日照山法性寺の概要
(館山市北条1084)
日照山法性寺(にっしょうざんほっしょうじ)と言い日蓮宗のお寺。上総興津(おきつ)城主(勝浦市)の佐久間兵庫頭(ひょうごのかみ)重貞は、日蓮聖人が興津近辺の疫病(えきびょう)を沈めた法力に感動し帰依(きえ)したといい、その嫡子は日蓮聖人の弟子となり「日保(にほ)上人」と名乗った。後年、日保上人の弟子「日聖(にっしょう)」が北条に草庵を立てたのが法性寺の始まりとされる。
日蓮聖人がこの地で説法した文永元年(1264)を開山年とし、日保上人を第1世、日聖上人を第2世と定められた。過去の災害等により由緒を詳しく示す記録がなく、歴史的に不明な点が多いが、墓域には房州長尾(駿河田中藩)藩士や、幕末の海岸警備で来房中に没した武州忍(おし)藩・備前岡山藩士のほか、北条の絵師・渡辺雲洋(うんよう)などが葬られている。
(1)題目塔
文化13年(1816)に建てられた。正面にお題目、右側面に「日聖山法性寺(にっしょうざんほっしょうじ)」、台座に寄進の世話人5人の名が記されている。日聖山の山号は、第二世の「日聖(にっしょう)」に由来すると言われるが、現在の日照山に変わった正確な時期は不明である。
明治27年(1894)の『安房国町村誌』では、山号が「日照山」となっている。
(2)本堂及び向拝彫刻
本堂は、大正4年(1915)に建てられたが関東大震災で倒壊したため、元の部材を使用して建て替えられた。向拝(ごはい)の屋根は唐破風(からはふ)とし、懸魚(げぎょ)の彫物は鳳凰、桁隠(けたかく)しは菊水、大瓶束(たいへいづか)の両脇は雲、虹梁(こうりょう)は雲、木鼻(きばな)は獅子、正面には龍が彫刻されている。龍の彫物は第3代武志(たけし)伊八郎信美(のぶよし)(文化13年~明治22年=1816年~1889年)の作である。他の彫刻の作者は不明である。
(3)芥川龍之介邸灯篭
本堂右前に高さ1.8mの御影石の石灯籠がある。作家芥川龍之介邸にあったもので、昭和2年(1927)に龍之介が没した後、友人が邸宅を譲り受け、後に墨田区本所の法泉寺へ寄贈した。同寺と法性寺とは兄弟寺にあたることから、鵜沢(うざわ)住職が昭和56年(1981)に宗祖(しゅうそ)七百年遠忌(おんき)の記念に譲り受けた。龍之介はこの灯籠に愛着を寄せており、小説の中にしばしば登場しているという。
(4)お手植えイチョウ
大正4年(1915)の本堂落慶(らっけい)法要の際、京都瑞竜寺(ずいりゅうじ)(村雲御所(むらくもごしょ))の門跡(もんぜき)「村雲日榮尼公(むらくもにちえいにこう)」が臨席され、イチョウをお手植えしたと伝えられている。尼公は伏見宮邦家親王(ふしみのみやくにいえしんのう)の第8皇女。日露戦争の後、篤志看護婦人会京都支部(同志社英(えい)学校を創立した新島襄(にいじま・じょう)の妻「新島八重」が所属していた)の活動に尽くし、村雲婦人会を組織して社会事業に貢献した人物。苗木は檀家の半沢家から寄進された。
(5)マキの大木
本堂の前方、墓地の入り口近くにあり、樹齢300年以上とも600年以上ともいわれる。樹高は約21m、幹回りは約8.5m。
(6)東照稲荷
繁昌を祈願する東照稲荷が祀られている。向拝(ごはい)の虹梁(こうりょう)には「若芽彫り」、蟇股(かえるまた)には「二匹の狐」が彫られ錠前(じょうまえ)の鍵を銜(くわ)えて見合っている。蟇股の裏面に「大正五年十一月 彫刻師後藤橘義信(たちばなのよしのぶ)翁六十八作」と刻まれている。木鼻には獅子が彫られている。檀家の吉田誠が大正の初めに寄進した。
(7)円応寺有縁の墓
