小塚大師

小塚大師 文化財マップ

小塚大師とは(概要)

(館山市大神宮2161)

嵯峨天皇の弘仁6年(815)に、弘法大師が創建したと伝えられている真言宗の寺院で、曼陀羅山金胎寺遍智院というのが正式名です。神戸地区大神宮の字小塚にあって、弘法大師を本尊にしていることから、俗に小塚大師の名で親しまれているわけです。関東厄除三大師のひとつとして、毎月21日のお大師様の縁日には参詣者があり、特に旧暦の正月にあたる1月21日の初大祭には、たいへんな賑わいをみせます。またこの小塚大師をはじめ、周辺には弘法大師にまつわる伝説も多く残されています。

(1)宝篋印塔(ほうきょういんとう)

 宝篋印陀羅尼経という経文を納めた塔で、中国ではじまった。日本では平安時代末から供養塔・墓塔として建てられ、その後江戸時代になるとお寺の境内にも作られるようになった。ここの境内にある塔は、三十一世住職伝海を発起人に、地元の高木吉右衛門と近隣の村々の光明講が中心となって、文化14年(1817)に建てられた。石工は北条村新宿の加藤伊助・金助・伊兵衛である。

(2)手洗石(ちょうずいし)

(2)手洗石(ちょうずいし)

 参拝者が手や口を清めるために水を湛えておくもの。文政10年(1827)に神余村の住吉屋徳兵衛を中心に、安房国内の51か村130人以上が協力して奉納した。石工は長須賀村の鈴木伊三郎で、正面に浮彫りされた二匹の獅子が見事である。

(3)佐野翁紀徳碑(さのおう、きとくひ)

(3)佐野翁紀徳碑(さのおう、きとくひ)

 この石碑は明治34年(1901)11月、神戸村の人佐野吉左衛門の農業改良に対する多大な業績を記念して建てられたもので、安房郡農会長吉田謹爾・神戸村農会長岡崎孝右衛門が発起人である。吉左衛門は長年、開墾や植林・潅漑などに従事しながら、博覧会や共進会に参加し、農業技術の開発と普及につとめた。明治26年(1893)2月には緑綬褒章を授与されている。翌年、73歳で没した。

(4)石灯籠(いしどうろう)

(4)石灯籠(いしどうろう)

 天保6年(1835)11月、布良を中心に近在の人々によって奉納された。正面に常夜灯とあり、夜間の歩行などの安全が目的である。

(5)阿加井(あかい)

(5)阿加井(あかい)

 正式には閼伽井と書く。仏前に供える水を汲み取るための井戸で、むかし、弘法大師がその井戸に自分の姿を映して木像を彫ったという伝えがある。相浜の有力者石井嘉右衛門が井戸の整備をしている。

(6)出羽三山碑(でわさんざんひ)

(6)出羽三山碑(でわさんざんひ)

 出羽三山(月山・湯殿山・羽黒山)を参拝した大作場(白浜町)・犬石村・南竜村(館山市)の人たちが、文政11年(1828)に建てた記念碑。日本には古くから山を聖地と考える山岳信仰があり、山形県にある出羽三山は山岳修行の場「七高山」のひとつに数えられている。碑には、この時の参拝者の名が刻まれている。

(7)福原家の墓

(7)福原家の墓

 福原家は松岡(現竜岡)の旧家で、幕末に医師有斎や漢学者有琳がでた。有琳の四男として生まれた福原有信は、江戸へ出て医学を学び、医薬分業を提唱して調剤薬局としての資生堂を創設した人である。また朝日生命を創始した実業家でもある。大正13年(1924)没。77歳。

(8)福原陵斎(りょうさい)の墓

(8)福原陵斎(りょうさい)の墓

 資生堂創始者の福原有信の長兄。天保9年(1838)に松岡村に生まれ、文久元年(1861)に江戸へ出て、織田研斎から医学を学ぶ。翌年、奈良奉行山岡備後守景恭に仕えたが、文久3年(1863)に奈良で病死した。26歳。碑銘は安房郡山本村(館山市)の医師高木芳斎によるもの。

(9)四国霊場八十八か所めぐり

(9)四国霊場八十八か所めぐり

 弘法大師の旧跡の地をめぐる四国八十八か所を模した小霊場めぐりは日本各地に点在している。ここ小塚大師では、三十四世の住職田村亮月の発案で、境内の裏山に八十八か所の霊場が移された。明治31年(1898)に近隣の村(布良・竜岡・大神宮など)の住人が中心となって、八十八個の石碑が建てられたのである。各石碑には福井県出身の絵師寺田筠石によって弘法大師の姿が描かれ、また各石碑の施主は現在の館山市全域・富山町・白浜町・千倉町南部に、半径10kmの広域にわたって広がっている。ちなみに石工は竜岡の早川粂吉と真田栄治。ただし第33番の石碑は元館山藩士松下翠幹が描き、長須賀の吉田亀吉が刻んでいる。
 手ごろで気軽にお遍路ができるように工夫されたミニチュア巡礼施設である。

(10)雉子塚(きじづか)

(10)雉子塚(きじづか)

 安永4年(1775)に、安房の俳人沂風が建てた松尾芭蕉の句碑。「父母の しきりにこひし 雉子の声」とあり、『笈の小文』などに見える句。裏面に江戸の俳諧師大島蓼太による銘がある。芭蕉の流れをくむ雪中庵三世で、芭蕉顕彰に熱心だった。この二年前は芭蕉の80回忌だったが、芭蕉復古の熱が全国的になっていた時期で、この時代に生きた与謝蕪村は芭蕉を尊崇し、復古運動の中心にいた。

小塚大師周辺の弘法大師の伝説

小塚大師(神戸地区大神宮)

 弘法大師がこの地に滞在したときに、忌部氏の祖先神が現われて、大師の木像を刻むように告げた。大師はお告げの通り、二体の像を彫って、一体はこの地に祀り、もう一体を布良崎の浜から流したところ、今の神奈川県に流れ付き、川崎大師(平間寺)の本尊になったと伝えられている。この地に祀った像はもちろん小塚大師の本尊である。

爪彫り地蔵(神戸地区竜岡)

 小塚大師のすぐ近くの竜岡に爪彫り地蔵(または岩屋地蔵)という崖面に彫られたお地蔵さんがある。これは弘法大師が爪で彫ったものだと伝えられている。

巴川の塩井戸(豊房地区神余)

 老女の家に旅の僧がやってきたので、小豆粥を差し出してもてなしたが、塩気がないのを哀れに思った僧が川に錫杖を差したところ、そこから塩水が湧きだした。その僧が弘法大師だったという話である。

芋井戸(白浜町青木)

 老女が芋を洗っているところへ旅の僧が現われ、「小芋をひとつ下さい」と言うと、老女は「石のような芋で食べられない」と断った。この老女が家に帰り、芋を食べようとしたら、本当に石のように硬く歯もたたなかったため、路傍に捨ててしまった。するとそこから泉水が湧き出て、芋が芽を吹き青々と茂ったそうだ。この僧も弘法大師だったという話である。


作成:平成12年度実習生
監修:館山市立博物館