日枝神社(ひえじんじゃ)の概要
(館山市竹原850)
古くは那古(内房)から清澄方面(外房)への往還沿いにあたる館山市竹原字山王(さんのう)に鎮座する神社です。社伝によると仁寿2年(852)、近江国(滋賀県)にある日吉(ひえ)大社を勧請し、慈覚大師が創建したと伝えられています。祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)で、配祀は素盞鳴尊(すさのおのみこと)と誉田別命(ほんだわけのみこと)です。別当寺が今宮山浄蓮院(宝珠院末)であったことから、今宮山王(今宮山王大権現)と呼ばれていました。明治政府の神仏分離令にともない、明治3年(1870)に日枝神社と改称しました。この神社は、その昔治承4年(1180)、安房に拠った源頼朝が再興を祈願したことから、建久6年(1195)に祠堂を建立し、竹原・江田・中・御庄・山名の5か村から90石を寄進されたと伝えられています。後に里見氏も永正7年(1510)に社殿を修復し、今宮山王分として広瀬村の内で5石を与えたとされ、更に徳川幕府からも引き続き高5石が安堵されました。また、稲村城の鬼門除けの社とされたという口碑や、頼朝との関係で同所横枕に摂社として源頼朝公霊神を祀る御霊社もあります。毎年10月10日の例祭では、大正時代までは社前で竹原・江田・中・御庄・山名の各村の人々を中心とした流鏑馬(やぶさめ)・競馬の神事が行われていました。浄蓮院は41世まで続き、神仏分離令で廃寺になると日枝神社の神職になりました。この神社には祭神の本地仏(ほんじぶつ)である薬師如来(慈覚大師作)が祀られていましたが、分離令とともに現在は近くの宝樹院(真言宗)に安置され、安房国48か所薬師如来霊場の東口12薬師、第10番のお薬師様として寅歳に開帳されています。
(1)鳥居
国道128号のバス停「竹原口」より100m東、左の直線700m先に見える真正面の鳥居が日枝神社である。朱塗りの鳥居は両柱の前後に控柱を付け、本柱を2本の控貫でつないだ両部鳥居である。笠木の上に屋根を付けるのは神仏習合の神社に多いという。日枝神社も明治までは今宮山王大権現と称し、真言神道・山王神道とのかかわりがある両部神道であった。
(2)御神木(びゃくしん古木)
御神木のびゃくしんは山の上の浅間様の傍らにあった千年の高木で、海上からの目印にもなり漁業関係者に重宝されていた。今から約150年前の落雷により枯木になり虚(うろ)が出来てしまったが、神社前の三叉路に移され、交通の要所として目印になった。毎年6月の田植の頃、豊作を祈念する「虫おくり」の神事が虚(うろ)に火を炊き込め行われてきた。木の中が黒く焦げているのはそのためである。昭和47年、土地改良基盤整備により鳥居脇の現在地に移された。
(3)石燈籠
境内中段にある石燈籠は高さ約2.6mで、慶応2年(1866)、地元の鳥海助八を願主に、77名という多数の世話人氏子中により寄進された。石工は和七となっている。向かって右側の燈籠には願主が寄進を思いたったいきさつが刻んである。八丈島の文字が見え、読んでみると興味深い。
(4)手水石
境内の中程に、巾125cm・奥行56cm・高さ53cmの大きな手水石が2基の台座に支えられている。手水石の前面には「献水」の文字が刻まれ、左側面には文政13庚寅(かのえとら)9月吉日(1830)と願主若者中とある。また右側面には石番匠(ばんじょう)和七という文字があり、石工に復古的な中世の職名が使われている。
(5)狛犬(こまいぬ)
境内の階段を上まであがると全高1.8mほどの狛犬が両脇にいる。昭和11年(1936)10月、地元の小倉ますが寄進。石工は館山地区楠見の俵徳次。
(6)石燈籠
拝殿の前にある石燈籠は高さ1.7mほどあり、左側の燈籠には安永6年(1777)酉9月吉日と彫られ、氏子中により建てられた。竿の部分に「銀燭」の文字が見える。(明治28年の古社調書には載っていないので、その後他所から移したのかとも思われる)