芝の円応寺(えんのうじ)と呼ばれ、日蓮宗で山号は妙典山。永正元年(1504)に円応院日長が開基した。元和4年(1618)の北条村検地帳には「円能寺」とある。貞亭3年(1686)に廃寺となったが山号寺号は残し、跡地は安布里の蓮幸寺が管理した。明治41年(1908)に法性寺へ合併され、字(あざ)小作にあった墓石は法性寺墓地内に「圓應寺(えんのうじ)有縁(うえん)之墓」としてまとめられた。
そこには側面に「千龍山」と書かれた題目塔、中興開山智立院日行の供養塔(宝暦13年=1763年)、泰是院日顕の墓(寛政4年=1792年)がある。
(8)角田(つのだ)家供養塔
「円応寺有縁之墓」左脇に、歯科医角田庄吉による「角田家供養塔」と「舎利塔(しゃりとう)」と刻まれた石塔がある。供養塔は明治32年(1899)、庄吉が父母及び近親者の供養のために立てたもの。左側面には庄吉が法性寺のために志(こころざし)深く尽くしたので、当寺が興津(勝浦市)の本山妙覚寺に願い出て、父母と庄吉に居士号を授与したことや、有無縁一切の霊の供養のため約7万個の小石に「妙法」の二字を書いて塔下に収めたことが記されている。
(9)歴代住職の墓
1 大宥院(だいゆういん)日慎(にっしん)上人
歴代住職の墓域にある第23世の墓石である。墓石の裏面には、京都生まれで内大臣の子息。10歳で出家し山城国通妙字(京都市東山区)、雑司谷(ぞうしがや)の本立寺(東京都豊島区)、朝夷郡蓮住寺(南房総市千倉町)を経て、慶応3年(1867)に69歳で法性寺に来住した。風雅を好み俳句を楽しんだとある。碑の側面には、「かや釣りて入れば隔つ我が世かな」の辞世の句が記されている。俳号は陶々庵(とうとうあん)延年といった。明治18年(1885)88歳没。
2 了蓮院(りょうれんいん)日厳(にちごん)上人(無法塔の塔身)
墓地中央の永代供養墓にある。正面に「了蓮院日嚴聖人(しょうにん)」とあり、貞亭2年(1685)の没。高さ85cmの無縫塔(むほうとう)だが、地中に約35cm埋もれている。日厳上人は、過去帳の最初に記載されており、中興(ちゅうこう)上人であろう。施主は日厳上人遷化(せんげ)から36年後の享保6年(1721)に、時の住職・日由(にちゆう)が建立した。
(10)館山小学校旧友戦没者慰霊碑
碑を建てた染谷義雄は、大正11年(1922)生まれ。館山小学校3年の時に両親と兄弟でブラジルに移民として渡った。戦後、小学校の級友を訪ねたが、戦死していて会えず落胆のうちに帰国した。その後、戦死した級友のため、寺の厚意をうけて昭和50年(1975)にこの慰霊碑を建立し、供養のため旧友と集うことができた。
(11)墓域入口の門柱
墓地正面入口に高さ約276cmの安山岩の門柱がある。「大正三年十月 北條病院主角田佳一(つのだ・かいち)」と刻まれていて、北条病院初代院長の角田佳一が寄進した墓地の門柱である。
北条病院は前身が県立の病院で、明治13年(1880)に千葉県安房郡役所、安房北条警察署と同時に設けられた千葉県立千葉病院北条分院であった。明治22年(1889)に角田佳一が買い取り民営化した。
(12)高川良次郎の碑
良次郎は、安政5年(1858)、朝夷郡黒岩村(南房総市和田町)に生まれた。明治9年(1876)千葉師範学校を卒業。小学四等訓導(くんどう)となり和田・瀬戸・白子学校に赴任する一方、元長尾藩士恩田仰岳(ぎょうがく)の私塾秉彝(へいい)学舎を千倉に設けて猛勉強した。その後病をおして上京し勉学に打ち込むが、病が悪化。順天堂病院での治療後に安房へ帰り北条病院で治療を受けるも、献体を希望して、明治14年(1881)に23歳で没した。北条病院長らの尽力で碑が建立された。撰文(せんぶん)は、良次郎の父元良の友人で元長尾藩士の恩田城山。篆額(てんがく)は千葉県知事の船越衛。書は元長尾藩士の熊沢直見。
作成:ミュージアムサポーター「絵図士」
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