、北支河南省(当時中国を支那と言った)で病死した、陸軍砲兵上等兵の墓。行年22歳。

(9) 昭和19年(1944)、山西省チャローで戦病死した陸軍伍長の墓。行年23歳。

(10) 台湾台北近くの淡水河口で、航空機事故により殉職した海軍整備兵長の墓。行年21歳。

(11)石灯籠

 本堂前の石灯籠は江戸初期のもので、「南無阿弥陀仏 雄譽」と刻まれている。左側は元和10年(1624)2月に雄譽上人の弟子で大巌院2世の霊譽上人が建立。右側は翌寛永2年(1625)12月に光譽上人が授けたとある。基礎石は共に本体より古い造りである。

(12)鈴木抱山(ほうざん)の墓(安房先賢偉人の一人)

 鈴木家歴代の法名が刻まれた墓碑がある。その7代目が安房先賢偉人16人のひとり鈴木抱山<天保4年(1833)生まれ>の法名である。鈴木家初代は里見家に仕えていたが、里見氏国替えの際士分を離れて医者となり、代々が医者を務めたという。抱山は館山町に生まれ、名は恭、字(あざな)は克斎という。医者でありかつ儒学の造詣も深く、また詩歌に長じており、医業のかたわら子弟に学問を教授していた。明治31年(1898)没、66歳。

(13)雄譽霊巖(おうよれいがん)上人の墓

市指定文化財 (昭和43年)

 房総を拠点として全国的に活躍した近世浄土宗の高僧・檀蓮社雄譽霊巖松風大和尚の分骨の墓(総高2mの無縫塔)である。幼名を友松といい、天文23年(1554)に駿河国(静岡県)沼津に生まれた。11歳で沼津浄蓮寺の増誉上人について出家し、下総生実(おゆみ)の大巖寺貞把上人に師事して霊巖と名乗った。34歳で大巖寺3世となる。霊巖は諸国を巡行して数多く寺院の建立、布教に活躍した。霊岸島の霊巌寺もそのひとつ。皇室からの親任が厚く、また徳川家康の篤い帰依を受け、将軍家の命により浄土宗総本山の京都知恩院32世となった。寛永13年(1686)に火災がおこると霊巖は責任を痛感し、徳川家の援助を得て復興に専念、寛永15年(1638)に造営落成させた。そのため浄土宗中興の祖と呼ばれる。寛永18年(1641)9月1日没。88歳。遺骨は所縁の寺々に分骨されたという。

民話・盗賊の切腹

「むかしむかし、館山の大網の近くに源兵衛という盗賊が住んでいました」と始まる、大巖院の雄譽上人が登場するお咄(はなし)があります。

 どんな悪人でも一生懸命真心を込めて、南無阿弥陀仏とお念仏を唱えれば、死んでから極楽浄土に行くことが出来る、と上人から教えられ、7日間毎日説法を聴きにかよった盗賊源兵衛は、翌日数百回の念仏を唱えると、自ら進んで切腹をしてしまったということです。


<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
青木悦子・岡田喜代太郎・金久修・君塚滋堂・鈴木惠弘{よしひろ}・中屋勝義・吉野貞子>
監修 館山市立博物館