(7)拝殿・本殿(社殿)
現在の社殿は昭和59年9月に建立され、拝殿は間口5間・奥行2間、本殿は間口2.5間・奥行2間の権現造りである。拝殿の扉上には波と日枝神社の神号の彫刻を施した掲額がある。「彫刻師後藤利三郎橘義久」「東宮侍講(じこう)従四位本居豊穎(もとおりとよかい)敬書」とある。後藤義久は竹原村真岡の生まれであり、初代後藤義光の弟子で四天王の一人といわれた人物。日露戦役がはじまった明治37年(1904)に制作したものである。向拝の梁上には竜の彫刻があるが銘は見当たらない。拝殿内には熊野大権現(素盞鳴尊(すさのおのみこと))・山王大権現(大山咋命(おおやまくいのみこと))・八幡大菩薩(誉田別命(ほんだわけのみこと))と彫刻された掲額がある。
(8)境内末社
境内西側にある覆い屋(間口2.54m・奥行1.62m、銅板葺)に、天満天神(菅原公霊神)・八雲社(素佐之男命(すさのおのみこと))・大宮大神(大宮能賣命(おおみやのめのみこと))・神明社(天照大神(あまてらすおおかみ))が祀られている。木札に「昭和49稔新嘗(ねんにいなめ)祭日 改修奉鎮」の墨書がある。この4社は村内にあった小社を明治期に合祀したものであろうか。中にある石宮1基はそのうちの元宮であろうと思われる。
(9)駒留地蔵尊
真岡地区の入口右側の山肌にある。高さ1.2m・間口1.5m・奥行76cmの岩窟の中央に、60cm角の台座上に高さ95cmの石造地蔵菩薩半跏(はんか)像が安置されている。台座に「南無地蔵」の刻字がある。延喜2年(1745)に念仏の同行中によって競馬で亡くなった人の供養として建立されたと伝えられている。また、左脇には板碑状の石造馬頭観音菩薩立像、右脇には蛇紋岩製の「光明真言一百万遍塔」と彫られた石塔がある。なお、ここは階段が急で周りの岩石が崩れ易いので注意のこと。
(10)出羽三山碑
境内の山腹に高さ1.3mの三山碑がある。正面には湯殿山を中心にした江戸時代とは違う配列で文字が刻まれている。右から出羽大神・月山大神・湯殿大神とあり種子は刻まれていない。碑の裏面には施主として当所の加藤徳次郎・鈴木清次郎・石橋惣吉・小柴定右衛門の名前と明治42年(1909)7月16日の日付が記されている。
この碑の正面の文字の配し方については、明治新政府は慶応4年(1868)に国家の基本方針の宣言として、「五ケ条の誓文(せいもん)」と王政復古、神武創業の始めに基づき諸事御一新・祭政一致の制度にかえてという布告をする。さらに「神仏分離令」の宣言があって、以後廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)という騒動にまで発展してしまった。この三山碑の配字変更をした理由には次のような事情があった。従来月山と表示していたものは、月読命(つくよみのみこと)を祀る官幣大社「月山神社」となり、湯殿山は大山祇命(おおやまづみのみこと)を祀る国幣小社「湯殿神社」、また羽黒山は稲倉魂命(うがのみたまのみこと)(伊氏波神)を祀る国幣小社「出羽神社」に列格することとなり、神社の社格を考慮して、以降月山大神を中心に刻字されることになった。
馬場と競馬神事
この神社の例祭は、古くは9月8日・9日に執行され、神事として流鏑馬(やぶさめ)・競馬が行われていた。この神事は古来鶴谷八幡宮の命婦(みょうぶ)武内家が取り仕切った神事で、8日に鏡ヶ浦に行き禊(みそぎ)をして鶴谷八幡宮に参詣、流鏑馬の神事を行い、怨敵退散・天下泰平を祈った。その後日枝神社に帰り、鳥居内で流鏑馬の神事があり、競馬は旧浄蓮院前から西へ駒留地蔵手前の大黒屋前までを馬場として、8日に5回、9日に7回行われた。明治になって10月9日・10日に改められ、競馬は大正時代まで行われていた。
<作成:ミュージアム・サポーター「絵図士」
青木悦子・中村祐・御子神康夫・吉野貞子>
監修 館山市立博物館